〇7章

……ここはどこだ?

ああ、そうか。

俺はみんなを不運な人生から解き放って……。

それで、俺は?

鳥星は言っていた。

俺と関係の深い人間たちがカードになったって。

だが、俺にはその記憶がない。

俺は……。

俺は、誰だ?


夏の夕方。

暑かった午後のお日様がやっと落ちてきて、

涼しい風が吹いてくる。

本当だったら夜の20:00まで勉強をして、

家に着くのは21:00を回るはずだ。

でも、俺には関係ない。

今日はちゃんと塾に連絡を入れている。


「ちょっと夏バテしたみたいでお休みします」


うちの塾のいいところは、子どもの自己申告で済むところだ。

親が連絡しないといけないような場所じゃない。

それほど子どもを信頼しているということだ。

信頼のおける子どもというのは、成績優秀で親のいうことを

よく聞く子。

俺……いや、僕はそれに合致している。


本当にくだらない毎日だ。

受験のために勉強して、親の前ではいい顔をして。

クラスではいじめられないように、そこそこ明るい性格を演じて。

つまらないし、くだらない。

僕の人生の一番の不運は、こんなダルい毎日を過ごさなくちゃいけないことだ。

親のペット、教師の出世ツール。クラスメイトの自慰道具。

本来の僕とは、一体何なんだ。

自分でもわからないし、わかりたくもない。

ただひとつ言えるのは、

この面白くない人生を面白い人生に変えたいということ。

でも、そんなことは無理なんだ。

僕が僕であるかぎり。


こんな時間に帰るのは珍しかった。

というか、帰るつもりなんてなかったし、帰りたくもなかった。

なのに思いもよらず熱が出てしまった。

いつも自主的にサボっていたが、今回だけは別。

塾の事務所で測ったところ、39℃はある。

家になんて帰りたくないけど……今日だけはそうはいかない。

僕が家に帰るってことは、もしかしたら見てしまうかもしれない。

あいつら、汚れた人間たちの秘密を。


それを覚悟で僕は高層マンションの15階へと帰る。

そこで何が行われているのは前から知っていた。

……最悪だな。

義理の父と姉との関係。

知らぬフリをしていたが……その場面を目の当たりにしてしまったら

どうしようもない。


「アンタが……アンタがすべて悪いのよ!

私にこんなことさせるからっ!」


「だからって頭を花瓶で割るなんてっ! どうするんだ!

こいつは大手広告代理店の役員だったんだぞ!」


「知らないわよっ!」


奥では男がうつぶせになっている。

花瓶にはどす黒い血。

この光景を見た僕は、あっさりと状況を把握した。

そうなることがあり得ないとは言えなかったから。


「ともかくこいつは押し入れに隠して……明日清掃人に頼んで

海にでも沈めてもらう。だけど理穂、お前はその分働くんだぞ!

