第3話 金メダル

 真っ白の外壁が覆う校舎からは、学生達の様々な音で溢れていた。


 笑い声や誰かの走る音、リズミカルな吹奏楽の響き。それらが懐かしい。


 学校へ通えるような状態になるまで二ヶ月を要した。筋力の低下によるリハビリと時折襲う猛烈な体の痛みから安静に過ごしていたのだ。


 四月十八日火曜日の今現在、やっとこうして高校二年生を迎えることができた。


 桜の木が緑の芽を作り始めたのを横目に、グラウンドの砂を英明は踏む。


 サッカー部や遠くのコートではテニス部が練習に励んでおり、快活な声が聞こえてきた。その熱が連れてきたのか、生温かい空気が顔を撫でる。視線をズラすと、陸上部の姿があった。


「やっぱ、あのユニフォームいいよな」ピンクのノースリーブと黒の短パンだ。腕を組みながら頷く英明に少し引き攣った顔をした鳴海がそのまま渦中に進んでいくので、後に続く。


 幅跳びや高跳びの選手達は黙々と練習するも、トラック競技組は右端に集まり、二人の少女へ詰め寄っている。聴覚の優れた英明は耳を澄ませた。


「押し問答の繰り返しだ。早く英明を呼んで来い」キャプテンの郷田が声を荒げた。

「ダメです。明智くんはまだ安静にしなきゃ、体を壊しちゃいます」


 丸刈りである郷田が小柄な女子を更に詰め寄るも、その子は『ダメです』と口にする。


 ロングヘアーの後ろ髪を捻り、頭の上にはベージュのカチューシャが付けられている。夕焼けが出ている外だというのに色白なのが遠目でもわかった。


 職員会議が臨時であるとのことで、今は学生しかいない。英明が職員室を去った後に会議があるのだ。だから、職員室内には多くの先生がいたのであった。


「埒あかねぇんだよ。ダメダメ言ってもヨォ!」


「ダッサ。男が女子に大声出して」ショートカットの女子が強気な口調で投げかけ、小柄な女子の前に割り込む。火に油を注ぎそうだ。


 ふたりは駆け足で寄るも、鳴海が英明の様子をチラチラと窺ってきた。


 大柄の郷田はショートカットの女子に圧迫感を与えようと見下ろした。身長差がある。二十センチはあるだろうか。彼女は怯まずに、男へ眼を付ける。


 女子が怪我を負うのを見たくない。だが、この距離では間に合わない。


 英明は頭上で両手をパンパンと叩き、『ちゅう〜も〜く』と声を張り上げながら近づいていく。


 彼らは、目を丸くした。今近づく男の姿を知っているが、知っている男はそんなことをするようなタイプじゃなかったからだ。


 生徒会の少女二人はどこか遠い目をしていた。


「喧嘩すんなって、両成敗両成敗。怖がってんだろ、女の子達が、さ」


「おまえ、ひであき、か?」言葉を詰まらせながら、大男の郷田が投げかける。


「ん? そうだけど? あぁ〜、前のオレとは少しキャラチェンしたんだ」


 郷田の取巻きの男女四人組もその突然の代わりように声が出ない様子だ。眉間へ指を当てながら顔を横に振り、郷田は英明を再度見て口を開いた。


「英明、お前の本心が知りたい。また戻らないか? お前に憧れて入ってきた一年も沢山いんだ」そう言うと、後ろからぞろぞろとまだ幼い顔をした一年生達が集ってくる。英明への視線は、英雄に向けるそれだった。


