僕は、君と
言ノ葉紡
第1話 僕と君の進まない関係
季節は夏も中盤、花火大会が増える頃。常盤が自身のアトリエを持ってからおおよそ二年が経過していた。
常盤は建築デザイナーである。小学校に上がる前、両親が不仲だった時代に預けられた祖父母宅で、祖父が手がけた住居の写真やその時の出来事、客の反応などを
以来、小•中•高と長じるにつれ、デザインの難しさなども知ったが、それ以上に建築デザイナーが作り出す数々の住居もとい作品に感銘を受け、心変わりすることなく志し続けた。大学も建築デザインを学べる学科を受験し、見事合格を果たすと有意義な四年間を送った。孫に甘い祖父母の支援で、卒業祝いとしてアトリエが贈られた時は流石に気を失いかけたが、何はともあれそこから常盤は建築デザイナーとしての日々を歩み始めたのだ。
とは言っても、縁故で名を馳せたわけではない。祖父の名に甘えてはダメになると判断した常盤は、仕事では祖父の名前を出さず、他の者たちと同じスタートラインから仕事獲得に励んだ。故に、新人の頃は大した伝手もなく、
後者の意見の方が正しいと、常盤もわかっている。前者の人たち全てに悪意があるわけではないが、大部分の人は体よく搾取したいがために耳障りのいい言葉を使っているに過ぎない。本当に心から常盤を心配してくれているのであれば、邪険にされる覚悟の元、ダメなところはダメだと指摘してくれるはずだ。そう頭では理解している。
しかし、人はままならない生き物だ。いくら頭で理解していようとも、受け入れられない言葉というものはある。ましてやそれが刃のように弱い部分を刺してくるものであればなおさらだ。
じくじくと苛む鈍痛を思い出した常盤は、気分転換になればと机の端に置いていたカップを手に取って、冷めてしまった
散漫になった思考がまとまると、未完成のデザイン案が存在を主張した。早く完成させろと叫ぶそれを指先で撫でても、声なき声は止まらない。可愛い我が子の訴えに常盤は眉を顰めた。紙面のそれは、中途半端な仕上がりをみっともないと嘆いているようで痛々しい。今すぐにでも完成させてやりたいと思うが、哀しいかな、その思いとは裏腹に常盤の手はぴくりとも動かなかった。集中力が完全に切れている。
つい先刻まで没頭していた美しい世界が瞬く間に遠のいていくのを、常盤はただぼんやりと受け入れた。色彩豊かな楽園は気まぐれなのだ。無理に追ったところで意味はない。縋るように手を伸ばしても気まぐれな猫のようにすり抜けて、また今度ねと悪戯っぽく微笑みかけてくるだけだと既に知っている。
深々と嘆息した常盤は視線を巡らせて、意識から追いやっていた存在に目をとめた。ずっと放置されていたにも関わらず、彼は訪れた時から変わらない姿勢で本を読んでいる。文字を追って動く視線がなければ彫像だと勘違いしてしまいそうになるぐらい、彼は微動だにしなかった。今声をかけたところで反応を返してくれるかも怪しいなと、常盤は開きかけた口を閉ざした。
彼の名を、
当然、唯美主義傾向のある常盤は相互不理解は美しくないという信念のもと、自分なりに歩み寄ろうとした。個人主義の極みとばかりにマイペースを貫く彼の意見にも耳を傾け、
互いの輪郭を溶かすように、境界線をあやふやにするように、常盤も誠司も言葉を惜しまずぶつかり合った。
だが、人間性の根幹とでもいうべき部分があまりに違い過ぎた。意見が衝突して反目することは当たり前で、壮絶な舌戦に震え上がった者たちが引き離すまで止まらず、それは数を重ねるごとに苛烈さを増していった。
言葉は見えない刃だと、切り裂かれて膿んだ心が悲鳴を上げるまで、常盤は止まれなかった。
理解よりも疵が重なる時間に終止符を打ったのは、常盤だった。ある日唐突に我慢の限界が訪れて、こんなのは徒労だと血を吐くように叫んで終わりを告げた。誠司は、静かにそれを受け入れた。
そう遠くもない、残酷なほど鮮烈に記憶している決別の日。それが音もなく浮上しかけてきた。最後に痛みを残したあの日が、
まだ、あの日を昇華しきれていない。
まだ思い出話にするには痛すぎる。
「誠司」
考えていても仕方がないので、後輩の名前を呼ぶ。ライトの人工的な光を浴びて艶めく髪の下、眼鏡越しに怜悧な瞳が一瞬だけ常盤を捉え、また本に視線を落とした。
家主の存在を黙殺するとはこれ如何に。
彼らしいと言えば彼らしい態度にこめかみを揉む。
二人の間に確かにあったはずの友情という名の絆は、何年も前に断絶してしまった。もう二度と元には戻れないと、互いにわかっている。それでも、あの日の決別を境に誠司との交流が完全に途絶えなかったのは、互いに思うところがあったからだ。
関係を修復することもなく連綿と続いていく時間は完全に惰性だった。ふらりと気まぐれにアトリエに訪れる誠司には何かしら思惑があるのだろうが、常盤にとってはたいそう居心地の悪いものでしかない。彼を見ていると、まるで正しいのはこちらだと言わんばかりの鏡像を見ている気分になるのだ。それが時に慰めとなることもあるのだろうが、今日に限っては不必要な時間だと憂いが募る。
いつまでこの奇妙な関係性は続くのだろうか。いつか失う日は来るのだろうか。
考えれば考えるほど、胃はしくしくと痛んだ。絶え間なく訪れる痛みが煩わしくて、常盤は誠司から視線を逸らした。
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