あまかく! ー天使かく語りきー

カイオフ

ブリテン・フランス

第一章 中世編 i

第1話 アヤメの花嫁


492年 春 ガリアフランス東部ブルゴーニュ地方 昼下がりの川辺


 川の土手には芽吹いたばかりの若葉に囲まれてアヤメが咲き乱れている。


 アヤメはヨーロッパの河川や湖沼の水辺に広く分布する。春に大輪の花を青空に広げる時、その根は地中深くまで伸びて、一年の中で最も強い雪解け直後の川の流れにもびくともしない。


 そよ風に乗って上流からケルト人が歌い継いできた春の調べが聞こえてきた。若い娘の声である。雲一つない晴空のもと、川岸の草地を進む小気味よい足音が曲の拍子をとる。


 飴色の髪が流れに沿ってそよぐ涼やかな風に舞い、おろしたてのフランク人らしい毛織の衣は薄黄色で、春の訪れを礼讃らいさんするかのごとくゆらゆらと踊る。


 彼女はアヤメの甘い匂いがその身に沁み込みそうなほど近くを歩いていく。

 その視線は咲き乱れる花に注がれ、穏やかな様子ながら冷静にこの黄色い貴婦人の一輪一輪を値踏みしていく。


 彼女の目が大きく開き、息を飲んだので口ずさんでいた唄も止まった。

 流れに沿っていた歩みを川の方へ向ける。岸を踏み越えて川の中へと数歩踏み込むと、その大理石のような白い手を伸ばして、一輪のアヤメを折り取る。

 幾百とも幾千とも思われるアヤメの中でも大きさ、形、色、香り、どれをとっても一番と言える見事なものだ。


 それだけ手に取ると彼女はまた岸へと上がる。彼女の履いた木靴からは不思議と水の一滴も垂れず、濡れているようにも見えない。


「完璧ね、私の未来を背負うからにはこうでなくちゃ」


 彼女は手にある黄色い宝石をやわらかな陽光にかざし、しげしげと眺めていたが、しばらくして満足すると視線を土手の上へと向ける。


 川縁のなだらかな斜面を登った先には古びた石畳の道が敷かれている。四百年近く前、ローマ帝国の兵士達が建設したものだ。

 ラングルの街へ続くこの道は今でも人々の往来を支えていたが、今日だけは少し普段と違った。普段往来する遍歴商人へんれきしょうにんの一団とは比べ物にならないほど大勢の人が一度に向かってきているのが遠目にも見ることができる。


 華やかな一団である。素朴ながら美しい笛や太鼓の調べに率いられて、色とりどりの衣装で着飾った者たちが街道を進んでいく。

 屈強な戦士らしき男や宮廷の侍女らしき娘らは殆どが徒歩で、後方に続く荷物を満載した荷車は牛たちが力強く曳いている。衣装の立派な高位とおぼしき数人だけが馬に跨っていた。


 行列の中央付近に、葦毛あしげの馬に跨った若い女性の姿があった。

 旅の空にも関わらず白い絹服を着て、ローマ帝国から伝来したのであろう精緻な装飾の金の腕輪や冠や首飾りが高貴な輝きを放っていた。端正な顔立ちは仕える侍女たちの誇りであり羨望せんぼうの的であろう。

 彼女はブルゴーニュ王の娘で、名をクロティルドと言う。


 ただクロティルドの顔は周囲の浮かれた雰囲気にも関わらず晴れやかではない。

 彼女の右手は常に首飾りの胸元に当てられている。時々持ち上げて眺めるその飾りは十字架であった。


 フランク人は王侯であっても未だキリスト教に改宗していない者が多い。キリスト教、それもアタナシウス派キリスト教の家庭で育った彼女にとって、武勇には事欠かないが未だに古き神々を信仰する夫君ふくんの宮廷が頭痛の種となっていた。


 ふと、柔らかな風がクロティルドの頬を撫でた。クロティルドは顔を上げる。川からは少し距離があるはずなのに甘いアヤメの香りが風に乗って舞い込んできたのだ。

 最初彼女は驚いたが、不安で一杯だった気持ちがその香りで少し除かれたような思いがあった。無意識に口角が少しだけ上がる。


 風を感じなくなったにも関わらずかぐわしい香りは残っていた。この時になって初めて、彼女は自分がいつの間にか右手に大輪のアヤメの花を握っている事に気がついた。


「心配ないわ、この花を花婿にお渡しなさい」


 そんな声が耳元でしたように思われた。彼女は花を顔の近くへと寄せる。

 久しく野花に触れる事など無かった彼女であったが、濃密な花の匂いが鼻腔へと染みわたると共に先ほどまでの不安がとある決意に変化していくのを感じた。

 自分が異教の地にいることが不安であれば、かつてイコンを抱えて教えを説いて回った伝道者たちのように、粗野な花婿に教えの素晴らしさを伝えれば良いのだ。


「主よ、憐れみたまえ」


 思いがけずそんな言葉が口をついていたが、彼女のすぐそばを歩く馬丁ばていや侍女にさえこの小さな呟きは聞こえなかった。


 ***


 嫁入り道具を満載した荷車部隊も遠ざかった街道に、一人の人影が歩み出た。飴色の髪がそよぎ、満足げに笑う彼女の顔の周りに揺れている。

 クロティルドに人ならざる力で花を差し出した事で、全く想定した通りに事は進んだのである。


 クロティルドの嫁ぐクロ―ヴィスという男は、既にガリアの北部を殆ど統一していた。手段を選ばず分化した領域を自分の手中に収めていく姿は、人ならざる彼女にも非常に頼もしく感じられるものだった。


 とはいえ彼女は武力だけでは不十分だと感じていた。国に住まう者の共同体意識は彼女の力の源だ。強固であればあるほど好ましかったし、できれば長続きしてほしかった。

 国内の繋がりが武力のみならず宗教でもなされるならば、例え王家が途絶え移ろった後も力をもたらすことだろう。


 クロティルドからクロ―ヴィスに、それからその臣下や子孫に、連綿と一つの教えが広まっていくことを祈願しつつ、彼女は花嫁の行列が遠くに見えなくなるまで見送っていた。


 ***


 481年にフランク王国を建国しメロヴィング朝をおこした初代国王クローヴィスは、496年、王妃クロティルドの勧めで家臣三千人と共にアタナシウス派キリスト教に改宗した。


 ゲルマン人の多くが異端アリウス派を信奉していた中で、アタナシウス派に改宗したフランク王国はローマ帝国のカトリック教会や貴族から支持を取り付け、フランク王国は発展の第一歩を踏み出す。


 また、アヤメの花をモチーフにしたともされる黄色の「フルール=ド=リス」は後年フランス王家の紋として広く認知されることとなる。

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