第五章 七海君

 翌日の朝。俺が起きる頃には、すでに旭さんと雪華さんの姿はなかった。

 昨夜は疲れていたのですぐに床に入ったが、中々寝付けなかった。そのせいで昼前まで寝てしまった。ここに来てから起きる時間が遅くなってきている。忙しいせいなのか、環境が変わったからか、悪夢を見るからなのか。

 ふと、どれも違うような気がした。俺はここに来てから、本当はすごく安心している。

 良惠がいないから。急なヒステリーを起こして、朝から怒鳴り散らす母親がいないから。

 そんなことを考えながらフォンロンの背中を見る。俺のために食後のお茶を淹れてくれている、その背中を。

 俺がずっと目を背けていた、幽霊という存在を目の前で祓うことができる人間が二人もいる。フォンロンと旭さんだ。

 俺も、いつか自分の力で幽霊を払うことが出来るのだろうか。


 簡単に朝食を済ませた後、フォンロンがお茶を淹れてくれた。

「はい、どうぞ」

 目の前に黒豆茶が置かれる。実家では飲まないような健康的なお茶。どこからも酒の匂いがしない。朝からビールを飲んでいる人間がいない。

 急に涙が出そうになる。

「……ありがとう、悪いな。フォンロンだって疲れてるのに」

 先輩の件で元気が無かったのに気遣わせてしまって申し訳ない。そう考えていると、彼は柔らかな笑顔を浮かべた。

「いいえ、双牙君が合格して嬉しいんですよ。おめでとうございます。頑張ったんですね。本当に良かったです」

「えっ? ああ、旭さんから聞いたのか」

 黒豆茶を一口すすると、香ばしい風味が口の中に広がった。胃に沁み込むように温かい。

「はい。旭さんから、昨日の仕事であったことも聞きました。それで、思ったのですが」

 フォンロンはテーブルの上を手際よく片付けながら、考えるようにゆっくりと言葉を紡ぐ。どうかしたのだろうか?

「ロミという幽霊は、他の男のところへ行ってしまったんですよね?」

「うん、旭さんはそう言ってたけど」

「怖いですが、仕方がないですね。双牙君とは縁がないんですよね?」

 少し心配そうな顔をしながら、フォンロンは食器をまとめてシンクへと運ぶ。


 どういう意味かと、俺はしばらく無言でフォンロンの背中を見つめていた。流水音が聞こえはじめる。

「あっ、ごめん。俺が洗うよ」

 お茶を用意してもらって、更に片付けさせるなんて。慌てて立ち上がろうとすると「いいんですよ。食後はゆっくり休んでいて下さい」と背中越しに言われた。

「いや、そういうわけには」

 俺がフォンロンの隣に立つと、彼は無言で手を動かしている。

 洗い終わった食器を水切りカゴに移動しながら、昨日のことを思い出した。双牙君、見つけたと言っていたような気がしたが……聞き間違いかもしれないと思い黙っていると、「山城さんという人がやっていたオンラインゲームの名前は何と言うんですか?」とフォンロンが訊ねてきた。

「退会手続きの時に見たけど、確か……ワーオブソウルっていってたかな」

「有名なネットゲームですね。広告で見た事があります」

 そこまで話した時に、窓の向こうから物音が聞こえた。車の音だ。

「旭さんたちだ。帰って来たんですね」

 窓を開けると庭が見える。そこから立花家の門が見えた。車のドアが開き、雪華さんと知らない少年が降りてくる。見た事のない人物だった。


 反対側から旭さんが出て来る。彼は少年に何度か話しかけると背中に手を回した。気遣っているのかと思ったが、妙な動きをしている。何をやっているのかと考えていると、フォンロンが「九字を切っていますね。あの少年、霊に憑依されているようです」と言った。

「くじ?」

「簡単な護身法ですよ。指先を二本立てて……十字を切るように、格子状に動かすんです」

 人差し指と中指を立てながら、指をちょいちょいと動かす。

「へぇ、そんなものあるんだ」

 見よう見まねでモノマネをしてみるが、良く分からない。後でちゃんと教えてもらおう。


 フォンロンが残った食器を棚に仕舞いに行ったので、俺は視線を窓の外へと戻した。すでに三人の姿はない。今頃は玄関まで来ているのだろう。旭さんが家に依頼人を連れて来るなんて初めてのことだったので、少し緊張する。しかしその気持ちとは別に、息が詰まるような感覚を覚えた。

