悪魔の生態に関する雑文書
のむらなのか
File1
「じゃあ教科書百二十ページを開けて。そこに描いてある絵をよく見てください。どのような場面だと思いますか?」
そこに描かれていたのは泣きじゃくりながら立ち尽くす少女。そしてその足元には血溜まりがあって女性と少年が倒れている。
「倒れているのは少女の母親、少年は弟です。少女がおつかいに出掛けている間に、押し入ってきた強盗に二人とも殺されました。ではここで質問です。皆さんならこの少女にどのような言葉をかけますか?」
教壇に立つ女教師が前列に座る生徒を指差した。
「君、答えて」
はい、と立ち上がった男子生徒がハキハキと答えた。
「強盗が憎いなら復讐に手を貸すと持ちかけます。復讐の方法は少女に考えさせます」
「なるほど?ではその隣、答えて」
「母親と弟を生き返らせてやろうかと囁きます。その後対価を要求します」
「では、その後ろ。貴方の答えは?」
「えっ」
隣に行く流れじゃないの?動揺したのが良くなかった。
サラはしどろもどろになりながら答える。
「え、あ、そうですね。女の子を……抱き締めたり……とか」
「……何故」
「泣いてるから……?」
「……」
はぁ、と教師がため息を吐いた。
「この問題の模範解答は、まず少女に母親か弟、どちらを生き返らせるか迫ります。ここでのポイントは少女に選択させるということです。どちらを選んでも、選ばなかった一方に対して少女は永遠に罪悪感を抱くことになるからです。その後選ばれなかった方の魂に接触し、強盗に復讐させます。こうすることで死者の魂を悪霊化することができますね。仕上げに再び少女のもとへ行き、彼女の罪悪感を揺さぶり、肥大化させます。悪霊化した魂を効果的に使うことで、より早く少女の心を壊すことができるでしょう」
教師は生徒達の顔を見ながら言葉を紡いだ。
「勿論優秀な悪魔なら、親子三人の魂を堕とした上で強盗の魂も悪霊化させて回収します」
冷えた視線がサラを頬を突き刺す。
「この悪魔学園は皆さんを優秀な悪魔に育てる場所です。優秀な悪魔とは人間の魂を堕落させ、より多くの魂を体内に取り込んだ者のことです。悪魔は何者にも囚われず、欲望のまま行動する種族……自由な魂であるということに誇りを持って、これからより一層勉学に励むように」
「アスモデウス様に今日会ってないなぁ……。淋しい~」
「ねぇ、今日も行っちゃう?」
「え~並んでるよ」
「だってキスして貰いたいんだもん」
「私だってしてもらいたいけどぉ」
「行くだけ行ってみようよ」
艶やかで華やかな声がパタパタという足音と共にサラの隣を駆け抜けていった。
追い越される瞬間、頭上からクスッいう嘲笑が落ちてきた。
振り返ってみれば、短いスカートから伸びる白い足と美しい黒髪が目に映る。
「……」
悪魔は食べた魂の数や摂取した精液の量によって発育具合が違うのだという。たくさん食べれば成体に近しい体つきとなる。女の悪魔であれば、すらりとした長い手足に蠱惑的な眼差し、豊満な胸とくびれ……つまりボンキュッボンなマシュマロボディになれる。人間を堕落させるにはまずは外見的魅力が必要という訳だ。
だというのに。
サラはほとんど魂を食べないから、伸びっぱなしの銀髪に艶はなく、小さくてガリガリで、制服もブカブカだった。まぁどこが伸びても膨らんでも中身はサラでしかないけれど。
「……っと」
不意に景色が歪んだので、サラは壁に手を付いた。多分、貧魂だ。身体の中に人間の魂が不足しているんだろう。学生の身でも人間の魂は食べられる。学食に行けばいい。この学園自慢の魂定食が食べられる。でもサラは食べない。口に合わなくて上手く飲みこめないから。
この学園きっての落ちこぼれ……いや、歴代随一の落ちこぼれであるという自信がサラにはある。
願わくばこのまま落伍者として学園を追放され、ぐうたらしながら露と消えるまで寝て過ごしたい。
そう思い立ってサラは進路を変えた。
こんな時は寝るに限る。
「ん、サラか。混ざるか?」
保健室。
そこは軽微な傷病者が、治療や休息を目的に訪れる場所。でも
パイプベッドの上でシャツをはだけさせているのはサラの兄。その両手は見事なマシュマロを揉みしだいていて、あー……下にもどなたかいらっしゃる?
