第4話 ムカつくのに、目が合う(後半)

放課後の教室は、帰り支度をする生徒たちの声が響いていた。カバンを肩にかけ、廊下に向かう人たちを横目に、美咲はまだ自分の机に座っていた。

カバンの中には、今日の宿題と模試対策用の問題集が入っている。持って帰るかどうか、少し迷ったが、結局問題集を取り出して机に置いた。

(どうせ家に帰っても集中できないし……ここでやった方が早いか。)

教室の空気が静かになるにつれ、筆を走らせる音が心地よく響く。その音に、少しだけ落ち着きを覚える。

(今日は集中する。絶対に、やる。)

そう決めたはずなのに——

「お、まだ残ってたのか?」

背後から聞こえたその声に、ペンが止まった。

(——なんでお前がいるの!?)

振り返ると、廊下に向かおうとしていた高嶺颯真が教室の入り口に立っていた。カバンを肩にかけ、こっちを見ている。

「何してんの?」

「……勉強。」

つい素っ気なく答えてしまうが、心の中はざわざわしていた。

「家でやれば?」

「家だと集中できないの。」

軽く言い返すと、颯真は「へぇ」とだけ言ってゆっくり教室に戻ってきた。

(ちょっと待って、なんで戻ってくるの!?)

美咲が内心で焦っている間に、颯真は教室の中央付近にある自分の席へ向かい、当たり前のように椅子を引いて座った。

「……なにしてんの?」

「俺も勉強する。」

さらっと言う彼に、美咲は目を丸くした。

「家でやれば?」

「家だと集中できないんだよな。」

さっきの自分の言葉を、そのまま返された。

(は? 何それ、ただの真似じゃん!)

「そっちの席、いっぱい空いてるけど?」

「うるさいな、ここが落ち着くんだよ。」

またそのセリフ。図書室の時と同じだ。しかも今回はさらに美咲の真後ろの席に座っている。

(近い、近い、めちゃくちゃ近い!)

すぐ背中の後ろで、カリカリとペンを走らせる音がする。距離が近すぎるせいで、音がやけに耳に響く。

(気になる……!)

意識しないように問題集に目を向けるけど、後ろから聞こえる彼の筆記音が、ずっと気になってしまう。

カリカリ……カリカリ……

(静かにしろ……静かにしろ……)

——いや、そもそも静かだ。颯真は何も悪くない。
ペンの音がするのは当然だし、背中が感じる彼の気配だって、無害のはずだ。

(ただ後ろにいるだけ。ただ勉強してるだけ。)

ただそれだけのはずなのに、どうしてこんなに落ち着かないのか。

(まさか、私が“意識してる”とか、そんなことないから!)

言い聞かせるように、問題集をめくる。1ページ、2ページ、3ページ——。

——でも、気づいたら何を読んでいたのかまったく覚えていなかった。


30分ほど経った頃、後ろから声がかかった。

「なあ、美咲。」

急に話しかけられて、思わずペンを止める。

「……なに?」

「お前って、なんでそんなに“1位”にこだわるの?」

その問いかけに、美咲は一瞬固まった。

(——なんで、って。)

そんなの、昔からずっとそうだったから。小学生の頃から、一番でいたいって思ってた。いつだって負けたくなくて、誰よりも努力して、誰よりも先にゴールするのが好きだった。

——特に、颯真にだけは、負けたくなかった。

「……別に理由なんてない。1位が一番気持ちいいから。」

自分でも、少し投げやりな言い方だったと思う。でも、それしか思い浮かばなかった。

「ふーん。」

颯真の声が、ほんの少しだけ優しげに聞こえた気がした。

「でもさ、1位にならなくても、別にお前はお前だろ。」

不意に言われたその言葉に、胸の奥がグッと締め付けられた気がした。

(……なにそれ。)

一瞬、何も言えなかった。

「俺は、1位じゃないお前でも、別に——」

「は?」

言わせなかった。言わせたくなかった。

美咲は、振り返るよりも先に言葉をかぶせた。

「なに? 急に偉そうなこと言わないでくれる?」

自分でも分かっていた。
言葉が、いつもより少し強かったことも、言い方がトゲだらけだったことも。

でも、颯真の「1位じゃなくてもいい」なんて言葉が、許せなかった。

「偉そう、か?」

彼は、くすっと笑った。

その笑い声が美咲の背中に届き、じわりと熱が広がった。

「——お前、ほんと面倒くせぇな。」

その一言に、心の奥がチクリと刺された。

「面倒くさいって何よ。」

「そのまんまだよ。勝ちたくて走り続けてるのに、なんか時々つまずいてる感じ?」

「……別に、つまずいてないけど。」

言い返したのに、なぜか自分でも少し不安になった。

(つまずいてる? 私が?)

いつも真っ直ぐ走ってきたつもりだった。目指すべき場所があったし、勝ちたい相手もいた。

——でも、最近。

(なんか、胸がざわざわしてる……)

それが何なのかは、まだ分からなかった。


帰り道、白石亜里沙が隣にいた。自転車を押しながら、ニヤニヤとこちらを見ている。

「ねえ、聞いたよ〜? 颯真と放課後、教室で二人きりだったんだって?」

「……誰から聞いたの?」

「さあ? 誰だろうね?」

亜里沙のニヤけ顔が腹立たしい。

「何もなかったから。」

「ふ〜ん? ほんとに?」

「ほんとに。」

「じゃあ、なんでそんなに耳、赤いの?」

「——はっ!?」

思わず耳を押さえたが、もう遅かった。

「美咲ってさあ、ほんと分かりやすいよね。」

「……分かりやすくないし!」

「でも、面白いからいっか!」

亜里沙はそのまま、自転車に飛び乗って去っていった。

美咲は一人、家に向かいながら考えていた。

(耳が赤いのは、あいつのせいだ。)

(あの、「1位じゃなくてもいい」なんて言葉のせいだ。)

頭の中から、彼の言葉がなかなか消えなかった。

(あいつは、どうしてあんなこと言ったんだろう。)

——ムカつくのに、なぜか気になってしまう自分が、本当に悔しかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る