アジアンタム

いとうみこと

その1

 重い瞼を無理やり開けて時計を見ると午前十時を指していた。カーテンの隙間から強い日差しがこぼれている。昨夜からつけっ放しのエアコンが賑やかなところをみると、今日も外は暑いのだろう。

 隣では朝陽あさひがうつ伏せになって何やら楽しそうにスマホを見ていた。

「何見てるの?」

「あ、起きた? 今ね、難読漢字のクイズやってるんだ。斗羽とわさん、この字読める?」

 そう言って私が読めるはずもない文字を、朝陽は悪意なく突き付けてくる。

「うーん、漢字苦手だからなあ……はのぎ?」

「ああ、確かにそうも読めるかも」

 私が無知なことはとっくにわかっているだろうに、朝陽は決して私を見下すことはない。今も浮かぶのは無邪気な笑顔だ。

「でもね、これは歯朶シダって読むんだよ」

「へえ、そうなんだ」

 本当はシダが何かもよくわからなかったけれど、陽気な朝陽を煩わせたくなくて口をつぐんだ。俗に言う難関大学に通う朝陽にとって、難しい漢字のクイズは楽しい遊びになるのだろう。私にはさっぱり理解できないけれど。

 次々と正解していく朝陽の横顔を、私は飽きることなく見つめた。勉強でも遊びでも、何かに夢中になっている朝陽の顔が好きだ。それだけではない。ハリのある肌、艶のある髪、生き生きとした瞳、細身だけれどバランス良く筋肉のついた体、私にはもったいないくらい美しい二十歳の青年が、こうして自分のベッドにいてくれることの幸せをしみじみと噛み締める。

 私の視線に気づいた朝陽が、スマホを放り出して私を抱き寄せた。骨っぽい手が私の胸にぴったりと吸い付いて優しく動き出す。

「斗羽さんの体、好きだなあ」

「体だけ?」

 私が言い返すと、朝陽はいたずらっぽく笑って言った。

「ううん、斗羽さん綺麗だし、優しいし、顔の皺まで全部好き」

「何ですって! このぉ」


 朝陽とは、私がやっているスナックの店先で出会った。急な雷雨でずぶ濡れになった朝陽を店に招き入れたのが最初だ。その時はタオルと傘を貸しただけだった。朝陽は律儀にも翌日には傘を返しに来たので、まだ客のいなかった店内で特製カレーを振る舞った。それからというもの、朝陽は毎日のように店に顔を出すようになり、やがてアパートへも来るようになったのだ。

 最初はペットのように思っていた私だったが、いつしか本気で朝陽を愛するようになった。とはいえ、随分と年が離れているし、何より朝陽は学生だ。今は良くても、社会人になった彼が私のそばにいてくれるとは考えにくい。私は彼との将来を想像することをとうにやめていた。


「夏休みは実家に帰省することになったよ」

 シャワーを浴びた後、お気に入りの特製カレーを頬張りながら朝陽が言った。

「家の手伝いをしろって言われてるから、八月いっぱいは戻れないと思う」

 詳しくは聞いていないが、実家は何かしら商売をしていてかなり羽振りがいいようだ。それは朝陽の持ち物や金の使い方を見ていれば察しがつく。朝陽はひとりっ子だからいずれ家業を継ぐことになるのだろう。

「そうなんだね」

 私は寂しさが言葉に出ないようにできるだけ素っ気なく答えた。それなのに、朝陽は私が考えもしなかったことを口にした。

「斗羽さんに会えないのは寂し過ぎるから、お盆休みに地元へ来てくれない?」

「私が? そっちへ?」

「そう、家族にも紹介するよ」

 私は混乱した。どういう意図で朝陽がそんなことを言うのか理解できなかった。

「紹介って、そんなの無理に決まってるじゃない」

 思わず強い口調になった私を、朝陽はぽかんとした顔で見た。それから何を思ったのか急に真顔になった。

「斗羽さんがどう思ってるか知らないけど、僕にとって斗羽さんはとても大事な人だよ」

 子犬のような瞳で私を見つめる朝陽に何と答えていいのかわからず、ただ「ありがとう」とだけ言って、私は空になった皿を流しに置くために立ち上がった。


 翌日、朝陽がひとつの鉢植えを持ってアパートにやって来た。

「斗羽さん、これがシダだよ」

 私はシダの話などすっかり忘れていたが、「ほら、昨日漢字読めなかったやつ」と言われて思い出した。掌に乗るほどの鉢には、小さな葉をたっぷり茂らせた華奢な植物が生えている。

「よく見かけるのとは違うけどね、アジアンタムって言うんだ」

 よく見かけるシダがどんなものかわからないけれど、目の前の植物はとても可愛らしくて私はすぐに気に入った。

「僕がいない間世話を頼んでいい? こいつは毎日世話をしてやらないと枯れちゃうから」

「朝陽みたいだね」

「だね」

 朝陽は念入りなハグとキスを浴びせてから、大きなトランクを転がして実家へ帰って行った。

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