第29話 満ち足りた日々

「ね、ねえ、アンジェラ……」


「えっ、また魔術回路ムズムズしてきちゃったんですか?」


「う、うん……」


「わたくしのせいでそうなってしまったのですね……もう〜、ほら、こっちに来てくださいっ」


「マスターったら、仕方ありませんわね、こんなに溜めちゃって……こうなる前に早くおっしゃってくださいと前に申しあげたではありませんか」


「う、うん……ッ、ご、ごめん……だ、だから、そんな……っ」


「ダ~メっ……許しませんわっ……♡」


「ほら、もっと好きに動かしてください……自分でちゃんと出せるようにならないとダメですわよ♡」


「はあっ、はあっ、はあ……っ!」


「あっ、すごい♡ こんなにいっぱい……よしよし、上手にできましたね♡」


授業を抜け出して駆け込んだ森の中で、誰も居ない教室の中で、夜のベッドの中で――


ギルバートはアンジェラを幾度となく召喚し続けた。


身体が彼女を求めていた。心が彼女を求めていた。


一分一秒でも長く、彼女と一緒にいたかった。


だが、ギルバートはまだ彼女を場に出し続けるのに十分なだけのマナを供給することができなかった。


だから、ギルバートは努力した。少しでも長く彼女と触れ合うための時間を得るために、何度もマナ切れで気絶しながら、自分の保有マナ量を増やしていった。


そんなふうにギルバートが努力する姿が煩わしかったのか、それとも他に理由があるのか、二段ベッドの上段を使うルームメイトは「毎晩うるさいからやめろ」「変な気持ちになるからやめろ」「お願いだからもうやめてくださいお願いします」と、夜毎行われるアンジェラへのマナ供給をやめるよう主張してきたが、そのうち無駄だと悟ったのか、げっそりとした顔で耳栓をして眠るようになった。


毎晩遅くまで繰り返し行うアンジェラの召喚とマナ供給によって、ギルバートは頻繁に寝坊した。授業に遅刻し、出席しても居眠りするギルバートを教師たちは厳しく叱って、書き取りや鞭打ちの罰を与えてきたが、そんなことはまったく苦にならなかった。


それよりもなによりも、アンジェラと話す時間が、彼女と触れ合う時間が、ギルバートには楽しく、素晴らしいものに感じられていた。


――孤独。


彼女に出会って初めて、ギルバートは自分がこの世界をたった一人で彷徨っていたことを知った。


たとえば、木々のあいだを通り抜ける風の匂いに安らぎを覚えたとき。


たとえば、肌寒い秋の日の陽光に得も言われぬ暖かさを感じたとき。


たとえば、不意に聞こえてきた愉快な音楽に心が踊ったとき。たとえば、目の前の光景に思わず可笑しみを覚えたとき。


そういった気持ちを誰かと共有できることが、こんなにも楽しく嬉しいことだというのを、ギルバートはアンジェラと過ごすことで初めて知った。


そして、どうやらそれはアンジェラにとっても同様のことらしかった。


自分の限界を超えて彼女を召喚し続けて気を失うとき、ギルバートは時折妙な夢を見た。


それは幻覚とも、現実とも、記憶ともつかない、奇妙な夢だった。


乾いた荒野を、歩いていた。


どこまでも続く大地だった。なにひとつ生命の気配がない荒れた土地だった。


そんな荒野をどこまでも歩き続ける罪と罰を背負っていた。


辛い。苦しい。死んでしまう。


そんな上等な感情はとうの昔に枯れ果てていた。自身の内に残っているのは、カラカラにひび割れるほどの渇きのみだった。


――欲しい。


水や食べ物ではない。この人ならぬ身はそんなものがなくても生きてゆける。飢えや喉の渇き、疲労や苦痛などにこの魂はすり減ったりなどしない。そんなものにはいくらでも耐えることができる。


だが、これには……この久遠の孤独にだけはいかなる魂であろうとも、耐えられはしない。


――欲しい。


この渇きを癒やしてくれるものが。この苦しみから救ってくれるものが。


――欲しい。


誰もが与えて、誰もが与えられるはずのもの。どんな世界にも普遍的に満ちている、空気や水や自然の恵みのようにあって当たり前のもの。


だが、それがいったいなんなのか。自分はこの無窮の時の中で忘却してしまっていた。


覚えているのはそれこそが自分の罰であることだけ。


なにを求めているのか、なぜこの荒野を歩き続けねばらならないのか。


すべてを忘却して、ただその苦しみを背負い続けて、この世界をたった一人で彷徨うことこそが自身に課せられた運命であり、罰であると。


……そう、思っていた。


目の前に光の柱が現れ、それを通り抜けた先で、彼に出会うまでは。


――そして、これは彼女の夢であり、記憶なのだと。


何度かそれを見るうちに、ギルバートは自分がアンジェラの記憶を追体験していることに気づいた。


異界とは、マナの衰退によって滅んだ、この現世とは違う次元にあるもうひとつの世界のことだ。ソウルとは、かつてその異界で生きて、死んでいった亜人や魔物の魂のことだ。


久遠の時を彷徨い続けた結果、ほとんどのソウルは自分の名前や生前の記憶を失って、理性を喪失してしまっている。


だがソウルは、マスターのマナを供給され、在りし日の姿で何度も召喚され、現世における様々な刺激を受けることによって、彼らはかつての名前や記憶、能力を取り戻していく。


