僕は、君と

言ノ葉紡

第1話 僕と君の進まない関係

 蝉時雨せみしぐれの音がする。窓の外から鳴り響く風情あるそれに耳を傾けながら、山吹常盤やまぶきときわは依頼された物件のデザイン案を作成するために動かしていた手を止めた。燦燦さんさんとカーテン越しに降り注ぐ陽光が、エアコンから吐き出される冷たい風を程よく調和してくれている。実に快適な空間だ。

 季節は夏も中盤、花火大会が増える頃。常盤が自身のアトリエを持ってからおおよそ二年が経過していた。

 常盤は建築デザイナーである。小学校に上がる前、両親が不仲だった時代に預けられた祖父母宅で、祖父が手がけた住居の写真やその時の出来事、客の反応などをつぶさに教えてもらい、何と素敵な仕事だろうかと幼心に憧れた。それが、きっかけだった。

 以来、小•中•高と長じるにつれ、デザインの難しさなども知ったが、それ以上に建築デザイナーが作り出す数々の住居もとい作品に感銘を受け、心変わりすることなく志し続けた。大学も建築デザインを学べる学科を受験し、見事合格を果たすと有意義な四年間を送った。孫に甘い祖父母の支援で、卒業祝いとしてアトリエが贈られた時は流石に気を失いかけたが、何はともあれそこから常盤は建築デザイナーとしての日々を歩み始めたのだ。

 とは言っても、縁故で名を馳せたわけではない。祖父の名に甘えてはダメになると判断した常盤は、仕事では祖父の名前を出さず、他の者たちと同じスタートラインから仕事獲得に励んだ。故に、新人の頃は大した伝手もなく、閑古鳥かんこどりが鳴いたこともしばしばだ。そんな暇な生活も半年を過ぎる頃には過去となり、以降は舞い込む仕事全てを引き受けて忙殺される日々だった。目まぐるしい毎日に一時は痩せすぎて病院に運び込まれたこともある。それだけ常盤の才能を評価する者が多かった証左でもあるが、半分は常盤自身の頼りにしてくれる人を無碍に扱えないという性分のせいだ。名を馳せるようになってからはある程度相手を選ぶようになったとはいえ、未だに押し切られることもままある。それを常盤の美点として賞賛してくれる人も一定数いたが、近しい人ほど直さなければならない悪癖だと遠回しに、或いは直截的ちょくさいてきに咎めた。

 後者の意見の方が正しいと、常盤もわかっている。前者の人たち全てに悪意があるわけではないが、大部分の人は体よく搾取したいがために耳障りのいい言葉を使っているに過ぎない。本当に心から常盤を心配してくれているのであれば、邪険にされる覚悟の元、ダメなところはダメだと指摘してくれるはずだ。そう頭では理解している。

 しかし、人はままならない生き物だ。いくら頭で理解していようとも、受け入れられない言葉というものはある。ましてやそれが刃のように弱い部分を刺してくるものであればなおさらだ。

 じくじくと苛む鈍痛を思い出した常盤は、気分転換になればと机の端に置いていたカップを手に取って、冷めてしまった珈琲コーヒーすすった。ほろ苦くも味わい深い酸味が舌の上に広がる。お調子者の友人がくれた品のため、さほど期待はしていなかったが、存外舌に合う味である。さざめきたった心が落ち着いていく感覚に、ほうっと深い息が漏れた。肩に入っていた力が抜けていく。

 散漫になった思考がまとまると、未完成のデザイン案が存在を主張した。早く完成させろと叫ぶそれを指先で撫でても、声なき声は止まらない。可愛い我が子の訴えに常盤は眉を顰めた。紙面のそれは、中途半端な仕上がりをみっともないと嘆いているようで痛々しい。今すぐにでも完成させてやりたいと思うが、哀しいかな、その思いとは裏腹に常盤の手はぴくりとも動かなかった。集中力が完全に切れている。

 つい先刻まで没頭していた美しい世界が瞬く間に遠のいていくのを、常盤はただぼんやりと受け入れた。色彩豊かな楽園は気まぐれなのだ。無理に追ったところで意味はない。縋るように手を伸ばしても気まぐれな猫のようにすり抜けて、また今度ねと悪戯っぽく微笑みかけてくるだけだと既に知っている。

