第3話

 もう既に3回受けておいて今更だが、製図の講義にもう一つ嫌なことが発覚した。時間帯が昼過ぎの1番太陽が昇るという事もあってもろに日差しが俺を射抜いて来る。それだけなら眩しいで済むのだが、どういう訳だかこの製図部屋にはエアコンが無い。正確には併設されている奥の部屋にはついているが、冷気など微塵も感じられない。

 そのせいで連日続く暑い暑い夏の空気に加えて、この光線。先程から汗がダラダラと垂れて既に製図用紙に染み込んでしまっている。ここを消しゴムで擦ると穴が空いてしまうため、濡れた箇所は実質的に一発勝負の添削不可状態へとなってしまう。

 そんな最悪な状態に加えてこの面倒な設計。ホントに頭がどうかしてしまいそうだった。


「お願いします」


 渡部が待つ部屋は驚くほど涼しかった。肌に張り付いた汗が多い分、気化熱で最早寒い程だ。

 出来上がった製図を見るなり溜息を吐かれる。目元が痙攣し始めるのを感じた。


「なぁ、これ何?」

 

 指さされた箇所を俺も覗く。特に間違いらしい間違いは見当たらない。


「…どこでしょうか」

「よく見ろよ、こーこ」


 再度凝視するが、そこにはただ矢印が書いてあるだけだ。


「…すみません、何か間違ってますか?」

「ここだよ端末記号。しっかり寸法線に繋げなよ…」


 改めて再々度見る。どこからどう見ても繋がっており濃さも完璧。いちゃもんと言う他ない。


「他にもここ。やたらうっすい字だし…小せぇし」


 いや、ただのクレームか。


「添削ありがとうございます」


 感謝の言葉を吐き捨てる様に言い、用紙を受け取った。


 席に戻り、改めてばつ印が付けられた箇所を見る。全くもって分からない。理解が出来なかった。製図的には何の問題もないはず。明らかな冷遇だった。

 しかしこれが講師である渡部が出した結論なのだから受け止める他ない。別に指摘した所で、50数年恐らく碌な事に使われて来なかった脳味噌から捻くり出された反論に屈するだけ。何か言って評価を変えてもらっても、周りから贔屓と言われればそれはそれで面倒くさい。

 ならばもう潔く過ちを認めて切り替えるしかない。


 雑念を掻き消すように消しゴムで指摘された箇所を消していく。擦る度に自分の時間をかけたものがふいになっていく喪失感が広がっていく上、時々紙が折れ曲がりぐちゃぐちゃになるのが余計に苛々を募らせていく。


 そんな行き場はハッキリしているのにぶつけられない憤りに苛まれている修正の途中だった。

 ふと俺は一つ純粋な疑問が湧き上がってくるのを感じた。


『ありがとうございます』


 自分が先程口にした言葉。評価基準よりわからない事。

 渡部に関してはあれが仕事なのだろう?丹精込めて作り上げた作品の批評を、暇潰し程度にしか思ってない奴に、感謝をしなければならない義理など一切ないじゃないか。

 単位の為の教師受け?人間的な礼儀?自己満足?何の為にこんな奴を敬わなければいけないのか。


 よく考える必要も無い。こんなのは踏ん反りながら、鼻唄を歌っても思いつく様なことだ


 なぜ俺は今まで気を遣っていたのか。自身を卑下し、敬っていたのか。自分よりも知見があるのは年上なのだから当たり前だろう。そんな長らく生きてきた知識を鬱憤を晴らすために使う人間に敬意を払う意味など毛頭ない。

 

 あぁ馬鹿馬鹿しい。なんて愚かだったんだ。

 義務でもない上、疲れる事をわざわざやる必要など無いじゃないか。


 なら、これからはもうやめるべきなんだろうか?


 折り合いをつけれる事も出来ず、かと言って製図に集中することも叶わず。

 その日提出時の出来具合はいつもより数段悪く見えた。





「おっ、おはよー勢弥くん」

「おはようございます佐々山さん」


 その日の夜、バイト先に行くといつもの様に佐々山がいた。ホールを見る限り客は極端に少ない為、今日は発注作業などの事務を手伝っているのだろうか。エクセルに何かを打ち込んでいた。