それがソウルのレベルアップという現象であり、名を持たない脆弱なソウルがときにネームドの強力なソウルへとランクアップする現象の正体でもある。


そして、それらの現象の際に、まれに魔術回路を通じて、ソウルの記憶がマスターに流れ込むことがあるのだということを、ウィザード・スクールの教師は授業の中でギルバートに教えてくれた。ソウルは魔術回路を通じて、マスターから現世における言語や一般的知識を得るが、どうやらその逆の現象が起こることもあるらしい。


初めてアンジェラの記憶を見たときは、彼女に対してどう接するべきか、その記憶をさらに掘り起こすべきかどうか迷ったが、アンジェラと過ごす日々の中でそういったことは次第にどうでもよくなっていった。


幸福だった。


ギルバートにとっては、彼女と過ごす今がすべてだった。


アンジェラと繋がり、互いの魂を重ね合わせて、その温度を感じ取るたびに、彼女も自分と同じことを考えているのがわかった。


どれだけ苦痛に満ちた記憶があろうと、どれだけ哀しい孤独の記憶があろうと――そんなことはどうでもいいことだ。


大切なのは今このときだけ。相手とともに生きるこの一瞬だけだった。


それが愛に渇いていたふたつの魂の生き方というものなのだった。


何度も限界を超えてアンジェラを召喚して使役することによって、ギルバートのマスターとしてのスキルはそれまでの落ちこぼれぶりが嘘だったかのように、急激に伸びていった。


他の者には正確にはわからなかっただろうが、ギルバートは自分のマナの保有量が同級生を追い抜き、四年生に進級する頃には〈竜使い〉や〈赤毛〉に追随するまでに増大したことを感じ取っていた。


また、最初はアンジェラしか召喚できなかったが、次第に召喚できるソウルの種類も増え、授業で扱うゴブリンやインプといったような初級向けのソウルを自在に操れるようになっていた。


そんなふうにアンジェラと授業をサボりつつも、学内での成績を急激に伸ばすギルバートに興味を覚えたのか、寮で生活をともにする者たちの内の何人かは、ギルバートに対して話しかけてくるようになった。


ものの感じ方や価値観が違ったためか、彼らと親しい関係になることはなかったものの、それでも一年生や二年生の頃とは違って、四年生のときには普通に挨拶して会話を交わす知り合いを何人か、ギルバートは持つことができるようになっていた。


だが劣等生のそんな変化を面白く思わなかったのか、一部の生徒はギルバートに対して陰湿な態度を取り続けた。


全寮制のウィザード・スクールは外部との接触をほとんど持たない、閉じられた小さな世界だ。おまけにその中で暮らすのは多感な時期の少年少女たちで、彼らはその生活を厳しい規則と教師たちの懲罰によって縛られてしまっている。


そんな環境下で起きる人間関係のいざこざはときとして、まともな理屈のつかないものとなる。


元劣等生のギルバートと優等生のサイラスとのあいだに起きた事件もそうだった。


その事件はタワー攻略の授業の最中に起きた。


イートン・ウィザード・スクールでは生徒たちが最終学年である六年生になり、ソウルを十分に扱える実力を身につけた時期になると、集団でタワーへと赴き、異界を攻略する授業が行われる。


タワーは大英帝国のウィザードにとっては必要不可欠な最重要ポイントだ。


異界に繋がるポイントは、ソールズベリーのストーンヘンジやエジプトのピラミッド、そして中華の古墳のように、世界中に点在している。しかし、ロンドン塔タワーほど多様なフィールドに安定的に転移できる場所は世界広しといえども、大英帝国の帝都にしかない。


ウィザードが使うカードは基本的にそのほとんどが異界から産出される。魔石召喚は例外的に異界やタワーの外でも行えるが、それに使われる魔石にしたところで、手に入れることができる場所はほとんどが異界に限られている。


ソウルカードや呪文カードから力を引き出して、人知を超えた能力を行使するのがウィザードというものだ。


そのため、その力の供給源であるタワーに赴いて、そこから生還するだけの最低限の実力は、トーナメント・プレイヤーやカード・ハンターに限らず、すべてのウィザードが備えておかなければならないものだった。