お前の弱みも握ったことだしな」


「うっ……」


すすり泣く声が聞こえる。

僕は男が死体を片付けたことを確認してから、

顔を出した。


「理穂ちゃん?」

「て、天馬!? なんで……塾は!?」

「熱で早退……お父さんと何してるの?」


……何をしているか。

ふたりの関係はとっくに知ってたよ。

ただ興味があったんだ。

僕が殺人が起きた場面に居合わせたとき、アンタがなんて言い訳するか。

僕は笑いを堪えながら、『理穂ちゃん』の答えを待っていた。


「お姉ちゃんは汚れちゃったんだ。でもね、天馬だけは絶対、

どんなに泥をかぶっても守るから……きれいなままでいてね?」


あっは! そんな答えが返ってくるとはね。

笑っちゃうよ、本当に。

そんなの……。


「そんなのきれいごとでしょ?」


姉はかなり驚いた顔をしていた。

そうそう、この顔が見たかったんだ。

姉は僕をあの義父から守りたかったらしい。

ま、それはありがたいとは思うけど……汚い人間がそんなこと言っても、

笑うしかできないよ。

でも、それで気がついたんだ。

最高に面白いゲームがあるってことを。

ありがとう、理穂ちゃん。

僕にそのことを教えてくれて。


僕は部屋にあった金属バットを手にする。

義父は母が帰ってから、ずっと猫をかぶっている。

僕が姉との関係を告げ口しないか不安で仕方がないようだ。

もしかしたら僕が先にやられてしまうかもしれない。

そうなる前に、母親とうまく寝室に行ってくれればいいんだけど。


僕はふたりの前に現れなかった。

一応熱があったしね。

姉も部屋からは出ていないようだ。

ふたりの子どもが部屋から出ない……。

これは性欲の強い人間なら、チャンスと思うだろう。

そう、母にとってはね。


僕はふたりが疲れ果てて眠ったあと、

そっと寝室に忍び込んだ。

あるのはうまくできるかどうかという不安。

でも、ぐっすり眠っているようだから、

子どもの手でもできるだろう。

ふたりの両腕両足をうまく縛ると、

猿ぐつわをハメる。

これで準備万端だ。

僕は思い切りふたりに金属バットを振るった。

血がべちゃべちゃと飛び散る。

それが快感だった。

生ぬるい血。腕でべっとりと頬に塗り付ける。

頭蓋骨が割れて、脳が見えるくらいに僕はバットを振るった。

最高に楽しいね!

僕をペットのように思っていた母。

姉を汚した義父。

そいつらがきれいな赤で彩られている。

……きれいだ。

あとはもうひとり。


「理穂ちゃん、いる?」


扉をノックすると、泣きはらした目をした姉がいた。

僕に義父との関係がバレたから泣いていたのか?

本当に弱い動物……くく……。


「くくっ……ふふっ、はははっ!!」



僕は出てきた姉を思い切り殴った。

くだらない。


『きれいな僕を汚さないため、自分が穢れる』か。


意味わかんない。

アンタが穢れるのは勝手だけど、僕はあんなやつに簡単にやられるかよ。

まったくもってきれいごと。

僕はそんなきれいごとが一番嫌いだ。だから――。


「死んでね、理穂ちゃん。僕を楽しませるためにさ!」


僕は容赦なく姉を殴りつけた。

汚い姉を。

僕を神聖化することで、自分もきれいでありたいと思った

自分勝手な姉を。

その女独特の汚い精神を、俺は消してしまいたかった。

きれいごとは大嫌いだけど、理穂ちゃんの真っ赤な血は大好きだ。

真っ赤になった理穂ちゃんは、とても美しかったから。


――雨が降ってきた。


血まみれの僕は、エレベーターで下に降り、

隣の街の寂れた商店街で雨宿りをしていた。


「あっれ? 何してるの、キミ」


そこで出会ったのが鳥星――リツだった。

リツは変な格好をしていた。

なんでディーラーみたいな服装をしてるんだ?

ここは小学生が遊ぶカードゲームの店だよな?

クラスメイトでも通っているやつがいるから知っている。

寂れた商店街で唯一子どもが集まる場所だ。


こんな店、僕には関係ないと思っていた。

僕はこんな店に入るような余裕はなかったから。


入ることもないと……ずっとそう思っていたのに、

リツはシャッターを開けて僕を招き入れた。


「血だらけだねぇ、キミ。どうしたの?」


話すことなんてない。

親と姉を殺してきた、なんてさすがに言えるか。

ま、僕も数日も経たないうちに警察につかまることだろうけど。


でもリツは違った。

警察に突き出すこともなく、僕を助けてくれるわけでもない。

ただ黒縁メガネの奥で、笑みを浮かべているだけだ。

それだけで普通の人間じゃないということはわかった。


「ねぇ、キミ。ゲームしない?」

「げえむ?」

「最高に刺激的だと思うよ? キミが犯した殺人なんかより、ずーっとね!」

「……殺人より?」


リツは僕に勝負を挑んできた。

僕が殺人を犯したことに気づいているのに、

何もしないでゲーム?

