子狸姫と下僕剣客  成敗暦

出水千春

序  一笑必殺 



 暦の上では夏が終わろうとしていた。日中の日差しはまだまだ容赦ないが、朝夕涼しさが感じられるようになった。

 そんなある日の早朝、竹林に囲まれた古井戸の脇に、すらりとした人影があった。  

 朝の眩しい光が重なりあった笹の葉に遮られて、姿形はしかと見えなかったが、立ち姿から若者らしい爽やかさが匂い立っている。

「師匠のあんぽんたん! お熊の我がまま者! 生焼けだの焦がし過ぎだの、目刺しの焼け具合でいちいち文句を申すな」

 二刀を帯びた若者は、水の枯れた井戸の底に向かって思い切り悪態をついた。

「これですっきりいたした」

 得心した様子で井戸端から足早に立ち去っていく。

 若者は総髪を馬の尻尾のように束ねていた。毛束が俊敏な動きとともにぷらりぷらりと揺れる。

 竹がまばらになったところで、懐から小振りな手鏡を取り出した。古びた鏡は、鏡面に少しばかりひびが入っていた。

「さてと・・・・・・」

 若者は己の顔を鏡に映して口角を上げた。

 喉の奥まで見せて大笑いしたり、意味ありげに薄く笑ったり、口を閉じて嫌らしく含み笑いをしたり、笑顔の百面相を始めた。

「いやいや、もう少し目尻を下げるべきか、あと一工夫欲しいところだ」

 子供の頃から行っている、笑顔の〝研鑽〟にしばらく刻を費やした後、

「よしよし、この笑顔だ」

〝必殺〟の笑みを確認した後、若者は道場兼我が家へと戻っていった。


           一


「たのもう」

 覇気に満ちた大声が道場の入り口から響いてきた。

 母屋の縁先でゆったりと白湯を飲んでいた風神静馬は、嫌な予感を覚えながら稽古場に向かった。歩みに合わせて、廊下がぎしぎしと耳障りな音を立てる。

「若先生、こないな夕刻に誰でっしゃろな」

 井戸端で汗を拭いていた弟子の世吉が、庭伝いに跡を追ってきた。

「武家らしい物言いからして、商家の掛け取りではなさそうだが、良い話ではなかろう」

 返答しながら稽古場に足を踏み入れた。

 建物の陰でいったん姿が見えなくなった世吉は、中庭の枝折り戸を開けて、

「この蟻通道場に入門したいっちゅう者{もん}は滅多に来まへんよってな。へへ、道場破りでっしゃろかいな」

 稽古場の裏口からもそもそと上がってきた。

「せやけど、こないな貧乏道場へ来るて、よっぽど暇で奇特な道場破りでんなあ。看板持って行くちゅうて脅したかて、蟻通道場には出せる金子どころか銭かて、まるっきしあらしまへんもんな」

 世吉は一言も二言も多かった。

 半年ほど前に上方から出てきた棒手振りの世吉は、ずけずけと物を言う腹の立つ男だったが、たった四人しかいない貴重な弟子の一人ゆえ、貧乏道場を切り盛りする静馬にとっては、大事にせねばならぬ〝お客〟だった。

「ははは、確かにそうだな」

 へつらいを込めた笑みを返した。

 稽古場の入り口に回ると、無紋ながら上物の羽織袴を身に着けた若侍が土間に突っ立っていた。身なりが立派なわりに、付き従っているはずの供の姿が一人も見えなかった。

「当道場にて師範代を務める風神静馬と申します。御用の向きを承りましょう」

 式台に膝を折って丁寧に挨拶した。世吉も真面目くさった顔つきで、静馬の後ろにちょこなんとかしこまった。

「稗田利之進と申す者にて、直心影流を少々遣いまする。墨伝先生に一手、御指南いただきたい」

 案の定、男は道場破りだった。自信たっぷりなそぶりといい、油断のない物腰といい、かなりの遣い手と思われた。

「大先生は寝込んではるし、蟻通道場、始まって以来の一大事でっせ~」

 世吉が耳元でささやいた。口元が緩んでいる。静馬がいかに対処するか興味津々らしかった。

 体格が良く、立ち姿もきりりとした利之進は、尊大な目で見下ろしている。悠揚迫らぬ気品が漂っていて、指図することに慣れた暮らしぶりが見て取れた。

 対する静馬はといえば、長屋住まいの貧乏浪人一家の五男五女の末子に生まれ、八歳から蟻通家で使用人として生きてきた。

(身分の高い武家に相違ない。触らぬ神に祟りなしだ。早々にお帰りいただきたいものだ)

