第2話・家族


 礼葉は梨を剥きながら、ぐるぐる考えごとをしていた。

 ――どうしよう。

 礼葉の背中を、冷たい汗が流れていく。

 礼葉はまさか、楊に離縁を拒絶されるとは思ってもいなかったのだ。

 結婚して三年。楊とは離縁されない程度に好かれるよう努力はしたものの、それ以上親密にならないよう、一定の距離を置いてきたつもりだった。

 もともと楊は、ひとやものに頓着しないさっぱりとした性格だと見ていたのに。

「というかそもそも、縁談は私じゃなくて礼……」

 声に出していることに気付き、礼葉は慌てて口を閉ざした。

 礼葉に縁談の話が舞い上がったのは、三年前、礼葉が十五歳のときだった。

 両親は突如舞い込んだ縁談を喜んだものの、しかし一方で、あることを心配した。

 礼葉は生まれつき身体が弱かったのだ。

 天月家は由緒正しい家柄。しかし、縁談相手の楊は天月家の当主だ。結婚すれば、必ず世継ぎが必要になる。しかし、礼葉にはとても世継ぎを産む体力はなかった。もし子を授かったとしても、礼葉の命のほうが危険になってしまう。

 両親は悩んだ末、礼葉の身体のことを考え、天月家との縁談を断ろうとした。そこに待ったをかけたのが、礼葉の妹・彩葉だった。

 彩葉は、九郎くろうが街で拾ってきた妖狐ようこの子狐。

 幼い頃に母親を亡くした子狐を九郎は彩葉と名付け、ひとの子として、礼葉とともに姉妹のように育てた。

 彩葉は言った。

「お父さま、お母さま、私が礼葉として天月家に嫁ぎます」

 彩葉の提案に、家族は驚いた。

「なにを言うの、彩葉」

「そうだよ、彩葉。君は妖狐なんだよ。天月家は代々祓い屋を生業としている。もし君が妖狐であることがバレてしまったら、殺されてしまうかもしれない。危険過ぎる」

 家族の言うとおり、天月家は祓い屋だ。

 ひとであって人に在らず。

 悪いあやかしを特別な力によって封じることができる、特別な家。あやかしにとって天敵ともいえる存在だった。

 しかし、彩葉の覚悟は揺るがない。

「大丈夫です。私はもう子供ではありません。力もとても強くなりましたし、変化も自在。余程のことがなければ正体が知られることはないでしょう」

「だが……」

「そもそも私は、お父さまとお母さまがいなければ、とうの昔に野垂れ死んでおりました。今こそ恩返しをさせていただきたいのです」

 彩葉の強い眼差しに、両親は顔を見合わせた。

「恩返しなんて、そんなこと考えなくていいのよ、彩葉」

「そうよ、そういうことなら私が嫁ぐわ」

 今度は礼葉が話に割って入る。

「それはダメ。礼葉は今、家を出ることだって難しいのよ。結婚なんてぜったいダメ!」

「彩葉……でも」

「私じゃ、礼葉の代わりにはなれないかもしれない。でも……できることなら、ふたりに花嫁姿を見せてあげたいの」

 礼葉の覚悟はやはり揺るがなかった。

 大好きな姉のため。

 大好きな家族へ花嫁姿を見せるため。

 ひとりぼっちだったじぶんを拾ってくれた両親に、恩返しをするため。

 まだ幼い妖狐は、礼葉に成り代わって、天月礼葉となった。


 ――あれから三年。

 花嫁姿の彩葉を見た両親は、とても喜んでくれた。もちろん、礼葉も。

 天月家へは、もともと両親が生きているうちだけ、と決めて嫁いだ。

 なぜなら、両親が死んだら礼葉がひとりになってしまうからだ。彩葉は九郎に拾われたとき、両親亡きあとはじぶんが礼葉を守っていくという約束をしたのだ。

 両親を失った礼葉は今、九条くじょうの家でひとりぼっちだ。

 今頃はきっと、かなり気落ちしていることだろう。

 大切なだれかを失ったとき、悲しみを癒すには、ただそのひとのそばにいるほかない。

 女中に任せてはいられない。早く戻って、礼葉に寄り添ってやらなくては。

 焦燥が胸を掻き立てる。

 いっそのこと、このまま出ていってしまおうか。彩葉はひとでない。ひとのしきたりなど知らない。興味もない。