ふふっ、ずいぶん変わったやつだな。


なんでも覚悟が強ければ強いほどいいカードが来る、というリツ。

そんなことはどうでもいいけど……。


「ねぇ、その勝負に勝ったら、僕はどうなるの?」

「キミの好きな人間の人生に生まれ変われる。負けたらキミの人生はボクのものだ」


「……へぇ。ま、今の僕には人生なんてどうでもいい。

でも勝てたなら……新しい人間として生きていけるのか」


面白そうだな……。

たったそれだけ。

それだけの理由で、僕はゲームにのったんだ。

僕はともかく今の自分でいたくなかった。

つまらない人生。目に見える未来。くだらない毎日。

殺人は最高のショーだった。

両親を殺した瞬間、最高の快感を覚えた。

悲劇のヒロインぶっていた姉を殺したときは、

自分が主役を勝ち取った気がした。

今までの僕の人生は、僕が主役じゃなかったんだ。

義父や姉。

やつらが主人公。

僕はただの傍観者。もしくはその他の人々。

人は誰しも自分の人生の主役になれるという。

そんなのは嘘だ。

僕の人生の主役は、もう完全に乗っ取られていたんだから。


もっともっと、面白い人生を生きたい。

こんな人生、最悪だ。

僕はこのあとどうせ、警察につかまるだけだ。

でも……もっと面白い人生があるならば、

その人生を生きてみたい。

……負けてたまるかよ。


カードを配られる。ポーカーで勝負らしい。

それと、リツは役を紙にメモしてくれた。

これで初心者の僕でもわかる。


5枚のカードを手にすると、これはいいカードだとわかった。


ポーカーはやつたことないが……今の僕に捨てるものはない。

覚悟が強いものに強いカードが来るなら、きっと僕は負けない。

――やってやろうじゃん。

リツが僕を楽しませてくれるなら、ね。


ポーカーは初めてやつたけど、どうやら僕の勝ちらしい。

僕のカードはフルハウスという役。

リツはツーペア。


「さあ、どんな人生を送りたい?」



僕が次に目覚めたのは、高校の教室だった。

最初は戸惑ったけど、すぐにリツとの話を思い出す。


『そうだなぁ、頭がよくて、生徒会長やってて……そういう恵まれた家の

優等生に生まれ変わりたいな。人生楽勝そう』


ってことは、今の僕は優等生で生徒会長なのか?

試しに教科書を見てみる。

うん、わかる。小学生で姉や親を殺した『月城天馬』じゃない。

今の名前は……。


「南雲くん、今の問題の模範解答をお願いするよ」

「模範解答、ですか? さすがに僕は……」

「それだけみんなが期待してるってことだよ」


教室には笑い声が響く。

ふうん、僕はそれだけの人材なのか。

リツにオーダーしたとおりだ。


僕が『人生を入れ替えた』南雲拓瑠なぐも・たけるという高校生は、

僕の希望した通り生徒会長で進学クラスの優等生らしい。

昼休みには男女問わずクラスメイトにちやほやされる。

まぁ、ノートを見せてくれとか宿題の答え合わせをしようとか

そういうたぐいだが。

でも、そんなの関係ない。

僕の今の楽しみは……。


優等生には裏がある。

まさにこのことなのだろう。

僕は生徒会長という立場を使い、色んな後輩をいじくって遊んだ。

目立たない学生なら、問題ない。

ある時はスパイとして生徒会メンバーの周辺を探らせたり、

ある時は不良を使い、カツアゲして

遊ぶ金にした生徒会費の帳尻を無理やり合わせたりした。

そのくらいしないと、刺激なんかない。

この人生にも欠陥があったから。


でもそんなとき、生意気な1年生が入ってきたんだ。


「オレは絶対金なんて払わない!」


名前は小宮太陽と言ったか。

どんなにいじめても、僕のいうこと……

まぁ僕ではなく、僕の下にいる不良のいうことを聞かない。


ふうん、逆らうつもりなのか。

面白い。

僕はそんな小宮が気になって、声をかけた。


「君、いじめられてるようだね。生徒会に訴えてくれれば、

ある程度守ってあげることができるかもしれない。

僕から先生たちに告げよう」


もちろんそんなことは嘘である。

それでも小宮は首を振った。


「……学校のいじめなんて、些細なことだよ。生徒会長さん」


……どういうことだ?

小宮は他でもいじめにあっているというのか?

だからと言って、僕のいうことを聞かないなんて

無性に腹が立つな。。

僕はこの学校のトップだぞ? いうなればキングだ。

それなのに、この俺にそんな態度を取るのか?

……だけど、勇気は認めてやろう。

そんな小宮が、僕は少しうらやましかった。


今の姿……南雲拓瑠でいるところも飽きたところだったんだ。

南雲拓瑠の母親はうるさい。

塾にテニスにピアノ、英会話……。

習い事ならなんでもやらせて、すべてで一番を取らせようとした。

それに嫌気がさしていた。

母親は僕に過度の期待をしていた。

結局僕はカンニングをしてその1位を取った。

今もそれは続いている。

僕の実力では本当の実力者に勝てないとわかっているから。

でも母親はそれだけじゃ足りないらしい。

永遠に1番でいないといけない。

もううんざりだ。生きていてつまらない。


生徒会長でニセの学年1位。

そして母親の操り人形。

こんな僕よりも、小宮太陽はいじめにあっている以外は

気楽そうだ。

地味でその場にいてもいなくても、どうでもいい存在。


僕は小宮太陽がうらやましく思っていて、

親から受けたストレスを、小宮をいじめることで

解消していた。

しかし、やりすぎてしまったのだ。


「や、やめろっ!!」


その日も他の友達と一緒に太陽をいじめていた。

川の水に頭を沈めてそれを楽しんでいた。

冗談という程度では済まず、

太陽は溺れ死んでしまったのだ。

……まさか、この僕が?

