サイバンカン×メシ。~全国転勤をメシで楽しむ

篠月黎 / 神楽圭

1.東京地方裁判所編

(1)天然居

 東京メトロ霞ヶ関駅、丸の内線A1出口。黄色いその表札を見るのは1年と4日ぶりか。磁英じえい三琴みことは、ほとんど空の無骨な黒いリュックを背負い直しながら、ICカードの入った黒い財布をポケットに押し込む。


 階段をのぼると、夏の眩しい日差しが容赦なく降り注いできた。駅の出口から東京地方裁判所は目と鼻の先だが、そのたった数十歩分の距離でも「死ぬ」と思わせるには充分だ。日本の夏は人を殺しにかかっている。内心そんな悪態をつきながら、磁英は早足で桜田通りの歩道を抜けた。


 東京地方裁判所の入口は、右側が一般来庁者、左側が関係者用の入口だ。一般来庁者に対しては手荷物検査が行われるため、関係者は身分を示すものを提示しなければならない。磁英は迷わず関係者側の段差を上りながら、数分前にしまったばかりの財布をもう一度取り出した。


「おはようございます」

「おはようございます」


 大きな声に、守衛も振り向いて返事をしながら、目を磁英の財布へ移し、見慣れた身分証を一瞥して、手でどうぞと示す。磁英の黒いスニーカーは止まることなく、すぐ左手に折れた。


 東京地方裁判所令状部は、地上でありながら窓のない部屋にある。東京23区内のありとあらゆる勾留状が、この日の当たらない暗い部屋に持ち込まれ、次々と判子を押されるのだ。そんな判子持ち仕事に従事する彼らの職業は|判持はんじ――否、|判事はんじまたは判事補、通称・裁判官。


 書記官室を抜け裁判官室に入ると、既に5、6人が席に着いていた。他部の裁判官室にいる裁判官なんてせいぜい4人程度、これがさらにもう5、6人やってくるのだと考えると妙な気がした。


「おはようございます」

「ああ、おはようございます」


 部長席からののんびりした声の後に、残りの同僚もぱらぱらと言葉を返す。どうやら、ここでも声が一番大きいのは磁英になるらしい。


「今日から着任する磁英と申します、よろしくお願いします」

「三浦です、よろしく。所長に挨拶は?」

「これからすぐです」


 返事をしながら、着任直後の手続を頭に浮かべて先に辟易する。他の裁判官にも書記官にも挨拶回りをし、旅費の精算もしなければならない。初日は、いわゆる雑務に忙殺されて終了するのが常だ。とはいえ、所長への挨拶が午後になることもあるので、朝一発目に終了してくれることを考えると、スケジュールは悪くはない。


 所長室へ行った後、また戻ってきて、出勤してきた同僚に挨拶をし直す。その中で、書記官達への紹介役を買ってでたのは1期下の酒井だった。4月に民事部から異動してきたという酒井は、派手な花柄の、夏だというのにロングスカートを着ていた。


 その酒井に案内されてもろもろの挨拶も終えた後、やっと自分の席に着くことができた。隣には酒井が座る。


「磁英さん、いつ日本こっちに戻ってきたんですか?」

「先週の木曜日です。お陰でてんてこまいですよ」

「ニューヨークでしたよね、どうでした?」

「そうですね……」


 磁英は真面目な顔になって顎に手を当てる。磁英は任官後、東京地方裁判所で3年間勤務した後、去年の7月4日から今年の7月3日まで、ニューヨークに丸一年間留学していた。


