ドイツ留学中に出会った踊り子(美少女)が、日本まで俺を追いかけてきて、しかも結構病んでいるんだが?

零余子(ファンタジア文庫より書籍発売中)

プロローグ

 机を密着させる。

 机の縁と縁が合わさり、二人の間に一本の線を作った。


 この縁こそが壁なのだと、彼女には言い聞かせてある。

 ――これより先は互いに不可侵。

 ――俺はこの先に立ち入らないし、君も縁より先に手を出してはいけない。


 両者を分断する不可侵の障壁。

 さながらベルリンの壁である。

 そう俺は思っていたのだが……


 ふわっ、と。


 たやすく領土侵犯をしてくるのは、彼女のまとう香水の匂い。

 そして熱っぽい目線と、蠱惑的な吐息が続けざまにやってくる。


【ねぇ、オト】


 続いてドイツ語が国境線を侵犯した。

 格調高く重厚感を感じやすいドイツ語さえ、彼女の唇にかかれば、まるで水あめのように甘く粘性を帯びながら耳に入り込んでくる。


【私はルールを守っていますよ? あなたの言うとおり、机の縁から先に入ってはいません。だけど、私の言葉、吐息、視線、そしてあなたへの想い……これらはなーんにも制限されていませんよね?】


 視線を横に向ければ、そこには透き通った美貌がある。

 色素の薄い、銀色の髪。

 白い肌は「どうぞあなた好みに染めてください」と訴えてきているかのよう。

 青みかがった瞳がまっすぐにこちらを見つめ、色づく唇がさっきからこちらを甘く誘惑してくる。


 今は世界史の授業中だというのに。集中しないといけないのに。

 意識が、彼女の瞳のなかに吸い込まれそうで――



「おい、毛利!」



 世界史の先生の声で、彼女の瞳に飲み込まれかけた自分自身を取り戻す。


「はい、先生! 何ですか!」

「何ですか、じゃないだろう。隣のヴァイゲルトさんに、俺の授業の内容をドイツ語翻訳してくれないと。だからお前が隣にいるんだろ」

「すみません。ぼーっとしてました」

「おい頼むぞ、秀才」


 冗談めかせた言葉を尻において、先生は授業を再開する。


「つまりアジアとヨーロッパにおける『封建制』には類似点もあるが、その核となる思想には大きな違いが見られる。この点、テキストでは――」


【えっと、Feudalismusフューダリズムの捉え方に、アジアとヨーロッパでは違いがある。その説明が教科書の――っても日本語だからエリスにはちょっと難しいだろうし、俺が後でノート翻訳して渡すわ、ココ】


 先生の言葉を頭で咀嚼し、ドイツ語に転換して彼女に伝える。

 彼女はまるで慈雨を全身で受けるかのように、嬉しそうに言葉のシャワーを浴びていく。





「ところで来年から始まる大河ドラマ『徳川家茂』についてだが――」

【――主演に名優・佐藤浩市が選ばれたことは大河好きとしてはとても嬉しいことであり……いや、これ授業じゃねぇな? ただの雑談パートに入ったぞ】


 ドイツ語訳、一時中断。

 翻訳は疲れるので、少し休憩。

 

 ……しかし、気になる。

 そもそも二十歳程度で他界した家茂のキャストとして適切なのだろうか?

 見たいか見たくないかを問われれば、限りなく見てみたいが。


 そんなことを考えていて、ふと。

 隣を見ると、ドイツから来た美少女が、妖精のような笑みを浮かべている。

 そして言葉の不意打ちを浴びせてきた。


【オト、愛しています】

【なっ――⁉】


 慌てて周囲を見渡す。

 授業中なので、当然周りはクラスメイトだらけ。

 そんななかでの直球の告白は、あまりに心臓に悪いものだった。


 結論から言えば、多くのクラスメイトの耳が彼女の言葉を拾っていた。

 だが反応がなかったのは、俺たちの会話がドイツ語だったため、理解されなかったから。

 それを知っていて、彼女は言葉に官能の火をくべる。


【どんな風にしてくれても構わないんです。私の、全身を】

【私、オトの望むとおりに舞います。私はあなただけの踊り子ですから】


 顔に熱を感じる。

 隣の美少女を直視できなくなる。

 途端、教師に「毛利、お前熱でもあるのか?」と聞かれ、肝が冷えた。

 肝が冷えたことで顔の火照りが鎮まれば、落ち着きも取り戻せる。

 一息ついて、元凶の美少女へ恨みがましい目を向けた。


 クスクス、とそよ風のように彼女は笑う。

 そして唇をまた動かしてくる。


【とぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっても……愛しています】


 今度は重圧を感じる声で、釘を――俺を標本にするかのような鋭く長い言葉の釘を刺してくるのであった。

 逃がさないと。絶対に逃がさないと。

 瞳がそう雄弁に物語っている。

 恋に染まった乙女の瞳でありながら、獲物と自分との距離を測っている肉食獣の目にも似ていた。


 そして、獣の目線は隣からだけではないのだから、始末が悪い。

 これは授業が終わった後、一波乱ありそうだ。


 ――ああ、どうしてこうなってしまったかな。


 彼女から目線を逸らし、高校二年生の男子生徒である俺――毛利於菟おとは心中でため息をつく。


 こうなった始まりは、先だってのドイツへの短期留学が原因だった。

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