優等生の僕が、人を殺した。

これで2回目だ。

他のみんなは逃げていく。

僕だけは、沈んでいく小宮の目をただ見つめる。

そのとき気づいてしまったんだ。

面白い人生というものが何かを。


……まだリツはあの店にいるだろうか。

不安だったが、そんなものはすぐに吹き飛んだ。

『デ・コード』というカードゲームの店は、

閉まっているがまだある。

ただ不安なのは、リツがまだいるかどうか。

18:00。

シャッターがガシャガシャと開くと、前に見た通りディーラーの格好をした

リツが出てきた。


「……待ってたよ、天馬」


その名前で呼ぶのは、リツしかいない。

今の僕は拓瑠。南雲拓瑠だ。

月城天馬という正体を知っているのは、リツだけ。

どうやら彼は、僕がまた人を殺したことに気づいたようだ。

また失敗してしまった。

だから今度はもっと地味な人生を過ごしたい。


「人生を交換したくなったの? ふふっ」


こいつは待ってた、と言ったな。

リツにとっては計算通りってことか。

そこは腑に落ちないが、まあいい。

僕が僕でなくなれば。

殺人を犯した人生なんて、一度で十分だ。

それよりも、もっと面白い人生を僕にくれ。


今回もポーカーで勝負らしい。

どのくらい覚悟しているかでカードの強さが決まると言ってたな。

今の僕に捨てるものなんてない。

人を殺した自分なんて、もう必要ない。

だからこそ、新しい人生が欲しい。

そのために、負けない。


「じゃ、ゲームを始めようか」



目が覚めたのは、強い空腹感を感じたからだ。

何が起きている?

