TS音速の貴公子は凌辱されたい
島風
第1話僕は追放される
春の訪れとともに、桜の花びらが舞い散る中、街の人々は新たな季節に胸を膨らませている。しかし、私にとって春は関係のないものだった。私の心には辛さと悲しみしか待っていない。母が亡くなり、茅森家の実権は入婿である父に引き継がれた。母の死後、一か月も経たないうちに、父は再婚し、義母には二人の連れ子がいる。兄妹は全員、父の子であり、妹の有希は父に溺愛される一方で、私は使用人同然に扱われている。
庭掃除をする私の横で、妹は蝶よ花よと育てられている。未来を見据えることなどできず、ただ絶望のみが広がる日々。それでも一縷の希望などに期待してはいけない。期待は裏切られたときに最も悲しみをもたらすからだ。それを何度も経験してきた。
しかし、あの日、彼が私に憑依した時、その思いは揺らいだ。
「可憐お嬢様、藤森家の伊織様がお見えです」とメイド長が告げる。「やあ、可憐ちゃん」と微笑む伊織様。彼とは幼い頃に遊んだ記憶があり、親戚筋の有力者の息子だ。彼は私に優しく接し、私は嬉しくて少し赤くなった顔を隠す。「週末に銀座で評判のお菓子を買ってきたんだ」と言い、出してきたのはミルフィーユ。母が亡くなって以来、そんな贅沢なものからは遠ざかっていた。
「食べてみて」と促され、口に運ぶ。「お、美味しい」と思わず笑顔になる。「良かった、そう言ってくれたら嬉しいよ」と彼は答える。「いつもありがとうございます」と感謝の言葉を返すが、「そんなに改まらなくてもいいんだよ、君は茅森家の長女なんだから」と彼は言う。
その瞬間、心がときめくのを感じる。彼だけが私を特別に扱ってくれる。しかし、期待は禁物だ。王子様が助けに来る物語は、現実には存在しないのだから。大学進学も許されず、教養のない私は、伊織様にはふさわしくない存在なのだ。
「じゃ、父さんへの用件を済ませてくるよ。また来るから」と彼は去って行く。彼の姿が見えなくなると、私はメイド長に呼ばれた。「可憐お嬢様。旦那様方に紅茶を入れる約束ではなくて? こんな処でさぼっていないで、早く仕事に戻りなさい」、「は、はい。申し訳ございません」メイド長に深々と頭を下げると、慌てて職場・・・自分の家の厨房に向かった。
「何よこれ、こんなぬるい紅茶なんて飲めないわ!」と義母から罵られる。「すぐに入れ直しなさい」と続く言葉。義妹と義母に非難され、思わず父の顔を伺うが、彼は無表情で「早く入れ直して来い」と命じる。痛みが胸に刺さる。
その時、義母の言葉が耳に残る。「あの子は有希と違って、出来損ないね」。母の優しさを思い出し、悔しさがこみ上げる。「可憐、もう一度入って来なさい」との声に、心臓がドキリと跳ねる。
「立ち聞きしてるんでしょ?」と義妹が嘲笑う。「も、申し訳ございません」と頭を下げる。彼女たちの嫌味は私を辛くさせた。「可憐、明後日の日曜日、時間を空けておきなさい」と父が命じる。「か、かしこまりました」と返事し、自分の家で、心に銃弾を打ち込まれたような感情を抱えながら、厨房に戻る。
仕事を重ねる毎、私の心は死んだように虚しく、母が築いた筈の家での生活はまるで牢獄のようだった。しかし、近いうちに何かが変わると、心のどこかで感じていた。週末が近づき、日曜日の朝が訪れる。
「・・・あ!」と驚く声が響く。「伊織様」と呼びかけるが、彼は何かに困惑しているようで謝る。「ご、ごめん。可憐ちゃん」と繰り返す彼の言葉に、私は自分が何を謝られたのか分からなかった。
「可憐お嬢様、旦那様がお呼びです。すぐに母屋にお行きなさい」とメイド長が急かす。父から指示があったことを思い出し、母屋の応接室へ向かう。部屋に入ると、そこには父、伊織様、彼の父、義妹の有希、そして義母が待っていた。
「今日は茅森家と藤森家の重大な決定事項を皆に伝えようと思う」と父が言う。心の中に期待と恐れが交錯する。「可憐、茅森家の一員としてちゃんと聞いておくのよ」と義母が続ける。「はい、承知しました」と答える。
伊織様との縁談? 期待してはいけない。そう、わかっていても、つい期待してしまう。藤森家は十年前に破産しかけた。それを母に救われた。もしかしたら? そんな・・・そんな期待をついしてしまう自分がいた。
次に告げられた言葉は、私の心を引き裂くものだった。「今日は藤森家の伊織君との縁談を進めたい。伊織君には婿入りしてもらい、茅森家を継いでもらう。そして伊織君には、有希と婚約してもらう」。
期待が一瞬浮かぶが、すぐに打ち消される。私が伊織様と結婚することはあり得ないのだ。そんな思いが襲う中、父の続ける言葉に耳を傾ける。「可憐、お前には今日からこの家を出て行ってもらう」。
「ふふふ。どうしたの? お姉様? お顔の色が優れませんね? いえ、元々でしたわね」また、期待してしまった。今まで、何度も、何度も、何度も、何度も裏切られて来たのに。使用人同然の私が、伊織様と結婚できる訳がないのに。
驚愕し、頭が真っ白になる。「待って下さい、敏行さん!」と伊織様が言うが、彼の父は冷たく「黙っていろ」と返す。「承知致しました。では、直に出て行かせて頂きます」と私は答える。
「何? お姉様? 頭がおかしくなったの?」と義妹が嘲る。父に再度頭を下げ、感謝の言葉を残し、私は逃げるようにその場を去った。
『これで良かったのかい?』と心の中のもう一人の自分が問いかける。『はい。この家で私が安寧な時を過ごせる訳がないと、わかってましたから』。『約束通り、いろいろ手を打っておいたよ。君の親権は実父のあのクソ親父が持っていたからね』と、彼—天才F1パイロット、ハミルトン・ゼナの声が響いた。
あの日、目が覚めたとき、私の中には彼の存在が宿っていた。
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