第21話 8月18日 その2

「友梨佳。ちょっと降りてきなさい」

 泰造から声をかけられたのは14時ころ。そろそろ午後の作業に入ろうかとした時だった。

 友梨佳が作業服のままダイニングに降りると、この前訪問してきた男性2人がテーブルに座っていた。

 あごひげの男性は、今日は紺のポロシャツにパンツスタイル。もうひとりは同じスーツ姿だった。2人は友梨佳がダイニングに来ると立ち上がり、ひげの男性が友梨佳に名刺を差し出した。

「高辻友梨佳さんですね。はじめまして、富樫賢一と申します」

 名刺には株式会社Artemis Resort 東北・北海道支部経営企画室室長 富樫賢一と書かれていた。

「中村裕二と申します。はじめまして」

 スーツの男性の名刺には室長の文字がなかった。富樫の方が上の立場だという友梨佳の見立ては正しかった。

「高辻……友梨佳です」

 友梨佳はいぶかしげに挨拶をした。

「お話しは伺っています。馬に乗るのがとてもお上手みたいですね。なんでも国体レベルとか」

「はあ……」

 チラリと泰造を見る。

「海岸沿いにあるアルテミスリゾートの方だ。お前にも関係することだから聞いていきなさい」

 リゾートホテルの人が何の用? 友梨佳は緊張で口の中が乾いていくのを感じた。

「私共は海岸通りにアルテミスリゾートホテルを展開する株式会社アルテミスリゾートの経営企画室から参りました。この度、弊社の新規事業に高辻様のご協力を賜りたく参った次第です」

 富樫のビジネスライクな言い方と、初めて聞く話しに友梨佳は戸惑った。

「協力って?」

 友梨佳は泰造に聞くが、泰造はまあ聞きなさいと言うだけだった。

「弊社は、この度新たにグランピング施設の展開を計画しております」

「グランピング?」

「豪華なキャンプ場とお考えいただければよろしいかと。しかし、弊社には充分な土地がございません。そこで高辻様の所有する、この素晴らしい土地を是非当社にご提供頂けないかとご相談に参りました」

「提供って……要するに牧場を売ってほしいってこと? おじいちゃん知ってたの?」

「泰造様に打診はかけさせて頂いておりましたが、具体的なお話しは今回が初めてです」

 友梨佳は上手く丸め込まれた気がして釈然としない。

「こちらが完成予想図です」

 中村がタブレット端末に完成予想図を表示して友梨佳と泰造に見せた。

 タブレットの画面には、様々な形のテントが立ち並び、その周囲で親子連れなどのグループが楽しげにすごす様子が描かれていた。今の牧場の雰囲気は何もない。遠くに描かれた海だけが、確かに高辻牧場の土地だった事を物語っていた。

「弊社はお客様に体験していただくをコンセプトにしています。そこでグランピング施設の脇に体験型観光牧場を併設します」

 完成予想図には、グランピング施設の端に小さい柵に囲まれた放牧地とその中で馬に乗りながら柵の外にいる親に手を振る子どもが描かれていた。

「しかし、弊社には馬の飼育や牧場の運営に係るノウハウがありません。そこで、高辻様が弊社事業にご協力いただけるとのことであれば、友梨佳さんに牧場スタッフとして勤めていただきたく存じます」

「ほう」

 打診の時にはなかった条件なのだろう。泰造は気を引かれたように相槌を打った。

「給与につきましては、本社採用と同条件でご提示したいと考えております」

「東京と同じ給料ということですかな?」

「仰る通りです」

 泰造は思わず色めき立って、友梨佳を見た。東京と日高地方では同じ事務職にしても給料が1.5倍は違う。小規模の牧場スタッフと比較したら、ゆうに倍以上になるだろう。ただ、せいぜい札幌までしか知らない友梨佳にはピンときていない様子だった。

「悪くない話じゃないか。なあ、友梨佳」

 泰造の心は牧場の売却に傾きかけているようであった。

「でも、この牧場はなくなっちゃうんですよね……」

 富樫は一拍置いた後、穏やかに口を開いた。

「このように考えてはいかがでしょう。形を変えて続いてゆくと。確かに、現状の高辻牧場はなくなってしまいます。しかし、観光牧場を併設するのでこの地に馬は残ります。そして、それを目当てに以前の高辻牧場のように多くの人たちが集まります。想像してみてください、多くの人の笑顔がこの地に溢れるのです。形は変わっても高辻牧場の魂はこの地に生き続けます」

