とある脱獄囚のやったこと~黒い鳥~

板倉恭司

とある母子と、ルポライター

 必然たりえない偶然はない、というセリフを聞いたことがある。出典元は何だったか、もう忘れてしまったが……この奇妙な事件を言い表すには、実に相応しい言葉だろう。もしも、あの日、あの時、あの場所に彼がいなかったら、果たしてどのような顛末を迎えていたのだろう──

 



 松村夏帆マツムラ カホは、娘のシオリと一緒に散歩をしていた。時刻は昼の十一時であり、とてもいい天気だ。上から降り注ぐ陽射しが、実に心地好い。

 二人の歩いている道の端には、大小さまざまな種類の木が生えている。風が吹くたびに、枝や葉が微かな音を立てていた。それ以外の音は、夏帆の耳には聞こえて来なかった。車は通っておらず、他人の姿も見えない。今、この道を歩いているのは、夏帆と栞の二人だけだ。

 不意に、栞が足を止めた。左手を上げ、前方を指差す。その瞳からは、溢れんばかりの好奇心が感じられた。

 そちらを見ると、小さな毛むくじゃらの生き物が茂みより顔を出した。素早い動きで、目の前の道をサササと横切っていく。あっという間に道路を渡り、茂みの中に姿を消した。

 栞は顔を上げ、母を見つめる。直後、両手で握りこぶしを作ると、おどけた表情で軽く腹を叩いて見せる。

 それを見て、夏帆は微笑んだ。娘は手話で、タヌキさん、と伝えているのだ。本当に可愛らしい仕種である。こちらも、同じく手話で返した。そうね、よく出来ました……と。

 栞も、ニッコリ笑う。褒められたのが嬉しかったのだろう。さらに続けて、手話で何かを伝えようとする。

 だが次の瞬間、その笑顔が硬直した。手の動きも止まる。もともと大きな瞳をさらに見開きながら、夏帆の後ろにいるものを見つめている。直後、笑顔は恐怖の表情へと変わった。

 いったい何事が起きたのだろうか。夏帆は、さっと振り向いた。その途端、娘の手を引いて後ずさる。


 彼女の目の前には、ひとりの青年が立っていた。見た感じの年齢は、二十代の半ばだろうか。髪は長めで、中肉中背の体を安物のスーツで包み込んでいる。顔立ちは悪くないが表情には締まりがなく、全体的に軽薄そうな雰囲気を漂わせている。田舎の繁華街に潜む風俗店の客引きか、客を掴めずクビを切られる寸前の売れないホスト……といった雰囲気だ。

 夏帆は、青年を鋭い目で睨みつけた。この男、どこから湧いて出たのだろうか。そもそも、ここ白土市シラトシは四方を山に囲まれた田舎町である。有名な観光スポットがあるわけでもないし、交通の便も良くない。特に、夏帆と栞が住んでいる地域は、人間よりも野生動物と遭遇する確率の方が高いくらいだ。

 そんな場所で、この見るからに軽そうな男は何をしているのだろうか。明らかに場違いである。

 いや、それ以前に……いつから、二人の後を付いて来ていたのだろう。この距離まで近づかれていたのに、夏帆は彼の気配に気付かなかった。

 彼女は、他人の気配には敏感なはずなのだが。


「どうも、はじめまして。僕は、怪しい者ではありません。フリーのルポライターをしている今川勇三イマカワ ユウゾウという者です。どうぞ、よろしくお願いします」


 青年は、貴族のごとき恭しい態度で頭を下げる。そのふざけた態度に、夏帆は口元を歪めた。同時に、ポケットからスマホを取り出す。いつでも警察を呼べるぞ、という一種の威嚇である。

 だが、青年に怯む気配はない。


「ところで……申し訳ないですが、ちょっとお時間をいただけますか? いろいろお話ししたいこともありまして」


 今川と名乗った青年は、へらへらした態度で聞いてきた。その軽薄さと失礼さに不快なものを感じ、夏帆は眉間に皺を寄せる。


「あのう、いきなり来られても困るんですよ。あなたのような人に、あげる時間はありません」


 言い放った夏帆。その顔には、今川と名乗る青年に対する露骨な敵意が浮かんでいる。しかし、今川に怯む気配はない。へらへら笑いながら、すまなそうに頭を掻いた。


「まあまあ、そんなに怒らないでくださいよ。それにしても、噂には聞いていましたが……あなた、本当に綺麗ですね。女優顔負けの美しさだ。その怒った顔も、実に素敵ですよ。こりゃあ、島田義人シマダ ヨシトでなくても、連れ出したくなるわけですねえ」


 今川の言葉に、夏帆はビクリと反応する。その名前は、聞きたくない。

 特に、こんなバカ男の口からは。


 ・・・


 島田義人という男は、二ヶ月ほど前、その名を全国に知らしめた。

 彼は幼い頃に交通事故で両親を亡くし、養護施設『人間学園』で育てられる。だが、当時から手のつけられない凶暴性を発揮していた。中学年になったばかりの時、施設の職員を刺殺した挙げ句、少年院へと入れられる。

