第1話「死神と少女」

・暗闇の中で燃える炎がある。

「~!! ~!!」

耳に届かない叫びがある。一人じゃない。何人かの届かない叫び。声。

届かないものに意味はなくやがて消えていく。でも確かにそこに叫ぶ声は存在していたのだ。その最期を見届けていた自分だけがその存在を知る。

他の誰もが知らないその存在を自分だけは覚えていたかった。そうじゃないと消えた事実すら、生きていた証すら誰の記憶にも残らず完全な消滅を示してしまうから。


・意識を取り戻したら知らない天井が見えた。混乱はしなかった。試合が終わった後にはたまにあることだ。ただ今回は少しだけ眠っている時間が長かったようだ。

「……」

起きあがろうとして、しかし出来なかった。意識を集中させると右足が動かない。見ればギプスを編められた上でベッドに固定されていた。

「……お、目が覚めたか」

「……宇治先生……?」

大倉病院のドクターであり、大倉道場のOB。甲斐も今までに何度か世話になったことがある。となればやはりここは大倉病院なのだろう。

「……俺はどうなったんですか?」

「ん、ああ。右膝関節の完全破壊。靱帯も神経も切断されてるから膝から下の感覚がないだろ?靱帯の縫合が馴染み終えればとりあえずギプスは外せる」

「……それって、また試合できるんですよね……?」

「…………悪いな」

「…………どう言うことですか」

「大倉機関の技術は日本でも結構上位だ。だから神経をなくした手足でも切断する必要なく義手義足化が出来る。現に膝関節部分は既に人工化手術を終えた後だ。靱帯再接合手術も同時に行ったから、術後24時間もあれば歪ながら歩けるようにはなるだろう。だが空手は無理だ。少なくともまた同じ舞台に立てるとは思わない方がいい」

「……分かりました」

返事はした。だが、理解したとは言えない。この人が何を言っているのかが理解できない。だがそこだけ何しても動かせない右足が事実だと語っている。手術をしたということは全身麻酔もかけたのだろう。その影響で脳がしっかりと起きていないのかもしれない。よく見れば時計は2時を指していた。

「……今は夜中の2時ですか?」

「ああ、そうだ」

「……宇治先生、大丈夫なんですか?」

「夜勤をするつもりはない。これはただの残業だ。お前は……まあ、もう一回寝てろ。そして起きた頃にはもう少し自由に動けてるはずだ」

「……分かりました」

目を閉じる。話している間は気付かなかったが鼻から喉に掛けてチューブが挿入されていた。目を閉じてから少しの後にイヤな感じがするといつの間にかチューブは抜かれていた。そこから先はまたあの自分にしかない炎の記憶に戻るだけだった。


・最初にそれを見た時は松ぼっくりの進化系かと思った。

家で出されたこともないし学校の給食でも寮の食堂でもない。もちろん自分から食べようとしたこともない。完全に未知の食べ物だった。

果物だと言うことは知っていたがしかしその中では決してメジャーな部類ではないだろう。少なくとも16年間(満366日)食べたことがなかったのだからそうに決まっている。

長い時間、鼻から喉に掛けてチューブを挿入され続け、痰が溜まり続けて食事はおろか水すらろくに喉を通らない状態でそれを出されたとしよう。積極的に口に放り込めるだろうか?いや、普通は無理だろう。昨夜はよく喋れたなと言うレベルで言葉より先に痰が口からあふれ出るような状態で今まで食べたことのないそれを食べられると思うだろうか。

確かに柑橘系は水分を多く含んでいるから喉が渇いている時には推奨されるだろう。拳魔邪神もよく食べてたし。それに別に苦手意識があるわけでもない。そう。タイミングが良くないと言うだけで別に嫌いではないのだ。ただ、こんな絶望的なタイミングで未知のそれを食すつもりにはどうにもなれなくて。

