檻の中の楽園
白神小雪
第1話 湾岸の楽園
知らなかった方が嬉しかったこと。そんなことのひとつくらいは、人間誰しも持っているだろう。サンタクロースの正体が、実は両親であったと知った時。推しのアイドルに恋人がいると知った時。今まで信じてきたものが、全て虚構であると知った時。
そんなことを知った時、私達はどのような感情になるだろうか。何かが壊れる音がしないだろうか。私達は多分、そんな不安定な何かの上で、嘘で形作られた社会を見ているだけなのかもしれない。
「今日も暑っついすね〜」
「お前、それ毎日言ってるじゃないか。口癖だよもう。」
「いや、今年はマジで以上っす!マジで干からびるっす!」
「はいはい、分かった、分かった。後で飲み物ぐらいは奢ってやるから、早く行くぞ。」
「ちぇー、飲み物だけすか〜。」
「うっさい、ほんと遅刻しそうなの分かってんの!?早く行くぞ!」
「ちょっ、先輩!待ってくださいよ〜!」
さっきから愚痴を垂れているこの男は、名をハーシム、バグダードはサダム市の一角にある警察署の後輩だ。我々の仕事は、ここで市民の平穏な日常を守ることである。
「しっかし、この辺りもだいぶ栄えてきたっすよね〜。」
「そうだな、何年か前まではスラム街か?って言うくらい治安が悪かったからな。」
「やっぱり大統領様のおかげなんすかね〜。」
「ホントだよな、大統領様が富を恵んでくださるおかげだな。」
「マジで大統領様様っすね!まじで神!サッダーム神!」
「おい、あまり軽口を叩いていると治安組織に叱られるぞ。」
「あ、やっべ。」
「ほら、何とか間に合ったぞ。午後も頑張るぞ。
」
「はぁ〜い」
さっきから会話に度々登場する大統領様とは、現イラク大統領のサダム・フセインのことだ。
彼が政権の座についてから、イラクは大きく変わったと言える。
彼が、国家事業である石油事業から生まれる利潤を再分配してくれるおかげで、我々の生活は格段に良くなった。道路や街並みは整備され、公共設備は新設され、治安は向上した。当然、このサダム市もその恩恵を預かった街のひとつだと言える。
この街は従来、より稼ぎの良い仕事を求めに、南部の地域からやって来た移住者の集まった町であった。当然、彼らの持っていた金銭も多いわけがなく、必然として治安の悪い町となってしまっていた。
しかし、大統領様の魔法は、そんなこの街すらも大きく変えてくれた。彼が、この街にサダム市という名前を与えてくださり、この街の再整備を行ってくれた。
そんなおかげで、今のこの街は、首都の街のひとつと言ってもまだ恥ずかしくない街へと成り代わっているのだ。
「ハサンくん!ちょっと来てくれるかな?」
午後業務が始まると早々、カザン課長が私を呼んでいた。
「課長、なんでしょうか?」
「担当直入に言うと、君を係長補佐へと推薦したいと考えているんだ。」
「昇進ですか。」
「どうかね?」
「喜んで引き受けさせていただきます!ありがとうございます!」
「そうか!君には期待しているよ、頑張ってくれよ!」
「はい!ありがとうございます!」
思いもよらない昇進だ。正直、とても嬉しい。そう思う理由は、この国の社会構造にある。
この国において、公的機関での昇進は多くの民衆の夢だ。それは、この国の特権層が、上級公務員であるからだ。
この国において、上級公務員はもはや貴族と言っても過言ではない。党と国に仕えていれば、食いはぐれることは無い、とはよく言ったものだが、公的機関のピラミッドを登り詰め、豊かさを極めた存在、それが彼らなのだ。
「あ!先輩!どうだったんすか!?昇進っすか!?」
「お前はホントに目ざといな。自分の仕事に集中しろ〜。」
「で?で?でっ!?昇進っすか!?説教っすか!?」
「あ〜もう、うっさい。昇進だから。飯奢ったげるから。仕事しろ〜。」
「やりぃ!俺にとって先輩は、大統領様っす!」
「お前、マジで1回治安組織に叱れてこい。ほんとマジで。」
「それはマジで勘弁っす〜。」
本当にコイツは、現金なやつだ。この昇進も、大統領様への愛と感謝を、働いて示した結果に過ぎないのだ。
大統領様が生み出した利潤の一部を、国民が愛として受け取る。国民は、大統領様への愛と感謝を示す。そんな永久機関が、今のこの国を形作っている。
そんな当たり前のことに忠実に理解を示し、行動するだけで豊かになっていける。そんな幸せな社会を、大統領様は作ってくださったのだ。
「ホント、楽園みたいな国だよなぁ。」
檻の中の楽園 白神小雪 @yukishirakami
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