「官渡の戦い」に向けて

 建安四年(199)九月に許へ歸還した曹操は「分兵守官渡」と、袁紹との決戦の地となる官渡に兵を分派しており、防御網を構築させていたと考えられる。


 官渡は『水經注』卷二十二(渠水)に「渠水又左逕陽武縣故城南、東爲官渡水、又逕曹太祖壘北、有高臺謂之官渡臺、渡在中牟、故世又謂之中牟臺。」とある様に、陽武縣の南、中牟の近傍に在り、河南(司隷)と陳留(兗州)の界、白馬や延津から許に向かう途上である。

 官渡を含む河南東部、滎陽一帯は洛陽東方の守りの要であり、この地を突破されれば、許を直撃されると共に、司隷・豫州・兗州は分断される事となるので、曹操としてはこの一帯を最終防衛線とする腹積もりであったと思われる。


 そうした中、十一月に「張繡率眾降、封列侯。」と、南陽の張繡が降っている。張繡が拠る南陽(穣縣)を放置すれば、袁紹との決戦時に後背となる許方面を衝かれる恐れがあり、その憂いが解消されたと言える。

 ただ、翌月の廬江太守劉勳も「率眾降、封爲列侯。」とされている様に、郡を挙げてではなく、飽く迄も「眾を率」いての歸服であるので、版図の拡大という点では益するものではない。

 しかし、戦力の拡充という点では、許西方の安寧という事も含め、その意義は大きかったと思われる。故に、曹操はその来降を歓迎し、列侯に封ずると共に、揚武將軍と為し、更にその女を子の曹均に娶せている。


 張繡は族父である張濟に随って既に建忠將軍とされ、宣威侯に封じられていたとは言え、この時点で將軍とされているのは董承(衛將軍・車騎將軍)の様な獻帝随從の諸將や、劉備(左將軍)の事例を除けば、夏侯惇(建武將軍)と程昱(振威將軍)、保留が必要な曹洪(厲鋒將軍)以外は、徐晃・李通の裨將軍のみであり、彼への厚遇が知れる。

 また、張繡に曹操への歸屬を進言した賈詡も九卿に準ずる執金吾とされ、都亭侯に封じられており、その功が重視されたと言える。

 なお、劉勳は琅邪の人で沛國建平長であった際に「與太祖有舊」であったと云うが、袁術の故吏でもあり、その死後にその「妻子及部曲男女」を引き込み、或いはその後繼たらんと目論んでいたと思われる。だが、江東の孫策に討たれ、曹操の下に歸している。

 廬江は揚州に屬するが、壽春などの九江郡(淮南郡)と共に江北の郡であり、西に荊州の江夏郡と接する。孫策の廬江侵攻は、彼が勢力圏とする江南の丹陽・吳から江北や荊州方面へ進出する足掛かりを得たと言え、曹操としては南方への対処も必要とされる事となる。

 ただ、当面は揚州刺史嚴象、そして、彼が孫策の任じた廬江太守李術(李述)に殺された後に、その後任と為った劉馥などに対応が委ねられている。


 さて、張繡の歸服により後背の憂いが減少したと言える曹操は十二月に自ら官渡に進軍している。

 そして、袁紹との決戦が迫る中、年が明け、建安五年(200)正月壬午(九日)に「車騎將軍董承・偏將軍王服・越騎校尉种輯受密詔誅曹操、事洩。」と、曹操への陰謀が発覚した董承等が誅殺され、夷三族となっている。


 王服・种輯などについては詳細不明だが、董承はこれまで触れてきた様に、軍事的には曹操に次ぐ將軍号を有する人物である。劉備傳には「獻帝舅」とされ、裴松之はこれを「漢靈帝母董太后之姪」、獻帝の祖母である董太后の姪であると解し、その女も獻帝の貴人となっており、二重に外戚という事になる。董承が政治的に如何なる権勢を得ていたかは不明だが、曹操に対抗し得る立場にあったと言える。

