第9話
筒井康隆さんに限らず、眉村卓や星新一などにも著作ありますが、「ジュブナイル」シリーズがあったです。
「時をかける少女」が、映画化されたときは、「愛の予感のジュブナイル」と、銘打たれていました。
ボクは、こういうのの愛好家というか、学研の学習雑誌に連載されていたらしい、こうした少年や少女が主人公の、わりと半分童話っぽい、若年層向けのテイストの文体内容のものの、独特の雰囲気が、なんというか意識の中の一つの自我の形の雛型みたいに、未だになっているところがある。
「ねらわれた学園」という、これも映画化されたが、ああいう眉村卓の文体とか学園ものの雰囲気は、非常に懐かしい。ヘッセの青春小説に似た懐かしさです。
SFの、日常への異化効果というのは、平凡な日常に突然、非日常、エイリアンや超能力、異世界からの使者、そういう不思議な未知のものがオーヴァーラップすることで、日常というものの?なんというか、平穏な普段の生活の尊さやら貴重さ、どんなにか家族や友人に囲まれた平凡な生活が幸福で得難いものかとか?うまくいえないけど、そういう感覚がレリーフされるところではないか?
「緑魔の町」は、ジャックフィニイという作家の「盗まれた街」の換骨奪胎ですが、ツツイならではの、アレンジがファンにはたまらない。
自分以外の、街の住人がすべて一夜のうちにエイリアンにすり替わっていて、それが一見すると全くわからない。
が、のっぺらぼうのおばけのように、少しの隙に、そのエイリアンが気味の悪い正体を表わしたりする。「顔の長くなった、緑色のあかなめ」…全く共感不能のモンスター。
で、紆余曲折あって、いったん事件は収束するが、ラストでは、「このおかあさんはもしかしたらやっぱりエイリアンかもしれない…それを確認するすべはないから、そう疑っていたほうが安全だ」主人公の少年がそう独り言を言うところで終わっているのだ。
根強い社会への不信感、違和感…こういうところが筒井康隆の真骨頂であろう。
平井和正さんも、福島正美という日本のSFの草分けの作家は、「嫌な奴ばかりの周囲の敵意に囲まれ、冷たく嘲笑されるだけの、陰々滅々SF」だったが、「筒井さんの作風は一番それに近い」と評していた。
平井さんは「太宰治にも筒井さんは親近性がある」とも書いている。
そもそも、文学という営み自体にも、なんというか疎外されたはぐれ者の、引かれ者の小唄? そういう面が確かにある。と思う。太宰は代表的だが、小林多喜二やらも、思想犯として虐殺の憂き目に遭った。
筒井さんは、反社会的な活動も辞さないような反権威性を、時として標榜していた。ヘミングウェイやカフカへの愛好も、そういう現れにも思えます。なんども言及したが、アンチソーシャルな人格バイアスが、本質的に筒井氏をかえって魅力的にしているのであって、作家としての武器になっていると思う。
微温的で権力者にこびへつらうだけの「御用文学」?そういうものはいらない。唾棄すべき我々への裏切りの、軍国ラッパである。
ラジカルさの裏には、人間愛、弱者への優しさが隠されている…そうでなければ、どっちみち売れることも人気となることもなかったであろう。
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