2 左腕まで2

 昼休み終了ぎりぎりになって、素うどんとの格闘を終えた詩乃は1-Cの扉を開けた。やはりガヤガヤと煩い教室。古典担当の新任女性教師が、やや緊張した面持ちでPCとにらめっこしていた。


 詩乃は静かに自分の席に座る。すると、隣の席で突っ伏していた青葉が顔を上げた。札は剥がれたままのようである。


 「お、よっす。遅かったね」

 「熱かったから」

 「ウケる」


 詩乃にとっての死活問題に勝手にウケないでほしい。


 「古賀こがTが次は土佐日記だって」

 「え、やば。予習してないんだけど。更級の方かと思ってた」


 詩乃にとってはビッグニュース。詩乃は苦手科目はからっきしなところがあった。詩乃は、中学のときに体質が発覚して学長に連れてこられた組である。中三のときに怪異の被害に遭って勉強どころではなくなり、受験で叩きこまれるべき基礎が疎かなまま高校生になった。これが、地味にきついのである。


 詩乃は慌てて電子辞書を取り出す。すると、開いた電子辞書から奇妙なオルゴール音が流れ出した。所々針が欠けているような、不気味でホラーゲームで流れそうな音楽。音だけ垂れ流して電子辞書の画面は暗く沈黙している。もちろん、電子辞書にそんな機能は無い。


 詩乃はため息をついて、すみやかに青葉に電子辞書をパスした。まだ札なしの青葉は電子辞書を受け取る。しばらくして、電子辞書は煙を上げて沈黙した。


 「ウケる。電子辞書何個目?」

 「3個目。やっちゃった……。油断した。どうしよ」

 「予習ノート貸すよ〜」

 「神」


 詩乃は青葉をまるで神様のように崇めながらノートを受け取った。1-C 22番、電話系怪異ホイホイこと三上詩乃。怪異の介入により壊したスマホは12台、壊したガラケーは13台、壊したパソコンは備品含めて5台である。学園では電子機器クラッシャー青葉となるべく一緒にいるよう言いつけられている。


 「じ、じゃあ、授業を始めますっ!」


 気づかないうちに本鈴が鳴っていたらしい。教壇に立った若い女性教師が、おどおどと声を上げた。怪異案件で入院することになった古典教師の代わりに駆り出された、幸薄そうな新任教師である。


 「きりーつ れー ちゃくせーき」


 号令に合わせて礼をする。「教科書のっ! 三十七ページを開いてくださいっ!」古典教師が、可哀想なくらい震えながらチョークを手に取った。詩乃は青葉に、黒板横のスクリーンには、土佐日記の冒頭部分の解説パワポが表示されている。


 ふんす、と気合を入れる詩乃。気合を入れないと日本2000年分の重みには到底立ち向かえない。と、そんな詩乃を横から誰かがつついた。青葉である。


 詩乃は首を傾げて青葉を見る。そして、自分が青葉のノートを借りたままなのに気づいた。片手で「ごめん」というジェスチャーをしながらノートを返す詩乃。「いいって」という動きををしながら受け取る青葉。そして青葉は、他人をからかうときの顔で前の席を指さした。


 前の席では、綺麗な金髪の男子が、定規でも入っているのかと言うくらいぴしっと背筋を伸ばして着席している。視線は黒板やパワポではなく、古典教師に固定。分かりやすいやつである。

 金髪男子の肩には、同じくらい綺麗な金色の毛並みをした狐がちょこんと座っていた。


 「あ、おあげ」

 「ん?」

 「いや、なんでもない」


 詩乃は食堂での出来事を思い出した。あの狐は、金髪男子の狐だったのだろうか。詩乃の視線を感じたのか、肩載り狐が振り返った。青い首輪に、つぶらな瞳。詩乃はそっと目をそらした。獣の目の純粋さにいたたまれなくなったのである。