兄はサラとは違って優秀な悪魔だから。性的な魅力に溢れていて、相手には事欠かない。彼は成績優秀者が在籍する特別クラスの副委員長であり、生徒会副会長もつとめている。その容貌は野性的でありながら粗暴さはなく、獅子を思わせる金色の瞳には自信が漲っていた。
「また体調を崩したのか。大丈夫か?」
兄の顔でこちらに語り掛けながら、穿ち、まさぐりながら舐めている。
「あー……お疲れ様です(?)」
「?別に疲れてないが」
「そうですね。この世で一番お元気かもしれませんね……」
よくよく見ればベッド上だけでなく、床にまで汗ばんだ裸体が幾つも転がっていた。女も男も入り乱れ、今朝教壇の上でお見かけした顔もあるような気もしますけれど……先生ですよね?
「肉の海だな」
サラの視線をたどり兄は他人事のように言った。
「一周回って保健室っぽくなってますね」
皆さん隅々まで精気を搾り取られて、サラよりよほど休息を必要としている……。
ここでのずる休みは諦めた方が良さそうだと踵を返し掛けた時、再び声がかかった。
「サラ。人間の魂が食えないなら精気を摂取しろ。魂も精気も
「……」
それは不出来な妹を心より案ずる兄の忠告であったかもしれないけれど。
「悲鳴のような嬌声がBGMでは全然頭に入ってこないよお兄ちゃん……」
兄も兄だが、妹に見られているのを気にする所か貪欲にスパイスにして楽しまれているご様子の淫魔のお姉様方も流石です。勉強になります。到底サラには真似できそうにないけれど。サラはペコリと頭を下げた。
「心配してくれてありがとう。邪魔してごめんね」
「お前の婚約者が探してたぞ」
再度呼び止められてサラは後ろを振り返った。
「アスモデウス。俺の親友にして、この学園の生徒会長様だ」
「アスモデウス様はこの学園の姫達みんなの恋人であって、婚約者なんていないんですぅ」
「何だソレ」
「すれ違う姫君達の心の声ですね」
「あいつはお前の事を婚約者として大切にしてるよ」
「婚約者って……。それ言ってるのお兄様とお母様とお父様とあちらのご両親だけですよね」
「いや、それらが言ってたらそうだろ。むしろそれ以外のだれの了承がいるんだよ」
「あちらと私……」
「あちらは了承してるよ」
「親友として、早まるなと止めてあげて下さいよ」
「色々考えた上でお前を推してるんだ俺は。あいつと同じ空間にいたら皆一時間もしないうちに目をハートにして姓奴隷にしてくださいと懇願してしまうが、お前はそうじゃないだろ?食欲より性欲より眠気だろ?」
「もぉー何で姓奴隷生産機みたいな悪魔を妹の婚約者として推してくるの。あとアスモデウス様は諦めていっぱい侍らせとけばいいでしょうよ」
「あいつは物静かな奴だから騒がしいのは好まんのだ」
物静かだろうか。一緒にいると黙っている時間は少ないように思えるが。……ああ、気を遣わせてしまっているのかもしれない。サラには話す事がなくて会話が続かないから、無理をして話題を見つけてくれているのかも。
「アスモデウス様にキスしてもらいたくて行列ができてるって聞きましたよ。私なんぞの夫におさめてよい方ではありませんし、皆様の王子様女王様ご主人様として存分に崇められて下さい。今後はファンの一人として見守らせていただきます」
「サラ」
「もしあの方が肉欲に惑わされた愛を偽りと感じ、愛欲の坩堝からから救いだしてほしいと願うなら、そういう相手を共に探してあげることが親友であるお兄様の役目でしょう。どこかにいるはずです、一見地味なんだけど頑張り屋さんで実は眼鏡を外すと輝く、みたいな」
「おい、サラ」
「孤高の悪魔であるアスモデウス様をひたむきに支え、励まし、いつしか周囲の人々の目も変わっていくみたいな、そういうストーリー性を秘めていて」
「おーい、サラさん」
「あんな駄々漏れ垂れ流しの色気なんだか毒気なんだかを丸ごと愛せる誰かが。探しましょう、応援します」
「お前でいいだろ」
「聞いてました?私の話。面倒臭がらないで!頑張ってください」
「そもそも何でそんな嫌なんだ」
「私じゃなくて、あちらが嫌でしょう。食事もまともに摂れない欠陥品と結婚なんてしたら、結婚生活と同時に介護生活始まっちゃうでしょう」