「今日は佐々山さんバックですか?」

「んー店長が最近忙しくて手が回ってないからさ。オーダーもまぁ捌けるし、それなら空いた時間で手伝おうかなって」

「ああ、そういう…」


 気の抜けた返事が溢れる。もはや善行に勤しむ事が佐々山の中では癖になっているんだろう。今更変だとは思わない。

 着替えて名札を付けて、身嗜みを確認しているとベルが鳴った。9番テーブルから注文が入ったようだ。


「すみませんオーダー行ってきますね」

「あ、勢弥くんちょっと待って。私が行くから大丈夫」


 ホールに出ようとしたとき、佐々山が俺を引き留めた。


「いやでも、佐々山さんそっちの作業とかもあるじゃないですか」

「まぁこっちは最悪USBに移して家にでもやればいいよ。大丈夫大丈夫」

「それでも任せっきりなのも悪いのでいいですよ」

「任せっきりなのはお互い様だよー。だから大丈夫」


 そう言って佐々山は俺の肩を叩きながらそのままホールへと出ていってしまった。話の切り上げ方が何処となく強引だったので、いつもの佐々山らしくないと思った。


 他人に借りを作ることを厭う俺にとってあまり芳しい事では無かったが、倦怠そのものとも言える業務を佐々山自己満足でやるというのだから、意固地に働く理由も無い。あれは彼女の意思でやっているのだから任せてしまっても問題はない事だ。


 とは言っても唯一のやる事が無くなってしまったのは少々深刻だ。


 こういう暇な時は大概季節限定の新商品が入っていたりするので、メニューを読みながら配膳位置などを覚えたりするのだが、今の時期はそれすらも無い。客もパソコンをいじるサラリーマン、淡々と勉強をする眼鏡をかけた学生など恐らく退店するのはかなり先になる様な人間ばかり。

 更には新規に来る客もいない為出入りの音すら鳴る気配は無い。調理器具のメンテナンスも、厨房の薪浦に先を越されてしまっている。


 ホントに暇だ。


 仕方が無いので、先程キッチンで洗われていたリセット用に使うトレーでも消毒するか、と呑気に考えていたとき


「上を出せよ!上を!」


 劈くような怒号が耳に入った。

 ホールからだ。


 カウンターから顔を覗かせると、窓際のテーブル横にいる中年の男に佐々山が頭を何度も下げているのが見えた。何かを話している様だったがこちらからは一方通行の会話、要するに男の罵詈雑言しか聴こえてこないという事だ。

 

 暫くして、罵り言葉は徐々に波が引いていく様に鎮まり、佐々山は深々と一礼をしてその場を後にした。


「いやー、まいったまいった」


 帰ってきた彼女の表情は想像とは大分違って、思いの外明るかった。


「…クレームですか?」

「あー…ライトミールに夏野菜盛りパスタってあるじゃん?アレの中のナスだけ除いてくれって言われて。ほら、あれって袋に具材そのまま詰まってるから、ちょっとそれは出来ないって伝えたあと、今度はカルボナーラでいいから、キノコ抜いてくれって言われて…で、あんな感じ」


 パスタ系は具材がソースと初めから混ざった状態で保存されているので、取り除くのは無理だ。要するに今回はタチの悪いクレームだという事なわけだが…


「あの客、いつぐらいに来たんですか?」

「んー…18時の半ばくらいだったかな?最初は水だけ飲みながら、新聞読んでたけどね」


佐々山の今日のシフトは18時から。丁度ホール担当の主婦と交替するタイミングでシフトが組まれている。


「ま、しょげてても仕方ないし、出来ない事は出来ないって伝えれたから多分大丈夫だとは思うけどね。一応次呼ばれたら私が行くよ」

「あの…佐々山。一応なんですけど、聞いていいですか?」

「んー?どうしたの?」

「分かってたんですよね。あの客がクレーマーって」

「ん?」


 屈託の無い表情を浮かべる佐々山。

 いや、作っているのだろう。


「あの客がクレーマーってわかってたから、俺に接客をさせない様にしたんですか?」


 俺の問いに佐々山は何も言わなかった。ただ微笑んでいるだけだ。いや、微笑みというか、口角を無理矢理あげているだけに見える。

 男がいる9番席を見ると、テーブルにはコーヒー用のカップが3つ置かれているのを他所に、脚を通路にはみ出しながら新聞を読み続けていた。


「あの入口付近の席に座ってる学生、普段は絶対窓際の席を使うんですよ。気分転換に窓を眺めていたりする所度々見るので。でも今日はその席ではなく、離れた喫煙席側の仕切り板の近くにいる。恐らくあの客の新聞を捲る音が鬱陶しいからでしょうね」

