寄生の子 五

「──そこで我がお父上は抜刀したのです。川の水の多くは既に龍の体となっていた。大きく首をもたげ、空中へと昇った水龍は身を翻してお父上のもとへと一直線に突進した。鬱蒼と茂った木々は鉄砲水に遭ったかのように簡単に薙ぎ倒され木っ端に砕け散った。しかしお父上の身体は毫も揺らがぬ。私たちを丸呑みにしようと大口を開けた龍のそこに、お父上は真一文字に刀を当てがいました。そして大きく力強い踏み込みに、龍の口は裂けた。しかし龍は退かぬ。見上げた食欲と闘争心です。龍はなおも私たちにその口を、牙を、体全体を押しつけてきた。まるで己が胃袋に直接私たちを収めたいと言わんばかりだ。私たちはしばし、その清廉にして凶暴な洪水に全身を呑まれました。しかし決して屈してなどおりません。お父上はしかとその両足を地面につけ、未だ力強く踏み込んでおられる。はたから見ればお父上のその様子は、龍の猛攻に怯み動きを止めているようにしか見えなかったでしょう。しかし父上は斬っておられた! その龍の胴体、激流そのものを! ……やがて見えてくるのです、永遠とも思われた水の終わり──そう、龍の尾が!」


 わっ、と、辺りの空気がいちどに沸くのを、わたしは遠巻きに見つめていた。


 わたしは朝の仕事を終えて、夕食用の食材を買い揃えた帰りだった。通りがかったお茶屋さんの前にはいつも通りたくさんの腰かけが並んでいたけれど、その賑わい方は異質だった。


 いつもはめいめいに話し、笑っているたくさんのお客さんが──今日だけはたった一人の語りに聞き入っている。町のみんなが同じ一点を見つめ、同じ瞬間に笑い、声をあげ、時には息を呑んだりしている。


 その様子がどこか熱っぽくて、わたしはみんなとは反対に薄ら寒さを覚えた。みんなの熱気が、争いに出かける前のような団結した攻撃性をはらんでいるように感じたからだ。


 わたしは争いごとが嫌いだ。みんなの目が途端に怖くなってしまうから。


 みんなおそろしくてたまらない、という目をしているのに、むきになってだれかに暴力を振るう。自分だけは怖くないんだ、と大声で言い聞かせるみたいなその表情は、見るとおかあさんを思い出すから嫌いだ。わたしをぶつ前のおかあさん。わたしをぶった後のおかあさん。


 みんなのことがおかあさんみたいに見える。おかあさんには笑っていてほしいのに、ほんとうはわたしだけをかまってほしいのに──熱気が立つとみんながそれに夢中になってしまう。争いに。攻撃に。……わたし以外の何かに。


 このままじゃ町のみんなが取られてしまう──そんな風に思った。


 そんな「夢中」を作り出し、みんなの中心にいたのは、ヨヨくんだった。椅子に腰かけたカガミさんの肩に座っていたヨヨくんは、びっくりするほど上手に自分たちの旅路を語っていた。身振り手振りで、声の抑揚で──まるで楽器の演奏や踊りみたいにみんなのことを魅了するヨヨくんは、今にも町のみんなをどこか遠くへ連れ出してしまいそうに見えた。


 それでわたしは余計におそろしくなった。でもそれを作り出すのがヨヨくんだからこそ、わたしは目を離すことができなかった。


「お父上が切っ先を振り抜く、すると山の澄んだ空気が私たちを再び迎え入れました。私はまず最初に思うさま息を吸った。これが美味いのなんの! ……そうして私は後ろを向いた。私たちの後方には、やはり龍がおりました。龍は振り返った私たちに尾を見せていた──もう地響きを思わせる声で鳴くことも私たちに牙を向けることもありません。何しろ龍は、父上の長いながい一太刀によって二枚おろしになっていたのですから!」


 再び人がわっと沸く。今度は拍手や口笛までもがどこからか聞こえてくる始末だった。わたしは熱風みたいな空気と音の波にあてられて、抱えていた籠を落としてしまいそうになる。


「──おや、そこにいるのは宿屋の娘さんじゃないか。そんなに重そうな荷物を持って立ち聞きとは、か細い腕がポキリと折れてしまいそうでかなわない。仕事に精を出すのは見上げたものだが、無理をしてはいけないよ。少し休んで行ったらどうだい」


 ヨヨくんがこちらを向いた次の瞬間には、もっとたくさんの視線がわたしのもとに注がれていた。わたしはひっと声を出してしまいそうになるのを、どうにかこらえる。ヨヨくんのことを肩車しているカガミさんだけが、わたしに目を向けることなく澄ました顔をしてお茶を飲んでいた。それでわたしは少しだけ安心した。



