02 山とナギサとクワの実と
「なんかね、映画の撮影が来てるんだって」
「映画ぁ? ああ、じゃあそういうことか」
そう言って翔伍は塩焼きそばをすすった。海産物が島の特産ということもあって、翔伍の家では塩焼きそばがよく昼食に出た。そんな家庭は島では珍しくない。
翔伍の頭に浮かんだのは帰りがけに見た港だ。やはり見たことのない人間が多くの荷物を広げて大声で何かを話していた。見かけた時点では何がなんだかわからなかったが、あれは撮影用の機材なのだろう。正直なところ、翔伍はあの光景を好ましいものと捉えてはいなかった。風情なんて遠くに蹴り飛ばしている。だから港で見たものは見ていないことにした。
「ん、なんかあったの」
「いや、山んとこで知らないやつに会っただけ」
「じゃあきっと役者さんだね」
安直かもしれないが、つまりそういうことなのだろうと翔伍も思った。あの異質な存在感は知らない世界にあるものだと考えれば納得できそうだ。そんなのがしばらくこの島に居座るのだという。いつもの夏休みが面白くなりそうな気もしたが、関わる時間があるのかは不安な要素だった。とりあえず翔伍が心に決めたのは、いつもより外に出る時間を増やそうということだった。
夏の昼過ぎの太陽は攻撃的だ。まさに肌を焼く。翌日に皮がむけるなんて生易しいものではなく、光を浴び続ければその場でしっかりと痛みを感じる。家々や道路はこの季節だけの眩しい色調を手に入れられるが、生物からすればダメージを残すだけの力を好き勝手に振るっているということになる。
そんな日差しの下の翔伍はもちろん平気ではなかったが、それでも涼しい顔をしていた。何度も迎えた夏だ。多少の慣れがある。身を守るための水分補給と、ときおり日陰に避難することさえ徹底すれば問題はなかった。
とくに目的地を定めずにぶらついて翔伍が抱いた印象は、島全体が浮足立っているという感覚だった。無理もないと思う。めったに外から人が来ないところだと島民の誰もが知っている。そこに団体様、しかも映画撮影ご一行ともなれば慣れないことのオン・パレードだ。島の空気が祭りの前夜か台風直撃の予報が出たときに似ている。焦っていないのは事前に団体予約の連絡が入っていた宿くらいのものだった。
ナギサはどこにいるのだろう。翔伍はもうすこし彼女と話がしてみたかった。歳の近そうな少女には世界はどう見えているのだろう。翔伍の世界は島の外を出なかったから、ナギサは未知の世界を知っている少女ということになる。その意味ではナギサが役者であることはどうでもよかった。彼女がただの旅行客でも翔伍は同じ興味を抱いただろう。
翔伍の足は宿には向かなかった。ナギサがいる可能性はたしかにいちばん高かったかもしれない。しかし宿ではきっとゆっくり話は聞けないだろう。周囲にスタッフがたくさんいることも予想されるし、ならば映画に関する打ち合わせで騒がしいに違いない。それにもしもナギサが休んでいるのだとしたらそれを邪魔するのは翔伍の本意ではない。
つまりさっき出くわしたような偶然がベストだった。たまたまナギサが暇を持て余していて、そしてひとりでぶらついているようなタイミング。翔伍自身それは要求が高いことは承知している。しかし翔伍が思い描く会話はそんな状況でもないと成り立たなかった。
探すことに焦点を置かない。これを徹底しながら翔伍は歩くことにした。探そうとすると何かに傷がつくような気がしていた。だからずっと宿の周りを歩くような、ふだんからやらない露骨なことはしないと決めた。
山頂に差す太陽の光の角度が変わって、色を橙に変え始めた。秘密の場所の景色がいちばんではあるが、翔伍は山頂からの景色も好きだった。登ってきた山道がまっすぐに町まで伸びて、そして港に接続する。いつも自分が息をしている場所がああまでミニチュアになると実感まで小さくなる。作り物っぽく見えた。
そろそろ帰る時間だった。日が傾いたら島の自然の部分からは帰ること。島全体のルールで、これを破ると大人が総出で捜索を始める大事件になるからだ。
翔伍は山道を下りる途中でクワの実が生っているのに気付き、一粒もいで視線を前に戻すとナギサが立っていた。クワの実のほうを見るまではたしかにいなかったはずだし、それに足音も聞いていない。正直なところ、翔伍は驚いていた。
「うわ、なんだよびっくりした」