「…そうなんだ。私はあんまり客の事は覚えないから分かんないな」


 佐々山は言葉を濁しながら作り笑顔を浮かべる。そんな彼女を見て、俺は哀れだと思った。

それと共にある事を思いつく。


「次、9番には俺が行くので大丈夫ですよ」


 自分の中での価値観が切り替わる瞬間に、今俺は相まみえているのかもしれない。




「お待たせしました、ふんわりまろやかチーズのカルボナーラになります」


 9番席に注文された料理を男の目の前に置く。10分以上費やしてキノコを除けたというのに、男からのリアクションは無い。そのまま新聞を読み続けるだけだ。

 特に何事もなく俺はその場を後にした。恐らくこの手の輩が次何をしてくるかは分かりきっている。

 1分も経たないうちに、店内にベルが鳴り響く。どこからの要求かは最早分かりきっている。

 ホールに出ようとすると妙に背後から視線を感じた。振り返ると、佐々山がこちらを見ていた。先程より表情が強張っているのは多分気のせいだろう。

 親指だけ立てておき、俺は9番席に向かった。


「お客様、どうされましたか?」

 

 男の顔は、まるで生ゴミを見つめるかの如く歪んでいた。


「このパスタ、このブラックペッパーかけたのどいつだよ」

「この…上の部分でしょうか?でしたら、私はの調理担当になりますが」


 そういうと男は、暫く俺を睨み付ける様に眺めた後、溜息を吹きかける様に吐いた。


「これの商品名、言ってみろ」

「えと…ふんわりまろやかチーズの…」

「もっと大きな声で!」


 怒気を含めた要求。なるほど、先程のは"品定め"だったわけだ。

 雰囲気や話し方で実力行使が使えるかどうかを判断している。


「ふんわりまろやかチーズのカルボナーラですね」

「ふーん。で、これのどこがまろやかなんだよ?え?」


 男はカルボナーラをフォークに巻き付けながら、実につまらなさそうに言う。


「お味の方がお気に召さなかった、という事でしょうか?」

「味じゃねぇよ。味はいいのに調味料のせいで最悪になったんだ」

「そういう事でしたか。誠に…」

「あーいい」


 謝罪をしようとしたとき、男はぶっきらぼうな言葉で遮った。鬱陶しさを感じているのを全面に出している。この男には「それ」が欠けているのが明白だった。


「どうせこういう時のマニュアルあるんだろ?お前みたいなのはな、顔見てれば"取り敢えず謝っとこ〜"みたいな気持ちが見え透いて分かるんだよ」

「そうでしたか、それは失礼しました」

「だからもっと意味のあること話せ」

「意味のある事、というのは?」

「あ?」


 その一声で場の空気が重たいモノへと変わる。奥のサラリーマンがこちらを訝しげに見ている。さっさと収集つけなければ。


「どう考えても一つしかねぇだろ。無償だよ、無償。…ったく、今時のバイトってこんな単純なこともわかんねぇのかよ」

「無償、ですか」

「そうだよ。はっきり言って詐欺だろこんなの。ふんわりってのは許容してやるけど、まろやかってなんだよ。え?どこがこれのまろやかなんだよ!言ってみろよ!」


 捲し立てたのち、男は机裏を膝で蹴り上げる。カップからコーヒーが溢れた。


「…誠に申し訳ございません。それではまずこちらの商品を回収させて頂きまして、改めて作り直させて頂きますのて…」

「あーこれは置きっぱなしでいいわ。どうせ捨てちまうんだろ?ならこっちで処理してやる。んで、それよりも俺が求めているのは無償化な。新しいのをタダで食べさせろって話。俺はまろやかなカルボナーラを食べに来たんだ。それをお前の味付けで台無しにしたんだから、こんくらい当然だろ」