「させりゃいいだろ。喜ぶだろ」
「喜ぶわけないでしょ。あの方は優しいから見捨てたりできないだろうし」
「あいつが優しいって?それは議論の余地があるかもな」
その時だった。
横から伸びてきた指がサラの顎を捕らえた。
「俺の話してるの?」
その声が聞こえたのがサラのパーソナルスペースの内側どころか、耳を舐めんばかりの距離だったから反射的に身をすくめた。
「半分悪口だけどな」
固まったサラに代わって兄が返事を返す。
「何でもいいよ。サラが俺のことを考えてるなら。はい、俺が君の為にせっせと集めた精気、全部あげる」
そこに存在することがもう何百年も前から決まっていたかのようにアスモデウスはサラを抱き締めていた。
「ア」
サラは言葉によって彼のその先の動きを制しようとしたけれど自身を包む体温の心地好さと頭が痺れるような甘い香りを感じた瞬間、反射的に両手をパーの形にして顔の前に出していた。その意味は「待って」でもあるし、「ちょっと離れて下さい」でもある。いずれにしても拒絶の意を示すポーズであるけれど、そんな事は勿論悪魔には効かなかった。
「ん?どうしたの?」
首を傾げたアスモデウスがサラの掌にキスする。
「ひぃ」
「喘ぎ声にしては色気がないね」
上位の悪魔に対して失礼なサラの行動に気分を害した様子もなく穏やかに彼は言った。
「サラ、手を退けて。ご飯を食べさせてあげよう」
「いえ、大丈夫です。お気持ちだけで胸もお腹もいっぱいですから」
「だめだよ。こんなに痩せて……ちゃんと食べないと」
目の前で彼が微笑むと陽光で染め上げたような神々しい金髪がさらりと揺れて、ぞっとするほどの美貌にようやく柔らかさが加わった。この姿を見た人間はきっと彼の事を悪魔ではなく天使だと思うことだろう。
「僕は給餌してあげるのが好きなんだ。受けとってくれると嬉しいな」
「やー……本当にいつまで経っても自力で餌を得ることも出来ない未熟者で……。自然の摂理に則って衰弱するのが正しい姿でしょう」
何にせよいったん離れて気持ちを落ち着かせたいのだけど、檻かな?と思うくらいアスモデウスの腕の力は強かった。
形ばかりの婚約者でも大切にしてくれる、悪魔にあるまじき誠実さだ。保護欲なども感じてくれているのかもしれない。親鳥がヒナに餌を与えるみたいに、サラに栄養を与えなければいけないと義務感を感じてくれているのなら申し訳ないことだ。
「サラ」
「はい?」
「これは求愛給餌だ。僕は君に未熟者だと反省しながら食べてほしいんじゃなくて、つがいとして尽くされて当然という気持ちで食べてほしいんだよ」
「……」
サラは意味を理解するまでの間また固まり、それから感心した。優秀な悪魔は他者の心の隙間に入り込むための手練手管、会話術を習得している。彼の物言いはサラが絆されそうになるほど真剣に聞こえたし、それに大きな声ではなかったが周囲にもはっきり聞こえる程の声量ではあった。
ちらりとサラは周囲を確認する。
兄は我関せずといった様子でマシュマロと戯れているが、その以外の方々は聞いていないようでいてしっかり聞き耳を立てている。アスモデウスに呼びかけられない限り相手からは声をかけられないが、内心では『
二人きりであれば形振り構わず逃げ出す所だが、今は人目がある。アスモデウスに恥をかかす訳にもいかないし、サラだってこれ以上周囲の反感を買いたくはない。
「……」
サラの瞳の奥に諦念を見つけたのだろう。アスモデウスが微笑み、腕の力を緩めた。
「……アスモデウス様のご温情に感謝いたします」
「俺の目を見て」
見なかった。目を見たら抵抗する意思を奪われる。彼の纏う甘い香りも同様で、近くにいる時は呼吸にも気を使わなければ彼の傀儡になってしまう。それが悪魔という存在だ。
「俺のつがい……」
そう呟いた美しい唇がサラのそれを塞いだ途端、程よい温かさが口内に広がりホットチョコレートみたいな濃厚な甘さが舌に絡み付いてきた。一度口にすればまた舌を伸ばさずにはいられない罪深い味わい。
「……。……?」
あれ?何だろう?