ゆえに、医者志望だろうが、官僚志望だろうが、シティの投資家志望だろうが、スクールを卒業して一人前のウィザードとなるには、タワーに挑んで生還することが必須の通過儀礼とされていた。


とはいえ、魔術省や社会のほうからしてみれば、生徒たちは将来の大英帝国に多大な利益をもたらす金の卵だ。彼らを危険な冒険に無理やり旅立たせて、生命を失わせるような危ない真似はできればしたくない。


かといって、子供の遠足のような生ぬるさでは、通過儀礼としては不足だし、なによりそれでウィザード全体の質の低下を招くことになっては大問題だ。


そういうわけで、イートン・ウィザード・スクールでは安全性と危険度をぎりぎりの秤にかけた課題が、最終学年の生徒に対して毎年実施されていた。


課題の内容はいたって単純だ。


生徒は四人一組になって、自分たちの実力に応じたフィールドを選択し、討伐するソウルを決定する。倒した証明としてなんらかのカードを持ち帰ることができれば、それで合格となり、あとはカードの種類やランクに応じた成績が割り振られることとなる。


少し悪知恵の働く者ならば、良い成績を取るための抜け道がいくらでも湧いて出てくるような授業内容ではあるが、それらを防止するために、無論、学校側ではいくつかの対応策を用意していた。


が、それらの対応策はあくまで不正行為を防止するためのものであって、生徒たちの危険な行為を阻止するためのものではなかった。


現場の教師や学校側は若い青年たちが危険な冒険に飛び出すのをあえて止めようとはしなかった。蛮勇と無謀は若者のさがであり、特権でもある。愚かな過ちから学ぶことも多々あるだろう。愚かすぎて命を落とす者も、十年に一人くらいの割合でいるが、それはそれで、英国社会から馬鹿なウィザードが淘汰されたことを意味するので、大人たちからすれば喜ぶべきことだった。


教師の中には一部、生徒たちを危険に晒すべきではない、と主張する者もいたが、そういう主張は他の教師からだけではなく、生徒たちからも変な目で見られた。鞭による懲罰が当たり前のウィザード・スクールにおいては、そういった主張はあまりにも軟弱すぎた。また、生徒たちは冒険に出て、学内のヒーローとなることを進んで望んでいた。


その日、ギルバートとサイラスがパーティーを外れて、たった二人だけで人気のないフィールドに向かうのを止める者が誰一人としていなかったのは、そういう事情からだった。


ある教師は、サイラスとギルバートがこっそりと姿を消していくのを見て、微笑みながらこう言ったほどだった。


「あの二人にはいろいろとあったから、これを期に長年の関係に決着をつけるのだろう。うむ、実に紳士らしく素晴らしいことではないか!」


サイラスがギルバートと争っていることは学内では有名だった。


二年生のときにサイラスが誤って・・・ギルバートに大怪我を負わせた事件は、退屈なスクールの毎日に鮮やかな彩りを与えるものだった。当時その場にいなかった者でさえ、まるで自分の目で見たように現場の生なましい流血沙汰を語ることができた。


また、この四年間で急激に成績を伸ばしてきたギルバートを、サイラスが意識していることも周囲にはよく知られていた。掲示板に張り出される学期末試験の結果表の前で、サイラスがギルバートに対して、「今回はおれの負けだが、次は負けないぞ!」と熱い闘志を燃やしているところを、過去、何人もの生徒が目撃していた。


その他にも、学内では二人の関係について、嘘か真か定かではない噂がいくつも流れていた。


いわく、サキュバス狂いはサイラスに怪我させられたことを今でも恨んでおり、復讐の機会をうかがっている。それに対して、サイラスのほうは真摯に謝罪をしたが、内心では穏やかではない。なぜならば近頃、恋人のフランシスが、頭も顔もいいサキュバス狂いに色目を使っているからだ。だが実際のところはそれらの情報はすべて誤りで、実はサキュバス狂いとサイラスは公にできない関係にあり、それを隠すために云々……。


それらの噂を教師たちが信じていたのかどうかは不明だが、とにかく、教師たちは、ギルバートとサイラスがパーティーから抜け出して二人だけで別のところへ行くのを黙認していた。


「……このへんでいいだろう」


話したいことがあるからついてきてくれ、と言ったサイラスは、ギルバートを〈クエシスの森〉に誘っていた。


ギルバートとサイラスの他には誰もいない。ソウルすらいない、静かな森だった。


このフィールドには、敵性のソウルが出現しない。それに森の中には、木立が密集している場所と、適度に木々が禿げて広場のようになっている部分がある。そのため、〈クエシスの森〉は、タワーから転移できる異界の中では特に、訓練場や決闘の場所として用いられることで有名な場所だった。


