第5話 ねこ
家の前で睦月と別れ、英明は自宅の敷地へと入っていく。よくある二階建ての一軒家。白と黒を基調にした外壁。その内からはLEDの光が溢れていた。
庭には存在感強めの柚子の木が三本生えている。二階にある自室の窓の近くほどまで伸びていた。華やかで優しい香りが漂ってくる。
玄関の扉を開き、靴を脱ぐ。たたきには女性用のヒールが雑に置かれていた。
今日は早帰りなのか、と英明は思いつつ、リビングの戸を開けた。
まず最初に英明が感じたのは、銃撃音。続いて、酎ハイとシャンプーの甘い匂いがした。ソファーの背からは頭に巻いているバスタオルが飛び出ていた。
「くはぁぁ〜〜、たまらん」
声の主の眼前でゾンビが次々に撃たれていく。薄型のテレビからは凄まじい光が発せられ、ソファーからはカタカタとコントローラーを操作する音が聞こえた。
「姉貴ただいま〜」
「おっ、かえりぃ」
お互い顔を見ずにすれ違い、英明はお茶を飲もうと冷蔵庫へ向かう。中から麦茶が入ったピッチャーを取り出し、二つのガラスコップへ注ぐ。
うわぁ〜、まじかっ、と独り言をブツクサ呟く英明の姉__
英明は両手にコップを持ち、酎ハイが並ぶテーブルにポトンと置いた。
「風呂上がりに酎ハイは脱水になるぞ」
「おおぉ、気が利くなぁ〜、流石自慢の弟……しねしねぇ」銃が愛花のAボタンから勢いよく発射される。口が悪いのである。
背後から迫っいてたゾンビに首を噛まれると、画面に『yourdead』と表示された。
それを見て仏頂面になった愛花は、『今作ハーブ少なすぎる。もっと育てとけ』と愚痴をこぼす。手元のコントローラーを机に置くなり、首を英明へ向けた。
「どうだった? 二日目の学校は、収穫あった?」愛花は左手で水を飲む。バスタオルからこぼれた髪の毛が輪郭を沿い、色っぽい。湯上がりだからだろうか、上気した肌は赤らんでいる。
愛花の着る淡いピンク色のバスローブ。その襟が大胆にも開き、中からは桜色の谷間が垣間見えた。もっとも、英明にとっては、『胸出てるなぁ〜』ってぐらいしか感じない。
「無いよ。今のオレの性格とはてんで違うってのが再確認できただけ」英明は奥のソファーの背もたれにぐだっど身を預ける。今日は色々と疲れた。
「姉貴も知らないんだよな? 高校でのオレを」
「うん。英明が高校生になってからはイギリスでの研究が忙しくて帰ってこれなくてね。ただ、英明が中学生の時はちょくちょくコッチへ帰国したけど、英明はそんな堅物な印象はなかったなぁ〜。普通に『お姉ちゃん大好き大好き。可愛すぎてシヌゥ〜〜』ってぐらいだったし」ニヒリと愛花は右の口角を上げた。英明がじっーっと疑るような眼で見つめると、愛花は酎ハイを握り一呷りした。英明を肴にしている。
愛花が知る英明は、真面目な印象はなかった。要するに、学校では真面目キャラを演じていたということなのだろうか。
「ま、可愛い弟でしたよ。ただ、帰国する度に体つきと顔つきがイケメンになっちゃっててビックリよ」
「そこで、ブラコンに目覚めたと」
「そこで英明は、可愛くて色気MAXになった私を見てシスコンを加速させた」
ジトっとした眼で、『ブラコン』『シスコン』と応酬を幾らか繰り返す。実際そうであったかを今の英明は知る由もない。
愛花よりも若干大人であった英明は整理するためにそこから抜け出す。
「姉貴が大学を機にイギリスへ行って、オレがその時中二だから、そうか」
自分用のグラスを口元へ寄せる。喉を潤しながら、暫し英明は考え始めた。
皆に伝えていることだが、英明は中学と高校の記憶がガッポリと抜け落ちている。