 深々と嘆息した常盤は視線を巡らせて、意識から追いやっていた存在に目をとめた。ずっと放置されていたにも関わらず、彼は訪れた時から変わらない姿勢で本を読んでいる。文字を追って動く視線がなければ彫像だと勘違いしてしまいそうになるぐらい、彼は微動だにしなかった。今声をかけたところで反応を返してくれるかも怪しいなと、常盤は開きかけた口を閉ざした。

 彼の名を、砧誠司きぬたせいじという。常盤とは大学の頃からの付き合いで、同じサークル――何を血迷ったか、当時の常盤はオカルトサークルに所属していた――で顔を合わせたのをきっかけに交友をあたためることになった。当時まだお互いをよく知らなかった二人は、互いの会話が他の誰と交わすよりも軽快且つ円滑に進む心地よさに勘違いをした。自分たちは同類なのではないか、と。そう期待してしまった。若気の至りだったと思う。実際はその逆で、常盤と誠司はどこまでも正反対な人間だった。

 当然、唯美主義傾向のある常盤は相互不理解は美しくないという信念のもと、自分なりに歩み寄ろうとした。個人主義の極みとばかりにマイペースを貫く彼の意見にも耳を傾け、反芻はんすうし、異を唱えながらも理解をする努力を惜しまなかった。そしてそれは、誠司も同じだった。推測でしかないが、彼も意見を交わす相手を求めていたのだと思う。彼は彼なりに常盤の話を聞いて、咀嚼し、やはり異を唱えながらも対話の姿勢を崩さなかった。

 互いの輪郭を溶かすように、境界線をあやふやにするように、常盤も誠司も言葉を惜しまずぶつかり合った。

 だが、人間性の根幹とでもいうべき部分があまりに違い過ぎた。意見が衝突して反目することは当たり前で、壮絶な舌戦に震え上がった者たちが引き離すまで止まらず、それは数を重ねるごとに苛烈さを増していった。

 言葉は見えない刃だと、切り裂かれて膿んだ心が悲鳴を上げるまで、常盤は止まれなかった。

 理解よりも疵が重なる時間に終止符を打ったのは、常盤だった。ある日唐突に我慢の限界が訪れて、こんなのは徒労だと血を吐くように叫んで終わりを告げた。誠司は、静かにそれを受け入れた。

 そう遠くもない、残酷なほど鮮烈に記憶している決別の日。それが音もなく浮上しかけてきた。最後に痛みを残したあの日が、揺蕩たゆたう思考の奥底から目覚める気配がする。歓喜の声を上げて懐かしさを語り掛けてこようとする。それを敏感に察知した常盤は意識的に封をして心の水底に沈めた。

 まだ、あの日を昇華しきれていない。

 まだ思い出話にするには痛すぎる。

「誠司」

 考えていても仕方がないので、後輩の名前を呼ぶ。ライトの人工的な光を浴びて艶めく髪の下、眼鏡越しに怜悧な瞳が一瞬だけ常盤を捉え、また本に視線を落とした。

 家主の存在を黙殺するとはこれ如何に。

 彼らしいと言えば彼らしい態度にこめかみを揉む。

 二人の間に確かにあったはずの友情という名の絆は、何年も前に断絶してしまった。もう二度と元には戻れないと、互いにわかっている。それでも、あの日の決別を境に誠司との交流が完全に途絶えなかったのは、互いに思うところがあったからだ。

 関係を修復することもなく連綿と続いていく時間は完全に惰性だった。ふらりと気まぐれにアトリエに訪れる誠司には何かしら思惑があるのだろうが、常盤にとってはたいそう居心地の悪いものでしかない。彼を見ていると、まるで正しいのはこちらだと言わんばかりの鏡像を見ている気分になるのだ。それが時に慰めとなることもあるのだろうが、今日に限っては不必要な時間だと憂いが募る。

 いつまでこの奇妙な関係性は続くのだろうか。いつか失う日は来るのだろうか。

 考えれば考えるほど、胃はしくしくと痛んだ。絶え間なく訪れる痛みが煩わしくて、常盤は誠司から視線を逸らした。

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