 すっかり気圧されていた。

「あいにく蟻通墨伝は重い病で伏せっておりますゆえ、お相手できかねます」

 努めて愛想良く、だが〝重い病〟を強調しながらきっぱりと断った。

「まさか嘘ではあるまいな」

 利之進の利かん気そうな右眉がぴくりと動いた。

(確かに寝込んでおられるものの、実のところ、ただの食あたりだからな)

 静馬が翌朝の味噌汁の具にと残しておいたマテ貝を、夜更けに起き出した墨伝が酒の肴として生のまま食したせいだった。

「いえいえ、滅相もございませぬ」

 にこやかで誠実味溢れる笑みを添えながら、顔の前で大仰に両手を振った。

「ふむ、偽りではなさそうだな」

 利之進は静馬の笑顔に納得したらしかった。

 諦めて出直してもらえるかと安堵したが・・・・・・。

「せっかくやし、若先生がお相手しはったらええんと違{ちゃ}いまっか」

 世吉がよけいな一言を口走った。

「おお、それがよい」

 利之進は鼻息も荒く、身を乗り出した。

「拙者は師範代相手でもいっこうに構わぬぞ。天然理心流がいかなるものか知りたいのだ。実戦の剣とやらをこの目で見たい。ぜひとも手合わせいただきたい」

 奇妙なほど澄んだ瞳は、言い出したら聞かぬ頑なさを感じさせた。

(拙者が負ければ看板を持って帰るつもりであろう。墨伝先生はとても木刀を握られるようなお身体ではないし、さりとてお熊どのはまずいぞ)

 墨伝の一人娘お熊の顔が脳裏に浮かんだ。お熊は医師の良庵宅へ薬をもらいに出掛けていた。

「わたくしは未熟者にて力不足と存じます。また日を改めてお越しください。三日、いや一月も経てば、墨伝の病も平癒しておると存じます」

 ともかく早く追い返したかった。角が立たぬよう丁寧に頭を下げた。

「貴公はなぜ断る。立ち合ってみねば分からぬではないか。せっかくこうして参ったのだ。まことに未熟者なら、拙者が稽古をつけてつかわす。一汗かいてからでなければ帰らぬぞ」 

 利之進は譲らず、強引に押してきた。

 医者の良庵宅は新大橋の東側、御籾倉の近くにあった。

(これは困った。こうしている間にもお熊どのが帰ってくる)

 墨伝の一人娘お熊の日に焼けた顔を思いながら、腋にじんわりと嫌な汗を感じた。

「若先生、よろしおますやろ。稽古が終わったとこで、まだ稽古着のまんまやし、ちょうどよろしがな。わいも他流試合っちゅうもんを見とおます」

 世吉がまたも焚きつけた。

「しかしなあ、世吉……」

 言葉に窮するうちに世吉は、

「ほなら、利之進さま、どうぞ上がっておくんなはれ」

 さっさと招き入れてしまった。

「試合を受けていただけるのだな。ありがたい。ではごめん」

 利之進は優雅な身のこなしで、雪駄を脱いで式台に上がった。世吉は利之進の従者にでもなったかのように、すかさず雪駄をそろえた。

「おい、おい、拙者はまだ承知しておらぬぞ」

 静馬の異議に頓着せず、世吉は、

「利之進さま、こっちゃでっせ。狭{せも}うて汚い道場でっけどな。あ、そこは床が腐ってまっから踏み抜いたら危のおまっせ」

 我が物顔で稽古場へと案内し始めた。

「では一手、お願い申す」

「参ります」

 いざ稽古を始めたものの・・・・・・。

 利之進の猛攻に防戦一方となった。

(これはたまらぬ)

 静馬が逃げ回る。利之進の野太い気合い声だけが道場に響く。

 りゃりゃりゃ。

 利之進が鋭い突きを繰り出してくる。気迫のこもった一撃を打ち込んでくる。

「参りました」

 たちまち壁際に追い詰められた静馬は、床に膝を折って木刀を置いた。

「まだまだ。拙者は汗もかいておらぬぞ」

「いえ、力量の差は歴然。これにてご勘弁願います」

 世吉が見ているから、ひどい醜態をさらさぬうちに切り上げたかった。どうせ負けるなら、つまらぬ怪我などしたくない。

(看板を所望と言われれば渡せばよい)

 貧弱な看板は静馬の手製だった。持ち帰られても、木場から余った板をもらってきて作り直せば事足りた。

 重んじねばならぬほどの体面も無いから墨伝も怒るまい……というより『看板が古くなったので作り直しました』と言えば疑いもしないだろう。

(それよりなにより……)