僕は身を起こして、辺りを見回す。

強い腐臭がする。

室内はゴミであふれていて、僕が横になっているところ以外は

すべて物が置かれていた

空腹を紛らわすものを探すために冷蔵庫を探しても、

中身は腐っている。

自分が誰なのか、どういう状況に置かれているのかわからない。

とりあえず姿見を確認してみると、小さな少年が映った。

これが僕? こんな子ども知らない。

そう一瞬思ったが、よく見てみると目に特徴がある。

そうだ、僕……オレは、自ら望んでいたんだ。

『地味でいてもいなくてもいい存在の、小宮太陽になりたい』と。

これは小宮太陽の幼年時代ってことか。


毎晩酔っぱらって帰ってくる母は、

何も食事をくれなかった。

毎晩と言ったが、母が帰ってこない日もあった。

僕は仕方なく、冷蔵庫の腐った食べ物や

コンビニの廃棄をこっそりもらったりして食いつないでいた。

水道料金も滞納していたため、水も出なかった。

そのときはペットボトルを持って

公園の水を持ち帰って……。

そんな生活は生まれてからずっと続いていた。

児童相談所や小学校の人間が何回か来たが、オレはそれに対して

虐待などないと答えていた。

それもこれも母さんを守るためだ。

酒くさくて、最低な母さん。

だけど母さんに見捨てられるのだけは怖かった。


オレが中学3年に進学したある日、

母さんは男を連れてきた。

この男の名前は知らない。

オレに名乗ることもしないで、いつの間にか家に住み着いた。

男の残飯を食べる日々が続いた。

だけど、今までよりよっぽどマシな食事だ。

だが、男はしばしばオレに暴力振るっていた。

酒やタバコがなくなると、盗んでくるように命令されて……。

僕は色んなところで盗みを働いた。


男のいうことを聞いているうちに、

あっという間に進路を決める日が来た。

男は最初、中卒で働くように俺に言ったが、

オレは高校だけは卒業させてくれと何度も蹴られながらお願いした。

結果、高卒の方が中卒よりも高い給与の職業を選べるということで

なんとか男をうなずかせた。


高校に入学したオレは、新しい学生生活に心躍らされていた。

でもそんなのはしょせんただの憧れ。

学生の中でもカースト制度ができていた。

トップにいるのは生徒会長みたいな勉強ができるやつ。

運動が得意で明るい人間。

それと金持ち。

真ん中は一般的な家庭で暮らしている、特筆する事項がない学生。

そして一番下にいるのが、オレみたいな貧乏な家系の子どもだ。


そんな金のないオレをいじめるやつはたくさんいた。

よく不良にも絡まれた。金を出せと。カツアゲだ。

カツアゲをされても、オレに払う金なんてなかった。

バイトも始めたが、すべて生活費に充てていた。

高校生の稼ぐバイトの金額なんて、たかが知れている。

オレはいつも昼飯抜きだった。


……あーあ、今度の人生も失敗だったみたいだな。

オレは河川敷で空を見上げながら思った。

南雲拓瑠のときよりもヘビーだろう、オレの人生。

地味で目立たない人間だったら、派手な人間より楽に生きていると

想像してたのに。


『……学校のいじめなんて、些細なことだよ。生徒会長』


人生を取り換える前。

オレが南雲拓瑠だったときにつぶやいた、小宮太陽の言葉を思い出す。

そうだな。

学校のいじめなんかより、家にいる方がキツい。

母親に放置された幼少期。

そのあとからずっと続いた知らない男の暴力。

オレ、このまま生きていてもいいことあるのかな。

不運な人生は不運なままだ。

それをひっくり返すなんてこと、できっこない。


そろそろ帰らないとまずいな。

夕飯の準備ができていないと、競馬から帰ってきた

男に暴力を振るわれる。


立ち上がって河川敷から一度学校の方向へ戻る。

そのときオレは、あるものを見て驚いた。


「これって……リムジンってやつ?」


学校から少し離れたところに止めてある黒い車。

それに近寄ったのは、ストレートの黒髪の女生徒だった。

1年ではなさそうだ。見覚えがないから。


「田中! 迎えはいらないっていっただろ」

「はぁ、しかし奥様から命令されておりまして……」


あの女の子、ずいぶん口が悪いんだな。

リムジンで迎えが来るってことは、お金持ちのお嬢様ってところか。

女の子はカバンを田中と呼ばれる2m近くありそうな大男に渡すと、

車のドアを開けるように視線を送った。


「そうだ。今日の夕飯は、久々にエスカルゴが食いたい。

シェフに言っといて」

「かしこまりました」


車はオレのわきを通っていく。

エスカルゴ……なんだ? それ。

彼女はお嬢様だから、オレの知らない高級料理を食べているんだな。

そう思った瞬間、ぐう……とお腹が鳴った。

家にあるのはもやしと米だけだ。

きっといつも通りもやし炒めにしたら、男は怒るだろう。

結局食事を作っても作らなくても怒られるんだ。

理不尽って、このことをいうのかもしれないな。


家に帰ると、珍しく男が帰ってきてテレビを見ていた。

ちゃぶ台の上には寿司が置いてある。


「……あの、それは?」

「てめえにはやらねーぞ」


地面にはハズレ馬券が散らばっている。

勝ったようには見えなかった。

だとしたら、この寿司を買うことができた理由はひとつだ。


「生活費は?」

「知らねーよ、そんなもん。あ、そうだ。また金をよこせ。

明日のレースは絶対勝つんだ」


……はは、やっぱりそうか。

もう笑うしかない。

こんな男に金なんて渡しても、ろくなことがないんだから。


オレはちゃぶ台に乗せられた寿司を見た。

それと同時に、先ほどのお嬢様の言葉を

思い出す。


「エスカルゴが食いたい」


寿司1人前ですらオレは満足に食べることができないのに、

世界が違うあの女の子は高級なもので腹を満たすことができるんだ。

ああ、うらやましい。うらやましいな……。


「おいっ! 金は!?」

「……金? ないよ。アンタに払う金なんてね」


こんな人生は最低だ。

人間の尊厳を忘れそうな自分が怖い。

今まで死んだように生きてきた。

人が生活できる最低限のことすらできなかった時期もあった。

高校生になって、やっとお金を稼ぐことができるようになってから

少しは何かが変わるんじゃないかって期待もしたのに……。

しょせん貧乏なのは変わらない。

また、あの赤くて錆びた香りを嗅げば、オレは生きていることを

強く感じることができるのかな。


……はは、すっかり忘れてたよ!