 「今日から土佐日記に入りますがっ! 基本事項の確認ですっ! 土佐日記を書いた人物は、誰でしょうかっ!」

 「はいっ! 先生っ!」


 ガシャンッ! と通常聞かないような音がした。教室全員が音のした方向に注目する。金髪男子が体操選手のように堂々と起立していた。先程の音は、彼が立ち上がる時に椅子を蹴飛ばした時の音だったらしい。狐は肩に乗ったままだった。さすがの体幹である。


 「すがわらの……です!」


 青葉が笑いをこらえる顔をした。古典教師は何とも言えない顔で金髪男子を見る。詩乃は遠い目をした。すがわらさんはたくさんいるが、恐らく菅原孝標女と言おうとしたのだろう。残念。それは更級である。


 「……惜しいですっ! 正解は、紀貫之ですっ! では、こちらの資料をご覧くださいっ!」


 とりあえず進めることにしたのか、古典教師がパワポを指差した。大きく紀貫之の絵が写っている。百人一首にでてきそうな烏帽子をかぶったおじさんである。


 と、おじさんが明滅した。ん? 詩乃は目をこすってもう一度おじさんを見た。やはり明滅している。隣を見れば、青葉も首を傾げていた。プロジェクターの故障だろうか。

 「ね、あのおじさん……」と青葉に聞こうとした詩乃。しかし、険しい顔をした歴史オタク1-C会計と目が合った。失礼した。紀貫之である。


 「ね、紀貫之、チカチカしてるよね?」「だね。修理班は?」「今月頭に点検したけど、異常なかったよ」青葉が尋ねれば、少し離れた席にいた修理班メガネ女子が応じた。詩乃と青葉のいるこのクラスには、電子機器に詳しいメンバー、通称修理班もいる。


 ざわつく生徒たちに気づかず、「紀貫之は平安時代前期から中期の歌人で……」と解説を続ける古典教師。声が震えている。ド緊張である。彼女の声の震えに呼応するように、スライドの明滅もだんだん激しくなっていく。最終的にストロボのように瞬いて、ぱつん、と光が消えた。


 「じゃあ皆さん、音読をっ! ……え?」

 音読を促そうと顔を上げた古典教師は、そこではじめて教室の異常に気がついた。皆スクリーンの方を向いている。たぶん機器の故障ではない。ということは、授業どころではない。一歩間違えば命の危機である。


 と、教卓に置いてあった古典教師のパソコンから、奇妙なオルゴールの音が流れ始めた。所々音が飛んでいて、テンポも一定でない。オルゴール音なのにテンポが一定じゃないって、どういう仕組みなんだろう、と詩乃はぼんやり思った。


 すると、ぱっとスクリーンに文字が浮かんだ。黒い背景に白文字で、「左腕まで2」と表示されている。オルゴールの音にはクレッシェンドがかかり、教室全体が耳を塞いでいた。シンプルにうるさい。


 「行け!」


 と、オルゴールの音に負けないうるさい掛け声が聞こえてきた。詩乃はそちらを見る。金髪男子が、プロジェクターを指差していた。そしてそれに応えるように、肩に乗った狐がぐっと跳躍した。


 バキン。


 狐はプロジェクターに体当りした。するとプロジェクターは光を失い、スクリーンに何も映さなくなる。パソコンから流れ続けた爆音オルゴールもピタリと止んだ。


 「はっはっは、どうだ!」


 金髪男子は腰に手を当てて、高笑いし始めた。狐が彼の机にしゅたっと降り立って、つぶらな瞳で彼を見つめる。と、上から重力に負けたプロジェクターが降ってきて、金髪男子の頭に直撃した。「はっはっ、がっ!」金髪男子は頭を押さえて蹲る。涙目で狐を見るが、狐は変わらずつぶらな瞳で見返していた。「……どんまい」「どんまーい」教室全体からどんまいコールが沸き起こる。