 いつお熊が戻ってくるかしれない。膝に置いた掌に汗がにじんできた。

「天然理心流とはこの程度なのか」

 利之進は呆れ顔で苦笑した。

「いやはや、師範代とは名ばかりでお恥ずかしいしだいです。ははは」

 首の後ろに手をやった。弟子といえば町人ばかりの町道場である。師範代を名乗っているが詐欺同然だった。

「未熟者め、それでよう師範代が務まるものじゃ。その心根を叩き直してくれよう。さあ、かかってこい」

 利之進の闘争心は収まりそうもなく、静馬のいい加減な態度にいきり立った。

「これでもうご勘弁願います」

 卑屈なほど、ぺこぺこと頭を下げていたときだった。

「これはいったいどうしたことですか」

 眉間に縦皺を寄せたお熊が、神棚のある上座側の入り口に突っ立っていた。

「お、お熊どの」

 静馬は絶句した。

 お熊はいつもの若衆姿で二刀を帯びていた。本名は〝隈{くま}〟なのだが、自他ともに〝熊〟で通っている変人だった。

「おかえりやす」

 世吉が猿顔をくしゃくしゃにして笑った。利之進は、と見れば、豆鉄砲をくらった鳩のような目で棒立ちになっている。

「情けなや。そのざまは何ですか。静馬どの、あなたは引っ込んでいなさい。このわたくしがお相手つかまつります」

 お熊は袴の股立ちを取って手早くたすきを掛けるや、木刀をしっかとつかんだ。

 怪我でもされれば一大事である。

「利之進どのは遣い手です。お熊どのでも歯が立つかどうか……」

 阻止に努めたが、

「静馬どのは、お黙りなさい。このわたくしが未熟者だとでも言うのですか」

 ぴしゃりと拒否されてしまった。

「し、しかしですな」

 静馬は口ごもった。

 言い出したら聞かぬお熊の気性は嫌というほど分かっていた。

 静馬は八歳で、八王子千人同心組頭である豪農、蟻通家へ奉公に出された。

 蟻通家の二男、墨伝は剣術に熱心で、庭に稽古場を持ち、天然理心流の開祖近藤内蔵助を招いて稽古をつけてもらっていた。

 お熊の子守り役だった静馬は、墨伝に目をかけられて稽古に加えてもらえるようになった。剣術・柔術・棒術を習った。

 恩に報いようと人一倍稽古に励んだが、武術に才が無かったらしく、上達は遅々としていた。墨伝を落胆させて申し訳なかったと今も気に病んでいる。

 十八歳のとき、墨伝が指南免許を得て江戸市中に小体な道場を開くに当たって、師範代という名目で同行した。それ以来、家事と雑用を担わされて墨伝親子にこき使われている。二十二歳になった今も状況はさして変わらなかった。

 あの日以来、お熊は、呼び方を〝静馬〟から〝静馬どの〟に格上げしてくれた。その一事だけが変化したところだろう。名前にどのをつけて呼ばれるたびに面映ゆさを感じてしまう静馬だった。

 一人娘のお熊は墨伝の掌中の玉である、とにもかくにも、お熊にかすり傷一つ、決して決して負わせてはならない。

「お、お熊どの、まずは、その……、墨伝先生のお許しを得ねばなりませぬ」

 必死に止めようとしたが、

「待て、待て、おくま{傍点}どのとやら、あいにくだが拙者は女子とは闘わぬ。後日、改めて参る。その折には墨伝どのを打ち負かせて、正々堂々と看板をいただこう」

 利之進はさっさと木刀を木刀掛けに戻し、四角張った動きでたすきと鉢巻きを外した。

「何やかんや言うて、やっぱし道場破りでしてんな」

 世吉が猿のような顔に皺を寄せながら小声で耳打ちした。

「では、御免」

 利之進は羽織を羽織ると、あたふたとした様子で稽古場を出ていった。

「何でっしゃろな」

 利之進の後ろ姿を見送りながら首をひねった後、

「あ~、分かりましたで。あのお武家はん、女先生に一目惚れしはったんと違{ちゃ}いまっかいな。汗臭い稽古場に咲いた牡丹の花一輪ちゅうわけでっさかいな」

お熊に聞こえぬよう小声でささやくと、げらげらと品の無い笑い声を立てた。

「何がおかしいのです」

 お熊の眉間の皺がさらに深まり、子狸のような瞳がすっと細くなった。

「いやいや、こっちゃの話だすがな」

 世吉は両手を顔の前でひらひらさせながら首をすくめた。

(何が牡丹の花だ。たで食う虫も好き好きと申すが、男勝りで色気のかけらも無い子狸に一目惚れする者などおるものか)