「でも……スノーやルージュとか今いる馬たちは?」

「サラブレッドはお子様が乗るには、やや不向きかと。ポニー等お子様にも安全に乗っていただける馬を準備する予定です」

「……⁉」

 友梨佳は言葉を失った。展開が急で理解が追い付かない。ただ牧場が無くなってしまうことだけが友梨佳の頭を支配した。

 息苦しい。この場から逃げたい。逃げてどうにかなるわけではないことは分かっていたが、この場から離れたかった。

「……午後の作業に戻らないと……」

 友梨佳は消え入りそうな声でつぶやいた。

「大事な話の最中だぞ」

 泰造がたしなめるのを富樫が手で制した。

「いえ。ちょうど我々も引き上げるところです。重要なお話ですから、じっくりご検討ください」

 友梨佳は立ち上がり、頭だけ下げると逃げるように玄関を出た。

 厩舎まで一目散に走り、入口をくぐるとそのすぐ脇の壁に隠れるように背中を付けて立ちすくんだ。

 どうしよう。やっぱり牧場が無くなっちゃう。やっぱり、そんなの嫌だ。そうだ、陽菜に電話しよう。

 友梨佳は作業着のポケットをまさぐるが、スマホを部屋に置いたままだったことに気が付いた。

 友梨佳は大きくため息をつき、天井を見上げた。

「それでは、是非前向きにご検討ください」

 厩舎の外から富樫の声が聞こえる。

「それで、イルネージュファームからは何か……」

 富樫がそう話し出したところで友梨佳はハッとした。

 そうだ、これも聞いておかないと。友梨佳は厩舎を飛び出して富樫たちのいる玄関に走った。

 友梨佳が急に現れたことに富樫は一瞬驚いた様子であったが、すぐに顔に笑みを浮かべた。

「どうかなさいましたか?」

「この前、おじいちゃんと話しているところを少し聞いたんです。イルネージュファームから連絡はあったか。彼女には気を付けろって。彼女って遥さんの事ですよね。それってどういう事なんですか?」

「お前には関係ないことだ」

 泰造が口を挟む。

「高辻さん。いい機会ですから、友梨佳さんにも聞いていただいた方が良いでしょう」

 泰造は口をつぐむ。

「私共も、にわかには信じられないのですが……」

 富樫はそう前置きして話しだした。

「イルネージュファーム代表の青山遥さんは、当時隣接していた宮内ファームにこう持ちかけたそうです。育成施設を造りたいが土地がない。預託料を支払うので馬を預かってほしい。空いた場所に育成施設を造ると」

 友梨佳はじっと富樫を見ながら話を聞く。

「宮内ファームは赤字経営で苦しんでました。そこに定期的な預託料、それも大きな金額が入ると見込んで、宮内ファームは無理に借金を重ねて真新しい厩舎を建てた。ところが厩舎ができた途端、青山さんは約束を反故にした」

 友梨佳の両手が震える。泰造はため息をついてうつむいた。

「経営破綻した宮内ファームの土地建物は売りにかけられ、イルネージュファームが市場価格より大幅に安く手に入れた。資産を全て失い借金だけ背負った宮内一家は離散したそうです」

「そんなの信じられない……。遥さんはそんな事するような人じゃない」

 友梨佳は両手で震える自分の両肩を押さえた。

「私も信じられませんでした。昔、東京でこれに似た話がありました。その時は経営者が首をくくったそうです。信義則に反するやり口です」

「おじいちゃん、ホントなの?」

「当時、そういう噂が牧場主の間にあったのは本当だ。友梨佳は遥に懐いてたから言えなかった」

「そして今回、青山さんは高辻さんにこう持ちかけてきたそうです。預託料を払うから高辻牧場に育成施設を造ってくれないかと……」

 友梨佳は頭を殴られたようによろめいた。

 中村が友梨佳の肩を支えるが、友梨佳はその手を振り払って玄関の中に入って行った。

「友梨佳!」

 泰造が呼びかけるが、友梨佳の耳には届かなかった。何をどうしたらいいのか分からない。友梨佳はゆっくりと暗い階段を上がった。

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