 なるほど、1皿目を回収させず、更にもう1皿只食いを要求する事で無料で2皿食べられるということか。素晴らしい策略だ。


「つまり、お客様は“料理の方が見本と大きな差異があった"という点で料金を支払わない…という事でよろしいでしょうか」

「あぁそうだ。当然の権利だろ」

「なるほど、そういう事でしたか。では、今回の方は無償という事で大丈夫です」


 そう伝えると男から不機嫌そうな表情が一変、ニヤついた薄気味悪い笑みを浮かべた。対象的に、奥のサラリーマンは露骨に残念そうな顔をした。


「やっとかよ。こんくらいもっとパパッとやらないとバイトリーダーになれねぇぞ?え?」

「これからは善処していく所存でございます。それではお客様、2皿食べるという事で大丈夫でしょうか?」

「ちげぇよ、1皿は"処理"だ。食うんじゃない」

「あっ、失礼致しました。それでは、1皿新規にこちらに提供致しますので少々お待ち下さい。それと…この度の不手際、大変申し訳ございませんでした」

「分かりゃいいわ。じゃ早よ持ってきて」

「かしこまりました。ではすみません、伝票の方を回収致しますね」


 深々と一礼をして顔を上げる頃には、男はこスマホを弄り始めた。

 俺はキッチンに一度戻ると、ハンディから出てきたものと元伝票をホチキスで止める。そして再度9番席へと向かった。



「すみません、こちら修正済みの伝票になります。ご確認下さい」

「あーはいはい。これなら初めっから……は?」


 素っ頓狂な声が男から鳴る。


「2200円って、これ記録上だよな?名目は…」

「いえ、そちらが正規の料金になります」

「は?お前さっき自分でタダでいいっつっただろうが」

「はい」


「ならこれどういう事だよ!あぁ!?」



 男は立ち上がると床に伝票を思いっきり叩きつけた。伝票はそのままどこかへ飛んで行った。

 その顔は赤らめ、生え際部分には血管が浮き出ていた。そもそも髪が少ないので生え際部分が頂点近くなのだが。


「ええ。当店ではこちらの不手際により、何か食事に支障が出た場合、支払い料金の免除などの処置を取らせて頂いております」

「ならなんで」

「"ルールを守るお客様"、に限ってです」

「ルールって…は?」


 その言葉に男は顔を歪ませた。


「お客様、申し訳ございませんが、そちらの鞄の中身の方をお見せしてもらってもよろしいでしょうか?」

「…なんでだよ。別に何も関係はないだろ」

「いえ、一応の確認です。もしかすれば関係のあるものが入っているかもしれないので」

「……いや、断る。別に義務じゃない。見せる義理もない。大体、客に対して要望するとか、お前は何の権限があって俺に言ってるんだ!」


 この後に及んでコイツから反抗の意思が消えないのは最早尊敬に値する。謙るだけ謙っておこう。


「そうですね、確かにそうでした」

「だったら早く料理持ってこいよ!チンタラしやがってよ」

「かしこまりました。それとお客様…」

「あ?」

「1週間前の新聞を何度も何度も読むのは楽しいですか?」


 その一言に男の表情が明らかに焦燥へと変わった。得られる結果と快感の質には大きな差があるだろうが、何故佐々山が面倒事を引き受けるのか少し理解できたかもしれない。


「なんだよ…それが…」

「当店は全席禁煙、というのはご存知でしょう。入口と各席のテーブル、それと最初に対応した店員にも食事前に伝えられている筈ですが」

「……んだよ。俺がタバコ吸ったっていいてぇのか?え?」

「いいえ、タバコではないですよね。吸っていらっしゃるのは」


 先程までの猛獣の様な勢いはどこへ行ってしまったのか。男の表情に更に焦りが足されていく。もうコイツには"そうする"必要が無いので、後は適当に敬語を織り交ぜればいいだけだ。


「タバコであれば、万が一火災報知器が作動してしまうかもしれない上、匂いも恐らくこのコーヒー3杯程度では隠せない。煙も出てしまいますしね。ですが、電子葉巻であれば匂いも極力抑えられる上、煙も出ない」

「んなこと…」

「通路側に新聞を向けることに集中し過ぎていて、ガラスに映る自身の姿には目が行かなかったようですね。反射している所はバッチリ監視カメラで捉えています。…もっとも、先程外ののぼり旗回収に出向いた際にはもっとハッキリと見えましたが」

 

 男は目を泳がせながらどうにか反論に持ち込もうとしていたが、それも俺の追撃により失敗したらしい。今では歯を食いしばって睨みつけている。


「通る度に頻りに新聞を捲っていらっしゃいましたが…あまりにも早すぎましたね。当店にも入口横には雑誌類がありますが、1週間前の新聞は流石に置いてはおけません。それに、その新聞は私が先週末に裏口付近に出しておきましたので流石に覚えているんですよ。折角結んだ筈の新聞類が散らばっていたので回収が大変でした。…まぁなので今度からはもう少し初面が特徴的ではなく、油汚れがついていないモノを選ぶのをお勧めしておきますよ」


 言い分を言い切り、男に会話の主導権を委ねる。


「そ…それが…それ、なんだよ。だからなんなんだよ。俺が、吸ってたからなんなんだよ…」


 が、辿々しい口調で言葉を並べるだけの様だ。


「料理に何か不手際があるのであれば、私から再度謝罪致します。ですが、ご自身はルールを守らないことはおろか、やってはいけないと自覚しながらもそれを行い、更には自身の要求を通そうと駄々を捏ねる。無理がありますよね?」

