どこまでも今どこに

肥後妙子

第1話 寒い季節に

 稲葉悠真いなばゆうまは三十代に入ったばかりのグラフィックデザインを仕事にしている男性だ。仕事が一段落したので行きつけのコーヒーショップに行こうと自宅兼仕事場のマンションの一室から出てきたところだ。

 

 季節はまだ冬だった。バレンタインデーが近付き、チョコレート売り場がにぎやかになってくる頃だ。悠真はチョコレートは嫌いではないが、本命をもらう心当たりはなかった。とりあえずこの日は日差しのある比較的暖かい時間帯のうちに、コーヒーショップへ出かけたのだった。


 内装はモノトーンで、差し色のように淡いオレンジ色のテーブルが使われたコーヒーショップの店名はちょっと変わっていた。上流豆亭と書いてウェルズ亭と読むのだった。悠真は店の看板を見るたびに「タイム・マシン」などの名作を書いたSF作家のH・G・ウェルズを思い出すのだった。


 その上流豆亭で悠真はマフラーを見つけた。儚いシュガーピンクの色合いから、女性の物だと思われた。アラン編みという編み方によって、生命の木という模様が編まれていた。悠真はマフラーにではなく、その模様に見覚えがあった。晴夏はるか、とかつて交流があった女性の名前が思い浮かんだ。矢印の連なりにも似た、シンプルな線で枝分かれした木を表現したその模様は晴夏が愛用していたストールのものと同じだった。この模様、生命の木って言うんだって。そう教えてくれたのも晴夏だった。

 顔見知りになっていた店長に忘れものらしいと言い添えて渡すと悠真は手近な席に着き、ペルー産のコーヒー豆を選んで注文した。

 店長と、一緒に働いている店長の奥さんの会話が聞こえた。

「ああ、忘れちゃったのね、あの子」

「由香里ちゃんのだね」

「友美ちゃんに渡すように頼む?」

「そうしよっか」

 どうやら忘れ物の主は誰なのかはすぐに分かったようだ。それなら良かったな、と思いながら悠真はコーヒーを飲むのだった。


「お兄ちゃん、度々ごめん!」

「すみません、マフラーありませんでしたか?」

 少女二人の声が店内に響いた。反射的に悠真も声の主の方を向いた。十五、六歳くらいの濃い灰色のダッフルコートを着た少女が二人、息を弾ませて立っていた。同じコートを着ている所を見ると学校指定の物なのだろう。


「ああ、由香里ちゃん、ちょうど良かった。今話してたとこ。そちらのお客様が見つけてくださったから」

 店長の奥さんは説明をした。由香里ちゃんと呼ばれた少女は肩までのストレートヘアで店長をお兄ちゃんと呼んだ少女は背中まであるような長い髪を二つに分けて両耳の下あたりで結んでいた。

 少女二人は悠真の方を見ると揃ってピョコンとお辞儀をすると口々に礼を言った。

「ありがとうございまーす」

「ありがとうございまーす」

 悠真は微笑みながら会釈をして片手を上げて応えた。


 由香里はぐるっとシュガーピンクのマフラーを首に巻き、友美と談笑しながら店を出て行った。

 由香里の顔立ちは、晴夏には全く似ていなかった。その事が少し寂しいと悠真は感じていた。あの模様を身に着ける人は、晴夏に似ていてほしいと考えていることに気が付くと自分で驚いた。なんでこんなことを考えるのだろう?自分の内面を振り返ってみても心当たりは無い、というか分からない。

SF作家の名前にちなんだ店にいるから、頭の中が現実離れした発想になったのかもしれないととりあえず結論づけた。

 

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