「いいから食べよ?ね?ほら?ほら!」

と、見舞いに来た最首に口の中にぶち込まれた。恐る恐る租借し、その成分の全てを喉を通していき、

「う、うまい……何だこれ!なんだよこれ!何ですかこれは!」

「だからパイナップルだよ!廉君が一度も食べたことないって言うからもって来たんじゃないか!」

「最首。一応そいつは病人なんだから手加減してやれって」

「板東先輩は廉君を甘やかしすぎなんですよもう……」

病室。時刻は12時30分。見舞いとしてきてくれたのは最首遙と板東慎一郎。どちらも空手の関係者である。どちらも結構長い付き合いだ。

「はむはむむしゃむしゃ」

「もう、そんなにパイナップル気に入ったの?明日また持ってきてあげようか?」

「いや、明日午前中に退院だからいい」

「え、そうなんだ。早いね。宇治先生からは骨折よりひどいって聞いたけど」

「逆だよ。下手に骨折とかみたいな適切な治療の下現状維持みたいな奴だったら今の大倉の技術でも2週間は入院してないといけないけど今回の場合は人工義足化で済む話らしいからな」

パイナップルを貪る手は止めない。

「……それって空手はどうするの?」

「……」

パイナップルを貪る手は止めない。質問する最首とは別に板東はどうやら答えを知っているようで難しい表情をしていた。やがて何か言おうと口を開いた時だ。

「…………たぶんもう無理だろうな」

甲斐が代わりに答えを出した。夢であってほしいと願った昨夜の会話。しかし頭の中ではもう受け入れていたのかすんなりと話せた。

「…………どう言うこと……?」

「膝が完全にお釈迦になったんだ。周囲の靱帯と神経ごとな。膝と膝から下を人工化したことで明日にはもう日常生活を送る分には問題なくなってるみたいだが、たぶんもう戦えない。よしんば畳に上に立ったところで遥か格下にさえ勝てるかも分からないだろうな。宇治先生曰く今の俺じゃ一般人よりかも遅い蹴りしか出せないらしい。いくらパンチがメインだからってそれじゃもう全国なんてねらえない」

「……じゃあ、い、引退するの……?」

「目的を果たせないのなら潔く別の道を選ぶしかないさ」

「……そんなの廉君らしくないよ」

「……最首……」

「腕を怪我してパンチが少しの間出来なくなったって廉君はパンチ一筋で頑張ってきてそのまま全国に立てたじゃない。それなのにメインじゃない足を怪我したからって空手そのものを諦めようだなんてそんなの……」

「もうよせ最首」

板東が最首の肩に手を置いた。

「一番つらいのは甲斐だ。俺達に出来るのは支えることだけだ。責める事じゃない」

「……ごめん、廉君」

「いいよ。逆にそういってくれたからこっちも冷静に受け止められたんだ。ありがとう、最首」

そう言って最首の頭を撫でてやった。

「子供扱いはしないでよ」

「いや、癖でな」

「……10年くらい言い続けてるのに」

膨れる最首。やがて板東が口を開いた。

「甲斐。後で加藤先生が来るそうだ。たぶんこの先の進路について話すことになると思う。その時は自分に素直に話すんだぞ」

「……ありがとうございます、板東先輩」

一礼をする。その後13時になるまで二人と他愛ない話をしてから加藤、そして大倉がやってきた。

「遙、慎一郎。悪いけど廊下で待っててくれるか?」

「「押忍」」

同時の挨拶。同時の一礼。同時の退室。そして甲斐の正面に加藤が立つ。

「元気そう……と言っていいのか分からないが思ったよりは元気そうでよかった」

「押忍申し訳ございません。こんなことになるなんて」

「謝る必要なんてない。むしろ謝るのは俺達の方だ。容態も宇治から聞いている。……残念なことになってしまい、申し訳ない」

加藤が頭を下げた。直後に大倉もまた頭を下げた。

「そ、そんな、頭を上げてください!自分なんかにそんな……」

「……そこで1つ聞きたいんだがこの先どうする?」

「え?」

「今回の件、試合中の事故として扱われ入院費も手術代も機関から出される。もしこの先日常生活や進路において不具合が出た際も可能な限り補助しようと思っている。その上でお前はどうしたい?確かにこの先またあの全国の舞台に立つことはかなり難しいと思う。それでもお前がまた続けたいって言うなら全力でサポートする。もう空手なんてイヤだと普通の生活に戻りたいとしても大学や就職先などのフォローも全力で行う」

