第33話 言葉が失わせるもの

 

 夜のリビングには、いつになく重い空気が漂っていた。


 机の上には散らばる参考書とノート。そして、ペンを握りしめたあゆみの手は震えていた。


「すばるさん、もうちょっと静かにしてって言ったよね。」


 リビングの奥からは、子どもたちの笑い声が絶え間なく聞こえてくる。「静かに遊ぼう」と声をかけるすばるの声も、あゆみの苛立ちを和らげるには至らなかった。


「……もう限界。」


 小さな呟きが、あゆみの中で膨れ上がっていた感情をついに爆発させた。


「あのさ、私がこんなにしんどい状況なのって、そもそも子どもがいなければ良いじゃん!そしたら落ち着いて勉強だってできるよ!」


 その言葉がリビングに響いた瞬間、すばるの動きが止まった。子どもたちの笑い声も、ぴたりと静まり返る。


「……あゆみ。」


 すばるの声は低く、いつもの穏やかさを欠いていた。ゆっくりとあゆみの方に向き直り、彼は真剣な眼差しで言葉を紡ぐ。


「"そもそも"や"最初から〇〇ならば"なんて言葉は、できない自分を人のせいにしたいだけの言葉じゃないか。」


 あゆみは目を見開いたまま言葉を失った。すばるの声には、怒りと悲しみが滲んでいる。


「僕たちはたくさんのものを積み重ねて生きている。過去から続く連続性の中にいるんだ。そんな中で、"そもそも"なんて原因を探し出して、誰が得をするんだよ。」


 すばるの声が少し震えた。


「じゃあ子どもたちが生まれてこなければ良かった。子どもたちが生まれてこないためには、僕が居なければ良かった。じゃあ、僕の母も――」


「違う!」


 あゆみの目から涙が溢れた。自分が口にした言葉の重みが、彼を深く傷つけたことが痛いほど分かる。


「違うの……そんなこと、言いたかったわけじゃない……。」


 しばらく沈黙が続いた後、すばるは静かに顔を伏せた。


「……じゃあ、あゆみは僕と出会わなければ、こんな思いをしなくても済んだかもしれない。」


 その言葉に、あゆみは驚き、息を呑んだ。


「僕が湖の底で助けられずにいたほうが良かったかもしれない。――そういうことだろう?」


 すばるの声は深く、重かった。彼自身が抱える傷と、あゆみの言葉がもたらした痛み。その二つが交錯している。


「今までの僕の人生が、あゆみにとって負担になっているんだ。そもそもなんて言葉は、これほどまでに人の人生の意味を失わせる言葉なんだよ。」


 その言葉は重く、深く、あゆみの胸に突き刺さった。


 しばらくの沈黙が流れた後、あゆみは涙を拭い、震える声で答えた。


「……私が、悪かった。本当にごめん。」


 そして、言葉を続けた。


「すばるさん、高校の学園祭の時、私がリーダーを任されたこと、覚えていますか?」


 すばるは少し驚いたように彼女を見る。


「みんなの期待に応えたくて、必死に準備をしたけれど、うまくいかなくて……その時、先生に助けられましたよね。」


 すばるは静かに頷いた。


「あの時、先生が言ってくれた言葉に救われたんです。失敗しても何かをしたこと自体に価値があるって。だから、もう一度変わりたいと思った。……誰かを支えることができる人になりたいって。」


 あゆみの瞳には悔しさと決意が混じり合っていた。


「でも、今の私はまだ程遠い。でも、諦めたくない。もう一度、あの時の私みたいに頑張りたい。」


 すばるは彼女の言葉を聞き、穏やかに微笑んだ。


「あの頃の君は、立派だったよ。今も変わっていない。支えられる人がいるのも、立派な一歩だ。」


 あゆみは涙を拭いながら、小さく頷いた。心の中に、再び挑む力が灯ったようだった。




 あゆみの人生に光が差したのは、高校時代のことだった。


 すばるは彼女の担任の先生で、何かと彼女を気にかけてくれた。


 ある日、あゆみは学校で思い悩んでいた。学園祭の実行委員長としてリーダーを任され、必死に準備を進めていた。


 最初は自信を持って取り組み、みんなに指示を出してイベントの段取りを進めた。


 しかし、当日になってから問題が次々に発生し、計画通りにいかないことばかりだった。


 最終的に、準備が間に合わなかったり、思った通りに動けなかったり、予想外のトラブルが続いて、イベント自体は何とか形になったものの、あゆみの心は沈んでいた。


 その日、教室で一人考え込みながら、あゆみは自分の行動を振り返っていた。


「どうして私がリーダーなんかやっちゃったんだろう…。みんなの期待に応えられなかった。もっとできたはずなのに…。」


 そのとき、ドアが開いて、すばるが顔を覗かせた。


 教室の片隅で一人悩んでいるあゆみに気づいたすばるは、少し困ったような顔で歩み寄ってきた。


「あれ?下校時刻過ぎてるよ。暗くなっているし、おうちの人も待ってるだろ?待ちすぎてミイラになっちゃうかもしれないよ?」


 すばるは冗談交じりに言った。


 あゆみはその言葉に一瞬驚いたが、すぐに笑顔を浮かべた。


 すばるの軽い冗談が、少しだけ気持ちを和らげてくれるようだった。


「うーん、ミイラになるほど待たせてないと思うけど…。」


 あゆみは微笑みながら返したが、心の中ではすこしだけ安心した。


 あゆみは今日のことを打ち明けた。


 すばるは少し考え込みながらも、優しく答えた。


「そんなに落ち込まなくても良いんじゃないかな? 行動を起こさなければ失敗は起きない。逆に言えば、行動を起こすことができたっていうこと自体が、如月さんの頑張りだよ。」


 その言葉に、あゆみは少し驚き、そして心が軽くなった。


 自分がどう思うかではなく、実際に何かをしたことが大切だということを、すばるは当たり前のように言ってのけた。


「行動できたってだけですごいことだよ。何もせずに後悔するより、何かを試してみる方がよっぽど価値があると思う。」


 すばるの言葉に、あゆみは少しずつ自分の行動を肯定できるようになった。


 その夜、あゆみは自分がしたことに対して、もう一度前向きに考え直すことができた。


 確かに、すべてがうまくいったわけではないかもしれない。


 でも、それは無駄ではなかったと信じられるようになった。


「私も、誰かを支えることができるような存在になりたい。」


 そう思うようになったのは、その頃からだった。




 今の私は、あの頃とは違う茨の道を選んだ。時には後悔しそうになることもある。試験勉強に追われ、子どもたちとの生活に奮闘し、自分の選択に疑問を抱く瞬間もある。


 でも、すばるさんがいる。子どもたちがいる。


 一人で立ち向かうのではなく、支えられているからこそ、この道を進んでいける。


「あの時、先生に助けてもらったから、今の私があるんだ。」


 あゆみの心の中に、その感謝と決意が改めて浮かび上がった。




 すばるは彼女の近くに座り直し、少し微笑みを浮かべた。


「辛い時は辛いって言っていい。でも、何かを否定するのは違う。それだけは忘れないでほしい。」


 あゆみは小さく頷いた。心に重いものが残りながらも、すばるの言葉が少しずつ自分を軽くしていくのを感じていた。

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