あの教会 Ⅱ

 心ここにあらず、都市部の入り口を目指す間も、改札機にカードケースをかざした瞬間さえ記憶になく、いつもより二つ前のバス停で降りた後も暫しボーっとした。

 ずっと暮らしてきた街の中というのに、全く違う世界に足を踏み入れた感覚。横切る車と静寂が順に奏でられる道路で、人の行き来も多くない。同じ街というのに、誰も彼もが自分を見つけると長く視線を向けてくる。都市部や二つ先と違い、その間の人々には、グレーのセーラー服に細長のケースを背負う存在が浸透していないのだ。

 母と手を握り、信号を待つ幼い女の子が物珍しそうにこちらを見ている。好葉は微笑して目的の教会へ歩き出した。

 バスを降りて東に真っ直ぐ進み、三つ目の角を左へ。少し進むと、教会を象徴する頂点の十字架が見えた。

 周囲に高い建物がなく目立つが、バスの進路からは大分逸れているため、やはり見覚えがなかった。ぼんやりと外観を眺めたところで何とも思わない。

 中に入らなければ何も始まらない。周囲に人の姿がないのを確かめ、敷地と外界とを隔てる柵の横線にローファーの爪先を乗せた。


 柵を越えた後で、とても罰当たりなことをしたのではないか、と気付くも、尚更開き直るのに便利な理由となった。

 閉鎖済みのため、当然敷地内にも人の気配はなく、一歩、一歩と進むにつれ、知らない世界に足を踏み入れた感覚が強まっていく。

 敷地といっても小さい教会を収める程度で、範囲は広くない。最小限のニーズを満たすためだけに使われた場所で、その最小限も尽きた以上は寂しい印象を与えて当然。髪がなびくほどでもない風の音すら耳に残るほどの静謐だった。

 中にゴーレムの男がいるのなら、男を守るゴーレスがいくつか配置されているものと思っていた。

 しかし、この狭さに加え、内部はともかく、外はほとんど世間に筒抜け。経験上、内部にも昨日のような群れはないと予感する。

 何にせよ、やることは決まっている。そのために相棒や皆を欺き、凶器を手に未知なる領域へ赴いたのだから。勘が誤りで、中に大群が控えていたとしても目的は変わらない。

 ゴーレムを殺す。それが第一だ。

 ゴーレスの群れがいたところで不利とは思わない。親のもとで自爆など不可能だろうし、可能なら利用してやるまで。


 好葉としては油断もなく、仮初の父に復讐を狂気と結論付けられても、頭は冷静なつもりだった。

 故に、見落としでも楽観でもなく、単に向こうが上手というだけの話。

 土砂降りの後でもないのに、敷地内の地面は所々がぬかるんでいる。土より泥に等しい、汚れた水溜まりのよう。

 好葉も目視で気付き、一旦は立ち止まるも、敵の気配が感じられない以上は不利になることもないと、それ以上考えなかった。

 門から教会の扉までの道のりほど泥が濃く、見渡すと他は薄め。よっぽど深ければ躊躇ったが、それほどでもなかったため、そのままローファーを汚していった。

 小撫と違い、時には欺くような手段も取る好葉だが、無意識で正面からの入場に固執した。

 好葉がこの場所に現れることを予測し、その様子を覗いている者がいたとしたら、抱腹絶倒するところ。

 好葉は罠に掛かったのだ。


 慎重な足取りで扉を目指す。扉の前、屋根の下にアスファルトの足場があり、そこをオアシスとして気持ちが急ぐ。

 ケースから棍を取り出し、臨戦の構えでいた。万が一の目印としてケースを置いておくルーティンも無意識にやっていた。戦いの場でこそ発揮される好葉の判断力は怨敵を前にしても変わらず発揮された。