オレがなんで『小宮太陽』の人生を奪ったのか。

『面白い人生』じゃなきゃ、生きている意味がない。


にんまりと笑う、オレ。

苦しくてつらい時間は、もう終わりを告げる。

オレは包丁を持つと、そっと男の後ろに立った。

少し切れにくい包丁だから、人を刺したら折れちゃうんじゃないか

心配ではあるけど……。

それに小柄なオレが背中を刺して、ちゃんと死んでくれるかなあ?

だったら最初から背中じゃなくって……。


「おっさん、アンタ一体何者だったんだろうね」

「っぐ……!?」


首をぎりぎりと押したり引いたりしながら

包丁で切る。


血はどくどくと派手に流れる。

オレはこの瞬間が見たかったんだ。

倒れた男の下には血溜まり。

頭を足で蹴ると、オレは笑った。


「でもま、いいや。何者でも」


血がついたままの格好で、オレはうろ覚えな道を通って

あの店へ行く。

カード店『デ・コード』。

また人を殺した。

殺したことに後悔はない。むしろせいせいしてるし、気分も最高だ。

ただ、このままだと殺人犯として捕まる。

刑に服すなんて人生を送るのは嫌だ。

なんでそんなことをしないといけない?

オレは被害者だったんだ。

大人たちにいたぶられてきた。

その悪魔を殺した。それだけでしょ?

オレの何が悪い?

アイツを殺したことで償わなきゃいけないなんて、

死んでも嫌だ。

だったらまた賭けるしかない。

自分のこの、薄汚れた人生を。


リツはシャッターを開けていた。

オレを待っていたんだろう。

オレのことは何でもお見通しなんだな。

リツが何者かはわからない。

神か悪魔か。それとも他の何者か。

オレには関係ない。

またオレに新しい人生を与えてくれるなら。


「キミの勝ちだ。3勝めになるのかな。本当に強いね、ポーカー」

「リツが弱いだけだよ」


「……いや。それだけキミに覚悟があるってことだ。

そりゃそうだよね。キミは人を殺めているんだから」


トランプを集めてきれいにまとめると、

リツは笑った。


「それで? 今度は誰の人生を生きてみたいの?」

「金持ちのお嬢様」

「へぇ! 今度は女の子になる気なの! あはは!」

「笑うなよ」

「ま、いいけどね」


リツは指をパチンと鳴らす。

その瞬間、オレは気を失った。



金持ちは退屈だ。

そんな話をよく聞いていた気がする。

オレ……私はすでに『お金持ちのお嬢様』に飽きてしまっていた。

小宮太陽の人生は最悪だった。

だから最初のうちは、今の千雨右京の人生に感動した。

毎日水道代を気にせず風呂に入れる。うまい高級料理を好きなだけ食べられる。

暖かい部屋にふかふかなベッド。家事はみんなメイドさんに任せて。

こんな最高なことってない。

ただ、千雨右京の人生にもおかしな点はあった。


「ねぇ、お父様。なんで私はドレスを着てはいけないんですの?

この服は……男の子用なのでは?」


蝶ネクタイを引っ張りながら、私はお父様にたずねる。


「右京、大事な話をするから、よく聞きなさい」


父さんは私の肩をしっかりとつかむと、

真剣な顔で言った。


私が男の子の格好をするのは、周りを欺くためらしい。

跡取り息子がいるとアピールすることで、

会社を乗っ取られないように牽制している……。


「女の子じゃいけませんの?」

「念のためだ。あと『私』ではなく『僕』と言いなさい」


父さんの計画だと、私はしばらくの間……二次性徴が起こるまで

男のフリをさせるということだ。

私に二次性徴が起こる前に、弟を作る。

そう言われた。

幼い私にはよく理解できなかった。

娘でいることの何が悪いの?

女の子じゃ跡継ぎになれないの?

弟ができたら……私の居場所はなくなってしまうの?


