7-8 合宿二日目、どうして踏み出せたの
話しているうちに口の中が乾いていたようなので、残り少ない水を煽った。
「……左目は、今も痛いの?」
「今は全然。視力以外に後遺症はないです」
「そっか……」
「なので、眼鏡になったのはその後眼帯が外れてからすぐですね」
先輩は、言葉を選んでいるようだった。
よくある話ではないから詰まって当然だろう。
こっちからなにか言わないとと思い、俺は続けた。
「……監督にマウンドにあげられないって言われたとき、代替案もあったんです。今までピッチャーやってたんだから、その肩を生かしてキャッチャーをしないかって。それか強い打球の来ない外野にスポーツ用のゴーグルをつけて、か」
「外野の方はまだわかるけど……キャッチャーなんて大丈夫なの?一番危険じゃない?」
「マスクがありますから。むしろめったなことじゃ壊れないんで他のポジションより安全です。……って理由で監督に転向を勧められたんです。でも俺は断って、そのままチームごとやめたんですけどね」
先輩は今、どんな顔をしているだろうか。
怖くて、見れない。
「どうして、野球まで? ポジション変えたら一応は続けられたんでしょ?」
なかなか、痛いところを突いてくる。
正直、かっこ悪いからあまり言いたくはないが……。
「……それに関しては単に、小学生ながらに自分がピッチャーだったっていうプライドというか、優越感みたいなのがあっただけです」
自嘲的に笑って言った。
くだらない理由だった。
もちろん試合によっては違うポジションも経験した。
でも俺は、ピッチャーに憧れて野球を始めたから。
ピッチャーで……エースでいたかったから。だから俺は、それを捨ててまで野球を続けたいとは思えずに、逃げた。
「野球自体も好きでしたけど、当時はピッチャーにこだわってましたから。でももしスポーツ用ゴーグルをつけていても、マウンドは危険だって言って許してもらえなくて。……結局、トラウマで立てなかったんで関係なかったんですけど」
我ながら無駄なプライドだったと思う。
今日も宇崎先輩に希望ポジションを聞かれたときに迷わずピッチャーと答えたのも、未だにその考えがあったからだろう。
そもそも、ボールを投げたり捕ったり打ったりするのは問題ないのに野球から逃げている時点で、マウンドのトラウマを克服できてはいない。
そんな状態で逃げたのに、その矜持だけは大事に持っていた自分はひどく滑稽で笑えた。
「……カラー野球くらいならトラウマも大丈夫だと思ったんですけどね」
加賀美先輩に誘ってもらったこの合宿で、逃げ場なくなれば、歩み寄れると思って。
あの夜、素直な言葉が言えたように、また進みたくて。
野田先輩が自分の怪我に向き合っていたように、俺も頑張りたくて。
「結局、ダメでした」
結果はこのザマだ。
楽しい空気も壊し、友達に心配させ、挙句先輩に泣きついている。
「ボールが顔の方に飛んできたとき、すごく怖くなりました。それで、やっぱりダメなんだ、って思いました」
向き合うことが、いつも正しいわけじゃない。
逃げ続けた方が、今回はよかった。
たくさんの醜態を晒した今更になって、それがわかった。
そもそもこの合宿にも来なければよかった。
ただ向き合っただけで、乗り越えることなんてできないと知ったから。
……いや、逆に今わかってよかったのかもしれない。
一生先延ばしし続けるより、今断ち切る方向に決心がつけられるなら、それでよかったかもしれない。
加賀美先輩は、ベンチの下で足を振り子のようにぶらぶらしている。
つまらない話だっただろう。
ここまで聞いてくれて、本当に感謝しかない。
「……すみません、長話が過ぎました。戻りましょうか」
立ち上がった。
空になったペットボトルを手に、先輩の前を横切って玄関の方に歩きだした――とき。
服のすそが先輩に掴まれた。
「先輩?――」
「伊達君はさ」
先輩は座ったままだったから、顔はよく見えなかった。
「伊達君は、どうしてこの合宿に来たの?」
「それは……先輩に誘われたから」
「ごめん、聞き方が違うよね。えっと……どうして、この合宿に参加しようって思ったの?」
「それは、だから……その時は、野球に向き合いたかったから」
先輩が立ち上がった。
「野球に向き合ったら――向き合うことがゴールなの?」
「だ――からそれは」
「知りたいの、私。伊達君のこと」
「……加賀美、先輩」
先輩は掴んだ手を離さなかった。
それどころか少し、引っ張る力が強くなったように感じた。
「伊達君は、向き合った先でどうしたかったの? どうして、踏み出そうって思えたの?」
先輩の言葉で、目頭が熱くなった。
言葉は何も浮かばないのに、感情だけが先行して、なにかがあふれそうだった。
「伊達君は、逃げたって言うけど、どうしてまた向き合いたいって、また――帰ってきたいって思ったの?」
帰る。
ああ、そうだ。
俺は、ただ俺は――
「好きだったから」
溢れた言葉は、シンプルだった。
「野球が、好きだったから」
湧き出す心が、抑えられなかった。
「みんなで野球するのが、楽しかったから」
視界がにじむ。
眼鏡をかけているのに、よく見えなくなる。
「もう一回、輪に入りたかったから……もう一回――」
野球をする人間は誰だって、メジャーリーガーやプロに憧れる。
だが、それになれる人間は、なれない人間より少ない。
しかし、そういう人間も野球選手にはなれる。そうあり続けられる。
……でも俺は、もうそれじゃなかったから。
バカみたいだ。
たった一個のボールのために大声を出して汗を流して土にまみれて。
そう言い聞かせて、逃げた。
でも、離れて見たとき、そこはとても眩しくて、どうしようもなく、惹かれた。
「もう、一回」
シンプルだった。
あの日憧れたように、今度は俺がそれになれるように――誰かに、憧れられるようになりたくて。
「もう……一回、立ちた……かった……んです」
涙が止まらなかった。
鼻水も出てみっともなかった。
それでもそのまま、全部吐き出した。
俺はずっと、小学6年生の間に存在したであろうピッチャーとしての1年を、取り戻したかった。
いつかでいいから。
俺はいつか
もう一度だけ
たった一個のボールのために大声出して、汗流して土にまみれて、狙い通りに投げられなくて、空振りにガッツポーズしたあのグラウンドに、立ちたいと思っていたんだ。
「立てるよ。伊達君なら」
加賀美先輩は、優しく俺の手を取って言った。
滲んだ視界には、先輩の晴れ渡るような笑顔しか映らなかった。
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