ふと既視感を覚えて、サラは立ち尽くした。
「どうしたの。食事に集中して?」
「ああ、え……っと、何だろう……昔もこんな風に貴方にご飯を食べさせてもらった気がして……」
「それは何度もあるだろうね。俺は君が生まれた時から知ってるんだ。食事が摂れなくて衰弱した君を一晩中看病したこともある」
「ん……いや、子供の頃の話じゃなくて……赤ちゃんよりもっと前に……」
口に出してから自分の言葉のおかしさに気付いた。赤ちゃんより前?それでは生まれる前ということになってしまう。しかし思考が深く沈む前にアスモデウスに声をかけられて現実に引き戻された。
「サラ。舌を絡めてもっと味わって」
自分の口の中に別の生き物の舌があるというのは不思議な心地だ。しかも我が物顔で歯列をなぞるのはあちらの方で、こちらの方がよほど遠慮がちに縮こまっている。それを誘い出すように優しく吸われ、舌をつたって精気が少量ずつ流し込まれてくる。ゆっくり飲み込むと、同じように流れてきて、また飲み込む。それの繰り返し。
空っぽだった身体に力が満ちて、ぽかぽかと温かくなってくる。
……気付けばブカブカだったはずの制服が窮屈に感じられるほど強制的に成長を促されていた。
アスモデウスは美味しい?とも、まだ食べる?とも聞いてはこなかった。サラの反応で全て分かっているとでも言うように。
「俺を見て」
今度は顔を上げた。優しい光を宿した瞳と視線がぶつかる。
「俺も食べるね」
そう言うと彼はサラの目尻に口づけを落とした。
何故かサラの瞳には涙が浮かんでいた。
アスモデウスは目尻、目蓋、睫毛一本一本まで確認して、涙を舐めとった。
「しばらく俺の影に入っていてくれる?」
「何故ですか?」
「成長した君の姿を誰にも見せたくない」
うわ……っと言う兄の声が背後で聞こえた。振り返る前にアスモデウスの影が伸びてきて、サラをすっぽり包んでしまった。
「しばらくとは?」
「千年くらいかな」
「しばらく……?」
「冗談だよ。君が冗談にしたいなら全部冗談にしてあげる」
闇に閉ざされる前にそんな声が聞こえた。
……冗談?
どこからどこまでが冗談?『誰にも見せたくない』?『千年』?それとももっと前から?
彼のような悪魔の言動を読み解くのは、今のサラには不可能だ。何もかも不確かで、不安定。
まるで砂上に立っているかのような心地の中で、交わした口づけがもたらした微かな痺れだけが確かなもので、サラはそっと唇を押さえた。
サラが完全に影に閉じ込められるのを確認してから、サラの兄ベルフェはパチンと指を鳴らした。すると彼の周囲で蠢いていた者達が糸の切れた人形のようにバタバタと眠りに落ちていった。
「流石は我が妹……いや、前世は聖女と呼ばれていた魂だ。精気と共にお前の依存性の高い魔力を大量に流し込まれても正気を保っているとは」
それを聞いてアスモデウスはちらりと友人を見た。
「それに不思議なことに、お前がどれだけ魔力を注いでも次の日には元の子供のような姿に戻っている」
「浄化しているんだ」
「浄化?取り込んだ魔力を?」
「そう」
「彼女は悪魔として転生したんだぞ?最早聖女としての力は失っているはずだ」
「魂に刻まれているのさ。世界に正の循環をもたらす導き手とやらの記憶は」
「……彼女は人間だった頃、仲間にその地位を追われて殺されたんだろ?その才を嫉妬され、悪魔と通じているなどと流言を流され、魔女として処刑された。人の世を恨み死んでいったはずの彼女がまだ聖性を保っているっていうのか?」
それには答えず、アスモデウスは自分の影に視線を落とした。
百年前アスモデウスの目の前で処刑され粉々に砕けた彼女の魂の欠片を集めて、繋ぎ合わせて、悪魔とした転生させた。悪魔となった彼女に人魂を食わせて汚し、快楽の底に沈めて堕とせば、ようやくアスモデウスの手に入るはずだったのに。
……彼女の身体は人の魂を取り込むことを拒絶し、享楽にも耽らず、彼女が愛しているのは惰眠を貪ることだけ。前世では寝る間も惜しんで人助けをしていたから、その埋め合わせをするみたいに。
目を離せばすぐに衰弱して死にかける彼女を生かすために、地上の聖域と呼ばれる場所に咲く花の蜜を集めて飲ませたり、濾過して不純物を取り除いた精気の上澄みを食べさせてやったりした。
「ご苦労なことだな、アスモデウス。結局、彼女の魂がどう変質すればお前の勝ちなんだ?彼女が人の魂を喰らい、精をねだるようになればお前の勝ちか?」
「百年前に出会った時から俺に勝ちはないんだよ、ベルフェ」
「ふぅん?……ま、どう転んでも
くるりとアスモデウスが身を翻した。
「おい聞けよ」
「彼女の魔力が満ちている時間には限りがある」
だから早く二人きりになりたいということだろう。ベルフェは呆れたように友を見た。
「紳士たれ、だぞ」
「善き兄としてのアドバイスかな」
「親友としてのアドバイスでもある」
「何もしないよ。簡単に肉欲に溺れてくれるような人じゃない。ただ少し突っついて、揺さぶって……俺のことで頭をいっぱいにしてる所が見たい」
「……」
アスモデウスの背中を見送りながら、ベルフェはぼそりと言った。
「あと百年はかかりそうだな……」
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