国覓のカガミ 十五

 千切れたはずの意識の糸がり戻された。私は慌てて身を起こす。手を突いた地面が乾いていた。吐き気を催すほどの血の匂いが遠くにあった。私の着物から発されている血の臭気以外、私を取り囲んでいるのは爽やかに澄んだ空気だった。


 ……蜜柑の花の香りがする。


「──おお、動いた。あまり急に動くものではないぞ、こちらが吃驚する」

「…………」


 私は砂のついた掌を上に向け胸の前に差し出し、しばし惚けた。


「……ここは極楽か?」

「安心しろ。『あわい』だ」


 代々のものとしか思えない声による返答に、私は再び沈黙した。それでは私がこの土地に足を踏み入れた時と何も変わってなどいないではないか。


 ややあって、私は己の腹に手を当てた。着物が悪夢の翌朝のようにぐっしょりと濡れていた。その下に己の皮膚と肉と内臓があった。


 ……ないはずだ。ここには。私の肉体の一部分は。


 ウツミの根に貫かれて。


「お主はあれだな、修羅か何かだ」


 代々が言った。享楽主義的な笑いの中に、圧し殺した濃厚な寂しさが滲んでいた。


「笑いながら剣を振るう。肉を抉られながら刀を突き出す。己の血を撒き散らしながら、」

「助けたな? 貴様」


 愚問であり、口に出すべきでない非難であることは言葉を発する前から理解していた。ただ相手を黙らせるために一方的に声を発する理由だけが、私には必要だった。


「……村の内情を知る手段は、貴様にはなかったはずだが」

「あまり舐めてくれるなよ人間。私とて神だ。そうでなくとも妖だ」


 頭上で木の茂みが揺れた。先刻までの地獄の心象が、既に薄れている。


「今までは『見なかった』だけだ。……見たくないものを見なかった」


 返すに赦される言葉はなかった。


「お主が土産に村の話を持ってくるならば喜んで聞こう。土産を届けるためにお主がここに戻ってくるというのなら。……だがお主は私の元を去った。だから渋々眼を開けた」


 そこに映っていたのが、返り血と出血に塗れた修羅か。


「……己の死に場所を──死に時を、ようやく見つけた。笑わない人間がいると思うか」

「死ぬな」


 神の言葉は単純だった。子供の我儘と大差なかった。

 理屈がない。理由がない。


 ゆえに短刀を胸に突き入れられたかのように、重い。


「…………貴様は見ていなかったかもしれないが、私は罪のない人間を斬った。武の道に爪先ほども足を踏み入れたことのない、か弱い娘を殺した。私はもう十二分に屑だ。死んで然るべき人間だ」


「死ぬなよ、カガミ」


 これほどまでに反抗的な激情が臓腑の内側で燃え盛ったことが、果たしてあっただろうか。それは想像以上に湿り気を含んだ衝動だった。激情を炎と表現する数多の人間たちの気持ちがよくよく理解できた。これほどまでに情けない感情を、私は他に知らない。

 涙を流す寸前の恥ずべき心情を、人々は怒りという名の熱で強引に乾かしていたのだ。だからこそ激情は炎だった。炎が勝らなければ人は涙を見せるしかない。


 私は火中に薪を投げ入れるように、拳を蜜柑の幹に叩きつけた。大袈裟に葉が擦れ、次々に果実が落ちた。全て落ちた。俯き唇を噛む私の頭や肩に実が激突し、軌道を変えて砂の地面に転がった。笑ってしまうような一部始終に一層腹が立った。


「喰っておけ。喰い納めだ」


 代々が静かに言った。


「巫女の〈球根〉を処分する。それで全て終わりだ。奴の根は全てお主が斬ったからな、奴はもう一本の手も足も残ってはおらんのだ。捨て置けば力を取り込むためにまた人が連れ込まれる。いくら人殺しの屑とはいえ、お主もそれでは寝覚めが悪かろう?」


 全て終わったらお主の好きなようにすればいい──


 代々の声に感情はなかった。巧妙に覆い隠されていた。


「…………食う気になど、」


 なれるはずがない。それは命を明日へと繋ぐ行為だ。


 私のような人間は生まれた瞬間に死ぬべきだった。この手で人を殺すことに昂りを覚える、異常な人間などは。人の生を狂わす異物などは。死が許されないのであれば、永久に人のいない場所に閉じ込めておいた方が余程、世のためになるだろう。


 ……ああ、だから私はこのような「あわい」に誘われたのか?


「それも好きにすればいい。だがなカガミ、これだけはどうか覚えておいておくれ」


 代々の言葉が連ねられてしばらく、私は失意の底で息を忘れた。

 だが、気づけば自然と地面の上を探っている自分がいた。


「この地で起こった全ての怪異が、この土地に息づく誰かの切なる願いだったということを」


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