「漢」の終焉への応援コメント
赤壁の戦いって、実際はどうだったのかなあ。演義では大きく扱いでしたが戦時代はもっと小規模?なのか。
作者からの返信
魏の側は過小に、吳の側は過大に言い立てているでしょうから、どうだったんでしょう。
規模は兎も角、曹操の將で戦死者は無し、荊州北部も確保されているので、致命的な敗北ではなかったと言える一方、南方への拡大は停止し、曹操の外征も暫く見えないので、影響は大きかったとも思います。
史料的な裏付けは無いですが、曹操に吳制圧の意図はなく、劉備の逃亡に引き摺られて、予定より突出して南下。張遼等を切り離していた事で、吳軍を圧倒できる程の兵力が手元に無く、受身になり、後手に回って敗北を喫したのでは、と考えています。その点では小規模、ですかね?
建安初の「諸將」―親族への応援コメント
演義やら漫画だと、軍事関係は夏向とんの一族組と思ってましたが意外
作者からの返信
記録の不備などもあるでしょうが、曹仁以外の「一族」が軍事で目立つのは、赤壁以降、史渙の死後のようです。
「沛國史渙」への応援コメント
曹操を色々調べて漢語のサイトなどを漁っておりましたら、先年発見された曹家の墓から出土した物などから判明したこともかなりあり、どうも曹参ではなく曹無傷の血統である可能性が高いようです。
歴史小説や考察物は新事実発覚などがあると根柢を覆れることがあって、厄介ですよね。
作者からの返信
曹無傷系説については未見なのですが、それはそれで、曹操の台頭が四百年越しの劉氏(劉邦)への意趣返しといったところで面白いと思います。
ただ、問題は曹操等の自認・自称が如何なるものであったのかで、漢代に敢えて曹無傷の系統を名乗る意味は無い様に思われます。
彭城劉氏が押し並べて楚元王(劉交)に系譜を繋いでいる様に、沛國で曹氏と言えば曹參という意識があったのではないでしょうか。
後代の様に墓誌が一般化していると、その辺も窺えるのでしょうが。