私は自分の運命に納得がいかなかった。

女の子なのに、かわいいふりふりのワンピースも、

ピンクのスカートも履くことができない。

父さんは私を『自慢の息子だ』と色んな人に紹介する。

本当は女の子だというのに。

女の子である私は、父さんにはいらない存在なのだろうか。

弟ができるまでの、単なるつなぎでしかないのだろうか。


もやもやとした気持ちを持ったまま、

私はあるパーティーに参加していた。

パーティー自体はしょっちゅう様々な場所で開催されていて、

父さんはよく母さんを同伴させていたっけ。

でも今日のパーティーは、父が主催のもの。

だから私も一緒に出ていたのだが、3分で飽きた。

色んなおじさんの長い話を聞いても、

私にはさっぱり。


そこで出会ったのが翼くんだった。

翼くんとは気が合った。

少ししか遊べなかったし、彼のせいで私が女であることが

バレてしまったけど、また会うことができたなら

もっと一緒にいたい。


一度グレたあとに公立の高校で再会したときは

嬉しくて抱きつきたい衝動に駆られた。

だけどすべては翼くんの企て通り。

私は見事にハマってしまった。

そして――翼くんを死なせてしまったんだ。


翼くんがいない世界なんて、意味なんかない。

こんな世界に生きていたって、面白くない。

彼がいたから……私の人生に色がついた。

そりゃあ、彼が私をハメたことは悔しい。

でも、私に『悔しい』なんて気持ちを持つ権利はない。

だって、彼のお父さんを殺したのが

私の父さんだから。


「はは……もう最低」


屋上でタバコに火をつけ、胸いっぱいに吸うと

大きく煙を吐き出した。


田中には強がって見せたけど、

私は自分が生きていること自体許せなかった。

家出をして、どこかで自殺しようか。

そんなことを考えていたところだ。

両親に一番ダメージを与えることができるのは、

私の死でしかない。

死ぬ手段を考えながら、私は家に向かって歩く。

目立つから、リムジンでの送迎は断っている。

どうせ歩いたところで1時間程度なんだ。

大したことはない。


いつも通る大通りではなく、私は河川敷を歩くことにした。

同じ風景ではなく、普段とはちょっと違う景色を

見ながら歩きたかったのだ。


「お、お金なんてありませんよ~……」

「じゃ、金目のモノ置いて行けよ。

ゲームのレアカードとか、持ってるだろ?」


……カツアゲというやつか。

それにしても小学生相手に高校生くらいの男が何をしてるんだか。

子どもは泣きべそをかきながら、

大事にしまっていたカードを取り出す。


「ちょっと待て」


重低音の声が響く。

背の高い高校生が、カツアゲしていた学生ににらみを利かせる。


「ガキにたかってんじゃねーぞ」

「そ、そんなのどうでもいいだろ!?」


「だったら返してやれよ。それとも俺と腕比べでもしてみるか?

お前が勝ったら俺の金をやるよ」


「い、いいっ! 今日のところは勘弁してやる!」


学生は逃げるようにしてその場を去った。

背の高い男は、カードを子どもたちに返している。

子どもたちはお礼を言うと行ってしまった。

あの男の制服、うちの学ランだ。

見た目は不良っぽいしデカいけど、いいやつなんだな。


きっと私なんかとは全然違う、本当の善人だ。

私たち……月城天馬、南雲拓瑠・小宮太陽・千雨右京のような

殺人鬼と住む世界が違う。

私は何をしてきたんだろう。

ただ私は、不運な人生から逃げたかったんだ。

彼になることができたら、

今度こそ本当に不運な人生から逃れられるんじゃないだろうか。


また逃げるのか?

逃げていいじゃない。

だって私たちは不運なんだ。

ただ、普通の人生を生きたいだけ。

その程度の願い、叶えてくれてもいいでしょ?


私はまた『デ・コード』へと向かう。

今度こそ最後だ。


リツは笑顔を浮かべる。

アイツは私たちが来ることを楽しみにしている。

私たちが不運をひっくり返すところを見たいと思っているんだ。



「目が覚めたかな、こたくん。いや……天馬」

「……リツ」


リツは小さな鏡を僕に見せる。

180cmの強面の姿は映っていない。

今鏡に映っているのは、童顔で色白で華奢な幼い少年だった。

これが僕の本当の姿。

月城天馬、小学6年生。

そして、親と姉を殺した殺人鬼の姿だ。

僕は両親と姉を殺した日から、リツとの勝負をし続けてきたんだ。

太陽や南雲や千雨の人生を乗っ取るために。

だけど誰の人生にも不運しかなかった。

みんなは……不幸から脱却できたのだろうか。


「ねえリツ。虎太郎として勝負したポーカーは、僕が勝った。

約束通り、みんなを救ってくれた?」


「うん、みんなをもとに戻したよ。『人を殺す前の状態』にね」


「人を殺す前の状態って……! 太陽はまだ虐待を受けてるのか?

