恩人勇者は復活しない

はじまり・二年前

「ここにいるのは君だけかな」


一人の人間がイマイに声をかけた。


おそらくは男だった。体格はいい。肩幅と筋肉がある。声が低いので煙の中でもよく響くし、ここまで辿り着ける程の肺活量もあるらしい。


しかしイマイに認識できるのは影のみで、肝心の顔はまるで見えなかった。男の背後にも、イマイの背後にも火柱が上がっているからだ。

イマイ—―人造の鮫人間はその揺らめくシルエットをぼんやりと見つめながら、最後の力を振り絞って尾を動かし、ゆっくりと後退した。威嚇として睨みつけることすらできなかった。


研究所の崩壊自体は予想していた。しかし火事までは想定できていなかった。研究所の誰かが火を放ったのだろうか。冷却器が誤作動を起こしたのだろうか。特殊培養ポッドが遂に爆発したのだろうか。それとも……いや、やめよう。どれだけ考えても答えは出ない。

仲間と呼べるのかも怪しい共同体は殆どが逃げ、たった一人だけ、乾燥と陸での走行が苦手なイマイだけが取り残されていた。逃げたとは言え、行く宛なんて無い化け物ばかりな筈なので、きっと彼らも遅かれ早かれ死ぬのだろう。どうせ死ぬのだ、この際死に方なんてどうでもよかった。抵抗する素振りは見せたものの、イマイはこのよく分からない人間に殺されたって良いと思っていた。

水分と酸素の枯渇によって視界が白く霞んでいる。赤と黒と白。くだらない人生の最期に見る景色としては、充分過ぎるくらい華やかだった。

もう疲れた。疲れたんだ。体中の傷口から、血液以外の何かが流れ出る感覚に身を任せ、目を閉じようとして。


黒煙を勢いよく割り開いた大きな手が、垂れ下がったイマイの手首を強引に掴んで引っ張り上げた。滑らかで熱い、人間の手だった。殴りかかる訳でも、絞める訳でも、斬りつける訳でもない真っ直ぐな掌。イマイは突然のことにあんまり驚いて、声にすらならなかった。


男はイマイの手を固く握りながら、不思議そうに言った。

「あれ、動けないかな。まあ君は下半身が海獣なのだから、無理に立てとは言わないけれど」


それから鮫肌の混じる腰の辺りに手を添えて、力任せに持ち上げた。熱で炙られた尾を抱えこみ、脇の下に肩を入れ込み、耳の尖った頭を躊躇いなく胸元に押しつけた。その腕に化け物らしい鋭利な爪が触れても男はまるで動じなかった。一連の動作の全てが人間を救助するような丁寧な手つきで行われた。


「まあいいか、脱出しよう」


いよいよ訳が分からなかった。イマイは化け物だ。それなのにこの男は崩壊する研究所からイマイを運び出そうとしていた。



はたして男は優秀な救出者だった。ちょっとあり得ないスピードで燃え盛る室内を駆け抜け、慣れた様子で壁をいくつも蹴破った。きつく抱きしめられているおかげで身体の揺れは殆どなく、初めはずっと慄いていたイマイも、次第に男の腕の中に安心感を見いだしていた。


火花の代わりに、他の人間たちの声がイマイと男を囲むようになった頃。イマイはすっかり目を閉じて、微睡みの中で揺蕩うように周囲の音のみを拾っていた。人間はイマイに意識がないと判断したようだ。好き勝手に話をしている。


聞くとやはり、男は仲間の静止を無視して救助に向かったらしい。結果的にイマイは助けられたが、その行き過ぎた正義感はすっかり非難の対象となっていた。当たり前だ、魔法の使えない普通の人間なら数分で死んでしまうような状況だったのだ。怒られるべきだとイマイも思う。


すると不意に仲間の一人が、イマイのような人外を救出して一体どうするつもりなのか、と問うた。

イマイはギクリとした。イマイがこれからどうなるのか、どう行動するべきなのか。イマイ本人も分からなかった。誰でも良いから教えて欲しかった。

男は少し迷って、無愛想に、

「弟子にでもするよ」

と答えた。


イマイははっとして、それからくらくらした。弟子と言ったか、この男は。こんな化け物を。弟子と?


せめて男の、自分の師匠となるかもしれない恩人の顔くらいは知っておきたい。そう無理に瞼をこじ開けたが、どうにも焦点が定まらない。そればかりか、直ぐに瞼が下がってしまう。

それを見たヒーローは、ふっ、と笑うように息を吐いて、イマイの小ぶりな頭を撫でた。


「待っているよ」


固い、肉刺だらけの掌の感触を今でも覚えている。

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