今の生徒会メンバーは中学時代からの仲だという。因みに、英明らの通っていた中学からは計七人しか中央高校へ進学しなかった。小規模な中学ということも理由にあるのだろう。
その記憶を辿ろうとすると、脳にパチっと火花が散るようなが痛みが走る。まるで、記憶という電線が高校生一年の冬のところで焼け焦げているようだった。
「シスコンだった中二までの英明は、今の英明みたくガサツで、真面目って感じじゃなかったな」英明がシスコンだったと、記憶に刷り込ませたいのだろうか、しつこい。
やはり、真面目キャラとして学校生活を過ごしていたのかもしれない。
机に置かれていた愛花のスマホがぴろんと音を鳴らした。画面には、『オリビィア』と映し出される。きっと、イギリスの友人なのだろう。
「そか。……それより__悪かったな。コッチに帰国させて」
英明が発する低い声音が愛花の目を手繰り寄せた。
「休学して、日本へ帰ってくる予定、無かったんだろ?」
「……」
愛花はイギリスの大学を休学し、今通う城南大学へ逆留学している。イギリスの名門大学と城南大学とでは明らかな学力差がある。世界大学ランキングトップ3の大学に対し、国内偏差値五十程度の城南大学と言えばすんなりわかるだろう。
愛花にとっては、日本の留学先など引く手あまただ。にも関わらず、愛花が城南大を選んだのは、家から一番近い大学だからという理由。
「オレが雷に撃たれたから、貴重な姉貴の時間を__」
目線を愛花からズラして話していた英明の体を温かい柔肌が包み込む。隣に座った愛花は英明の頭を自分の肩へと左手で寄せる。
「ばか」
言葉は汚いのに、その声音は驚くほどに切なさを滲ませていた。
「弟がそんなこと考えるな。英明と一緒にいれる、それだけで私はッ、嬉しいんだよ。死ななくてよかった。生きてただけで、私は嬉しいんだよ。よかった、よかった」
涙ぐませながら英明の髪の毛を愛花が撫でる。まるで英明が悲しい顔を見せた際にやるような、慣れた手つきだった。
その温かな思いと言葉に触発されてだろうか、英明は今朝の猫を思い出した。
「姉貴、聞いてほしい」
「言ってごらん」
今朝あった出来事を包み隠さず、話した。
__もし、自分が走れていたら。
英明は猫を抱えて走ってはいたが、それは今の英明の中での全力疾走だった。
__足が速かったら、正常だったら、助けてやれたんじゃ無いだろうか。
今日はずっとそんなことをぐるぐると考えていた。
猫が轢かれていた時に辺りを見回したのは、誰かに縋ろうとしたからだ。無意識的に自分ではこの子を助けられないと思ったからだ。
でも、英明しか居なかった。
ぎこちなく走る最中、胸で感じていた温もりが急激に冷えていくのを感じていた。
__もしも、雷に撃たれていなければ。
愛花がぎゅっと英明を自分の体へと引き寄せた。英明の体が震え出したからだ。
「オレ、あの猫救えなかった」
「英明のせいじゃ無い……当てた車の持ち主が悪いよ。救護活動をしなかったんだから」
英明は口を結んだ。必死に否定しようと英明が言葉を発する前に愛花が言葉を紡ぐ。
「英明がなぜそこまで自分を責めちゃうか。それは、その猫と自分が同じだと思ったからなんだよね?」
顔を上げた英明の瞳は冷たい雨の中で佇むように揺れていた。
「英明には自分を救ってくれた仲間がいた。でも、あの猫には居なかった。その猫に危ないと声をかける仲間も、必死で守ろうとする仲間も居なかった。時として、今までの自分の行いや繋がりが連鎖して、未来が変わる」
「……」
「だから私たちは、自分が困った時や助けてほしい時、支えてほしい時のために、誰かとの繋がりを大事にする。その猫には無くて、英明にはあった。ただ、それだけだよ」
