曹操の「非完計」
史渙と韓浩の曹操に対する認識の差が、何によって生じているのかは、最終的には両者の為人、個性の差に由来するであろうが、一義的にはその経歴、曹操との係わりの差異に起因しているのではないか。
韓浩については折に触れているが、簡単に彼の経歴について確認しておけば、河內の人であり、『魏略』に依れば、「漢末」に兵を挙げて「多寇」な縣を守り、太守王匡により從事とされて、董卓の兵を盟津に拒いでいる。
この時、董卓が河陰令であった彼の
韓浩が夏侯惇の麾下に入った時期は不明だが、興平元年(194)に張邈が呂布を迎え入れて叛した際に、「惇將韓浩」と見えるので、それ以前である。この時、韓浩は夏侯惇が「偽降」者に
或いは、この時点で韓浩は曹操の直屬に転じたとも考えられるが、『魏略』に「時大議損益、浩以爲當急田。太祖善之、遷護軍。」とあり、この「田」の議は建安元年(196)に「是歳用棗祗・韓浩等議、始興屯田。」とあるので、曹操の身近に登用される様になったのは、同年末以降であろう。
当然ながら、史渙の領軍と同様、韓浩が護軍と為ったのは建安四年(199)であったと考えられ、以降の経歴は「中軍主」として、概ね史渙と重なる。
建安初年以来、特に四年以降に、曹操は大きな過誤を犯しておらず、敗北と言えるのは曹昂や典韋等を喪った建安二年(197)正月の張繡征討が最後であり、強いて挙げてもその翌年にやはり穰に張繡を攻め、勝ち得なかった程度である。從って、韓浩が身近に見た曹操の武略は、彼の云う如く、当に「神武」であったと言える。
ところが、これ以前の曹操は滎陽で徐榮に敗れ、傷を負い、衛茲等を失い、同じく壽張では黃巾により鮑信を戦死させており、兗州に於ける呂布との戦いの中では、濮陽にて兵の潰乱により火傷を負うといった敗戦を重ねている。
また、この間に、徐州で「所過多所殘戮」という虐殺を行っている。これ等は「神武」とも、「無遺策」とも言い難く、曹操の失策と言える。
因みに、徐榮・呂布・張繡に対する敗北は、後代、西晉の張輔が「名士優劣論」(『藝文類聚』所収)に於いて、「失馬被創之危」・「北騎所禽、突火之急」・「挺身逃遁、以喪二子」の失敗として挙げている。
この三事が曹操の代表的な敗北と認識されていた事が窺えるが、所謂「赤壁の戦い」が挙げられていないのは興味深い。なお、張輔は上の三事が劉備の「爲呂布所襲」・「爲武帝所走」・「爲陸遜所覆」以上の失敗だとして、曹操より劉備が勝るとしているが、その論は牽強と言うべきである。
これ等の失策について、滎陽での徐榮への敗北の時点では史渙は居なかった可能性もあるが、他は行中軍校尉として、身近に、曹操の様態を見ていた筈である。そうした経験からすれば、曹操への信頼とは別に、無謬の、全き存在とは見做し得ず、その「非完計」を憂える事となったのではないか。
これ等の失策の時期を見るに、滎陽は反董卓の兵を挙げ、行奮武將軍と為った直後、壽張は東郡から迎え入れられて兗州牧を領した際、宛での張繡征討は獻帝を擁して、司空行車騎將軍と為って程無くと、新たな地位に就いて間もない頃の事である。
また、徐州での虐殺は父曹嵩の復仇の為、濮陽での戦いでは、「我若不還、往依孟卓」と言い残すほど信頼していた張邈や陳宮に裏切られたとの思いがあったと思われる。
何れも、高揚感や意気込み、復讐や怒りといった平常でない心理状態にあり、曹操は過度な思い入れがある時に過誤を犯してきたと言えるのではないか。
そうした意味では、翌建安十三年(208)に丞相と為った直後に行われる荊州征討と、それに引き続く「赤壁の戦い」にこそ史渙が危惧を懐くべきであるのだが、「大封功臣」などの措置や、宿敵とも言うべき袁氏の覆滅にかける意気込みに、同種の思い入れを感じたのではないか。
これ等は無論、想像でしかないが、史渙と韓浩の曹操との係わりに於ける違いを考慮すると、全くの臆断とは言えないと考える。
