ネバー・ハプンド

姫路 りしゅう

おうちに帰るまでが通常授業

①怪奇との遭遇

 恐怖を動揺が塗りつぶしていく。

 頬に冷たい手のひらの感触。白くて綺麗な肌が数センチのところに迫ってきて、嗅覚がアルコールの匂いで支配される。

 正確にはアルコールではなく、アルコールから生成されるアセトアルデヒドの匂いだ。昨年授業で習ったことをぼうっとした頭で思い出す。

 そのまま彼女の唇が近づいてきて、僕の唇に触れた。

 唇がお互いの唾液で濡れていく。知らない感触。

 脳裏にはまだ、先ほど送られてきたがこびりついている。頭の大半を恐怖が占めている。

 その恐怖を、キスをされたことによる動揺と快楽が少しずつ塗りつぶしていった。

 僕は考えることを辞めて、目を閉じる。

 彼女の舌がぬるりと口腔内に侵入してきて、口の中に苦みが広がった。

 正月に飲むお屠蘇のような味。僕がまだよく知らない味。


 初めてのキスは、アルコールの味がした。


 こんな形でファーストキスをすることになるだなんて、今の今まで全く想像もしていなかった。

 冬の十八時はすっかり暗くて、僕たちの座っている薄暗い公園には時折冷たい風が吹き込んでくる。


 今日、僕の十六歳の誕生日はたくさんの「おめでとう」というSNSのメッセージからはじまった。

 普段は十一時には眠る僕だけれど、今日だけは少し夜更かしして、学校の友だちやインターネットの知り合いとやり取りをしていた。

 昼休みにはクラスメイトから誕生日プレゼントと称してお菓子や漫画を貰った。それはもちろん凄く嬉しかったけれど、僕は主役になるのがあまり得意じゃない。それに夜更かしも手伝って、六時間目の授業が終わる頃には僕の精神力はすっからかんになっていた。

「あれ、本日の主役なのに顔死んでるね」

 放課後、生徒会室の扉を開けるとさっそく伊原いはらが僕の死んだ顔にツッコミを入れた。

「祝われるのは嬉しいんだけど、さすがに疲れるね。僕は目立つの苦手だし」

「…………」

 そう言うと伊原は怪訝な顔をしたあと、「今日は別にやることないし帰ったら?」と言った。

 僕と伊原華乃いはらかのは共に一年生にしてこの桜塚北さくらづかきた高校生徒会執行部のメンバーである。毎年七月に行われる生徒会選挙に出馬し、五人しかない枠に収まっていた。

 それが原因で僕たちは学内では少し有名人なので、目立つのが苦手という発言に引っかかったのだろう。

「うーん、そうだね、じゃあ今日は帰らせてもらおうかな」

「会長にはあたしから伝えとくよ」

「ありがと」

 そのまま踵を返して生徒会室を出ようとすると、背後から呼びかけられた。

「メグ」

 ゆっくりと振り返る。伊原の顔が西日に照らされてほんのりと赤く染まっているように見えた。

 地毛のわりに少し赤みがかかった綺麗な髪の毛が、一層赤く煌めいている。

 そのまま十秒ほど言葉の続きを待ったけれど、彼女は何かを言いかけてやめる、というのを何度か繰り返した。しびれを切らして「どうしたの」と問いかけると、伊原は「なんでもないよっ!」と声を荒げてから「また明日ね!」と強引に僕を追い出した。

 なぜか彼女はずっと机の下に手を隠したままだった。


 動揺する伊原、ちょっと可愛かったなと思いながら帰り道を歩く。呼吸をするたびに冷たい空気が肺に流れ込んできて、少し息苦しかった。

「ちょっと寄り道するか」

 高校と僕の家は徒歩で三十分かからないくらい。その間にベンチがいくつかと鉄棒だけある寂しい公園がある。疲れたり考え事をしたいときはそこのベンチに座るのが僕の習慣だった。

 ベンチに体を投げ出す。思った以上にひんやりとしていて「うおっ」と声をあげたところで、公園に先客がいたことに気が付いた。


 まず目に飛び込んできたのは、その右手に握った一升瓶だった。


 もこもこのニットを着ていてもわかる華奢な体つきと、長くて黒い髪の毛。顔はよく見えないけれど、美しい雰囲気を纏った女性。

 しかし姿勢は最悪だった。足を大きく開いていて、左手をベンチの背もたれに引っ掛けている。だらしのない格好。

 そして時折と言うには早すぎるペースで一升瓶に直接口をつけている。

「……」

 関わらんようにしとこ、と僕は思った。

 きっと大人は大変なんだろう。

 今日十六歳になった僕は、少しだけ大人の世界に思いを馳せて、あとは頑張って無視をする努力をすることにした。

 時々聞こえてくる「あ〜」だとか「うめぇ〜」だとかのうめき声をBGMに、僕も上を向いて口をぽけぇと開ける。

 勉強のこと、将来のこと、生徒会のことを次々に思案する。もちろんそのあいまあいまに昨日読み終えた小説や、プレゼントでもらった漫画についても考える。十六歳の冬は考えることが多いのだ。