南雲も太陽をいじめて……千雨も赤坂にだまされる未来が待ってるってことか!?」


小さくなった僕がリツの胸倉をつかもうとしても

手が届かない。

その代わり思い切りにらみを利かせる。


「みんなは自分の道を生きている。

でも、人生はちょっとしたきっかけで変わるんだ。

みんなは今も不運な人生を送っているかもしれないけど、

今後どうなるかは彼ら次第だよ」


人を殺さないで済む未来もあるかもしれない。

そういうことなのか。

今がどんなに不運でも。

どんな不運でも、簡単にひっくり返せる。

リツはずっと言ってた。

なのに、どうして?


「ただ、問題はある」

「なに?」

「キミの存在だ」


メガネを取ったままのリツは、ニヤリと笑った。

僕の存在?

不思議な顔をしていると、リツはくすくす笑いながら

話した。


「キミの不運は何も変わっていない。理穂ちゃんと義理のお父さんの関係も

まだ続いている。それにキミは……」


きれいに重ねたカードをもう一度手に取ると、

リツは僕を見つめる。


「キミは刺激のない暮らしに飽き飽きしている」

「どういう意味だ……?」


「キミは導火線に火がついた状態の爆弾と同じだ。

刺激が欲しいというそれだけの理由で、簡単に人を殺してしまう。

そういう人間なんだよ」


僕がそんな人間なわけがない!

僕は……僕は……!


『俺の不運ってのは、平凡で退屈な世の中を

なんとなく生きていることなのかもしれない』


はっと思い出す。

虎太郎だったときに僕は確かにそんなことを

考えていた。


はは……冗談だろう。

僕はこんなに周りに問題が起きているというのに

自分の人生を平凡だと思い、

その人生に飽き飽きしてるというのか?


僕は義父に心を開いてるわけでもないし、

慕っているわけでもない。

これから先も仲良くする気はない。

汚らわしい男だし、あんな人間はさっさと死ねばいいと思っている。

だが、姉に同情は一切していない。

関係を結んだのは、姉自身だからだ。

最初からすべてを諦めていた。

家庭を壊すことを怖いと思ったのだろうか。

こんなハリボテできた家なんて、

壊してしまってもなんら支障はなかったのに。


リツは頬杖をつくと、にんまりと笑った。


「キミは機会ができたら人を殺してしまうだろうね。

そしたらまた、この店に来る。

他人の人生を乗っ取る賭けをする。

……原因はね、キミなんだよ。殺人鬼くん」


『殺人鬼』……。

まさかすべての原因は、僕にあるのか?

僕は太陽・南雲・千雨の人生を乗っ取った。

結果、千雨は事故とはいえ、3人とも人を殺した。

僕が人を殺すという運命は、どんなに他人の人生を乗っ取っても

変わらないことなのか?


真っ青になっている僕に気づいたリツは、

静かにうなずいた。


「キミが『人を殺す』という運命は変えられない。

キミが人生に刺激を求める限り……ね。

だから強い覚悟が必要なんだ」


「それなら、僕が生きていること自体が間違いじゃないか!」


テーブルをダンッ! と叩くと、重ねていたカードがばらける。

もう一度リツはそれを手に取り、きれいに直す。


「リツ、勝負してくれないかな」

「え?」


「僕が人を殺す運命であることが変わらないなら……

僕が生まれないようにすればいい」


僕は最後に、ある人間の人生を乗っ取ろうと考えた。

それは僕の本当の父さんだ。

父さんがいなければ、僕も生まれなかった。


「……キミがろくでもない考えをしているのはわかるけど、

ま、いいか。相手になってあげるよ。

ボクに面白いものを見せてくれそうだしね」


カードを配り始めるリツ。

正直勝算はない。

強い覚悟があるか、自分でもわからないからだ。

父さんの人生を乗っ取って、僕が生まれないように未来を変える。

その結果、『僕』はいなくなるんだから。

殺人鬼である自分を消すために、親の人生を乗っ取るなんて

最低なことなんだろう。

……けど、それと同時にワクワクする。

こんな刺激的なことは、きっとこれから先感じることができない。

自分自身を殺すのか。

こんなチャンスはもう二度と来ない!


僕のその本心に気づいているのか、

リツは口の端を少し上げた。


「本当にキミ、最高だよ」


5枚のカードを見た途端、僕にチェンジは必要ないと思った。

不安もあったけど……僕には自分でも

わからない覚悟があったようだ。


「ファイブカード」

「……天馬の勝ちだ。さあ、行っておいで」


リツは僕のおでこをつんと突く。

僕はそのままイスの背もたれに寄りかかった。

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