「……もう一回、あのイタリアンを食べたいですね……」


 はて、と聞いていた同僚たちは首を傾げた。もちろん酒井も首を傾げる。しかし磁英は気にすることなく、マイペースに「さてと……」と姿勢を正す。


 今日の昼には、何を食べようか。




 12時になる少し前、磁英が席を立とうとすると、隣の酒井が顔を上げた。


「お昼ですか?」

「ええ、1年ぶりなので懐かしい味を食べたいなと。酒井さんも一緒に行きます?」

「ぜひ、ちょうど保釈も途切れましたから」


 一緒にいきます、と立ち上がった酒井と連れ立って、令状部を後にする。


 地裁の正面玄関を出ると、朝の熱い日差しが灼熱のものに変わっていた。夏は昼食に出るたびに汗をかくイヤな季節だ。


「ニューヨークの緯度ってかなり上ですよね? 夏も涼しかったですか?」

「涼しかったですよお、特に湿気がないから、数字は大きくても日本とは全然違いました。お陰で私はこの4日間でバテバテです」

「今年は異常ですよ。特に先週末は最悪でしたから、帰ってきたタイミングが悪かったですね」

「もう生きていけない。札幌か、せめて仙台くらいまでは北上しないと」

「次の異動はいつなんですか?」

「未定です、でも多分、1ヶ月くらいしたら内示があるんじゃないですかねえ」


 裁判官は2、3年ごとに全国転勤する仕事であり、その転勤先は異動の数ヶ月前まで判明しないことが多い。ただ、それはあくまで原則的な話であり、留学から戻ってきた磁英は若干事情が異なる。東京地裁令状部というやや特異な部署に配置され、二週間後か二ヶ月後か、はたまたもっと先かに下される辞令を待っている状況だ。


「まあ、私はラッキーですよ。帰国したその足で釧路支部に行けなんて言われたらさすがにしんどいんで」

「いたらしいですね、噂だと」

「冗談だったんですけど……」


 そんな他愛ない話をしながら十数分歩き、やっとのことで店の前までやってくる。炎天下をせっせと歩いたせいで、2人の額からは滝のように汗が流れていた。磁英は、ニューヨークならちょっと汗が滲むくらいだったのにと内心毒づく。


 そこで、自分が酒井に何の説明もしていなかったことを思い出した。


「そういえば酒井さん、辛いものは大丈夫です?」

「ああ、大丈夫です、好きなんで。でも……」


 暑い日に辛いものですか? その続きを汲み取った磁英は、しっかりと頷いた。


「大丈夫です、お店の中は涼しいんですから」


 酒井が微妙な顔をしたことに気付かず、磁英は意気揚々と店の扉を開ける――『天然居』、磁英行きつけの四川料理店だ。


 考えてみれば、女性には店の雰囲気等についてもう一言くらい断りを入れておくべきだったかも? 店の扉を開けながらそう気付いたが、酒井はまったく気にする素振りをみせなかった。派手なスカートといいロングヘアといい、こぎれいにまとまった店にしか行かなさそうに見えるが、そうではないらしい。


「オススメは?」

「汁なし担々麺辛さ3、一択です」

「なぜですか?」

「ずっと辛さ3を食べ続けてたまに辛さ4にして食べたら後悔する、それを私が繰り返していたからです」

「辛さの設定ではなくて汁なし担々麺を勧めた理由を聞いたんです」

「おいしいからです」


 ダメだこいつは、そんな視線を投げられたことに磁英は気付かなかった。


「酒井さんっていつ令状部に配属になったんです?」

「今年の4月からです。3月までは甲府の民事部だったんで、もうそろそろ民事部に移れるかなって思ってるんですけどね」

「前任民事でも民事に行けるとは限らないでしょう」

「やっぱりそうですよねえ。でも私、刑事に欠片も興味がなくて」


 裁判官は公務員、その人事は御上の思うまま。


 そんな溜息を吐いた酒井と磁英が談笑してしばらく、すぐに担々麺はやってきた。


「お待たせしましたー、よく混ぜて召し上がってくださーい」


 汁なし担々麺は(磁英にいわせれば常識の)白米、スープ、サラダにそして杏仁豆腐とのセットでお盆に乗って運ばれてくる。


 まるで欲張り汁なし担々麺セットと名付けられていてもおかしくない豪華なランチだが、なんとお値段850円。円安に苦しんでいた磁英は、10ドル払って3分の1がおつりで返ってくるお値段に打ち震えながらお盆を迎えた。なんていい店なんだ、天然居。


 そんなお盆に載っているメインの汁なし担々麺は、白い皿の中で赤い液体に浸されていた。左右には麺と同じ色のピーナッツがちらばっていて、これだけだとのっぺりした印象を受けてしまいそうなところ、真ん中に乗った青菜が視覚的なアクセントになり、皿の印象を引き締めていた。