 鞄から漫画を取り出そうとして、まわりがもうすっかり暗くなっていることに気が付く。

 十二月の日暮れは早いなぁ今何時だと思いながらスマホを取り出して、もうすぐ十八時であることを確認した瞬間、着信音とともに画面の上部に通知が出てきた。

 『発信者:伊原華乃』というメッセージを確認して、電話に出る。

 生徒会室を出る間際に言いかけた何かを言ってくるのだろうかと思いながらイヤホンを耳に詰め込むと、声を潜めたようなくぐもった音が聞こえてきた。


「メグ? よかった、繋がった」


 この電話をきっかけに、僕の高校生活は一変することとなる。


「どうしたの?」

「……あのね……今ね、帰り道で、学校出て十分は経ってないくらいの下り坂のあたりにいるんだけど。獣道が横にあるあたり」

 伊原と僕の通学ルートは大体同じなので、簡単に場所の想像はついた。桜塚北高校は山の上の方に位置しており、彼女は今林を左手に坂を下り続けているところなのだろう。

 あと十分と少し歩けば僕のいる公園にたどり着くはずだ。

 僕は彼女のたどたどしい口調から、何かよくないことが置きているんじゃないかと予想した。

「大丈夫? 何かあったの」

 伊原は「あのね」や「えっと」などの意味のない繋ぎを何度か繰り返した後、さらに小さな声で言った。


がついてきてるの」


「何かって何? 人?」

「わからないけど、人じゃないと思う」

 人じゃないと思うってどういうことだと思ったら、彼女はなおも声を潜めながら言葉を続ける。

「怖くて振り返れないんだけどね、なんか、這いずるような音がずっと後ろについて来てるの」

「這いずるような音」

 伊原は「聞こえるかな」と言いながら、電話を耳から離す。

 かつかつという音は伊原本人の足音。

 それに紛れて、ずるり、ずるりと確かに何かが這うような音が聞こえた。

 人間ではありえない、液体が混じったような音。それはきっと、森の動物でもない。

「……伊原、周りに人は?」

「いない。中途半端な時間に学校出たから、たぶん前にも後ろにもいない」

 そもそも徒歩でこの坂を降りる生徒はあまりおらず、大通りのバスを利用することが大半だった。

「思い切って振り返れない?」

「本気で言ってる?」

「だよね」

 僕だって得体のしれないモノが後ろをついてきていたら振り返られる自信がない。もう夜と呼べるくらい暗い中、正体不明な何かが背後にいる。その恐怖は計り知れなかった。

 しかし伊原は意を決したように改まった口調で「や、がんばる」と言った。

 そのまま大きく息を吸う音が聞こえてきて――。


 、と、乾いた音がした。


「伊原――いはらっ!」


 ただ事じゃない何かが起きたのだと理解した僕はただ彼女の名前を呼んだ。電話口からは繰り返し何、何と動揺した伊原の声が流れる。

「伊原、大丈夫。大丈夫だから」


「メグ、あたし、あたし――今、?」


 次は僕が困惑の声を漏らした。

「どこ、って――」

「あたしっ、の体! からだは――ある。さわれる。手もある、顔もある。でも見えない。手も足も鞄も見えないよ。空、メグ、ねぇ、空しか見えない。あたし今、どこ?」

「伊原! 伊原、落ち着いて。僕が行くから。通学路だよね、あと、十五分くらいで、着くから。落ち着いて、状況を、教えて」

 あえてゆっくりと話したことが功を奏したのか、伊原の呼吸もだんだん落ち着いてくる。

「今、何が見える?」

「空と、視界の隅に木」

「他は?」

「見えない、目は動かせないし瞬きもできない。ううん、瞬きしているつもりなのに、視界が閉じない! あっ、でも、動いてる。視界が――ちょっと揺れてる」

「……その他に変なところは? 手と手を繋いで、足踏みして、首を回して、屈伸できる?」

 そう言うと少しだけ間があって、「できる、目以外は何も変わらない、でも目が見えない! 違う、目は見えてる。でもあたしの体は見えない!」と言った後に、伊原は「え」と声を上げた。

「あたし、泣いてる?」

 聞くと、があるのだという。


 僕はなぜか、嫌な予感がした。


「ねぇ、伊原、写真、写真撮れない? 伊原の顔の」

「どうして? いや、無理だよメグ。だって目が見えないんだから――」

「伊原のスマホなら音声入力でシャッター切った後に僕に送信までできるはず」

 意味不明な状況に慣れてきたのか、彼女は却って落ち着いた声色で、スマホを音声操作した。

 ぴこん、と通知が来る。

『伊原華乃が写真を送信しました』

 少しだけ躊躇してから、彼女とのトーク画面を開く。


 薄暗い背景で少しピントの合っていない伊原の自撮り。

 それでも、ことは十分に理解できた。



 眼球が繰り抜かれた空っぽの両目から、真っ赤な涙が溢れていた。

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