 元来、離縁しているかどうかなんて、あやかしである彩葉にはどうでもいいことだ。

「……いや、ダメダメ」

 そう思いかけて、慌ててとどまる。

 楊には実家の場所を知られているし、あやかしのツテもある。礼葉の体調面のことも分からない今、向こうみずな行動をするわけにはいかない。

 しかしそれならばどうやって離縁へ持ち込もうか、と考えていたときだった。

 つるりと手が滑った。

「あっ!」

 ぴっと指先に鋭い痛みが走る。

 包丁を落とした拍子に、指を切ってしまった。皮膚の裂け目から、ぷくっとした赤い血が溢れてくる。

「いたた……」

 慌てて指をくわえ、血を舐めとる。

 包丁についた血を水で洗い流していると、背後でかすかな物音がした。振り向くと、楊が立っている。

「どうした?」

「あ、いえ……!」

 慌ててくわえていた指をパッと離し、後ろ手に持っていく。

 見られただろうか、と彩葉は冷や汗を垂らした。

 はしたないと思われているかもしれない。ひとりになるとつい気が抜けてしまっていけない。指をくわえるなんて、と、今にも養母の嘆きが聞こえてきそうだ。

 って、今はそれどころではない。傷口を隠さなければ。

 妖狐である彩葉は、傷を負ってもすぐに治ってしまう。それを楊に悟られたら、あやかしであることがバレてしまう。ぜったいに知られるわけにはいかない。

「あ、えっと、楊さまこそどうしました?」

 慌てて笑みを浮かべ、楊に訊ねる。

「あぁ、うん。喉が渇いてね」と、楊は淡白に答える。

 彩葉は、その澄んだ双眸をじっと見つめた。

「それでしたら、私がお部屋にお持ちしますのに」

「いい。水くらいじぶんで酌める」

 と、楊は彩葉のいる流し台へ歩いてくる。そして、まな板に転がった果実を見て、

「あぁ、梨を剥いてたのか」

「……はい。なんだかお腹が減って」

「そうか」

 曖昧に笑う彩葉から何気なく流し台へ視線を戻して、楊は眉を寄せた。

「……これは、血?」

 楊がパッと彩葉を見る。まずい、と彩葉は焦った。

「もしかして、どこか切ったのか?」

「あ、いえ……」

 咄嗟に、誤魔化す言葉が出てこない。視線に耐えられず、礼葉は背を向けようとした。

「待て」

 慌てて後退る彩葉の腕を、楊が掴む。

「切ったところを見せてみろ」

「いえ、本当に大丈夫ですから」

 慌てて断る彩葉の手を、楊は「いいから」と、半ば無理やり引き寄せた。

 楊の目に晒された彩葉の指先には、まだ少し血が滲んでいる。

「やっぱり切ってるじゃないか。そのままにするのはダメだ。細菌が入る」

「大袈裟ですよ」

「なにが大袈裟だ、まったく……痛かっただろう」

 楊は彩葉の手を掴んだまま、台所に立って蛇口をひねる。てのひらを水で濡らし、彩葉の指先を優しく洗い流していく。

「このくらいじぶんでできます。……汚いですよ」

「礼葉の血が汚いわけないだろ」

「…………」

 滑らかに動く楊の手元を、彩葉は複雑な思いで見つめた。

「……なんだ?」

「え?」

「なにか、言いたげな顔をしてる」

「……いえ。ただ……」

 そのまま、彩葉は黙り込んだ。

「ただ?」

「……いえ。なにも」

「……そう」

 滲んでいた血をすべて洗い落とすと、楊は清潔な布巾で丁寧に彩葉の手を包んだ。

 その際、ぐっとふたりの距離が縮まった。かすかに屈んだ格好をした楊の長いまつ毛が、小さく震える。まつ毛が上がり、楊の整った目が彩葉を捉える。

 その瞬間、ふわりと甘い楊の香りが鼻先を掠め、彩葉の胸がどきりと弾んだ。

 ハッとした。

「も、もう、結構ですから!」

 彩葉は慌てて手を引っこめ、脱兎のごとくその場を逃げ出した。

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