 だが、その少年院でも問題児ぶりを発揮していた。やがて施設を出ると、本格的な犯罪者への道を歩み始める。




 二十五歳の時、島田は閉店後のスーパーに侵入した。そこで、残業をしていた店員をバールで脅し、金庫を開けさせ現金を奪う。さらに、店員を縛り上げて逃走した。

 警察の捜査により、島田は数日後に逮捕された。強盗と暴行の罪により裁判で八年の刑を宣告され、刑務所へと送られる。

 ところが一年後、島田は刑務所を脱獄した。山の中を逃げ回った末に民家に押し入り、世帯主である松村広志マツムラ ヒロシを撲殺したのだ。

 さらに広志の妻である夏帆と、娘の栞の二人を脅しつけ、人質として連れ出した。この時に、広志の所有していた猟銃と数十発の弾丸、そして数十万円の現金を持ち出している。しかも、たまたま訪れた制服警官二名を猟銃で脅し、手錠で繋ぎ室内に転がしたのだ。

 その後、島田は夏帆と栞を連れて市内を車で移動した。数日の間、母と娘を連れ回した後、廃墟と化した旅館跡に逃げ込む。だが警官に発見され、その廃墟に立て篭もることとなった。

 警官隊と島田との、息詰まるような攻防……しかし刑事たちの必死の説得により、人質は解放された。

 やがて、島田も立て篭もっていた廃墟より姿を現す。その顔には、とても穏やかな表情が浮かんでいた。このまま投降するのか……と思われた矢先、彼は豹変する。


「では、要求を言うぞ……くたばれクズ野郎どもが! ヒャッハー!」


 こんなことを喚きながら、島田は猟銃を乱射し出したのだ。周囲にはテレビやマスコミの関係者もいたが、この状況に騒然となる。銃を乱射する島田の姿はテレビで生中継され、一瞬にして抗議の電話が殺到する。現場の指揮を取っていた刑事は、やむを得ず発砲を許可した。

 直後、待機していた狙撃手の銃弾が島田の眉間を貫く。彼は、即死した。

 世間を大いに騒がせた凶悪事件は、被疑者死亡という最悪の形で幕を閉じる。


 ・・・


 このニュースは当時、世間の注目を一手に集めていた。なにせ、犯人は刑務所を脱獄した後、住居侵入に強盗殺人という罪を重ね、その後に猟銃を奪い人質を取り逃走したのだ。

 さらに、廃墟に立て篭もり猟銃を乱射した挙げ句に、狙撃手により射殺である。まるで、B級アクション映画のような終わり方だ。大衆の好奇心を刺激するには、充分すぎる内容であった。

 事件の報道により、夏帆はちょっとした有名人になった。ワイドショーを始めとするマスコミの関係者が、次々に取材を申し込んで来た。しかし、彼女は全て断った。


「事件のことは思い出したくありません。放っておいてください」


 夏帆はマスコミの各社にそう宣言し、後は全てシャットアウトした。

 ところが、世間は彼女を放っておいてくれない。自宅には、連日マスコミの関係者が推しかける。しまいには、ネットで「あの女は、島田の肉奴隷にされていた」などと誹謗中傷されるようになってしまった。夏帆は耐え切れなくなり、栞とともに静かな田舎町である白土市へと移り住んだ。

 やがて、事件から二ヶ月が過ぎた。その間、有名ミュージシャンが麻薬の使用所持で逮捕された。また有名俳優の不倫が発覚し、さらに大物芸人と広域指定暴力団幹部の交際がすっぱ抜かれる。

 僅かな期間に連続して起きた数々のスキャンダルにより、世間は島田の起こした立て篭もり事件を忘れた。もちろん、夏帆のことも綺麗さっぱり忘れた。。それに伴い、マスコミの関心も彼女からは離れている……はずだった。

 まさか、今になってもしつこく追いかけて来る者がいようとは。さすがに想定外であった。


「あなたは、本当に失礼な人ですね。あの事件のことは、全て警察にお話しました。マスコミの取材も、全て断っています。あなたからの取材も、受ける気はありません。いい加減にしないと、警察を呼びますよ」


 夏帆は、冷たい口調で言い放った。同時に、威嚇するような目で睨みつける。こんな男に、この先も身の回りをうろちょろされたら困るのだ。はっきりと拒絶しなくては、この手の人間はわからない。場合によっては、今すぐ警察を呼ぶ。

 ところが、今川に引く気配はなかった。軽薄きわまりない態度で、ポリポリと頭を掻いてみせる。


「いやあ、つれないですね。まあ、そこもあなたの魅力ですよ。ところで、あの事件ですがね、どうも妙なんです。島田が脱獄してから、あなたの家を襲撃するまでの行動が、実にあやふやなんですな。警察の発表も、非常に曖昧で話にならないんです。そもそも、彼は何がしたかったんでしょうね? 脱獄して二人の人質を連れ市内を逃げ回った挙げ句に、警官隊に向かい猟銃を乱射し射殺。こんなアホなオチは、ご都合主義のネット小説でもなかなかお目にかかれませんよ」