「おっ、そうなのかい! だったら、一緒に走ろうぜ」煽てられて気をよくした英明の提案に、後輩達は嬉々とした声をあげる。


「ちょっと待ちなよ」威勢が良かった女子__千羽紗凪せんばさなが今度は英明の方へ詰め寄る。シュッとした美人顔で、アチラの方もシュッとしている。


「自分の状態分かって言ってんの?」

「分かってるよ。でも、それが一番手っ取り早いだろ」


 百メートルのスタート地点へと向かう英明に生徒会長と千羽はその場に立ち止まったままだったが、もう一人の色白の女子__黒沼莉乃くろぬまりのが行く手を塞ぐ。


 小さな口は何も言葉を発さない。しかし、黒沼の目は真っ直ぐに英明を捉えている。


 なぜ彼女達はこうまでして明智英明を止めたいのだろう。


 考えを巡らすと、直ぐにその答えは降ってきた。


 __オレではない明智英明が大切な存在だったから、だ。


「多分、あんたらの知ってる、英明さんもこうするだろうよ」


「えっ……?」黒沼が腕を脱力させた隙を突いて、英明は横を通り過ぎた。


 スタート地点へ向かう道中、可愛らしい一年坊主達が英明のそばへ寄る。無邪気な顔で、英明の過去の栄光を話し出した。


 幾つもの大会でぶっちぎり一位だったこと、会場中が英明に夢中だったことなどなど。


 聴けば聴くほどに過去の英明の凄さが分かり、脇汗が尋常じゃなかった。今から、その無邪気に笑っている顔が崩れ去るのだと知っていたから。


 第三レーンに英明がつく。いつの間にか来ていた睦月にブレザーを渡していた。ゴール付近には陸上部キャプテンである郷田ごうだと生徒会メンバー、その他ギャラリーがいる。


 両隣のレーンには、一緒に走ることを誇らしく思っている後輩達が真剣な表情でクラウチングスタートの姿勢に入っていた。英明も同じくその態勢へと切り替える。


 心を鎮める。ギザギザの形をした闘争心を丸める。荒かった呼吸が隣にいる彼らに染まっていく。前へ向けていた視線を足元に移し、最終調整を行う。軽く自分の頭を定位置へ。


 凪いだ風は『セット』という声を届けた。みなが腰を上げ、次のピストル音を待つ。


 __パン!


 一斉に全員が走り出す。一際、誰よりも前へ出たのは英明だった。俊敏さは落雷を受けようと変わらない。一時落雷により鼓膜は破れるも、再生した鼓膜が更に遠くの音を拾うようになった。


 その初動に、英明の視線の先にいた陸上部員ははしゃぐ。自分たちの元へ、エースが帰って来たのだと。


 だが、その一幕は一瞬だった。


 後ろから追いかけてくる選手達に抜かれないようにと必死で腕を振り、前へ一歩を踏み出す。快走な後輩の走りとは裏腹に、足元の痛みを抑えるようなぎこちない走りが露呈される。


 英明を抜かす最中、後輩達は目をぎこちなく動かすも必死で駆け抜けていく。あまりにも無様な走り。長距離マラソンのラストスパートのような格好で、前を走る後輩達を追う。


 時間が経てば経つほどに距離は開く一方だった。


 ゴールに近づくと、彼らの表情が様変わりしているのに英明は気づく。俯き、憐れな屍を敢えて見ないような苦悶の表情である。


 陸上部員達は悟っているのだろう。英明が今、走れる状態ではないことに。偽りで下手な芝居を打っているわけじゃない。ゴールへと走る英明が背中や足を鞭で打たれたように痛々しく息を荒らし、誰かから逃げるような命懸けの走りだったからだ。


 白線を踏んだ英明は、へへっとけったいな笑いをしながら横たわった。


 颯爽と睦月は駆け寄り、肩を貸して立ち上がらせる。


「無理すんなって」

「若いうちの苦労は無理してでもしろってな」


 二人は近くの芝生まで移る。睦月の肩で英明はぜーはーぜーはーと息を切らしていた。


 傾斜がかかった芝生に英明は大の字で横たわる。青い芝生の心地よい感触に、呼吸が正常に戻っていく。英明がキャプテンに視線を向けると、何かしらの答えを待っているようだった。


 英明は脂汗を垂らしながら答える。


「ご存知のとおりさ。オレは事故に遭った」


 後輩達は聞いていなかったのだろう、息を呑んだ。


「事故で、筋肉や神経やらが麻痺した。最初はすぐに消えるだろうって軽く思ってたんだけどさ。細胞が傷ついてな。今は、このとおり、馬鹿みたいに言うこと聞いちゃくれねぇ。オレの体だってのにさ」


