【Regret Facing Faith】

「初日としては悪くないじゃない。」

アイリャが椅子に軽く寄りかかり、薄く笑みを浮かべながら言った。

「でも、せっかく早めに解放されたんだから、この機会を活かさないとね。じゃあ、みんな。また会おう。仲良くやれるといいわね。」


軽い笑い声とともにそう言い終えると、彼女は他の誰も気に留めることなく、軽やかに立ち上がり、教室の出口へと歩き出した。

一部の生徒たちが彼女の後ろ姿を目で追ったが、ほとんどの生徒は特に気に留めなかった。アイリャは、一言の会話も交わさないまま教室を去った。


彼女の退出を見て、クラスの半分ほどの生徒が自分の荷物をまとめ始める。

それぞれが小声で話しながら、一人また一人と教室を後にしていった。突然の自由時間を楽しもうとするように。


エディスは優雅に腕を組みながら、その光景を静かに見つめていた。

唇には鋭い計算された笑みを浮かべ、ゆっくりとベアトリスの方を向いた。


「私たちのクラス紹介としては、少々予想外な形になりましたわね。」

冷たく、しかし落ち着いた口調で彼女はそう言い、先ほどの議論を締めくくるように一言を添える。

「ですが...今日の会話、とても興味深いものでしたわ。」


その言葉には微かな皮肉が込められていたが、表向きは礼儀正しく聞こえた。

エディスの視線はベアトリスに注がれ、その笑みにはわずかな挑発が隠されている。


「今後もそのような理想をお持ち続けてくださいね、ベアトリス様。」


エディスの言葉の裏に隠された意図に気付かないベアトリスは、温かな笑顔で返事をした。

その誠実さに、エディスの皮肉さえも薄れてしまいそうだった。


「もちろんですわ、エディス様。お話できてとても楽しかったです。」


一瞬だけエディスの笑顔が揺らいだが、すぐに元の笑みに戻る。

「では、私もこれで失礼いたしますわ。これ以上、ここにいる必要もないでしょうから。」


そう言いながら、彼女は優雅な足取りで階段を降り始めた。

その姿勢には、あたかも議論に勝利したかのような余裕が漂っていた。


階段の下にたどり着くと、エディスはベルに視線を向けた。

その表情には鋭さが和らぎ、どこか本物の感情が垣間見える。


「セインツ・スカラーさん。」

エディスは穏やかな声で続けた。

「お気をつけて。この称号は輝きを放つものですが、光が強ければ強いほど、影を引き寄せるものですわ。」


その言葉には敵意は感じられず、静かな警告のような響きがあった。

エディスはそのまま再び歩みを進める。


そして最後に、彼女の視線はメイへと向けられた。

彼女の顎がわずかに上がり、礼儀正しく挨拶する。


「メイ様。」

静かな声でそう言うと、軽く頭を下げる。


扇子を唇の前に掲げたままのメイは、わずかに首を傾げて応じた。

軽い、しかしどこか面白げな声を漏らす。


「ふむ。」


それだけ言うと、エディスは教室を後にした。その動作は正確で洗練されている。

残った生徒たちは、それぞれの荷物や会話に夢中で、彼女の退出にほとんど注意を払わなかった。

教室は次第に静寂に包まれ、さっきまでの熱気が嘘のように薄れていった。


ベアトリスは机に両手を揃え、静かに考え込んでいた。先ほどのエディスとのやり取りが、まだ頭の中に残っている。とはいえ、その時はあまり気に留めていなかった。あれはただの無害な議論のように感じられたのだ。貴族同士がフォーマルな場でよく交わす、少し熱の入った意見交換のようなものだと思った。クラスメートたちの前で自分なりに冷静に応答できたことに、むしろ誇らしささえ感じていた。


だが今、教室の静けさが長く続く中、心の片隅に引っかかるものがあった。隣の席に座るベルに目を向けると、彼女がスカートの裾をきつく握りしめているのが目に入った。その手は震え、緊張が伝わってくるようだった。肩もかすかに震えている。