ところで、この史渙と韓浩の逸話は、「中軍主」たる自分たちが、曹操に疑義を懐いている事を示すのは適当でない、という趣旨からすると、その内容を韓浩が公言するのは、事後、少なくとも史渙の死後は影響が少ないとは言え、自らの発言を無意味にするものである。
かと言って、史渙、或いは会話を知り得た第三者が明らかにするのも、韓浩の趣意を蔑ろにした事になる。
であるならば、この話が伝わっているのは、少なくとも史渙が遠征を危惧していた事が知られており、その懸念が重大でなかった事を示す必要があったからではないか。
その点で興味深いのは、これ以前において、曹操の意図、戦略や戦術について疑念・不安を呈する「諸將」・「左右」が、以下の如く、武帝紀に散見する事である。
三年春、太祖軍頓丘、毒等攻東武陽。太祖乃引兵西入山、攻毒等本屯。毒聞之、棄武陽還。(初平三年)
諸將皆以爲當還自救。太祖曰:「孫臏救趙而攻魏、耿弇欲走西安攻臨菑。使賊聞我西而還、武陽自解也;不還、我能敗其本屯、虜不能拔武陽必矣。」遂乃行。(同条引く『魏書』)
太祖將迎天子、諸將或疑、荀彧・程昱勸之、乃遣曹洪將兵西迎、衛將軍董承與袁術將萇奴拒險、洪不得進。(建安元年)
是時袁紹既幷公孫瓚、兼四州之地、眾十餘萬、將進軍攻許、諸將以爲不可敵、公曰:「吾知紹之爲人、志大而智小、色厲而膽薄、忌克而少威、兵多而分畫不明、將驕而政令不一、土地雖廣、糧食雖豐、適足以爲吾奉也。」(建安四年)
五年春正月、董承等謀泄、皆伏誅。公將自東征備、諸將皆曰:「與公爭天下者、袁紹也。今紹方來而棄之東、紹乘人後、若何?」公曰:「夫劉備、人傑也、今不擊、必爲後患。袁紹雖有大志、而見事遲、必不動也。」郭嘉亦勸公、遂東擊備、破之、生禽其將夏侯博。(建安五年)
是時、白馬輜重就道。諸將以爲敵騎多、不如還保營。荀攸曰:「此所以餌敵、如何去之!」紹騎將文醜與劉備將五六千騎前後至。諸將復白:「可上馬。」公曰:「未也。」有頃、騎至稍多、或分趣輜重。公曰:「可矣。」乃皆上馬。時騎不滿六百、遂縱兵擊、大破之、斬醜。(同年)
紹謀臣許攸貪財、紹不能足、來奔、因說公擊瓊等。左右疑之、荀攸・賈詡勸公。公乃留曹洪守、自將步騎五千人夜往、會明至。瓊等望見公兵少、出陳門外。公急擊之、瓊退保營、遂攻之。紹遣騎救瓊。左右或言「賊騎稍近、請分兵拒之」。公怒曰:「賊在背後、乃白!」士卒皆殊死戰、大破瓊等、皆斬之。(同年)
公之去鄴而南也、譚・尚爭冀州、譚爲尚所敗、走保平原。尚攻之急、譚遣辛毗乞降請救。諸將皆疑、荀攸勸公許之、公乃引軍還。(建安八年)
秋七月、尚還救鄴、諸將皆以爲「此歸師、人自爲戰、不如避之」。公曰:「尚從大道來、當避之;若循西山來者、此成禽耳。」尚果循西山來、臨滏水爲營。夜遣兵犯圍、公逆擊破走之、遂圍其營。(建安九年)
將北征三郡烏丸、諸將皆曰:「袁尚、亡虜耳、夷狄貪而無親、豈能爲尚用?今深入征之、劉備必說劉表以襲許。萬一爲變、事不可悔。」惟郭嘉策表必不能任備、勸公行。(建安十二年)
ところが、これ以降では、例えば建安十六年の「關中平」時に「初、賊守潼關、渭北道缺、不從河東擊馮翊而反守潼關、引日而後北渡、何也」と問うた「諸將或」の如く、曹操の採った戦略に説明を求める事例は見えるが、事前に異論を差し挟む様な例は、少なくとも武帝紀には見えなくなる。
これは建安十三年以降、曹操の権威が向上し、疑念が許されない風潮となっていったとも考えられるが、同時期に世を去った史渙の影響という事も想定してみたい。無論、上記の「諸將」が全て史渙という事はないであろうが、それを象徴する存在が史渙であったとも思われる。
諫言というのは、必ずしも相手の意向を改めさせる為だけではなく、異見の存在、他の視点を提供して対応を考慮させるという意義もあると思われ、そうした役割も史渙が自ずと果たしていたと考えたい。
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