「……自分は……」

言葉に詰まる。最首や板東相手なら多少の軽口は問題ないだろう。どんな答えを出しても後からの訂正などいくらでも出来よう。だがこの二人を前にして軽々しく発言などは出来ない。きっとここでの回答は一生ものの決断になる。そう思うと途端に緊張して冷や汗が出てきた。

「……甲斐」

そこでこれまで沈黙していた大倉が口を開いた。

「もしもまだ決めかねないと言うのなら1つ、頼まれてほしい」

「何でしょうか?」

「とある生徒のコーチをしてもらいたいんだ。その子はこの前の試合を見て是非お前にコーチをしてほしいと言っていてね」

「……コーチ?自分が指導員にですか?」

年下や初心者に稽古をする指導員(コーチ)。甲斐もこれまで何度かバイト感覚で行ったことがある。だからどんなことをすればいいのかは分かっているし抵抗もない。

「その言い方だとまるでその生徒にだけ指導をするように聞こえたのですが……」

「そうだ。その子は少し特別な事情を抱えていて、まだ他の生徒達と一緒に稽古が出来ない。だからもしお前がいいと言ってくれるのなら専用の道場を用意してマンツーマンで指導をしてほしいんだ」

「……」

「もちろん毎日送迎は手配する。指導員としてのアルバイト料ももちろん用意しよう」

「……自分でよければ」

填められたと思わなくもない。けどこれはいい餌だった。どんな形でも畳の上に残りたいーーーその思いにコレ以上内ほど中途半端に応えられる選択肢だった。

「……ありがとう。明日確か退院だったな。その足で迎えを用意させるから対面をしてほしい」

「分かりました」

「……じゃあ、私達はこれで失礼するよ」

「あの、あの後大会はどうなったんですか?」

甲斐の質問には加藤が代わりに答えた。

「まずお前と早龍寺の試合は引き分けに終わった。準決勝が引き分けに終わったことで決勝戦が発生せずそのままAブロックの奴が優勝を果たした。ただ、そいつはこんなものに意味はないと言ってトロフィーは受け取らずに辞退。結局そいつと早龍寺が倒した相手同士で決勝戦を行って勝った方が今年の全国優勝者となった」

「……そんなことが……」

ここに来て悔しい想いがにじみ出てきたのは贅沢だろうか。そんな絵に描いたような武人と全国の決勝で戦えたらと思うと全身の血液が沸騰しそうになる。……その中に右足は含まれていなかった。


・夜。午後10時過ぎ。夕方頃に少しだけ歩いたりしたものの基本的には寝たきりだった。ここ数年でここまで運動しなかった日はないだろう。しかしそれでも程良い眠気が来るほどには体力を消耗していた。宇治曰く右足にはまだ痛み止めの薬が効いている状態であり、気付かぬだけで体は人工化と戦っているらしい。

「……」

かつてないほど静寂の夜。と言うか一人で眠るのはかなり久々だ。仕切の向こうから僅かな寝息が聞こえる程度とは言え蒼穹の存在は大きかったのだろう。

かつては一人だったくせに、いつもは一人であろうとしていたくせに、いざ一人で夜を迎えただけでここまで孤独を感じる己が情けなくて仕方がない。

「本当に……情けない……」

そんな情けない自分の声しか聞こえない暗闇の病室で甲斐は今日何度目かの睡眠に沈んだ。


・見覚えがあるようなないような朧気な景色を歩んでいく。意識はあるが感覚がない。ならばこれは夢だろう。自分の部屋のように馴染んだ足取りでしかし見慣れぬ場所を進んでいく。

右足に違和感はなくなおさらここは夢なのだろうがしかし夢心地ではない。むしろ逆に悪夢でさえあると思えるそんな恐怖色で染まった感触が歩む両足から沸いてくる。

人工義足化された右足ではないかつてと同じような足取り。だからこそ覚える恐怖の足取り。予感めいた鼓動ーーー今にも崩落しそうな石橋を渡るような感覚。それまでの確かだったものが全く頼りない。