 その董承に「誅曹操」という密詔が下されるというのは、周囲の情勢に乗じてという点では充分にあり得る事かと思われるが、一方で、曹操がこれを機に潜在的な対抗勢力を一掃しようとしたとも考えられる。

 何れにせよ、これによって、曹操は後背の不穏分子を除去して、対袁紹戦に専念する態勢を整える事が出来たと言える。そして、この陰謀には劉備も係わっていたとされ、曹操は即時、自ら東征してこれを撃破している。

 劉備はその妻子や下邳を守備していた關羽を残して、袁紹の下に逃走し、孤立した關羽等は降っている。


 この東征については「諸將」が「與公爭天下者、袁紹也。今紹方來而棄之東、紹乘人後、若何」と、袁紹に乗じられるのを危惧する中、曹操は郭嘉の勸めもあり、「夫劉備、人傑也、今不擊、必爲後患。袁紹雖有大志、而見事遲、必不動也」として、袁紹は動く事はないので、後顧の憂いとなる劉備を先に討つべきとしたと云う。

 確かに、袁紹傳には「田豐說紹襲太祖後、紹辭以子疾、不許。」と、襲撃すべきという田豐の進言を袁紹は「子疾」を以て却下したとある。

 ただ、于禁傳には「劉備以徐州叛、太祖東征之。紹攻禁、禁堅守、紹不能拔。」と、袁紹の攻撃を于禁が堅守したとあり、実際には規模は兎も角、攻撃は行われたと見られる。この記事には曹操の決断、及び彼に評価される劉備を高からしめ、袁紹を貶める潤色があるのだろう。


 一方で、豫州の東方、兗州の南方に当たる沛に拠る劉備を放置すれば、後背を衝かれる危険が生じ、迅速に討つ事が必要だったのも事実だろう。故に曹操は上述の如く、于禁を守備に残し、「攻劉備於沛、皆破之、拜討寇校尉。(樂進傳)」・「從破劉備(徐晃傳)」とある樂進・徐晃、主力の諸將を率いての速戦を決断したと思われる。

 なお、曹操に降った關羽は「拜爲偏將軍、禮之甚厚。」とされている。偏將軍は『宋書』百官志では將軍条末尾の裨將軍と共に最下級の將軍号であるが、平虜校尉の于禁、戦後に討寇校尉とされた樂進よりも上位と言え、歸服の状況が似る裨將軍の徐晃、中郎將の張遼と比較しても厚遇されている。


 因みに、『漢書』卷九十九王莽傳では「四方盜賊多」という情勢下に、王莽が「內設大將、外置大司馬五人、大將軍二十五人、偏將軍百二十五人、裨將軍千二百五十人、校尉萬二千五百人、司馬三萬七千五百人、候十一萬二千五百人、當百二十二萬五千人、士吏四十五萬人、士千三百五十萬人。」という軍編成を創出している。

 「大將軍」一に対して、偏將軍五、裨將軍五十、校尉百という割合になっており、これがその儘援用できるかは疑問だが、相対的な立場を推定する材料となる。

 また、「賜諸州牧號爲大將軍、郡卒正・連帥・大尹爲偏將軍、屬令長裨將軍、縣宰爲校尉。」ともあり、概ね「大將軍」が州、偏將軍が郡、裨將軍・校尉が縣に相当する軍を率いる事が窺える。


 以上、建安四年(199)以降の曹操の主として軍事面に於ける動向を見てきたが、曹操は袁紹との決戦に備える一方で、臧覇・李通に東北・西南の守備を担わせ、また、于禁を筆頭に諸將へ諸方の軍事を委ねており、自らが全面的に直裁しない軍制の構築を企図していると思われる。

 そうした中、史渙の動向は不明であるが、基本的には領軍として、それ以前からの中軍校尉としての、本来の任を果たしていたと思われる。或いは、劉備征討に際して、袁紹の来寇を危惧した「諸將」に史渙が含まれるという可能性も考えられる。

 ともあれ、袁紹との対決は避け得ぬ情勢となり、「官渡の戦い」へと至り、その戦いの中で、史渙は再び史上に登場する事となる。

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