第27話 京狩野の為恭
描く予定の絵はまだ多いが、ふた月も経つ頃には描きあがったものも増えている。弟子も多く連れてきて人手を増やしているのも要因だが、それでも仕上がりはかなり早い。
「為恭様、一度休まれたほうがいいですよ」
「ん……もう少し……」
毎日がこれだ。こうなると何度言っても聞かなくなる。
頬がこけ、表情が消え、目ばかりがぎらつく。綾野は休むことなく筆を握る為恭に鬼気迫るものを感じた。
そのうちに食べ物を口にしなくなる。まるで
立ち上がった為恭がゆらりと揺れた。
綾野は倒れていくその体を支え、これだからと口の中だけで文句を言う。それでも為恭の扱いは慎重だ。しばらく寝かせておき、その間に道具を片付けてしまおうと静かに動いた。
「為恭様? 起きられましたか。
綾野は目を覚ました為恭を抱き起し水を飲ませた。
「……そう、か。倒れたか」
少し落ち着いたところで椀を差し出す。
「粥にしました。これなら食べられると思いますが」
うなずいた為恭だったが二口ほど飲み込んだところで椀を置いてしまう。
「おおきに、もうええわ」
「今日は終いにしましょう。道具も片付けて他の者も帰しましたから」
「せやな……終わりや」
言いながら頭が痛むのかこめかみを押える。それを見た綾野は不安を口にした。
「為恭様、もしやお休みになられていないのですか」
それに応えずふらふらと立ち上がり、為恭は廊下の端で立ち止まった。
「すみません、片付けたんですが邪魔でしたか。今、除けますね……為恭様?」
なにを思ったか為恭がいきなり道具を外へ放り投げた。掃き清められた美しい庭に絵皿や筆が散らばる。
「どうなさったんですか⁉」
「違う違う違う! なんで私は描けんのや! 」
呻きながら頭を抱え
「思い上がりも
納得がいかないと為恭が怒る。
「何年も描いてきたのに私はこんな下手やったんか……粉本もあるし構図も決めた。伯父上にも相談した。描いてるつもりやし描けてるつもりや」
ぼたぼたとこぼれる涙を拭いもしない。
「自然は美しいもんやろ? 絵はもっと美しいもんやろ? もっと美しゅう描けるはずやろ。美を表現するからこその絵描きや。でけへんならそんなん辞めてしまえ!」
手を伸ばしても届かないと為恭が自らの不甲斐なさを嘆く。
そんな素振りは毛ほども見せなかったのだが、寺の内装を丸々請け負うことはさすがに重圧だったのだろう。大名家ではなく徳川将軍家の寺ということも気にならないわけではなかったのだ。
加えて狩野派としての依頼となれば、線の一本すら描きかたが違う。普段使いつけない技法も使う。むしろ描けるだけに尚更、中途半端に思えて腹が立ったのかもしれない。
「為恭様!」
「あ……」
「すみません、当て身なんて使いたくなかったんですが」
意識を手放して抜け殻のようになった為恭を抱きかかえ綾野は寝所へ向かう。もしやと思ってはいたが寝ることが難しいとなればこれは病いの域になる。それを調整するのは難しい。
食事に関しても今回は度が過ぎていた。最初はいつもの事かと綾野も思った。だが胃が受け付けなくなったのかもしれない。口にするのを嫌がるようになったのだ。
かんしゃくを起こしてから丸二日、為恭は泥のように眠った。
「おはようございます。起きられますか」
枕元に座る綾野は、ぽかりと目を開けた為恭と目が合った。
うん、と為恭が体を起こす。差し出した水を口に含ませると、体に染み渡らせるようにゆっくりと飲み干した。
「体がばきばき言うとるわ。綾野、おおきに。また迷惑かけてしもたな」
自嘲気味の小さな声に綾野は言う。
「ほんとですよ。為恭様がちゃんと休んで食べてくれないと俺が困るんです。為恭様は俺の師匠なんですから立派な師匠でいてくれないと」
泣きそうな顔をしていた為恭が小さな笑みを浮かべた。
「ほな、綾野の自慢の師匠にならなあかんなあ」
「はい」
「残りの絵は私が写し取れる一番の美しさを残そて思う。少なくとも京狩野の絵師として前を向けるものを描かんと伯父上にも迷惑や」
今だ胸中に悩みを抱えたままだろう。
ぽつりと言った為恭が潤んだ目を岡崎の空へ向ける。薄雲に覆われた空の果てにそれが見えているのだろうか。
「自分に足りひんもんがあるのもわかっとるんや。ただ……悔しいわ」
それからは憑き物が落ちたようにいつもの顔で描き始めた。
すべての障壁画を描き終える頃、寺に来てから
為恭の手による百四十七面の障壁画と『作画目録』一巻が共に大樹寺に残されている。
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