国覓のカガミ 一

 ふと意識の糸が繋がり、私は顔を上げた。


 上空で烏が一声啼く。羽ばたきの音は聞こえない。


 気づくと一夜を明かしていた。


 私は背を預けていた杉の根元から立ち上がり、ひとつ伸びをした。続けてため息混じりに、肺に溜まった空気を吐き出す。


 私は昨日、道に迷ったのだった。


 否、道に迷うなどまだ生ぬるい──私はこの山に幽閉されたのだ。


 昨日まで宿を借りていたふもとの村の主人が言うには、この山を越える経路が最も負担なく、かつ短時間で次の町まで辿り着くことができるという話だった。行商人が麓の村まであらゆる商品を運んでくるのもこの道だという。四方八方を山に囲まれた村だから山越えは絶対だけれども──そう前置きして話した宿屋の主人の、竹を割ったようなカラッとした声色を思い出す。


「そこの山が一番平坦だし、行商がよく通るから道もちゃんとできてる。もし兄ちゃんが道に迷っても、道中誰とも会わないってことはまずないんじゃねぇかな」


 主人の言葉を信じて足を踏み入れたこの山だが、思えば入山した直後から妙なところはあった。

 まず第一に、連日晴天だったにも関わらず、山の土が湿っていた。植物の密集した場所特有の湿り気なら無論許容できるが、ここの土は踏みしめるごとに足跡が明確に刻まれる程度にはぬかるんでいた。平坦だと聞いていた割には傾斜もきついように感じられ、足に力を入れるごとに地面の表層が崩れて滑り、いちいち足を取られる。土の内部には小石や木の根、枯れ枝などが内包され、余計に足元を不安定にさせた。

 違和感を覚えた後すぐに下山するべきだったのかもしれないが、しかしそれ自体、叶ったかどうか怪しい。


 歩けども歩けども上りの傾斜だった。いつまで経っても山頂には辿り着かず、それゆえに下り坂にも差し掛からない。一日あれば次の町に着いて色々と見物もできるはずだ、と言った宿の主人の話は外れ、いつの間にやら足元から冷気が這い上がってくるようになった。日が沈んだのだ。


 それまでの間にあらゆる可能性を考慮した。まず最初に入山する山を間違えたこと。しかし私が泊まった宿屋の主人は大変に気前がよく、目が見えなければ地図も読めない私に付き合って山の入り口まで案内してくれた。そこから数歩で違う山に入ることはまず不可能であるし、気づいた主人が間違いを正してくれるだろう。


 では主人に騙されたのか、とも考えたが、これも同様にしっくり来ない。あの主人は、私がめくらの旅人であることを知ると、いたく感激した様子で豪勢な食事をつけてくれた。彼の言動全てが偽りであったとは思い難い。

 ならば私が正しい登山経路から知らぬ間に外れたか、と考え、声を出しながら山道を歩いた時間もあったがこれも見当違いであった。私の声に反応する者は一人もおらず、行商がよく利用すると言われていたにも関わらず、私がこの山に入ってから人とすれ違ったり言葉を交わしたりしたことは一度としてない。


 あまりにも妙だ、と思った私はここでようやく来た道を引き返す選択肢を取ったが、私は既に山という怪異の腹の中にいた。


 踵を返して坂を下っているはずが、ふと気がつくと再び坂を上っている。はじめこそ己の認識を疑ったが、何度も下り坂を進行方向とし、上り坂を歩いている自分に気づく、ということを繰り返しているうち、認識の問題ではないのだと悟った。


 私は永久の上り坂に閉じ込められていたのである。


 しばらく呆然とした後、私は自分の荷物から使い古しの手拭いを取り出し、適当な木の枝に結わえつけた。手を軽く上げた高さに布が垂れ下がっていることを確認してから坂を歩いていくと、やがて上げたままの腕に枝葉とは違う柔らかな布の感触を覚えた。私はそれを二、三繰り返した後、手拭いを解いて荷物の中に戻した。

 そうこうしているうちに夜の冴えた冷気が辺りを支配するようになっていた。一日中坂を歩き回っていたため、疲労感は一入ひとしおだった。


 ──今日寝入ったら二度と目覚めないかもしれない。


 そう心のどこかで警鐘めいた予感を覚えながらも抵抗することは一切なく、私は近場にあった大木の根元に腰を下ろし、刀を抱いて眠りに就いたのだった。




 まさか己に朝が訪れようとは思わなかったので、自然に意識を取り戻した私は再び途方に暮れた。


 眠っている間に死ぬものと思っていたからか、昔の夢が走馬灯の如くに明瞭だった。あるいは麓の村で旅の話を聞かせていた際、村の子供に「どうしてお兄さんは旅をしているの?」などと無邪気な質問を向けられたためか。


 旅人は逗留する土地の住人から歓待を受ける代わりに、外の土地で見聞きした物事を語る。その文化は、交通や流通から縁遠い土地ほど人々の生活に根付いている。あの麓の村で旅の経験を語った私の周りには、年齢を問わず多くの住人が集まっていた。


「美味いものを食し、美しいものを愛でるために」


 私の返答は常に偽りのそれである。問いを投げかけた者の意図するところが純粋な疑問であろうと悪趣味な品定めであろうと、私の心理は常に真水の精神と溶け合い、凪いでいた。

 住人の反応は様々だった。気まずげに唾を飲み下す者も、感じ入るように息を洩らす者も等しく存在した。



「美しいもの、か……」


 私は未だ、その崇高さを知らない。


 私は宙に両手を差し出し、その質感を想像し、また追想した。


 その時、掌の上を、顔の前を、一陣の風が横切った。

 私の鼻腔にかすかな柑橘の匂いが抜けた。

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