「…っ」

「このままご退店されるか、2皿…或いは1皿の料金を支払われるかお選びください。店のルールに従えない場合や、他のお客様の迷惑となる場合、最悪の場合には警察を呼ばせて頂く事になります」


 金を払うなどコイツの捻じ曲がったプライドが許すわけがない。男は怒りに震えながら俺に視線をぶつける。そんな事をしたところで、別に状況が好転しない事くらいお前も分かってるだろ。自分がした事と同じ様なことを今俺もしているんだから。


 男は俺に視線を合わせず、貧乏揺すりをしながら考えている。もっとも、ここでの"考える"というのは手を出すか出さないかの判断だろう。


「………チッ」


 どうやら結論は出たらしい。自分の残った自尊心の搾りカスを優先する事にしたようだ。そうした方が客観的に見てもまだ面目は付くだろう。

 敢えて聞こえる様に男は舌打ちをしてバッグを肩に掛け、俺を押し除ける様にして店の外へ出ていった。





「あ、お疲れ様です。佐々山さん」


 店の敷地内の自販機近くで、友人から届いたくだらないメールの対処をしているとき佐々山が裏口から出てきた。


「あ、うん…お疲れ様、勢弥くん」


 そう話す佐々山声のトーンはの若干ではあるが普段よりも低かった。あの後、俺は事の顛末を話したが、それ以降の時間佐々山は浮かない顔をしている。


「今日は災難でしたね。気にすることは無いと思いますよ。明日も自分はシフト入ってるので店長に状況説明の方しておきますので」

「あー…うん、ありがとね」


 男が退店したあと、オーダーの記録が一応残ってしまっているので、会計修正などの記入をした。

 遠回りになったが、結果的にはあの男のおかげで俺は残りの時間を退屈せずに済んだので、多少は感謝している。塵にも満たない感謝を。


「…ああいう対応ってさ、結構難しいんだよね。客の都合と店の都合どっちを優先するかって二極の選択に大体行きついちゃうからさ」

「まぁそうですね。大体は店側の都合を捨てる事になりますけど、今回みたいに端からああいう事が目的であれば、客側の落ち度を探す所から始まります。普通に胸糞悪いんで」

「後ろから見てて不安だったよ…。殴られたりしないかなって…無事で良かったよ、ホントに」


 佐々山は胸に手を当てながら息を吐いた。実際これで怪我でもすれば労災として認められるのか、などと一応考えてはいた。


「殴られたりしたら逆によかったですよ。決定的な証拠が残るので」

「そりゃ…記録上は"客の暴力"とかで残るかもしれないよ?ただ、それだと店にとってはクレームでトラブルが起きた店〜とかってレッテルは貼られて、勢弥君は結局殴られ損だよ。今回は何とか丸めこめてくれたから良かったけど…」

「ああ、仮に殴られても大丈夫ですよ。クレーマーと話していた時、後ろの席の学生の子のスマホが録画状態になってるのがチラッと見えたので。あの男が何か悪評を書いてもあの学生がカウンターの動画をSNSかどっかにアップすると思いますよ」

「……そう、なんだ」


あの学生もメシうまな動画が撮れたのか、事情を説明したときやたら上機嫌だった。あの調子でどうか受験勉強に励んでほしい。


「でも申し訳ないな。なんか」


 佐々山は哀しげに呟いた。


「…何がですか?」

「あのお客さんがクレーマーっていうのは大体察してはいたんだ。でも結局私は何にもしなかったなって」

「そんな事無いですよ。結局は初動が大事ですからね。あの客がボロを出す様な状況を作ってくれた佐々山さんに俺は感謝しますよ」

「感謝なんて……でも、勢弥君はどうして引き受けたの?別に私に任せても副店長呼ぶでもできたのに」

「ああ、それは……もう遣う必要が無いって思ったからですよ」

「"つかう"?」


 佐々山は首を大袈裟に傾げた。


「あぁ、気を遣う必要が無いって事ですよ。向こうが敬語で話していれば、ほんの少し勝手は違ったんでしょうけど…あんな性根の腐った奴になら、気遣いする必要が無いですからね」

「ああーなるほどね。いやぁちょっと羨ましいや」

「羨ましい…というと?」

「んーいやいやなんでも無いよ。それよりもさ、1つ聞きたいことがあるんだけど。いいかな?」

「別に…いいですけど」


 そう答えると、佐々山は歩みを止めて振り返った。


「勢弥君は今、気遣ってたりする?」

「……いえ?」

「ならさ、週末ちょっと時間くれない?」





 

 

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