 世吉の的外れな見立てに苦笑しながら、汗に濡れた額を手拭いでごしごし拭いた。

「恥ずかしいといったらありませぬ」

 突っ立ったままのお熊は、嫌がらせのように大きなため息をついた。

「静馬どの、そこにお座りなさい」

 いつものごとくお熊お嬢さまの説教が始まった。

「弟子の目の前で、その体たらく。呆れ果てました。男の風上にも置けぬとはこのことです。そもそも静馬どのは優柔不断で男らしゅうない」

 お熊は罵詈雑言を雨あられと、矢継ぎ早やに繰り出した。

「はい、はい、ごもっともです」

 静馬は慣れっこなので馬耳東風と受け流した。

「何ですか、その態度は! 〝はい〟は一度にしなさいと日頃から申しておるではありませぬか。小馬鹿にされているようで不愉快です」

「あ、はい」

 またも《はい、はい》と言いかけて口中でごまかした。

「静馬どの! このわたくしの話をしかと聞いておるのですか」

 お熊の声が一段と高くなった。垂れ気味な目が吊り上がっている。

(また始まったか)

 ひとたび激昂するとすぐには収まらない。隣では世吉が、噴き出すのを我慢しながら、うつむいて肩をぶるぶる震わせている。

(あれは?)

 ふと目をやった床の上に古びた守り袋が落ちていた。

「やや、これはいかん」

 すっくと立ち上がって金糸銀糸も鮮やかな守り袋を拾い上げた。古さが得も言われぬ味わいに変じているまさに逸品である。利之進の持ち物に違いなかった。

「まだ遠くには行っておられまい。追って参ります」

 これ幸いと稽古着のまま逃げ出した。

「これ、静馬どの! 待ちなさい! 卑怯者!」

「まあ、まあ、女先生、このくらいで堪忍したらはったらどないだす」

 お熊の罵声と世吉のとりなす声を後方に聞き流しながら、いまにも倒壊しそうな冠木門をくぐって外に出た。

 町家の間の細い道を抜けて表通りまで出たとき、

「今からお出掛けですか?」

 紅屋の店先から鈴を転がすような麗しい声が聞こえてきた。お熊の低い声とは大違いな高声が耳に心地よかった。

 紅屋では、紅花を煉り固めてつくった紅を、貝殻や焼き物の小皿に塗りつけて売っている。貝殻に紅を塗る手を休めた娘が、静馬に向かって微笑んでいた。

「お、お八重どの……」

 お八重のほうに身体を向けぬまま立ち止まって、

「少し急な用を思い出しましたもので……」

 どぎまぎしながら返答した。

「それはご苦労さまでございますねえ」

 客商売ゆえ愛想良く笑っているものの、稽古着のままあたふたと外出する静馬を不審に思っているに違いない。そう思うだけで頬がかっと熱くなった。

 表の庇に吊られた紅染の小旗が、艶めかしく風に揺れている。

 お八重の顔をまともに見られない。目線をずらしながら、爽やかな笑みを作って投げかけるのがせいぜいだった。

「今日はおとっつぁんの具合が悪いので、楊枝屋の手伝いには行かず、一日、家にいたのですよ」

 お八重は浅草観音の参道沿いにある楊枝屋で、歯を磨くための楊枝や歯磨粉、歯を黒く染めるための五倍子、鳩の豆などを売っている娘だった。

 楊枝屋は紅屋の主の兄が営んでいる、床店と呼ばれる簡易な造りの店だった。今日は看板娘がいないため売り上げがさっぱりに違いなかった。

 蟻通家で使う房楊枝は静馬が自作している。房楊枝を買い求めることはなかったが、歯磨粉は、必ずお八重の店から買うことにしていた。

 お八重は看板娘だけあって身綺麗で愛嬌があった。

(お熊どのと同い年なのにえらく違うものだ)

 小柄で細腰で、ほどよい色気が、物腰、言葉の端々からほのかに漂ってくる。客が大勢やってくるにもかかわらず身持ちが堅いところも好ましかった。

 とびきりの笑顔を見せたいが、いつも妙に動悸が早まって顔が強張ってしまう。

(まだまだ笑顔の修業が足らぬな)

 お八重と顔を合わすたびに己の至らなさを思い知らされる静馬だった。

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