ベアトリスの目が見開かれる。微かに聞こえた、張り詰めたような囁き声に気づいたからだ。


「みんなの言う通り……私なんか、ここにいるべきじゃないんだ。」


ベルは、まるで静寂に飲み込まれるようなか細い声で呟いた。誰の目も見ようとせず、机の上の磨かれた木目に視線を落としたまま続けた。


「こんな学院に来るべきじゃなかった……あんなスピーチをするべきじゃなかったのに……」


それはただの絶望ではなかった。希望も、居場所も、自分という存在すらも――すべてが失われたかのような虚無感。それは彼女の記憶に深く刻まれていた。忘れようと努めても消えることはなかった。


その空虚さを、かつて彼女は目の当たりにしたのだ。暗闇の中で自分の隣に立っていた二人の人物の目に、まるで空虚そのものが宿っているようだった。当時、それは鏡を覗き込むような感覚だった。彼らの瞳に映るのは、自分自身――中身が空っぽで、ただ暗いだけの存在。


けれど、不思議なことに、彼らは少しずつお互いを支え合いながら進んでいった。バラバラになった欠片が少しずつ繋がり、やがてその人生に意味を見い出したのだ。誰か――何かを拠り所にすることで。


しかし、そんな記憶が頭をよぎる中で気づいた。ベルの虚ろな瞳は、彼らだけのものではなかった。あれは、彼女自身の瞳でもあった。長い間、空っぽの自分を鏡越しに見続け、ただ人の影のような存在でいるしかなかった――あの感覚。


もう、誰にもあんな思いをさせたくない。

彼女の胸に、静かだが確かな決意が湧き上がる。虚無の中で囚われたまま、何も見えない闇と見つめ合うあの感覚――それがどれほど辛いかを彼女は知っている。ベルの震える姿が現実へと引き戻した。その光景は胸を切り裂くような痛みをもたらした。


――今の私なら止められる。こんな苦しみを知っているからこそ。


迷うことなく、ベアトリスはベルの手を掴んだ。その手のひらには力強さがありながらも、穏やかさが宿っていた。それは、無言のメッセージだった。「私は絶対に離さない」という。


「ダメよ。」

ベアトリスの声は冷静でありながら、鋭さを帯びていた。重い沈黙を切り裂く刃のように。


ベルは驚いたように瞬きをし、掴まれた手に目を落とした。唇をわずかに開き、何かを言いかけたが、言葉にはならなかった。そして顔を上げ、初めてベアトリスのまっすぐな視線を見つめ返した。そこには怒りはなかった。ただ、決意ともうひとつ――温かく、深い感情。そう、心配が宿っていた。


ベアトリスは深く息を吸い込み、気持ちを奮い立たせた。今、言葉が必要だと分かっている。ベルの心が完全に絶望に飲み込まれる前に届く言葉を。彼女は手に少し力を込めた。それは痛みを与えるほどではなく、むしろ「離さない」という意思を伝えるためのものだった。


それはただの絶望ではなかった。希望も、居場所も、自分という存在すらも――すべてが失われたかのような虚無感。それは彼女の記憶に深く刻まれていた。忘れようと努めても消えることはなかった。


その空虚さを、かつて彼女は目の当たりにしたのだ。暗闇の中で自分の隣に立っていた二人の人物の目に、まるで空虚そのものが宿っているようだった。当時、それは鏡を覗き込むような感覚だった。彼らの瞳に映るのは、自分自身――中身が空っぽで、ただ暗いだけの存在。


けれど、不思議なことに、彼らは少しずつお互いを支え合いながら進んでいった。バラバラになった欠片が少しずつ繋がり、やがてその人生に意味を見い出したのだ。誰か――何かを拠り所にすることで。


しかし、そんな記憶が頭をよぎる中で気づいた。ベルの虚ろな瞳は、彼らだけのものではなかった。あれは、ベアトリス自身の瞳でもあった。長い間、空っぽの自分を鏡越しに見続け、ただ人の影のような存在でいるしかなかった――あの感覚。


もう、誰にもあんな思いをさせたくない。

彼女の胸に、静かだが確かな決意が湧き上がる。虚無の中で囚われたまま、何も見えない闇と見つめ合うあの感覚――それがどれほど辛いかを彼女は知っている。ベルの震える姿が現実へと引き戻した。その光景は胸を切り裂くような痛みをもたらした。


――今の私なら止められる。こんな苦しみを知っているからこそ。


迷うことなく、ベアトリスはベルの手を掴んだ。その手のひらには力強さがありながらも、穏やかさが宿っていた。それは、無言のメッセージだった。「私は絶対に離さない」という。