 飄々ひょうひょうとした態度で、今川は言ってのけた。


「そんなことは知りませんし、興味もありません。それに、事件のことは思い出したくないんです。さっさと帰ってください」


 夏帆の表情は険しい。その全身で、お前に話すことはないという意思を伝えている。

 すると今川は、そうかそうか……とでも言いたげに頷いた。


「なるほど、知らぬ存ぜぬで最後まで押し通そう、というわけですか。警察の発表と同じですね。でも、僕には通用しないんですよ」


 直後、今川の態度が一変した。へらへらした雰囲気が、一瞬にして消える。射るような視線を向けながら、口元に不気味な笑みを浮かべた。

 夏帆は異様なものを感じながらも、必死の形相で言い返した。


「いい加減にしてください! 私には、もう関係ないんです! 帰らないと警察呼びますよ!」


 彼女が怒鳴った直後、栞が怯えた表情で母に抱きついてきた。夏帆は、慌ててしゃがみ込む。


「怖がらせてごめんね。大丈夫だよ、ママ怒ってないから……すぐに、おうち帰ろうね」


 娘を抱きしめ頭を撫でながら、優しく語りかける。栞は耳が聞こえないが、言わんとすることは伝わっているはずだ。

 だが栞は、今も体を震わせている。怯えた目は、今川へと向けられていた。この子は、もともと人見知りな性格である。家に知らない人が来ると、隠れてしまうのであるが……この怖がり方は尋常ではない。

 すると、今川は苦笑しながらペコペコ頭を下げる。


「いやあ、怖がらせてしまったようですね。申し訳ないです。どうも生れつき、子供と動物には好かれない性質たちなんですよね。ごめんね栞ちゃん……では後日、また改めて連絡しますので──」


「はあ? 連絡なんかしないでください! 話すことはないって言ってるでしょ! やめてください!」


 またしても、夏帆は怒鳴りつけた。すると、今川は困った表情で首を横に振ってみせる。


「あー、いやいや、違うんですよ。誤解させてしまったようですね。申し訳ありません。僕の方が、あなたに話を聞いて欲しいんですよ」


「えっ? 話?」


 予想外の言葉に、夏帆の表情が固まる。目の前にいる男は、何を話したいというのだろう。


「いえね、実を言いますと、僕は以前に島田義人に取材したことがあるんですね。気は荒く不器用だが真っすぐな奴、という印象を受けました。少なくとも、世間で言われているような最低最悪の極悪人……というイメージとは、だいぶかけ離れていました。そんな彼が、何故あんなことをしでかしたのか? これは、実に興味深い話ですね。なので、これから彼の半生を調べてみるつもりです。ついでに、事件のこともね。あなただって、あいつが本当はどんな人間だったか知りたいでしょう?」


「そんなこと、知りたくない」


「冷たいこと言わないでくださいよ。時間が経てば、気が変わるかも知れませんから」


 そう言うと、今川はぺこりと頭を下げた。向きを変え、すたすた歩いていく。

 だが、その歩みが止まった。


「すみません、最後にひとつだけ。島田が脱獄した奈越なごし刑務所ですが、あのあと管理体制の徹底したチェックが行われました。その過程で、思わぬ不祥事が発覚したんですよ」


「不祥事?」


 怪訝な顔をする夏帆に向かい、今川はもっともらしい表情を作り頷いてみせた。


「ええ、不祥事です。二人の刑務官が、とんでもないことをやらかしてたんですよ。立場を悪用し、特定の受刑者に便宜を図っていたそうです。いや、あれは便宜なんてものじゃないですね……受刑者同士のいじめにも、手を貸していたみたいですし。テレビやネットのニュースで、かなり大々的に放送されていたんですよ。知りませんか?」


「あ、あたしには関係ない」

 

 夏帆は、声を震わせ答えた。彼女は、明らかに動揺していた。先ほどまでの強気な態度が、完全に崩れている。

 その反応を見て、今川は真面目くさった顔でウンウン頷いた。


「確かに、この件はあなたには関係ないですね。それに、直後の芸能人スキャンダル連打で、島田の事件は世間から完全に忘れられちまいましたから。ただね、僕にとっては、あの事件はまだ終わってないんですよ。はっきり言うなら、国民はこの事件について、何も知らないんじゃないかと思います」


 言いながら、今川は不敵な笑みを浮かべる。夏帆は強い不安を感じ、思わず娘の手を握りしめて後ずさっていた。


「それにね、島田の脱獄がきっかけとなり、刑務所の不祥事が浮かび上がってきた……これは、果たして偶然なんでしょうかね。島田の半生を追えば、とても面白いネタになるんじゃないかと思うんですよ。では、失礼します」


 ぺこりと頭を下げ、今川は去って行った。





 


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