 金髪男子、聖沢ひじりさわ海嶺かいれい。名門聖沢家の管狐使い見習いで、ちょっと残念で運がない男子である。


 どんまいコールのなか、青葉はすっと立ち上がり、教卓の方へ歩いていった。そして呆然としている古典教師を通り過ぎ、教卓の上のパソコンに触れる。最初はバチッと青葉に抵抗するように画面を明滅させたパソコンは、しばらくしてぷしゅー、と煙を吐き出した。電子機器クラッシャー、勝利である。


 「あぁ、私のパソコンがぁ!」


 口を半開きにして固まっていた古典教師が、煙を上げるパソコンを見て再起動した。涙目でパソコンに近づく。「あぁ、明日までに提出の書類が……、みんなのテストの成績データが……」とパソコンを撫でながら呟いた。


 「え、先生バックアップ無いんですか?」

 「プロテクトも?」

 「無いです」

 「え、正気?」


 古典教師は泣き崩れた。ホイホイとクラッシャーがいるクラスにパソコンを持ち込むとは、度胸のある先生である。それに、データバックアップはとても大事だ。いつ怪異にパソコンを乗っ取られるか分からない。常識である。


 「ぐすっ。取り敢えず、私、これ職員室に持ってきます。そして、ぐずっ、陳謝してきますっ……!」


 古典教師は泣きながら教室を出ていった。幸薄そうな見た目なのに、結構強かな先生だなと詩乃は思った。べしょべしょに泣いてはいたが、怪異に遭った恐怖よりデータクラッシュへの陳謝が優先になるあたり、相当である。


 教師がいなくなって、無法地帯と化す教室。しゃべる生徒も、寝る生徒も、能力で遊びだす生徒もいる。詩乃は斜め前の席に向かって、「海嶺」と呼びかけてみた。「……なに」と返事をする。「プロジェクター落ちてきたよね? 頭、たんこぶになってない?」「大丈夫」海嶺は大人しく自分の椅子に座った。そして、静かに教科書を読み始める。

 実は海嶺、素は結構静かで真面目なやつなのである。好きな人と怪異の前ではキャラブレ甚だしい、残念な狐使い初心者である。


 「いつもそのくらい落ち着いてればいいのに」

 「だって」

 「好きな人も怪異も怖いから?」

 「……うん。みんな、怖い相手にいつも通りでいられるの、凄いよね」


 「羨ましいよ」とぽつりとこぼす海嶺。詩乃は素の海嶺とは気軽に話せる。気質が近いのかもしれない。


 「詩乃はいつも素だよね」

 「そうだね。でも、私は素のままでもあんまりいいことないよ。青葉みたいに快活なのが素なら良かったんだけど」


 詩乃は教室前方を見た。教卓の側で、青葉がぴかっとした笑顔で前列の1-C会計と話していた。

 「歴史上の人物だったら誰が好きなの?」「え、……日本で? 世界で?」「全部で」「鬼畜の所業。せめて時代で区切って」

 いつもは額に垂らした札で見えないが、彼は表情豊かで快活な好青年なのだ。そんな人を自分とバディにしてしまって申し訳ないな、と詩乃は思っている。


 「そうかなぁ」

 「ん?」

 「いや、青葉も結構猫かぶってるよ、詩乃の前では」


 海嶺も青葉を見つめながら言う。と、二人の視線に気がついた青葉が、1-C会計を華麗に置き去りにしてこちらに来た。「海嶺、札作って」「えー、まだ成功できた試しないのに」「いいじゃん、練習ってことで。俺もそろそろスマホ使いたい」

 海嶺に札をねだる様子は、どう見ても陽キャ好青年で。海嶺作の札を貼り付けて、札の効果確認用の100均の腕時計に触れて壊して、「やっぱダメじゃん」「だから言ったろ」と軽口を叩きあっている二人を見ながら、詩乃は首を傾げた。


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