歩むことをやめない両足。前へ進む度に募る焦燥ーーー前に進みたくないと心が叫びたがっているかのようにーーーその先に何が起きるか分かっているかのようなデジャブ。

「…………あ」

モニタ越しに見る景色のような実感のない視線の先に存在してはいけないいくつかの笑顔が見えたような気がして。

「うああああああああああ!!!!」

慟哭。そして甲斐が起きあがった。荒い呼吸と無意識にかつてと同じ動きをしようとしたことで悲鳴を上げる右足からの僅かな痛み。その二つが少しずつ心を冷静にしていく。

「……夢……」

時計をみる。まだ夜中の3時過ぎだ。

「……何でそんなに情緒不安定かな」

一息ついて呼吸を整えてからベッドに背を預ける。暑すぎも寒すぎもしない適温に調整された部屋が今は少し寒く感じるーーー闇の毛布が恋しかった。両手で思い切り引き寄せて右足以外の全身にその温もりを感じる。

「……出来ることが怖かったのかな」

戯れ言。そう感じながら甲斐は再び意識を闇へと落としていった。


・朝7時に自動で点灯する照明。やがて看護師達がそれぞれの病室に赴いて患者達の健康状態を素早くチェックしていく。

甲斐もまたやってきた看護師に現在の体温とか具合が悪いところがないかの報告を済ませた。

その報告の後で思ったよりかは右足を動かせるようになっていることに気付いた。ついでに下半身が結構あれな感じになっていた。古代ローマとかギリシャとかの人がしてそうな腰布。足をあげれば当然のようにめくれあがりおむつが見える。そしてそのおむつの中に管が入っていて尿道を貫いていた。昨日一日トイレに行かなかった理由である。

「……こんな感じのまま最首や先生達と話してたのか」

若干の羞恥心。その後、朝食を済ませてから退院の準備をするまでの間にそれらは全て取り除き、用意されていたほとんど着たこともないような私服に着替えた。会場には胴着しか持ち込まなかったため誰かが寮から適当に私服を持ってきてくれたのだろう。それも含めて間違いなく蒼穹には話は行っている……

「と思ったけどそうでもないな」

思い出す。同級生達は昨日から京都に修学旅行に行っていた。当然本来なら自分も参加する予定だったがいつの間にか断念していたようだ。

「確か修学旅行は金曜日までだったな。それまでは穂南も部屋にはいない……気がしないな」

授業こそ出席しているが蒼穹は学生寮と学校以外には行きたがらない。中学時代の林間学校にも確か参加していなかった。……自分も当日は大会があったため参加しなかったが。高確率で今回もサボってることだろう。となればやはり自分の事情を蒼穹も知っている可能性が高く、この服は蒼穹が選んだものかもしれない。

「……逆をしたら殺されそうだ」

小さく笑い、退院までの時間に病室に別れを済ませることにした。

やがて、時間になると宇治と大倉がやってきた。

「大倉会長まで……」

「かしこまらなくていい。迎えを用意すると言っただろう?……宇治」

「押忍。甲斐、退院するに当たっていくつか注意事項がある」

「押忍。何ですか?」

「まずその足だがまだ完全に馴染むまでには2、3日かかるだろう。それまでは激しい運動は控えるように。外れることはないだろうが変な形で硬直したら面倒だからな。最悪また手術をする必要がある。とりあえず来週日曜日にまたここには顔を出すように。それ以外の普通の日常生活なら問題はないはずだ」

「押忍。分かりました」

「少しでも異常があったらすぐに知らせろ。人工義体化はまだそこまで確立された技術じゃない。完璧に制御された技術じゃないんだからな」

「……何でそれなのに義体化を?」

「あのまま放置していたらお前の右足は膝から下が神経通わなくなって壊死していた。そうなる前に膝から下を加工することで壊死を防いだんだ。この技術は確かにまだ完全になったわけじゃない。だが国内でも既に何人かがこの手術を受けて元通りの生活を送れている。まあ、つまりは壊死する可能性がある足を切断して金属製の義足を填めるよりかも遥かに効率がいいんだ。年寄りやまだ成長が見込める子供には出来ないがお前くらいだったらまあ、こっちの方がいいだろう」

