光の奥と、見えたもの


  *


「へえ、ホントに冷たく感じないんだ、これ凄いな」


 海中に潜ったクグツが背中のユニットで燐光を噴射しながら呟いた。水温は低くかなりの冷たさの筈だが、まるでぬるま湯に浸かっているかのような体感だ。隣を泳ぐムクロも同様の感想を持ったようで、その表情は柔らかい。


「本当ね。でも気を抜いちゃ駄目よ?もうターゲットは目の前だわ」


「はいはい。ムク姉に言われなくても分かってるよ」


 通信機のお陰で会話は非情にクリアな状態だ。高性能のゴーグルで視界も明瞭、更に口許に当たる防水マイクの傍からは酸素も供給されるシステムとなっている。船の備品を借りたものだが、やはり専用の物はクオリティが違うわね、とムクロは妙な所で感心を覚えた。


「……見えて来た」


 そしてクグツの緊張した声にムクロも気を引き締めた。脚に生えたファンのような骨で水を強く蹴り、より速度を上げる。視界に映る黒い影がぐんぐんと大きさを増してゆく。


「あれは……何? 尻尾、かしら?」


 うねるように泳ぐ黒い影。近付いてもそれは、塗り潰した影そのもののように真っ黒だ。さほどの水深では無いこの辺りはまだ海の明度が高く、他の魚などははっきりと鱗の輝きなどが目視出来る状況である。だと言うのに、例の影は光を反射せずただ黒いままだ。


 そして身体の末端であろう部分は平たく細くなっていた。アナゴやウツボのような生物を想起させる。海蛇というよりは、それらの海洋生物の尾びれがシュウッと細く長く伸びているという風にムクロには思える。


『聞こえますか、ムクロ嬢、クグツ君。危険が無いようならば、左右に分かれてもっと近付いてみて貰えますか』


「ラジャーだぜ、スガ兄ぃ」


「了解よ」


 通信機からスガタの指示が聞こえ、並んで泳いでいたムクロとクグツはスゥと左右に分かれた。スピードを上げて大きくうねる尻尾に触れない程度の距離まで接近する。影に目を向けると、ぼんやりとであったその身体の表面が徐々に明確になってゆく。


「何だこれ、ドロドロみたいだ」


 クグツが嫌そうな声を上げた。ムクロも顔をしかめる。影の体表は、ぬめぬめとした黒いヘドロじみた物で覆われていた。先日交戦した汚泥にまみれた蛇を思い出し、二人は嫌悪に表情を歪める。ヘドロのような黒いぬめりは分厚く、その輪郭を随分とぼやけさせていた。


『こんな物に覆われているからはっきりと姿が分からなかったんだな。ターゲットに気付かれていないようなら、もっと遡りつつ更に接近してみてはくれんか』


 別所船長の声に、やってみるわ、とムクロは更に水を強く蹴った。動きの激しい部分を越え、胴体と思しき場所に近付いた。纏ったヘドロはより濃度を増し、しかし水煮溶けている様子は無い。


「海水に溶け出してる感じは無さそうね、ゼラチンみたいにぷるぷるしているわ。……ん、近付いたら何か、透けて見えそうね」


「これ、ちらちら見えてるの、鱗じゃね?背中のこのへんから上、身体より薄くてなんか背ビレっぽいな」


「ホントね。んん、ヘドロの奥、やっぱり透けてるみたい。本体はそもそも明るい色なのかも」


 ムクロとクグツの会話を聞いていたらしきスガタが、ふうむ、と唸る声を上げた。しばしの沈黙の後、スガタからの指示が通信機を震わせる。


『確かに何かが光を受けて反射しているように見えますね。クグツ君、ちょっと光を当ててみては貰えませんか』


「よし来た! ──術式兵装水中型『ミヅチ』、第四ユニット展開、起動!」


 直ぐさまクグツがコマンドワードを発すると、新たに伸びたケーブルの先にユニットが出現する。海竜を模した蒼銀のユニットが右腕にぐるりと巻き付き、そしてぐばりとその口を開いた。


 ユニットの装着された右腕を『影』に向け、クグツが霊気の放出を開始する。白金の霊気が眩い光となって、サーチライトの如く『影』の体表を照らし出す。


『おお、凄いですね、光の当たった場所がはっきりと透けて見えます。クグツ君、もう少し近寄ってみて下さい。ムクロ嬢もクグツ君側に来てみて貰えますか?』


「了解したわ、主任」


 返答と同時、ムクロは優雅に身を翻して大きく回り込む。直径数メートルはあろうかという『影』の巨体を避け、ひらりとムクロは光の照らし出す場所へと近付いた。


「やっぱり光ってるわ。鱗じゃなさそうね、体表自体がこんな色してるのかしら。白っぽい……銀色かしら? 何だか太刀魚みたいね」


「上の方はやっぱ背ビレだな。こっちは赤い、結構綺麗な色してる」


 二人の口々の感想に、通信機の向こうからも感嘆らしき息が漏れた。そして別所船長の唸るような声で指示が飛ぶ。


『二人共、すまんが……可能であれば、そいつの顔を拝みたい。但し、無理はいかん。もし何か起こったら直ぐに離脱してくれ、海面まで上がってくれば何とか回収する』


「フラグ立てんなよ、おっさん。俺様がそんなヘマする訳ないだろ」


「やってみるわ。勿論、危険の無いようにはしたいところね」


 二人は口々に返事をすると、『影』の傍を離れて泳ぎ始める。『影』の長い身体に沿って進むムクロの耳に、スガタの呟きが聞こえた。


『先程見た体表ですが、何か……一色では無くまだらになっているようにも見えました。はっきりとは確認できませんでしたが……』


「主任、気になるようならもう一度見てみた方がいいかしら?」


『……いえ、先に別所船長の指示を優先させて下さい。じっくり見直すのはその後でも構いません』


「分かったわ。お楽しみは後に取っとく算段ね」


 そしてムクロは優雅に海中を進んでゆく。ようやくその巨体の終わりが見えてきた。二人は気付かれないよう、少し離れた海面側と海底側の二手に分かれて頭部に近付く。


「あれね、頭は」


 見下ろすムクロはそっと近付いた。相変わらず黒いヘドロに覆われた『影』の頭がはっきりと見えてくる。頭に近い部分からは背ビレが何本も長く伸び、ゆらゆらと揺れていた。


「何だコレ、こんな魚見た事無いぜ。いかにも深海魚って感じだけど」


 下から見上げたクグツが感想を漏らす。黒いゼリー状の物質に覆われてはいるが、顔の造作は何とか見分ける事が出来た。下顎が突き出した少し不思議な形状の顔に、クグツが首を捻る。


 ──その時、通信機から別所船長の驚愕の声が響いた。


『やっぱりだ、コイツはリュウグウノツカイだ……!』


  *

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