「ダメよ。」

ベアトリスの声は冷静でありながら、鋭さを帯びていた。重い沈黙を切り裂く刃のように。


ベルは驚いたように瞬きをし、掴まれた手に目を落とした。唇をわずかに開き、何かを言いかけたが、言葉にはならなかった。そして顔を上げ、初めてベアトリスのまっすぐな視線を見つめ返した。そこには怒りはなかった。ただ、決意ともうひとつ――温かく、深い感情。そう、心配が宿っていた。


ベアトリスは深く息を吸い込み、気持ちを奮い立たせた。今、言葉が必要だと分かっている。ベルの心が完全に絶望に飲み込まれる前に届く言葉を。彼女は手に少し力を込めた。それは痛みを与えるほどではなく、むしろ「離さない」という意思を伝えるためのものだった。


ベルは固まったように立ち尽くしていた。ベアトリスが不意に取った行動に驚かされたのか、その瞳は大きく見開かれ、唇は震えているのに声は出ない。教室は息を潜め、先ほどまで気取ってメモを取るふりや雑談に興じていたクラスメイトたちでさえ、今は微妙に視線を走らせるだけだった。


沈黙を破ったのはメイだった。その声は澄んでいて決して揺るがない。「ふむ、それで終わりなのかの? ベルよ、そんな風に涙を流してみせて、あやつらの思う壺になるつもりなのじゃ? 自らを辱めたいのかえ?」


ベルは身を震わせ、さらにうつむいた。メイの言葉は鞭のように鋭く、冷徹だが嘲笑しているわけでもなかった。ただ、そこに優しさは感じられない。


「メイ…」ベアトリスが柔らかく呼びかけると、メイはそちらを一瞬見るが、その表情は揺るがない。華夏ホアシャ出身の少女は鋭いまなざしをベルに注ぎ続ける。


「ほう、そんな様子で、この程度が最悪だとでも思うておるのかえ?」メイは冷徹な声を発し続ける。「言わずとも理解されると思うのは甘えに過ぎぬ。聞かせたいなら、相手に叩き込むがよい。何もせず泣くだけでは、何も変わらぬのじゃ。」


ベルの肩が震え、最初の涙がこぼれ落ちる。金色の光が差し込む教室で、その一滴は机の上に静かに落ちた。


ベアトリスは一歩近づき、穏やかながらも凛とした口調で言う。「あなたは自分の言葉が無意味だと思っているのでしょう? でもね、賛同する人は必ずいるのよ。たとえ声に出さなくても。」


その言葉は真摯で、空気を重くも清らかに満たした。ベアトリスはベルの手を離し、その代わり膝上に置かれたベルの両手に自分の手を重ねる。まるで地に足をつけさせるように、そっと支える仕草だった。


「あなたは自分がこの場にふさわしくないと思っているのかもしれない。でも、あの式典であなたが示した勇気…あれは本当に尊いことよ。自分の本音を口にする、それがどれだけの勇気を要するか、わかっているかしら?」


ベルは首を振り、弱々しい声で答える。「…関係ないわ。あの人たちは絶対に認めない。私はずっと……劣る存在でしかないもの。」


声が裂けるように途切れ、涙はさらなる滴となって流れ落ちる。


「そんなことはないわ。」ベアトリスはきっぱりと告げ、ベルの視界に正面から立つ。「私がここへ来たばかりの頃、どう感じていたか知ってる?」


ベアトリスは一息おき、その瞳を優しく細める。ベルが顔を上げ、彼女を見つめるまで待つように。


「私がこの学園に来た時、外の世界をまるで知らなかったの。」ベアトリスは静かに語り出す。「壁の中で守られ、何もかもが整然とした環境で育ったから、外の世界も同じだと思っていたわ。だけど、あなたと出会って、その考えは大きく揺らいだ。」


ベルは涙で濡れた頬をわずかに上げる。困惑がにじむ表情だ。


「初めて会った時、私が教師棟を示したとき、てっきりお互い名前を交換して、後で笑い合えると思っていたの。でもあなたは礼を言って、すぐ行ってしまった。」ベアトリスは恥ずかしそうに微笑み、その頬を薄紅に染める。「決して理想的な出会いじゃなかったけれど、今こうして再び対面できて、これはこれで面白い始まりかもしれないと思えるわ。」


