第3話


 通学前、僕は必ず酔い止めを飲む。箱から取り出し、残り四錠だけが残ったシートを眺める。未だに慣れない電車の揺れから僕を守る救世主を手のひらに出し、水で飲み下す。ふぅと息を吐き出し、スクールバッグを肩にかけた。「行ってきます」とキッチンにいる母へ声をかけ、靴を履き、外へ出た。朝日が目を焼いて、思わず顔を伏せる。

 ────今日も、彼に会えるだろうか。

 ヒカルの顔を思い浮かべ、頬が熱くなる。体が熱り、汗が滲んだ。

 そこでハッと我に返り、首を横に振る。

 ────僕、馬鹿みたい。

 ヒカルのような明るい人間に声をかけられ、友達だと言われ、勝手に舞い上がってしまったことに気色悪さを感じた。

 彼はきっと根っから優しい人間なのだ。故に、たまたま僕に声をかけてくれただけだ。

 道に転がる石ころに視線を投げる。ヒカルにとって、この石ころと僕は同等だろう。


「はぁ……」


 静かな住宅街を抜け、駅へ向かう。徐々に人が増えてきた光景がいつも通りで、何故か胸を撫で下ろす。駅構内へ向かい、ホームへ流れ込んできた電車に乗り込み、座席へ腰を下ろした。まだ空いている車内をぼんやりと眺める。

 ────会えるといいなぁ。

 どうも僕は、彼の残像を打ち消すのが下手くそらしい。気分を変える為、窓の外へ視線を投げる。微かに映る自分の顔と睨めっこしながら、変わりゆく景色を見つめた。


「コウ、ここ座っていい?」


 突然、名前を呼ばれ、僕は跳ね上がるほど体をビクつかせた。声をした方へ顔を向けると、そこにはヒカルが立っていた。吊り革に手を下げ、微笑む彼に唖然とする。どうやら僕が意識を手放していたうちに、電車は各駅に止まっていたらしい。

 口をパクパクとさせていた僕は、何度も首を縦に振った。「サンキュー」と言いながら腰を下ろしたヒカルが、白い歯をみせる。


「また会ったな」


 屈託のない笑みを浮かべた彼に魂を抜かれたかのように、僕は無言で頷いた。ふと、電車内を見てみる。他にも座れる箇所があるにも関わらず、ヒカルは僕を見つけ、隣に座ってくれた。

 ────嬉しい。

 素直にそう思った。彼が僕を見つけ、声をかけてくれたことに胸がドキドキと高鳴る。


「今日もちゃんと飲んだんだな」


 僕の顔色を見て、彼がそう言った。「忘れずに飲んだよ」と返すと、ヒカルは残念そうに背もたれに体を預けた。


「そっか、飲み忘れてたら俺がしっかり介抱してやろうと思ったのに」


 「え?」と声を漏らし彼へ視線を投げる。唇をわざとらしく尖らせた彼がそうひとりごち、やがていつもの表情に戻り口角を緩めた。


「なんてな」


 僕はなんと返して良いか分からず、固まってしまった。そんな僕を見て、ヒカルが慌てたように声を上げる。


「ごめん、ごめん。変なこと言ったよな」


 頭部を掻きながらおどけて笑う彼に首を横に振る。


「もし、また気分が悪そうにしていたら声をかけてね」


 その言葉に、ヒカルが頷く。「任せとけよ。俺、お節介焼きだからさ」と肩を叩かれた。彼の触れた部分がじわりと熱を帯びる。優しい彼の気遣いに、目眩さえ覚えた。



 好きなのかもしれない。僕は彼に芽生え始めてきた感情を、自覚し始めていた。胸の奥をじわじわと浸食するその暖かさを帯びた疼きが、日に日に抑えきれなくなっていることが恐ろしくもあり、嬉しくもあった。

 ────でも、知田くんに気づかれたくないな。

 彼に嫌われて、拒絶されるのは怖かった。彼はたまたま僕に親切にしてくれただけの、優しい人だ。だから、変に好意を寄せて不審に思われたくない。

 ────この気持ちは僕の中で抑えておかなきゃ。

 あの日以降、ヒカルは電車内や駅構内で僕を見かけては声をかけ、手を振る。綺麗な笑みで僕の名前を呼ぶ彼を見るたびに、心に潜む醜い感情の影が濃くなる。

 彼にもっと近づきたいと願ってしまうのだ。


 その日も僕は視線で彼を追っていた。ヒカルが乗ってくる駅は、僕がいつも利用している駅から二駅離れた場所である。いつも通り席に座ったまま、まだ空いている電車内を眺め、息を漏らす。

 ────なんか、気持ち悪いな。

 気分が、ではない。自分自身が、である。助けてくれた彼に勝手に好意を寄せて、逐一その姿を探すだなんて。

 悶々としていると、ヒカルが乗ってくる駅に止まった。自然と背筋が張る。何も気にしていませんよ、と言いたげな涼しい顔をしつつ、手のひらに滲んだ汗をスラックスで拭った。

 緩やかに止まった電車のドアが開き、人々が乗ってくる。目で彼を探し、いないことに気がついた。息を漏らし、体の緊張を解く。

 ふと、隣の車両へ目が釘付けになった。僕の位置から、隣の車両の席が見える。そこに、見慣れた少年と────見慣れぬ少女がいた。

 僕は一瞬、固まってしまった。見慣れた少年は、ヒカルだ。隣に座った少女に乱れた制服のボタンを留められながら、何かを言われている。

 常に笑顔のヒカルしか見てこなかった僕は、彼の怪訝そうな表情を初めて見て、心の中で何かが疼くのを感じた。

 少女はピシッとした女性だった。ヒカルとは真逆で、きちんと制服を着こなしている。髪の毛も艶やかな黒髪で、枝毛さえ感じられない。


「────」

「────」


 位置が離れているため、彼らの会話は聞き取れない。しかし、少女はヒカルの身だしなみに対して、怒っているようだった。

 だが、雰囲気が悪いというわけではなく、むしろその関係性を浮き彫りにしている。

 ────あんな顔、するんだ。

 横目でヒカルを見つめながら、どこか心にぽっかりと穴が空いたような感覚に陥った。

 ヒカルはこちらに気がつくことなく、ワックスで整えた髪を丁寧に校則通りの髪型に戻す少女の手に従っている。

 ふと、少女の制服を凝視した。彼女の身に纏っている制服は北米原高校のものではない。藍華女子高校のものである。胸元にある青色のリボンは女性的で、とても愛らしく見えた。

 ────お似合いだな。

そんな言葉が脳裏に浮かぶ。きっと恋人同士なのだろうなと感取し、肩を落とした。

 ここ数日浮ついていた気分が一気に散り、夢から醒めたかのような感覚に陥る。

 急に現実へ引きずり戻された僕は、ただぼんやりと二人を眺めることしかできなかった。

 結局、目的の駅に着くまで、ヒカルがこちらに気がつくことはなかった。

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