 ゆっくりと話す英明の言葉に睦月は後ろを振り返って空を見上げた。雷雲なんて出なさそうな青味がかった空である。


 鳴海は左手で自分の右肩を摩った。

 陸上部部長の郷田を千羽は睨む。

 瞑目した黒沼は優しく唇を噛んだ。


「わりぃ、そう言うことだ。陸上じゃ、使い物にならないんだよ、オレ」




 自分をまるで道具のように捉える英明に、郷田は目を閉じ首を横に振った。


 だが、首を振る中で引っ掛かる、自分の言動。


 自分は最後の大会を全国に行きたいという一心で、後輩を利用した。


 変わってしまった彼でも、君に憧れた後輩がいると言えば、念入りに準備をしまた走ってくれると、士気を高めてくれると踏んでいた。


 事故を受けたとしても、強靭な肉体と精神を持つ英明ならばまた走れる、そんな過剰な期待を寄せていたのだ。


 あまりにも身勝手で自分本位の図々しい願い。まだ意識を取り戻して二ヶ月しか経っていないのに、馬鹿げた言い草だ。


「すまない、英明」頭を下げた郷田に陸上部員の視線が一つに重なる。「俺はお前を……」


「いや、オレが悪いんです。昨日は腹の調子が悪くて、ダメだったんですけど。今日の朝に先輩の元を訪れて話そうと思ってたんですが、色々あって行けなくなりました。すんません」おそらく、前日の放課後も英明には何かしらの来れない事情があったのだろう。


 その事実を知ってか、『あっ』と鳴海生徒会長は声を漏らした。


「こんな大きな話になる前に事情を言っとけば、良かったんですけどね。丁度、診断書とか持ってきてたんで」


「英明……すまない」郷田は再度、英明に頭を下げた。


「やめてください。だけど、気持ち良かったですよ。空気を割くような爽快さ。みんなと……また走りたいですね」


「あぁぁ」目を閉じた郷田は唸る。瞼の裏に映るのは、自分の前を本気で走る後輩の姿。堅物で自分の走りを良くしよう良くしようといつでも試行錯誤を重ねる後輩。


 そんな後輩をみんなは好いていた。真面目で堅物だからだろうか、悪い癖には皆へアドバイスを、落ち込む仲間には声を掛けていた。滅多に笑わない癖して、クダラナイことには腹抱えて笑ってさ。不思議な奴だった。


 郷田はそんな後輩の後ろをいつも追っていた。最初は腹立たしかった。中学時代陸上に無縁だった奴に、負けちまったんだから。


 でも、英明がいつも朝早くに走り込むのを知って、その嫉妬は尊敬に変わっていった。


 英明が県一位を取った際は感無量だった。メダルを取ったってくせに堅物顔を浮かべるアイツを裏へ呼んだ。


 郷田から激励を送った時、英明は涙した。ふたりだけが知っている涙。一生泣かない奴なんだろうと思っていたけど、わんわんと泣いて抱きついてきやがった。


『よかったです。……みんなに支えてもらえたから、取れました……キャプテン』


 その時ばかりは、ちと涙腺が崩壊しそうだった。かわいい後輩だった。


 だから、郷田も鍛えた。上位者の走りを徹底的に研究して自分の弱みを鍛え抜いた。


 英明が銀メダルを取って、郷田が金メダルの台から見下ろして__夢みたいな想像を巡らしていた。そんな時だった。郷田のスマホに一本の報せが入った。


『キャプテン、明智が__』


「英明のお陰で、俺たち陸上部はここまで成長できた。お前に頼りっぱなしもいけねぇ。だからさ、見に来てくれ、俺たちが県大会でお前が立ったあの景色を勝ち取るのを」


「はい」


 背中をくるりと反転させた郷田は手を叩きながら、部員達へ掛け声をした。


 その掛け声にもう彼は駆け寄って来ない。


 誰よりもいち早く自分へと駆け寄ってきた後輩の姿が郷田の脳裏をよぎった。 

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