第25話 血塗れの歴史
「そうです。アンは、本当の名はアンネローゼ・アロセイルだと言いました。ジュード、なぜわかるのですか」
「ブレンディエの史書にアンネローゼ・フィニレという女性の名前があります。王家から貴族に降嫁したと記録されており、嫁入り先の家名はアロセイル家。その後、アロセイル家は王家の不興を買い王都を追われています。おじさん、当時のことを何か知りませんか?」
「最近物覚えが悪くてのォ」
「……おじさん」
ジュードはフラドナグをじろりと睨む。
「そ、そう言われてものォ。それ、サラーが生まれる前の話じゃぞ。わしだって、この国に居着く前のことは知らんもん」
ため息をつきつつ、ジュードは頭を掻く。
「おそらくこのアンネローゼという方は、王位継承者同士の争いから抜け出すためか、あるいは敗れて、王家を離れたのでしょう。当時の王に省みられていたとは考えにくい。期待された子なら、アンネディアと名付けられるはずですし」
王家の男子にはディオ、女子にはディアという名が与えられるのが慣例だ。それがないなら、アンネローゼ・フィニレは王の落胤である可能性が高い。
「アロセイル家は優れた魔道士を輩出する家系でした。都を追われた後の彼らの足取りは不明ですが、おそらく戦士の村に身を寄せたのでしょう。そして、村人に敬われながら今まで長らえてきた……その末裔が、イリスディア様が村で出会ったアンとビルだと思われます」
「またなのか!」
ゾクリ、と怖気が走った。
フラドナグの体から冷気が立ち上っている。その顔は怒りで激しく歪んでいて、先ほどまでとはまるで別人だ。こんなフラドナグは初めて見る。
「おじさん、落ち着いてください。若返ってしまいますよ」
「これが落ち着いてなどいられるか! 今すぐそのアンとかいう娘を探し出して殺す!」
「えっ……!?」
「関わった者は皆殺しにせねばならん。王家を盤石にするには、見せしめが必要じゃ」
フラドナグの全身に、冷たい憎しみが漲っている。老齢とは思えないその威圧感に、私の身は震えた。けれど、声を絞り出した。
「いけません、フラドナグ。それでは……」
「止めるなイリス! お主のためでもあるんじゃぞ!」
「トトを殺すというのですか!?」
フラドナグの肩が跳ねた。目に見えて動揺している。
「……トトが、おるのか? 敵の中に?」
「いると思います。戦士の村の方々がアロセイル家を支持しているなら、同じ村で生まれたトトもいると考えられませんか」
「じゃが、トトは勇者。ブレンディエのために戦ったのじゃぞ。なぜ牙を剥く?」
「それは……」
私には説明できない。トトがなぜ私を攻撃し、私を魔王の手先と呼んだのかを。
戸惑う私を見てか、ジュードが静かな声でフラドナグをたしなめた。
「おじさん、焦るのはわかります。でも話を聞いてください。黙らないなら、そこの男に黙らせますよ」
いつの間にか、フラドナグの傍らにロビンが立っていた。
「イリスディア様もよく聞いてください。まず、先ほどの小隊に精神干渉の魔法が効かなかったのは、彼らがすでに精神干渉を受けていたからです」
「すでに、ですか」
「はい。彼らがつけていたバッジは、装着者を守るものではなく、装着者を幻惑する魔道具なんです。彼らには、自分たちが王都を攻撃している自覚がない。だから、バッジを破壊された者は逃げ出した。反乱の片棒を担がされていることに気がついたから」
「バッジってこれか?」
ロビンが、傷ついた装飾品を取り出して見せた。
「同じもんが大量に落ちてたんで、一つ拝借してきたぜ」
それは、円形の木の板に赤い石が一つ埋め込まれているだけの、バッジと呼ぶにはあまりにも粗末なものだった。
「ロビンの手癖の悪さが役に立ちましたね」
「おいおいジュード先生、素直に感謝できないんですか?」
私はロビンの手の中の石をじっと見つめた。その赤い光には、見覚えがある気がした。
ジュードは続ける。
「正気に戻ったら逃げ出すような者たちを当てになどしないでしょう。北地区を襲ったのは操られたごろつきで、彼らには信念などない。本隊は別にいます」
「じゃあ問題は、本隊がどこにいるかってことと、真の狙いはなにかってことか?」
「狙いは、サラーの命じゃろ」
フラドナグは冷淡に言った。
「ジュード、わしは城に結界を張る。少しの間イリスを借りたいんじゃが、よいか?」
「わかりました。僕は……」
「反乱分子の根城を探すんだろ?」
ロビンがジュードに声をかける。
「候補地を絞ってあるんなら、俺が見てくる。地図に印をつけてくれ」
「お願いします。捜し物はあなたの方が得意ですしね」
「褒められてるはずなのに褒められてる気がしないなあ」
二人はいつもの調子で軽口を叩き合っている。私やフラドナグに、冷静さを取り戻せと言いたいのだ。
「……では、イリスよ。わしについてきてくれ」
「はい」
フラドナグは門を降りていく。その背中は、ひどく憔悴して見えた。