「ねえ、この道は?」
驚かれたことにナギサは興味を持っていないようだった。翔伍から視線をずらしてその後ろの山道に意識を割いている。こんな中腹まで来ているところを見る限りは、どうも登っていくつもりだったらしい。
「山頂に行けるってだけの道。何もない。あと暗くなるからいまからはやめとけ」
「ふうん、どれくらい?」
「明かりらしい明かりは月くらいだな。それも木のせいで満足じゃねえし。どれくらいっていうなら自分の足は見えなくなる。ふつうに危ねえの」
だから下りるぞ、と言う代わりに翔伍は歩き始めた。ナギサは翔伍の言ったことに納得がいったのか素直についてきた。足音が二人分になるとなんだか違和感がある。行きがひとりだったこともそうだろうし、そもそも山頂からの道を誰かと歩くことなんてめったにない。新鮮さがそうさせるんだと翔伍は自分を納得させた。
「翔伍、さっき採ってた実は何なの?」
「え、クワの実知らねえの?」
「クワの葉なら知ってるけど。カイコのときにエサで」
お互いにきょとんとする。知っているものがかみ合っていない。どちらも自分が知っているものが常識だった。中学生になったばかりの翔伍くらいの年齢では感覚としては当然だった。
山道の脇を見るとちょうどクワの実があったので、翔伍はそれを採った。そのままナギサのほうへ差し出す。
「これだよ。色で酸っぱさが変わるぜ。赤だとまだ酸っぱい」
「これ紫だけど、これは?」
「俺はちょうどいいくらい。もっと黒いと酸味がなくなる。食ってみ」
ナギサが作っていた手のひらの皿にクワの実が置かれる。ぶどうを指のフシひとつぶんにサイズダウンしたように見えなくもない。ナギサは興味深そうにクワの実を眺めている。ぱっとつまんで口に放り込んだ。
「ちょっとベリーっぽいかも。味も意外としっかりしてるのね」
「美味いだろ。本土にはねえのかな」
「さすがにあるんじゃない? あたしが見たことないだけで」
ナギサの歩みは左右に視線を振りながらになった。クワの実が思いのほか気に入ったのかもしれない。それでも手を伸ばすことはしない。ナギサが興味を示すと飽きの入ったこの山道が見るべきところのある場所に姿を変えたように翔伍には思えた。
無言のままというのを翔伍は居づらく感じた。
「映画で来たんだってな、この島」
「うん」
「すげえじゃん。ゲーノージンってやつだ」
「うん」
さっきまでの調子と違って、活発さが見えない。ただ沈んでいるのとも違う。思うところがあって、それを上手く言語化できていないときの表情に近い。翔伍にだってそれくらいのものを見た経験はある。しかしそれは悲しい記憶のひとつでしかない。翔伍がそれと理解できたのはすべてが終わってからのことだったから。
無神経ではないが、気を利かせられるほど人生経験を積んでいるわけでもなければ勘が良いわけでもない翔伍にはこの会話をうまく切り抜ける手法が見つけられない。口ごもってしまうことがいけないとわかっていてもうまく言葉が出てこなかった。
「ねえ、昼くらいだけど、あんたあれどこから来たの?」
「え、あ、ああ、俺しか知らない場所なんだけど」
「何それ」
「ひとりで海が見たいときに行くんだ。それだけ。別に遊べもしねえし」
「ふうん。似合わないわね」
救われたとも思ったし、返ってきたのが軽口で翔伍の気分は上向いた。内容なんてこの際どうでもいい。まだ会って浅いというのにナギサとはこうやってちょっかいをかけ合うのがベストだと翔伍は思っていた。だから軽く笑いながら、うるせー、と返す。ナギサも満足そうに笑った。
木々を抜けて家が立ち並ぶ区画に戻ったころ、肩を並べたふたりの影は明確に伸びていた。翔伍は通っている学校のことを話した。小学校と中学校がまとめてひとつの校舎であること、教室というか部屋自体はいくつかあるが実際に使っているのはふたつしかないこと、その他こまごまとしたこと。ナギサはしばらくは疑わしげに聞いていたが、そもそもの生徒数を聞くと驚いて納得した。おそらくだいぶ常識が違っているのだろう。
ナギサの泊まっている宿へ続く曲がり道がやってきた。翔伍は手を振った。ナギサも手を振った。太陽が沈みきるまではまだ時間がありそうだった。
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