 そうそう、これこれ。磁英が目を輝かせる前で、酒井は眉を寄せる。


「あかい……」

「だって担々麺ですから。あ、ちなみにスープから食べるのがセオリーです」

「中華奉行的な何かですか?」


 さっそくスープのお椀を手にした磁英は「いえ」と短く返事をする。


「担々麺を食べた後に熱いスープを飲むと舌が痛いからです」


 酒井が大人しくそのセオリーに従う頃、磁英はすでにスープを飲み干していた。これでやっとありつける、と白く赤い皿に箸を突っ込み、皿の底からかきまぜた。


 ズゾゾゾゾッとためらいなく吸い込むと、口の中いっぱいに豆板醤のコクと辛味が広がる。これこれ、これが食いたかった。感服しながら、さらに箸を進める。天然居の汁なし担々麺は、「実は辛いだけなのでは?」と思ってしまうほど味は非常にシンプルだ。が、辛味噌ダレがうまいし、青菜とナッツによって食感にもアクセントが生じている。このおまけみたいな青菜の存在が実は汁なし担々麺の完成度を高めるのだと気付き、磁英は友人に汁なし担々麺を振る舞うときは必ず青菜を入れるようにした。そのくらい重要なアクセントだ。


 なお、ゴマダレの量は日によって違う。少ないと少し辛い。今日はいい塩梅なので、酒井も苦しんでいないだろう。担々麺をすする途中でふと顔を上げると、酒井もズゾゾゾと全く平気そうな顔で担々麺を啜っていた。


 担々麺は一度食べ始めると止まらず、二人は完食するまでお互い向き合いながらも無言で食べ続け――そして磁英はズズズとスープまで飲み干してから「ふう」顔を上げた。


「うまかった……」


 天然居の汁なし担々麺はただの美味い汁なし担々麺ではなく、天然居でしか食べることができない汁なし担々麺。これを食べることができただけで、東京に戻ってきた甲斐があるというものだ。


「おいしかったです。この辛さが癖になる感じ」


 お行儀よく口を拭きながら、酒井も満足気だった――が、ブラウスを見て「あっ」悲しそうな顔に変わる。


「汁が飛んでる!」

「あ、大丈夫です。飛ばさずに食べることは不可能なので」

「なにも大丈夫じゃありません」


 常連の磁英は、オレンジ色の点が散ったシャツに応急処置もしなかった。


 しかし、やはり日本はいい。灼熱の外を歩きながらも、来るときとは違う満足感に包まれながら、桜田通りを戻る。うまいメシが安く食える、本当にいい国だ。


「ありがとうございます磁英さん、辛かったですけどおいしかったです」

「よかったです。火鍋もおいしいんですけど、辛いものの苦手な友人を連れて行く際に説明し忘れたら恨まれたことがあって」

「それは説明してあげてください。というか私、汁なし担々麺って初めて食べたかもしれません」


 ……マジかコイツ。磁英は有り得ないものを見る目をした。どうすれば汁なし担々麺を食べずに30年弱生きてくることができるんだ。それでもって初めての汁なし担々麺が天然居だなんて。


「おいしかったんで、また来ようと思います。一人でも行きやすいですし」

「後段は酒井さんの独自評価だと思いますけど、ええ、よかったです」


 が、推しを理解されて嫌な気持ちになるオタクはいない。磁英はフフンと得意げになった。


「他にも、磁英さんが留学前に行ってたオススメのお店ってあります?」

「たくさんありますよ。ジャンルを指定してくれたら教えます、てんぷらは光村、つけ麺はロビンソン、イタリアンは――」


 酒井がつけ麺以下から聞くことを放棄したとは気付かず、磁英はおすすめランチをそらんじながら東京地裁までの道のりを歩き続けた。




 氏名 磁英じえい三琴みこと

 職業 裁判官(判事補)

 所属 令和4年7月現在東京地方裁判所刑事第14部、通称令状部

 趣味 メシ

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