* * * * *
目の前はもう王城だ。この城に入るには、南側の正門を使うしかない。今私たちがいる北側と、貧民街に近い西側は高い城壁に囲われていて、東側はイール大河が天然の堀として機能している。
「普通の人間は、正門を塞げば城に入ることはできん。しかし敵の本隊にトトがいるなら、話は別じゃ。壁を乗り越えるか壊すかして入ってくるかもしれん。そこで、城を結界で包み込む」
城の壁には、侵入者を阻むための魔法陣が刻まれている。けれど、その魔法が発動し侵入者を焼くのは、侵入されてからだ。フラドナグが言うように、侵入自体を防ぎたいなら、結界の魔法を事前に発動させなければならない。
「ですが、結界の発動は城の中で行うと聞いています」
いざというときには結界を私の権限で発動できるよう、父からやり方を教わっている。私が宮廷魔道士たちに命令を下し、城の中心にある中庭で魔法を使ってもらえばいいのだ。
だから、フラドナグが城に戻らず、城壁のそばにやってきたのが不思議だった。
「城にかけられている魔法を利用するのではなく、一からわしが結界を作るんじゃ。外からな」
「そんなことができるのですか」
「できるように、魔力を貯めておいたんじゃよ」
フラドナグは、腰のベルトにくくりつけた革鞄から、封筒を取り出した。
「ありゃ、封蝋が割れとる。20年くらい前のもんじゃし仕方ないかのォ。ま、大丈夫じゃろ」
ほれ、と手渡された紙には、署名欄がある。
「この魔法を使うには王族の許可がいる。サラーかお主かどっちかじゃな」
「ここに私の名を書けばいいのですね」
「内容は確認したか?」
「いいえ。けれど、フラドナグが渡してきたものですから、おかしなものではないでしょう」
「その考え方はイカン!」
ぴしゃりと怒られ、慌てた。けれど、先ほど見せたような激しい怒りの形相をしてはいなかった。目の前にいるのは、私のよく知る、好々爺のフラドナグだ。
「確かにわしは、お主を絶対に裏切らんよ。しかしのォ、お主を陥れるために取り入ってくる輩というのは、間違いなく存在する。万全を期す癖をつけておくべきじゃ」
「……はい」
フラドナグの言いたいことはわかる。アンをあっさりと信用し、騙された私を諭しているのだ。彼女の優しさや言葉のすべてが策略だったとは思いたくないけれど、今置かれている状況こそが真実だ。
「正々堂々と戦えば、お主にかなう者などおらん。だから、お主の命を狙う者はみな卑怯な手を使う。生死を賭けた戦いで、相手の卑劣さを責められるか?」
何も言い返せない。その通りだ。御前試合でもなければ、正々堂々とした振る舞いが評価されることなどない。
「で、どうじゃ? その書面にある結界を張ってもいいと思うかのォ?」
私は手渡された紙に目を落とす。
「父上を守るためにこれを使うのですね」
「いいや、逆じゃ。サラーディオを囮にして本隊を城に侵入させる」
「この魔法を使えば、敵は城に入れないのではありませんか」
「地上からはな。イリス、知っとるじゃろォ? 隠し通路を」
この城には、王族だけが知っている緊急時の避難通路がある。城を出るとき、脱出経路として脳裏をよぎったルートだ。
「敵は王族の末裔じゃ。もし隠し通路を知っておれば、結界を張っても中に侵入してくるじゃろォ? そこをサラーディオとお主で挟み撃ちにする。侵入してこなければ、都を騎士団で虱潰しにすればよい」
「父上と私で……」
「お主がその剣で、サラーディオを守るのじゃ」
「……私が、父上を守る」
復興が進まない南地区。豊かにならない西地区。荒れ果てたままの王都以南。山賊に身をやつした賞金稼ぎたち。
捨て置ける問題ではない。けれど、悪意によって阻まれていたのだとしたら――父はいったいどれだけ多くの敵と戦っているのだろう。どうやってこの国を守ってきたのだろう。
ロビンが言うには、大臣や文官たちは、私を城の外に向かわせて反乱分子に揺さぶりをかけるべきだと考えていた。父だけが、それを容認しなかった。私が外へ出たいと父に願ったとき、父は私を怒鳴りつけた。それこそ、玉座の間にいる大臣や近衛騎士まで竦ませる大声で。
あの時父は、周囲に向かって叫んでいたのだ――「絶対に娘を利用するな」と。
けれど、私は、父の泣き所にはなりたくない。
父が優れた魔道士なのは知っている。水と、風と、光の魔法を自在に操る。武芸にも通じている。魔道士ゆえに常に杖を持つ父は、杖術を磨いた。私にエスペランサの鞘で戦う方法を教えてくれたのは、ほかでもない父だ。
簡単に負けはしない。たとえ、相手がトトだとしても。
私は、父の強さを信じる。
「わかりました」
フラドナグが、私の答えに頷く。
手渡された羽根ペンで、私は自分の名を書く。
ブレンディエ王国王女、イリスディア・フィニレ。
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