愛花の言葉が英明の汚れた渦の勢いを弱めていく。凝り固まった物の見方をほぐしていく。
「英明」両肩を優しく握り、愛花の優しい目元へと向けさせられる。
「その猫は、嬉しかったと思うよ」
「えっ?」
「最後に人の温かさを知って。名も知らない人間が冷たい路面から温かい腕に自分を抱えてくれて。必死で助けようとしてくれた、英明に感謝してるよ。結果ばかりに目を向けないで。過程に目を向けなさい。そこにあなたの全てが詰まってる。助けようとした心を忘れないで。また、弱っている誰かへ手を差し延ばす一歩に、臆病にならないためにも」
姉のせせらぐ夜の海のような言葉を自分へ落とし込むように、英明は小刻みに頷いた。
姉の存在を感じながら、英明は目尻を下げる。
「よぉ〜し、きょ、う、は、飲み明かそうぞ、弟よ!」英明の肩から手を離した愛花は先程まで自分がいたソファーへ戻るなり、酎ハイを掲げた。
あまりの変わりように英明は苦笑いを溢す。
「オレ飲めないからな。飲むとしても、また麦茶だ」
「いいぞぉ〜、ガブガブ飲んじゃぇぇ〜」
酎ハイを飲む愛花の瞳が更にとろんしたものに変わっていく。
英明は察する。
__こりゃ、介抱しなきゃな。
イギリスで出会った超キュートなオリヴィアさんの恋愛話を英明へ浴びせるように聞かせた愛花は今ソファーで寝ている。
酔った愛花は英明の顔面へスマホを押し付けながら『可愛いでしょうぅう、わたしぃのおぉぉぉ〜オリヴィア』と自慢してきた。
確かに、西洋人の顔立ちにしては綺麗というよりも可愛い。まるでどこかの城のお姫様のように綺麗な金髪と青い瞳。
英明が食いついてスマホを覗き込むと、空になった缶で頭を叩いてきた。『オリヴィアはぁぁぁああ渡さなぁぁぁい』と酔っ払った声で怒りだした。
そうやって、はしゃぎ疲れた愛花へ布団を掛けようとすると、すぅすぅと小さな寝息が聞こえてくる。
静かな寝顔は先程までオリヴィアさんの元彼をボロクソに言ってた人とはまるで別人のようで思わず笑みが溢れた。
なんでも、オリヴィアさんの元彼は三股をしていたプレイボーイだったようだ。その愚痴に登場する様々な固有名詞に、自分の姉がイギリスでも楽しく暮らせていたようだと、胸を撫で下ろす。
まぁ、愛花の恋バナが出てきたら、その男を問い詰めるつもりであったが、無かったので良しとした。
テーブルの上にある食べ終わった皿を両手に抱え、洗い場へ持っていく。愛花が起きないようにいつもより静かな水の勢いにする。皿を洗う最中、オムライスの味付けが独特だったなと小指で眉毛を掻く。
綺麗な表面の卵に安心して、スプーンで割ってみると、ジャガイモと魚が米の間から出てきた。ビックリして、愛花の顔を伺うも、美味しそうにパクついていた。
なるほど、イギリスのフィッシュ&チップス風なのかと思いパクつくと舌が乾燥した。
まるで、干からびたプラスチックを食べているようだった。どうやら、イギリスの不味い飯に舌が慣れたのだろう。
今後は、自分で料理を作れるように勉強しようと密かに決心する英明であった。
愛花が寝ているソファーの背もたれを慎重に倒した。ゆとりのあるベッドが完成したので、目が覚めるまではこうしておこう。
布団を愛花の体へとかけ、暖房も軽くつけておく。壁掛け時計をみると、既に二十二時を回っているので『おやすみ』と言い残す。
軽くシャワーを浴び、英明は今日を終えることにした。
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