     ○



「随分と野菜がたくさんあるね」


 わたしが荷物を腰かけの脇に降ろして座ると、やっぱり最初に口を開いたのはヨヨくんだった。

「これらが今日の夕飯になるわけだ。今から待ち遠しいね。南瓜なんかは是非とも、煮付けにして出してもらいたいものだ。……蜜柑や夏蜜柑なんかがあるとなお良いが、残念なことに今は季節じゃないからなァ」


「見えないのにわかるの? すごいね」


 これはわたしの本心だった。わたしは心の底からすごいと思ったけれど、警戒心と素直になりたくない心とが邪魔をして、声は上手く弾んでくれなかった。


「いや、いくら私といえども、これから先に起こることまでは見えぬものさ。本当に今日の献立に南瓜の煮付けが入っているのだとしたら、それは僥倖と呼ぶべきことだろうがね」


 そう言って、ヨヨくんはまたささやかな笑いを誘った。ひときわ大きな声で笑う酒屋の旦那さんを耳ざとく見つけると、ヨヨくんはそちらに向かって、

「タダで腹の底から笑おうとは、意地の汚いお方もいたものだ。噺家がいたら泣いてしまうよ」

 と声を張り上げた。ヨヨくんの手には使い古された巾着袋が握られていて、それを掲げると中で小銭の音がした。ただでさえ背の高いカガミさんの頭よりも上でそれをやるから、巾着もヨヨくんの声も、遠くの人でもよく見えたし声も聞こえただろうと思う。


「こりゃあ一本取られたな」


 遠くのほうの席から酒屋の旦那さんが立って出てきて、ヨヨくんの袋にお金を入れていった。いつもお酒を飲んでいて気難しいと有名なのに、旦那さんはやけに上機嫌そうだった。金属の擦れる音が、袋の中で何度か立て続けに鳴っていた。


「まいど、どうもね」


 ヨヨくんは歯を見せて悪戯っぽく笑う。それからカガミさんの首の前でしっかりと足を交差させると、ヨヨくんは曲芸じみた動きでわたしの耳元まで顔を近づけて、こう囁いた。


「めくらというのは同情も笑いも誘いやすくて助かる」


 わたしはどきりとした。慌ててヨヨくんの顔を見ようとするけれど、その頃にはヨヨくんはカガミさんの頭の上に戻ってしまっていた。


「さあ、皆さんも人のことは言えないよ。私たちの旅のお話は一先ずこれで区切りです。存分に楽しんだという方はお心付けを是非に。噺家を泣かせない世であることを祈っていますよ」


 ヨヨくんがひときわ大きな声を張り上げ手を叩くと、お茶屋さんの席にいた人の半分以上がいっせいに立ち上がった。そのままそそくさと素通りしていく人も多少はいたけれど、わたしと目が合うと気まずげにその軌道を変えていく人もちらほらと見られた。この町は町と呼ぶのも憚られるような小さい土地にこぢんまりと形成されているから、わたしと目が合った人の多くは、「あ、あれはどこの店の誰さんだな」というのがすぐにわかる。


 そうやってヨヨくんの号令で立ち上がった人たちは、簡単な列をヨヨくんたちの前に作って、順に「心付け」を置いていった。使い古された巾着はたちまち重たく膨らんだ。


 ひと通りお金の回収が済んで、店の前がいつもの賑わい程度に落ち着くと、ヨヨくんは一息ついて巾着袋をカガミさんに預けた。カガミさんが無言で受け取る。


「それで……何の話だったかな。そう、野菜がたくさん、それを嗅ぎ分けられるのがすごいという話だったか。まあ、目が見えなければほかの感覚が自然と研ぎ澄まされるというのが自然の理というものなのだろうね。私もこの目を失って初めて知った」