 庭を見渡すとぼんやりとした白い影が視界に入る。

 季節はずれの真っ白なワンピースが、ふわりと風に舞っている。

「……え?」

 山城さんの件で会ったあの女の姿があった。立花家の門に、土色の枯れ木のような腕をまわしている。変質者にしか見えない。

 遠くにいるのに頭部だけがくっきりと見える。黒々とした髪が張り付いた顔面が動く。俺と目が合うと、彼女はぎょろりとした瞳を更に大きく見開いた。それは曇天の薄暗さの中で異様に輝いて見える。

 ロミは、俺を見ていた。


「……ロミ……!」

 つい名前を呼んでしまう。聞こえているわけないのに、彼女は青紫の唇を大きく広げて、気味の悪い微笑を浮かべた。それも束の間、すぐに消えてしまった。この家には結界が張ってある。ロミも中には入って来れないのだろう。

「双牙君、どうしましたか?」

「フォンロン、気を付けてくれ。門の所に女の幽霊がいた。もう見えなくなったけど」

 小さな声で伝えると、彼は警戒するように背筋を伸ばす。

「――分かりました。もしまた見えたら、僕に教えてください。とりあえず、旭さんを迎えに行きましょう」

「分かった」

 フォンロンの後に続いて玄関先まで向かうと、そこには先ほど見た少年の姿と、旭さんと雪華さんの三人が居た。


「……え? あなたたちは……」

 少年は、俺たちの顔を見ると驚いたような声を出した。ずいぶんとやつれて見えるが、見覚えのない顔だ。フォンロンの方を見ると、彼も首を振った。恐らく知らないと言っているのだろう。

 隣にいた雪華さんが助け船を出してくれた。

「この子は私のクラスメイトで、七海亮太君。逆さコックリさんの話をしてる時に話したんだけど、覚えてる?」

「七海です。本日はよろしくお願いいたします」

 少年は礼儀正しく頭を下げる。こちらもそれにならい会釈をした。

「こちらこそ、よろしくお願いします。あの……」

 会った事があるか確認しようとすると、七海君が口を開いた。

「すみません、立花さんたちは先に行っていてもらっていいですか? 僕、このお二人に話があって」

「知り合いだったの? ……そっか。じゃあ、行ってるね」

 雪華さんは驚いていたが、すぐに頷いて背中を向けた。七海君を気遣ったのだろう。旭さんも「分かりました。お茶を用意しておきますね」と短く言い残して廊下の奥へと姿を消した。

 その姿を見送ると、彼は元気の無い様子で口を開く。

「お二人もプレゼントをもらったんですか。そのことで、ここに相談に来たんですか?」

「プレゼント?」

「マフラーです。もらっていないんですか?」

 七海君の顔に影がかかった。


「双牙君。文化祭の時に、手編みのマフラーをもらったと言っていませんでしたか?」

 フォンロンが思い出したようにそう言ってくる。

「ああ、そういえば……バンドのファンって言ってた子がくれたことがあったな」

 多分、女の子からであろうマフラーをもらっていた。多分と言うのは、文化祭の翌日に俺の机の上に置かれていたからだ。

 赤と白の毛糸で編まれた可愛いらしいデザイン。『頑張って編みました』というメッセージだけが入っていて、誰からの贈り物だったのか今でも分かっていなかった。使うのは抵抗があったし、だからと言って捨てるのも悪くて、実家の押し入れに入れっぱなしになっていた。

「僕も、バンドのファンだっていう子からもらっていたんですが……その人……亡くなったらしいんです」

 七海君は言いにくそうに目線を外した。

 俺にマフラーをくれた子と同一人物かは分からないが、彼はファンの幽霊に憑かれて、ここに来たのだろうか。

 さっき見た、ロミの姿。ひょっとして、ファンの子というのは……。

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