ベアトリスはベルを見つめ続け、その声音は柔らかく温かい。「それに今日のあなたを見た時、痛みを伴っても自分の意見を述べる姿に、私ははっとさせられたの。世の中は必ずしも綺麗に整っているわけじゃない。私が長い間避けてきた『混乱』も、あなたの行動で少し受け入れられる気がした。そして今、この瞬間、あなたから本当に学べることがあるって思えたの。」


メイは腕を組み、あきれたように溜め息をつく。「要するに、ベアトリスが言いたいのはのぅ…人生は誰にとっても混乱そのものなのじゃ。誰の言葉でも、最初から尊重されるなど夢物語よ。むしろ、受け入れるべきじゃろう。」


ベルは戸惑いながらメイを見る。


メイは目を細め、まるで挑むように言葉を続ける。「泣いて何になる。自分の言葉を守り抜くか、討ち死にするか、その二つしかないのじゃ。」


その声は冷たいが、蔑む響きはない。厳しさの中に、鋭いが確かな真理があった。


重苦しい沈黙が降り、ベルのすすり泣く音だけが微かに響く。ベアトリスが優しく重ねた手が、ベルをかろうじて踏みとどまらせる鎖であり、メイの言葉は鋭い刃のように宙に残る。


ついにベルは涙を拭い、か細い声で尋ねた。「なぜ、そこまで私にこだわるの…?」


メイは小さく鼻で笑うと、椅子に寄りかかり腕を組む。「こだわる? 自惚れるな。わらわは華夏ホアシャで育ったが、そこでは成功も失敗も自らのものとして受け止めるのじゃ。理解が欲しければ、相手をねじ伏せるほど主張すればよい。甘えも、与えられる理解もない。されど、ただ黙って踏まれるなど強さとは言えぬわ。倒れるなら背筋を伸ばして倒れよ。」


冷えた口調ではあるが、その瞳にはベルが立ち上がることを期待する微かな光が宿っている。


メイがパチンと扇子を閉じ、鋭く目を向ける。「何をおかしな顔しておる、ベアトリス?」


「いえ、何でも。」ベアトリスは微笑を浮かべ、耳元の髪を軽く払う。そしてベルへと向き直り、優しい声で続ける。「メイが言いたいのは、要するに、あなたがその言葉を捨てるなということ。彼女なりの応援なのよ。認めるのは嫌がっているけれど、あなたが示したものを無視はしていないの。」


メイはわずかに頬を染め、慌てて扇子で顔を隠した。


ベルは逡巡しつつも、二人を見比べる。その表情は先ほどの絶望一色ではない。ぎこちないが確かな呼吸を整え、小さく声を紡ぐ。


「私が…あのスピーチで言いたかったのは…ただ自分を証明したかったわけじゃないの。平民だろうと、どこ出身だろうと、何も持たなくても人は夢を見られるって示したかったの。生き延びるだけじゃなく、創り出して、変えていけるって。それを信じるのは、まず私自身がやらなきゃいけないから…。」


ベルの指は震えながらも、スカートの裾を握りしめ、その瞳はわずかに強さを帯びる。「誰も信じてくれなくても、私が信じなきゃ、誰がやるの?」


ベアトリスは優しい微笑みで応える。「だからこそ、私はあなたのスピーチに心を打たれたの。あれは単なる言葉じゃない。あなたが自分より大きな何かを信じている証だった。そういう信念は、人を動かす力があるのよ。」


そして、穏やかに続ける。「それに、あなたは『セインツ・スカラー』でしょ?」


教室内の張り詰めた空気が、ほんの少し緩む。ベルはもう一度深呼吸し、ベアトリスとメイを見上げる。重くのしかかっていた絶望が消えたわけではないが、何かが変わり始めていた。


メイは満足そうに一度うなずいてから、机に目を戻す。「次からは、こんなみっともない泣き方をするでないぞ。見るに耐えぬわ。」


ベアトリスはくすりと微笑み、その声には温かみが満ちている。「それがメイなりの、あなたへの激励なのよ。」


ベルは少しの間ためらった後、かすかに頷く。その仕草は小さくとも、先ほどより確かに力を帯びていた。

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