第38話 消せない痕跡

優子は、帰宅しても不安を拭うことができなかった。病院で受け取った写真を手にしたまま、震える足取りでアパートの階段を上がる。足はまだギプスに包まれており、思うように動かない。


「なんで……あんなことになったんだろう……?」


頭の中はぐちゃぐちゃだった。防犯カメラの映像に映る自分が飛び降りたという事実。だが、優子にはその記憶が一切ない。ただ“飛び降りた”という結果だけが残り、そこに至るまでの過程は闇に包まれたままだった。


「私が……飛び降りた……?」


その言葉を何度繰り返しても、現実感はなかった。


――カシャン


玄関を開けると、室内は妙にひんやりとしていた。窓を閉め切っていたはずなのに、どこからか冷たい風が入り込んでくるような感覚。


「寒い……」


部屋の奥へと進もうとしたそのとき、足元に何かが落ちていることに気づいた。


「……?」


優子は恐る恐るしゃがみ込み、それを拾い上げる。そこに落ちていたのは――またしても写真だった。


「これ……いつの間に……」


拾い上げた写真を見て、優子は言葉を失った。それはアパートの屋上から撮られた写真だった。そこには、自分が柵の向こう側に立ち、まるで何かに操られるようにして下を見下ろしている姿が写っていた。


「そんな……こんなの見たことない……!」


写真の裏には、黒いインクでまたもや奇妙な言葉が記されていた。


「ここからが本当の始まりだ。」


その瞬間、優子の体が一気に冷たくなった。恐怖と混乱が一気に押し寄せ、頭の中で何かが崩れるような音が響いた。


「ここから……始まり……?」


優子は震える手で写真を握りしめ、部屋の中を見渡した。誰もいないはずの室内なのに、どこかに視線を感じる。誰かが見ている――そんな錯覚にも似た恐怖が、彼女を支配していく。


――ギィ……


そのとき、不意にリビングのドアが勝手に開いた。


「……!」


優子は息を呑み、一歩後ずさる。だが、背後には壁しかない。逃げ場を失った彼女は、リビングの奥にある暗闇を見つめるしかなかった。


「誰かいるの……?」


返事はない。ただ冷たい空気が漂うだけだった。


勇気を振り絞ってリビングへと一歩足を踏み入れた瞬間、スマートフォンが突然震えた。


「……誰……?」


画面を確認すると、またしても不明な差出人からのメッセージが届いていた。


「見たものを信じろ。視えないものも、そこにいる。」


その言葉を見た瞬間、優子の中である記憶がかすかに蘇った。アパートの屋上で何かに囁かれたような感覚、そして視えない“何か”が自分を突き動かしていたような気配……。


「私は……操られてたの……?」


彼女は、もう一度メッセージを見つめ直した。


「視えないものも、そこにいる……」


その言葉が意味するのは、やはり自分を見張る“何か”の存在だろうか? だとすれば、その“何か”はどこにいる?


――コンコン


突然、玄関からノックの音が響いた。優子は心臓が飛び跳ねるような感覚に襲われ、震える足でゆっくりと玄関へ向かった。


「誰……?」


扉越しに声をかけても返事はない。ノックの音もそれきりだった。


意を決して扉を開けると、そこには誰もいなかった。ただ、廊下の真ん中に白い封筒が一枚落ちているだけだった。


「……何……これ……?」


封筒を拾い上げ、中を確認すると、一枚の紙と、またしても写真が入っていた。紙にはこう書かれていた。


「視えないものに近づけ。真実は闇の中に隠されている。」


優子は震えながらも写真を見た。それは、病院のベッドで眠る自分を真上から撮影したものだった。


「嘘……これ……いつ撮られたの……?」


優子の呼吸は荒くなり、頭がくらくらと揺れる。写真を握る手に力が入りすぎて、紙がぐしゃりと音を立てた。


「どうして……こんな……」


言葉を紡ごうとするたび、彼女の心はさらに追い詰められていく。


「視えないものに近づけ、だって……?」


その言葉の意味を考える余裕もない。ただ一つ確かなのは、このままでは自分が壊れてしまうということ。視えない“何か”が確実に彼女を追い詰めてきている。


優子は、写真を握りしめたままうずくまり、耳を塞いだ。どこからともなく囁き声が聞こえる気がしたが、それは幻聴かもしれない――いや、幻聴ではないのかもしれない。


「誰か……助けて……」


そう呟く彼女の声は、誰にも届かない。静寂に包まれた部屋の中で、ただ優子の小さな声だけが虚しく響いていた。


そのとき、再びスマートフォンが震え、新しいメッセージが届いた。


「視えなくても、私たちはそばにいる。」


優子は、もう限界だった。頭を抱え込み、震える声で呟いた。


「お願い……もうやめて……」


だが、耳元で誰かが囁くような声は止むことなく、彼女の心を暗闇へと引きずり込んでいった――。

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