「えっ?」

「……おい、ヨヨ」


 カガミさんの低い声が、わたしの胸のあたりをむずむずと這った。ヨヨくんは呵々と笑って、


「いや、すまないお父上。少し口を滑らせた」

 と、何事もなかったみたいに明るい声を出す。


「ヨヨくんって、昔は目が見えてたの?」

「……病気です」


 そう答えたカガミさんは、なぜだか少しほっとしたようなあたたかい吐息を吐き出していた。直前に緑茶を啜っていたからだろうか。


「もう少し早く医者に見せられていればよかったのでしょうが、なにぶん旅の途中だったもので。次の集落に辿り着く頃には、もう手遅れだと言われました」

「それは……」

「なに、お父上の気に病むことではない。私はもう充分、この世の美しさというものを知っている」

「……」


 カガミさんは聞こえるか聞こえないかという声で唸って、ちいさく彷徨わせた橙色の瞳を湯呑みの中に落とした。


 わたしはカガミさんのそんな姿を見て、やっぱり「いいな」と思ってしまう。


 ヨヨくんはお父さんに愛されている。でも、今朝にわたしが感じたような、「かわいそうだからお世話している・されている」なんて関係じゃなかったのだ。

 ぶつとかぶたないとか、役に立つとか立たないとか、そういう問題なんかとうに超えてしまっているのだ。


 カガミさんとヨヨくんは親子で、わたしとおかみさんは親子じゃない。


 ──わたしはやっぱり、あの村からもらわれてきただけの座敷童子なのかもしれない。


「……あの、お二人は『願いの叶う村』って知ってますか?」


 わたしはつい、そんなことを口に出してしまっていた。お客様の事情には介入しない──そんな決まりごと、もうどうでもいいような気がした。


「ここから山を一つ越えた先に、あるんだそうです。そこにいるだけで願いが叶うという村が」


 わたしはその村の存在を、アミハラさんから聞かされる前から知っていた。わたしはこの宿で生まれてからずっと、あの山の向こうに行くどころか町すらろくに出たことがなかったけれど、うちの宿を取っていく人の中には、その山を越えて願いを叶えてもらうのだ、と息巻いている人もいくらかいたからだ。……もっとも、「叶えてもらいに行くのだ」と期待を抱いた人はこれまで何人も見てきたけれど、「叶えてもらった」と結果を報告しに来てくれた人は、まだ一人もいない。そのまま家にも帰らずどこかへ行ってしまったのか、それとも──


「土地神様の信仰が盛んな場所だそうで、土地神様の力を信じてさえいれば心願が叶うのだそうです。……もしかして、カガミさんたちも、ヨヨくんの目を治しにそこへ向かおうとしていたのではありませんか?」


 わたしはカガミさんの顔を見上げて、膝の上に置いた両手をぎゅっと握りしめた。


 だったらやめたほうがいいです──そんな風に言おうとしていたのだろうか。そうだったとして、わたしは誰のためにカガミさんたちを引き止めたかったのだろう?

 わたしはこれから先、ずっとヨヨくんにかかずらうことになるカガミさんをかわいそうだと思っていて、そんなヨヨくんのことは「かわいそう」を盾に何もしなくていいことをずるいと思っていて……


 それで、わたしは二人の願いなんか叶わないほうがいいと思っているのだろうか。それとも、願いを叶えにあの村へ行って、二度と帰らないことを危惧しているのだろうか。


 誰のため、なんのため──


 ……そんなの、きっと決まってる。


 わたしはきっと、ヨヨくんに──


「──あの村は焼け落ちました」

「…………えっ?」


 自分の心がすっと冷えていくのを感じた。


「焼けてなくなりました。あの村は。願いを叶える土地神も、御神木ごと、何もかも」


 でも、わたしをまっすぐに見下ろすカガミさんの瞳は嘘にも冗談にも歪んでいなくて、すごく誠実で──


 こんなお父さんがわたしにもいたらなあと。


 たぶん、そんなことを一番に考えていた。


「ほぉう……?」


 かたく凍りついた時間の中で、ヨヨくんだけがしなやかに笑っていた。わたしの頭のはるか上で、口を三日月にして感嘆の息を吐く。まるで「そうきたか」とでも言わんばかりに。


 わたしにはその意図がまったくわからなくて、でも──そう口にした後のヨヨくんがカガミさんの肩に座り直すのと同時に、その頭を、髪を、ゆうっくりと……慈しむように撫でていたのだけは見逃さなかった。


 その仕草は到底子供のものとは思えないほどなめらかで、艶めいていて──


 ああ、やっぱりカガミさんは憑かれているんだ。


 そう思った。


「……えっと、じゃあ、カガミさんたちは、あの村から……?」

 わたしは別の動揺を悟られないように、言葉を継いだ。


「ええ、まあ」

「さっき聴衆に語っていた話は、多少の脚色はあれど決して嘘はないということです。山を越える最中に水龍に遭遇し、お父上がそれを斬った」

「じゃあ、脚色っていうのは──まっぷたつに斬られた龍の姿を、ヨヨくんが振り返って確認したってところ?」

「その通り!」

 ヨヨくんは元気盛りの子供の声で笑った。


「よくお気づきになったものだ。やはりカコさんは鋭い観察眼を持っているね」

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