応援コメント

第19話 巣食う者(天保6年(1835年))」への応援コメント

  • 名前が出た本多政和は史実で奥村の死後年寄と組んで藩政主導してましたがその息子である本多政均は前田斉泰の寵愛を得た側近なんですよね。この世界ではどうなるか。
    藩内は保守派と改革派で別れて家老もそんな感じで対立していた前田家をうまく纏めることができるか、今後が楽しみです!

    作者からの返信

    読んでいただきありがとうございます。
    保守派と改革派をどのように融和していくのか。それとも処断していくのか。これかの主人公の行動にご注目ください。
    これからも応援よろしくお願いいたします

  • 前田利家が尾張から連れてきた者達の子孫で構成されている。

    とは言ってみるものの秀吉ほどではないが
    在地国人クラスからの成り上がりの利家が百万石を領するということは家臣の大部分が利家の代それも秀吉政権期以降の家臣化されたものが多い
    織田家で柴田勝家与力時に同輩だった家や能登領有後の在地領主、挙句には徳川とのつながりを期待して家老格で招いたが謀反騒ぎで本家が切れた本多。
    藩草創期でさえまとまりがよいとは言えない家臣団が三百年近く

    島津や毛利が強い繋がりを維持してたのに比べ
    前田家が幕末に空気だった理由がなんとなくわかる。

    作者からの返信

     読んでいただきありがとうございます。
     その通りで、実は前田家はかなりの寄り合い所帯で、ご指摘の通りまとまりがありませんでした。前田家本家の奥村家は比較的に譜代格ではありましたが、旧越前朝倉家臣、旧北条家家臣、出羽、越後出身者といった後発組も軒を連ね、むしろ尾張組は肩身が狭かったのではないかと思います。
     そうした家臣団の対立は根が深く残りました。
     加賀藩の人持組頭の面々を見ると、そういった出身者の代弁者であるかのようにも思えます。
     加賀藩の統治機構は代弁者の議論の場で、ある意味で議会制度を受け入れる素地ができていたのではないかと推測しています。

     その統治機構は、結果として薩摩や長州に遅れを取り、明治維新に乗り遅れてしまったのだと思います。

     これからも応援よろしくお願いします