10.犬神

「旭、今なら許してやるよ。俺に立花家の当主の座を譲れ。いや、返せ! お前が俺から陰陽師の力を奪ったんだ。そうに決まってる! 長男の俺が、霊力が低いなんてありえねぇんだ!」

 照人は顎を上げて旭さんに怒鳴りつける。ヒステリックに叫ぶ兄に、旭さんも負けじと言い返す。

「バカが。いつも適当な修行しかしてなかった癖に、人を呪う時だけ真剣にやりやがって……奪おうとしているのは、お前の方だろうが!」

「うるっせえ、俺が長男なんだ、テメーは黙って従っていれば良いんだよ! お前さえいなければ、今頃俺があの家を継いでいたんだ!」

 その時、扉が開く音がした。

「双牙君、旭さん! 二人共、無事ですか?」

 振り返ると、玄関にフォンロンの姿があった。そうか……時間が経っても戻らなかったから、来てくれたんだ。彼は照人に怒りの表情を向けて、靴を履いたまま上がってくる。


「くそ……来るならいっぺんに来いよ、来てないと思ったのに……」

 照人は急に怯えたような素振りを見せた。さっきまでとはまるで別人のようだ。

「フォンロン。照人は、父さんの人形ヒトガタを作って人質にしている」

「成程。その人形を渡して下さい」

 床を鳴らしながら、フォンロンが照人に迫る。

「それ以上動くな! 妙な動きをしたら、この首をへし折るぞ!」

 照人が人形の首に手をかけた。人質の存在を主張して、フォンロンの動きを止める。


 淀んだ空気が部屋中に満ち、そこにいる全員がどれくらい無言でいたのだろうか。石像になったように、時間が長く感じられた。

「……俺が呪詛返しが得意なのは、知っているよな?」

 旭さんが呟くと、照人は左手首に巻かれた包帯に目線を泳がせた。

「どういう意味だよ、旭」

「人形の首をねじ切ったら、全てお前に跳ね返る。とっくに準備は終わった」

「嘘だ! はったりだ。この呪いは陰陽道じゃない、ブードゥー教なんだ。そんなこと出来るわけねぇ!」

「跳ね返せるさ。陰陽道だろうが、ブードゥー教だろうが、呪詛には変わりがない。なんせ俺も、お前の呪詛を何倍にも跳ね返せるように研究してたんだからな」

 言葉に詰まり、照人は舌打ちをした。

 兄と弟。二人は対峙したまま動かない。

「許さねぇ、当主は俺だ。俺は! 欲しいものは絶対に手に入れてきたんだ!」

 照人の独り言は、ひび割れて壊れた機械のようだった。


「――照人……聞きなさい。たとえお前の方が陰陽道に優れていたとしても、私はお前を当主としては選ばなかったよ」

 知らない声に驚いて周囲を見回すと、旭さんの父親のまぶたが開いていた。目を覚ましたんだ。

「……親父?」

 父親が発した言葉に照人は反応したが、すぐにカッとなったように叫んだ。

「何でだよ、ふざけんなよ! いつもそうやって、末っ子ばっかり贔屓ひいきしやがって!」

「違う……末っ子とか、そんなことは関係ないんだ」

 父親は苦しそうに首を振る。照人の目線は虚ろで、どこを見ているのか分からない。かと思えば急に泣きそうな声でわめき始めた。

「俺は長男なんだぞ! 次期当主を、個人的な感情で選んでんじゃねぇよ!」

「照人……」

「俺は悪くねぇ、親父が俺を認めなかったから、だからこんなことになったんだよ! 金を盗ったのだって、息子なんだから良いじゃねぇか……俺がこうなったのは誰のせいだと思ってんだよ、酷すぎるじゃねぇか!」

「照人! やめなさい……!」

 いや金を盗んでおいて逆恨みするなよ。そう考えていると、今度は俺が良く知っている声が狭い部屋に響き渡った。

「――アタシの旦那様をいじめるのは、そこまでにしてもらおうか」

 奥の部屋から人影が現れる。俺の額には汗が滲んでいた。


「大神って、本当に良い名前だよねぇ……アンタたちもそうは思わないかい?」

「良惠!」

 立っているのは、俺の母親だった。

「良惠ぇ、助けてくれよぉ。こいつら、ひでぇんだよぉ」

 照人は急に高い声を出して良惠の後ろに隠れた。良惠はドヤ顔で前に立つが、そうしていると良惠と照人のほうがよほど親子のように感じられた。


「随分とやってくれたねぇ。雨音の娘が眠らなかったせいで、計画が台無しだよ。本当は立花の家でケリを付けたかったんだけどねぇ」

 恨みがましい上目遣いをしながら舌なめずりをする。完全にお伽噺の悪役だ。

 彼女は瘴気をまとい、手には木の箱を持っていた。姿を見たのは久し振りだが、何度も夢で見たせいかちっとも懐かしくない。ただ、俺の記憶の中の姿よりもずいぶんと老け込んで見えた。

 それに……あんな目をしていたか?

 よどみきった瞳は本性が出たのか。それとも、今までずっと澱んでいたのに俺の感覚が麻痺していただけなのか。


「大きいっていう字のところに、点を足してみなよ」

 声も、低くしわがれている。まるで悪い魔女のような声。

「何を言ってるんだよ。さっきから」

 母は、俺の問いには答えずに歪んだ笑みを浮かべた。

犬神いぬがみ双牙になるんだよぉお!」

 突如そう叫ぶと、手にした箱を開く。強烈な刺激臭に鼻がツンとした。

「なっ……! 何だ?」

「双牙君!」

 同時にフォンロンの叫ぶ声が聞こえる。手を掴まれたような気がしたが、俺は抗いがたい眠気に襲われた。頭がグラグラする。

 くそっ、こんなに何度も倒れるなんて……!

 悔しさが胸に溢れるが、そのまま成すすべもなく意識を失ってしまった。


 ……気がついたら、俺はアパートとは違う場所に立っていた。

「ここは……どこだ?」

 さっきまで照人の部屋にいたはずなのに、今はカビ臭い建物のなかにいる。吐き気と眩暈が同時にした。

 周囲を見回すと、打ちっぱなしのコンクリートの床の上に大きな木製のテーブルが置いてあり、カップラーメンの匂いがした。見覚えがある。何度か見た夢の景色だ。

 やはり、夢とは思えないほどにリアルだ。


「名前に『神』って付いてるのは良いんだぜ……いい生贄になるからなぁ……」

 どこからか、高い男の声がした。照人の声だ。

 くそっ、どこにいるんだ! 周囲を伺うがそれらしい人影はない。

 部屋には窓がなく、換気が悪そうだ。空気の密度が濃い。気分が悪くなる……。

 落ち着いてから改めて部屋の中を見回した。狭い室内には古びたソファが置いてある。空になったビール瓶と、煙草の吸い殻でいっぱいになった灰皿が床の上に見えた。木製の机はだいぶ放置されているのか、木の肌がざらついている。


 夢の中だというのに時間の流れを感じた。それに、寒い。

 ふいに、扉を開く音がした。

「やっと、起きたんだねぇ……双牙」

 視線を送ると、そこには良恵が立っていた。口調こそ優しいが、鬼女のような表情をしている。手には木彫りの民芸人形を持っている。あれは、俺を殴ったものと同じ奴だ。

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