 しかし、まさか、このような手段で先制されるとは、あまりにも想像の埒外だった。

「はっ⁉」

 不意に落とし穴に落とされたように、短く驚愕の声を上げた。

 体幹の自由を奪われた。ずっと足元を注視していたというのに、あまりの想定外に間に合わなかった。

 地面の揺れは、足場が不安定だからと思い込んでいた。

 足元からボコボコと気泡が沸き、泥色の腕が伸びて右足を掴みに掛かるなど、敵が仕掛けてきたと察知できても、対処までは無理だった。

「ちょっ……とぉ⁉」

 ゴーレスは、ゴーレス化後に罪を重ねるにつれ、個性が極まる傾向にある。

 癖の強いゴーレスが多い中、好葉自身、毎度よく柔軟に対処できるなと戸惑うほど、致命傷を負わず勝利を収めてきた。

 そんなゴーレス退治の達人でさえ、ぬかるみの底から仕掛けてくるなど思いもよらず、このまま頭まで沈められて死ぬのではないかと、急激に寒気を覚えた。

 引きずり込む力も強い。いつも通り大の男が相手と分かる。

 不安定な足場も重なり、好葉の抵抗は正しく若い女子のものとなった。

 右足は既に膝まで泥の中。呑まれるのは時間の問題。

 立ってなどいられず、脚を広げて時を稼ごうとすると、左足まで泥溜まりに触れた。より不利な体勢になると分かっていても、一時を逃れるにはこうするしかなかった。

「まずい、まずい、まずい!」

 いよいよ腰まで泥に塗れ、二度と立ち上がることのできない状況へ追い込まれたが、好葉は挫けず、泥溜まりから敵の手を探り、何度も棍を撃ち付けた。手は離れなかったが、撃つたびに引っ張る力が弱まるのを感じた。

 そうと分かれば無様など気にしていられず、死に物狂いで棍を撃ち続けた。

 ここを譲れば殺される。その恐怖に抗うため、震える目蓋で泥溜まりを睨んだ。

 飛沫を浴び、頭まで泥だらけ。凍り付いたように右足の感覚が失せても、とにかく棍を突いた。

 しかし、右足を掴む手とは別にもう一方の手が泥から生え、トドメの突きを寸前で掴まれてしまった。

 渾身を阻止された好葉は、頭を庇うも上半身から泥溜まりに倒れた。

「うん、腕は二本ある……よっ⁉」

 どうにか上半身を取り戻そうとするも、棍を掴む一方からも強く引く力を受け、いよいよ沈みゆく格好にさせられた。

 視界のほとんどが茶色く塗りたくられ、もう駄目、と感じた。

 これほどの絶体絶命は好葉の過去にない。本当に現実なのかと疑い出し、考える脳を失くして幼くなった。

「死ぬ! 死ぬ! 死ぬ! いや……やだぁ」

 棍を捨てればいいと、泥を口に含んで気付くも、頭も体も鈍くなっており、ただ棍を手離すだけのことが非常に困難だった。

 その間にも好葉の体は沈みゆく。左足の爪先と頭だけを残すまでに。

 棍を離したのは敵が先だった。空いた手に左足を掴まれると、好葉は抵抗を考える頭まで引き込まれていった。

 今際の際に好葉は咽び泣いた。

 戦いで散る場合もあると覚悟していたが、自分を案じてくれる人々を欺いてまで選んだ戦場で、こんなにダサい終わりを迎えるなど、酷く恥ずかしかった。

「小撫! 小撫! 小撫! 姿……」

 地上から消えるまでの間、思い付いた二つの名前をとにかく口にした。

 武器も自由も奪われた好葉は、奪われるばかりの哀れな被害者に戻った。


 視界のない泥の中、体を畳んで両腕を伸ばし、両脚を掴む手をどけようとしたが、好葉の狙いはすぐにバレた。

 敵から先に手を離され、泥の中とは思えない速度で背後に回られた。

 今しかない、と好葉は判断し、地上を目指してもがくも、すぐに両肩を掴まれて押し戻された。

 今度は両の手首を掴まれ、抵抗すらできなくなった好葉はそのまま大人しくなった。

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