第17話 セシルの死亡フラグ 2

 あおむけに転がって空を見上げた。

 青い空はどこまでも美しかった。


 ずきずきと痛む胸に触れた。

 手が真っ赤に染まった。


「あー……」


 怪我をした。

 とても痛い。


 これは死ぬかもしれない。


 ヴァルトラウトの忠告を無視してしまった結果だ。彼女は頭を使ってセシルが暴漢と接触しなくてもいいストーリーを作ってくれたのに、セシルのほうがそれを破ってしまった。


「お兄様!!」


 遠のく意識の中、アリスの声が聞こえる。


 ぐるぐると回る視界の中で、アリスの桜色の髪が揺れた。


 不意に横から抱え込まれた。強い力で上半身を起こさせられる。


「どうしてこんな愚かなことを」


 腕の主はエルンストだった。彼は彼らしくない泣きそうな顔と声をしていた。


「殿下……ご無事ですか……? 犯人はどうなりましたか?」

「ああ、無事だ。あいつはすぐ兵士が取り押さえた、私は何もしていないしされていない」

「アリスは?」

「わたしも元気、なんともないわ、お兄様のおかげで……っ」


 アリスが「ううっ、うっ」と泣きじゃくり始める。


「やめて、お兄様しっかりして、どうしてこんなことに……っ」

「アリス……」

「わたしなんてみんなに嫌われてるんだからどうでもよかったのに……! どうしてお兄様が……お兄様には未来があるのに……」


 この世界におけるセシルもそんなに好かれてはおらず、むしろアリスべったりのシスコンぶりを批判されていたのだが、アリスの目にはそうとは映っていなかったのだろうか。


 自分たちは本当に話すべきことを話さずに離れ離れになるところだったようだ。


 すべてがもう遅い。


 体が重い。


 夏なのに寒い。


 周りの音が遠くなっていく。


「セシル? セシル!!」


 その時だった。


「アリス!!」


 聞き慣れた女の声が、アリスの名を強い語調で呼んだ。


「何をしているの!! あなた聖女でしょう!!」


 アリスが弾かれたように顔を上げた。


 セシルもそちらに顔を傾けた。


 そこに蒼ざめた怖い形相で立っていたのは、ヴァルトラウトだった。


 彼女はアリスの肩をつかむとこう怒鳴った。


「治癒魔法はどうしたの!!」

「……あ」


 アリスは我に返ったようだった。両手の指を組み、「えーっと、えーっと」と呟いて頭の中にあるとおぼしき魔法の呪文を探し始めた。


 そう間を置かずに、アリスは魔法の呪文を唱えることに成功した。


〈父なる天の神よ、母なる地の神よ、我が魂に刻まれた言葉を捧げあなたがたのために歌い続けることを誓い、その恩寵を恵み給うことをお願い申し上げます〉


 ちゃんとした神聖文字によって表記される古代語だった。


 なんだ、やればできるじゃないか。


 アリスの全身をまぶしい光が包んだ。その光は、アリスが手をかざしたほう、セシルの体のほうに動いていった。セシルの体も光に包まれる。特に傷のあたりに強い光が集まっていった。


 体が少しずつ軽くなっていく。温まり、血が通っていく。


 痛みが、消えた。


 意識がはっきりした。


 エルンストに抱えられるがままで脱力していた体に力を込め、自らの意思で上半身を起こした。服や手にはべっとりと血が付着し、まったく乾いていなかったが、服の切れ目から見える胸の肌はつるりとしていて、傷はどこにもなかった。


「あっ、ほんとに治った?」


 そう呟きながら自分の体をぺたぺた触ってみた。本当に痛みがない。


「奇跡だ」


 誰かがぽつりと言った。


「奇跡だ……!」

「なんだ、あの女、本当に聖女だったのか!」

「ただのぽんこつじゃなかったんだな」

「見直したぞ」


 わっと歓声が上がった。


 普段のアリスならばそれで調子に乗りそうなものだったが、今の彼女は神妙な顔で泣きながらセシルにしがみついている。


「よかった……! わたし、初めてお兄様の役に立てた!」


 セシルもほっとして息を吐いた。アリスが実力を認められて自信を持ってくれたなら何よりだ。


「お前を失ったらどうしようかと思った」


 そう言って腕に力を込めるエルンストに、アリスが初めて「わたしのお兄様よ!」と反抗する。アリスがエルンストと出会って初めて、エルンストとセシルがアリスを、ではなく、エルンストとアリスがセシルを奪い合い始めた。


「間に合った……」


 そんな声が聞こえてきたので、視線をやった。


 ヴァルトラウトが、へなへなとその場に座り込んでいた。


「もう、心配させないで……」


 セシルはエルンストとアリスを手で制しながら体をヴァルトラウトのほうに向けた。


「よくここまで来てくれたね。ナイスタイミング」

「万が一に備えて伯爵邸に手の者を忍び込ませていたのよ。セシルが勝手に家の外に出たらわたくしに報告するように、と」

「あら……じゃあ偶然じゃないんだね……」

「ちなみに伯爵夫人は許可済みだから安心してちょうだい。根回し済みよ」

「完璧だね……」

「わたくしを誰だと思っているの」

「さすが……」


 アリスがセシルからわずかに身を離しながら、「悔しいけど」と小声で言う。


「わたしが魔法を使うことを思い出せたのは、ヴァルトラウト、あなたのおかげだわ。あなたに怒鳴られなかったら、ずっとパニックで、お兄様を死なせていたかもしれない」

「あら、そう?」


 ヴァルトラウトが意地悪そうに返事をすると、アリスが歯ぎしりをしてから赤い顔で「悔しい」と呟く。


「でも……、今回だけは感謝してあげる。ありがとう」

「どういたしまして」


 セシルはゆっくり立ち上がった。貧血気味なのか少しふらつくが、胸の痛みがよみがえってくることはなかった。微妙によろけたセシルを心配してか、エルンストもすぐ立ち上がってセシルの体を支えてくれた。


 一歩、一歩とヴァルトラウトに近づく。やがてすぐそばに膝をつく。


「ごめん、せっかくあなたが僕のためにストーリーを書き換えてくれたのに、僕は勝手なことをしたよ」

「本当よね、わたくしがどんな思いでどういう選択肢を選んだか知らないで」


 その涙声に安心と感動を覚える。


「もう、バカ」

「ふふ、ありがとう」


 腕を伸ばした。


 ヴァルトラウトを、抱き締めた。


「ありがとう、ヴァルトラウト。あなたのおかげで、僕は生きている」


 ヴァルトラウトが、泣き出した。

 その涙が温かくて、胸の中の何かが溶け出していくのを感じた。


 ――こうして、セシルは死亡フラグを折ったのだった。




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