ギルバートとサイラスは、視界が開けてだだっ広い校庭のようになっている場所で、距離を置いて向かい合っていた。


一陣の風が通り抜けて、下草をざわざわと揺らした。舞い上がった風はギルバートの前髪をふっとかき上げて消えていく。


崩れた前髪をギルバートがオールバックに撫でつけると、サイラスの目がすうっと細められた。


その口元が耐えきれない感情に歪んだようだった。サイラスの喉奥から獣のような声が出てきた。


「ギルバート・ヘインズ……おれはお前に決闘を申し込む」


「いいよ。受けて立とう」


サイラスの目が見開かれた。意外そうな表情が一瞬浮かんだ。


「……ずいぶんあっさりと受けたな」


「まあ、なんとなくこんな気はしてたしね」


理由までは把握していなかったが、サイラスが自分のことを憎んでいるのは知っていた。


二年生のときのあの事件から、そしてギルバートがアンジェラと巡り合って急激に力を上げていったときから。サイラスはことあるごとにギルバートに接触してきた。


今回の試験もおれの負けだな、ギルバート! だが次で勝負だ!


まったく、お前のマスタースキルはとんでもないな! いつのまにそんなに腕を上げたんだ?


おい、ギルバート。あのサキュバスは授業では出さないのか? いっちょ、おれのソウルと戦わせてみようじゃあないか!


表面上では友好的に見えるコミュニケーションの数々だった。親しげにギルバートの肩を叩き、パンチする振りをしてウィンクを投げかけるその仕草を見て、周囲の教師や生徒たちはサイラスのことを、「成績では元劣等生に追い抜かれてしまったが、それでもひたむきに努力を続ける熱くて爽やかなやつ」というふうに見なしていた。


実際、その評価は正しかった。サイラスは夜遅くまで図書館や訓練場に残って、ハードな勉強とトレーニングを積み重ねていた。そして自身を厳しく鍛え上げるだけでなく、ラグビー部のキャプテンや監督生を立派に務め上げて、後輩を正しく教え導くこともしていた。


同級生や後輩、そして教師からのサイラスの人気は高かった。サイラスは周囲から期待され、それにしっかりと応えることができる人物だった。


最終学年である六年生になった今では、確かにサイラスのウィザードとしての実力は、〈竜使い〉や〈赤毛〉には敵わないが、彼女たちにはない魅力が彼にはあるのだというふうに、周囲は評価していた。


だがギルバートだけは、サイラスが時折見せる薄暗い表情が気になっていた。


夜遅くまで図書館の片隅でアンジェラと過ごしたあと、たまにサイラスが一人で黙々と勉強しているのを見かけることがあった。また、一晩中アンジェラとベッドで激しく交わったあと、まだ夜が明けない時間からサイラスが校庭に出かけてソウルを扱う訓練をするのを見ることもあった。


いずれの場合もサイラスは、普段の快活な態度とはまったく違った、鬼気迫る表情を見せていた。それは一歩間違えば足を踏み外して、そのまま狂気の淵へと落ちてしまうのではないかという表情だった。


それに、こちらに親しげに語りかけてくるときに見せるあの眼差し。


あれは間違いない。憎悪の眼差しだった。


サイラスはギルバートのことを殺したいほど憎んでいた。


理由は知れない。考えたところでわかるものでもなかった。


幼少期からの、そしてイートンで得た経験から、人間とは矛盾の塊なのだとギルバートは考えている。


浅ましい獣の欲望の塊に、躾と教育によってべたべたと上塗りされた理性。そこに一滴、愛という名のしずくが混ぜられることによって、人間はかろうじて人間でいられる。


だがそのバランスはちょっとしたことで容易に崩れ去ってしまう。


原因はなんでもいい。


自信の喪失。あるべき自分の理想像との乖離。周囲からの期待とプレッシャー。


鬱屈した感情は降り積もって、それをぶつける対象を求める。そしてやがてそれは一気に爆発して、対象を破壊する。


そういう例は新聞を開いてみれば枚挙にいとまがない。


サイラスの場合も、たぶんそういうことなのだろう。


論理的な説明はきっと本人にもできないに違いない。それができるならば、そもそもがこういう事態になったりはしない。


サイラスによる決闘の申し出を、ギルバートがあっさりと受けたのはそういう考えからだった。


世の中、理屈で説明できないことは山程ある。道理に合わないことは力づくで決着をつけるしかない。


これまでの十七年間の人生経験によって培われた冷徹な眼差しで、ギルバートは世の中のそういう事実を見てとっていたのだった。

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