塔の悪魔

炯斗

001/

懐かしい夢を見ていた。

いや、夢なんて見ない筈だから、これはクノが思い出しているのだろう。私はそれを覗き見ている。

酷い隈に痩けた頬。見るからに痛々しい様の少女が枯れ木のような腕を伸ばす。声にもならない、微かな息を吐く。

クノはそれを受け取った。音に出せなかった想いを。

細すぎる少女の指に自らの指を重ねて、クノは──




今日も珍妙な香りで目を覚ます。いつもの朝だ。

ルームメイトが鍋を掻き回しているのだろう。そして謎の煮凝りを「あさごはんだよー!」と言って差し出してくる。

「すまない、朝は食べないんだ」

今日もそう返して早々に部屋を逃げ出した。

これをもう六九日繰り返している。

塔に入学して二カ月。不自由ない学生生活の内の、唯一の難点である。

取り敢えず購買で軽食を買って、始業前の教室で席を確保する。

友だちと呼べるものはまだ出来ていないが、顔見知りは幾らか出来た。例えば私を見つけるなり嬉しそうに駆け寄ってきたこの少年である。

「やあ、君はいつも早いねぇ。予習中かい?」

「朝は部屋の居心地が悪いんだ。しかし、そう言う君も早いじゃないか」

「ボクは偶々だよぉ。暫く隣いいかい?」

どうぞとジェスチャーする。何が楽しいのか、腰を下ろした彼はニコニコと私を見ていた。

「今更だが、君の名前を聞いてなかったね」

「ああ、ボクもだ!でも君、名乗れるのかい?」

「え?」

名乗れるのか、とはどういう意味だろう。異文化の地、更に特殊なルールがあってもおかしくない施設組織の中だ。知らぬ学内文化も在るのかも知れない。

「いや、すまない。名乗りに何か条件があるのなら教えて欲しい。それについては知らなくて」

彼は目をパチクリさせ、それから笑った。

「いやいやぁ、君が教えてくれるというのなら問題はないよぉ。それじゃあ、ボクはロアー。君は?」

「私はクノ=カノト・デアムーグ。数魔術師の家系ではないからね、これでフルネームだよ」

それを聞いて、ロアーはキラキラと目を輝かせて身を乗り出した。あまりの勢いに少し引いてしまう。

「なるほど!なるほどなるほど!!よぉく解ったよ!クノくん。いやクノ=カノトくん。ボクは君たちに俄然興味が湧いた!是非仲良くしよう!」

今までの間延びした話し方が嘘のようにそう捲し立てた。

「あ、ああうん。宜しく…」

何か違和感がある言い回しをされた気がするが、脳の処理が追い付かずそれが何かを見落とした。


「おっと。それじゃあそろそろボクも自分の教室に向かうことにするよぉ。またねぇ、クノ=カノトくん」

やがてチラホラと教室に人がやって来始めると、ロアーは手を振って出て行った。

新入生は暫く…確か半年程の間は、皆この大教室で同じ授業を受けることになっている。つまりロアーは先輩なのだろう。だいぶ気軽な口をきいてしまっていたが、気にしてはいなさそうだったので大丈夫だと思いたい。次から気を付けよう。


そうして、本日最初の授業の講師がやって来た。

「おはよう諸君!ルマリエ先生の授業だぞ〜。ありがたく拝聴するように!」

教壇で踏ん反り返る少女に学生たちは喝采を贈る。ノリの良い学生は指笛を吹き鳴らす始末だ。

彼女の授業は始まる度にこんな感じだ。

十五、六だろうか。スレンダーな女の子で、とにかく元気が良い。自信満々な態度は見ていて気持ちがいい程だ。それでも、魔術師としての腕は最上級。次期魔術師協会長だというから恐れ入る。

淡いベージュの巻き毛を揺らしてルマリエ先生が教壇に両手をつく。学生たちは一斉に静まり返り、漸く授業が始まった。


日に四つの共通講義を終えたら、あとは自由時間だ。自室に戻る者、図書館へ向かう者、専門講義を盗み聞きしに行く者、課外授業や補習を望み講師を追う者、様々である。

今では入学してから道を選ぶ者も増えたというが、それでも今猶、何を学びたいかハッキリした目的を持って入学してきた学生が過半数だ。授業のない時間が手持ち無沙汰な学生は少ない。

私もまた、学びたいものは決まっている。とはいえまだ基礎を学ぶ身。共通講義を復習がてら聴講している学生たちとは違うのだ。順を追わなければならない。

なので、ぐっと我慢して図書館へ向かう。先ずは基盤を固めよう。

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