「……確かに最近身長が伸び悩んでいますが」

「と言うか絶対読んでないだろうけどうちの機関の保険に入った時にそう言う説明と誓約書があったと思ったんだがな」

「いや、別にイヤだったわけではないですよ。ありがとうございます」

「おう。必要な書類とかはこの袋の中に積めた。行ってこい」

「押忍!」

「……では行こうか」

三者三様に一礼をしてから甲斐は大倉の後をついて行く。途中何度か転びそうになったが駐車場に着く頃には普通に歩けるようになった。自転車に乗る練習に近かった。

「例の道場まで」

「承知しました」

駐車場。二人を乗せた車。黒服の運転手が静かに車を出す。大会とかでもよく見るスタッフだろう。

「……数の黒」

「は?」

「いや、何でもないです」

厳つい外見とは裏腹に運転は静かで丁寧だった。

「道場と言いましたが胴着に着替えなくてもよろしいのでしょうか?」

「今日は挨拶程度だからかまわない。それに君が着ていたあの胴着は破れていたり血だらけだったりで破棄された。新しいものは既に用意してあるから後で受け取りなさい」

「押忍。分かりました」

病院を出て20分程度。まるで和館のような場所。田舎のおばあちゃんの家とかサザエさんの家とかそう言う感じの建物の前の駐車場に車が泊まった。

「ここだ」

「……押忍」

車を降りて大倉の後に付いていく。表札はあったが黒く塗りつぶされていた。戸を開けて中に入る。靴を脱ぎ、廊下を進む。こうしてみると本当に昔ながらの一軒家にしか見えない。

「右手に居間があるがまあ使うことは少ないだろう。一応そこに冷蔵庫があるから飲み物などを入れておく分には問題ない。更衣室が存在しない事もあってここで着替えるといいかもしれない」

「押忍」

「まっすぐ行くとトイレがある。君の足に合わせたわけではないが洋式に工事されたばかりだから問題ないだろう。その隣には風呂もある。電気と水道は通っているから汗を流すことも出来よう」

「押忍」

「で、左手の和室。基本そこで君には稽古をしてもらいたい」

大倉が襖を開ける。

「…………あ」

小さな声。覗いてみると襖の先の和室。畳の上には一人の少女が正座していた。

「彼女が?」

「そうだ。彼女の名前は赤羽美咲。中学2年生だ」

「……赤羽美咲です」

「……甲斐廉だ。よろしく」

入室し、一礼してから畳の上を進む。赤羽と名乗った少女は立ち上がり甲斐を眺めていた。

「……ん、どこかで会ったような……」

「先日は客席の場所を教えていただいてありがとうございました」

「…………ああ、そう言えば一昨日」

客席の場所を聞いてきた少女だ。1分に満たない会話なのと現在と違ってあの時は制服姿だからすぐに気付かなかった。それに今彼女の姿の方が気になる。

「……全身赤の胴着……」

見たこともないほど真っ赤な胴着を着ていた。まるでつい先ほどペンキの海にダイブしたかのような色褪せることない真紅だ。そして帯がない。初対面に近い女性の服をじろじろ見るのは気が引けるがしかし気にするなという方が無理がある。

「……どうして自分を?」

「一昨日の試合を見たからです」

「……」

それだけ?まさかと思うが自分のファン?勝っていないのに?

流石に不思議があったため大倉の顔を見るが応答はない。

「空手の経験は?」

「基礎を少しだけ」

「……帯は?」

帯がないけどその胴着どうなってんの?って意味と階級とを同時に聞いている。空手も柔道もそうだが帯にはその人物の名前と階級が刻まれている。多くは色で判別がつくがこの少女にはそれがない。後者も気になるが前者がメインで聞きたい質問だ。

「一応10級となっています」

しかしあっさりと階級で答えられてしまった。もう少し仲良くなってからにしよう。

そして10級ということは本当に結構素人なのだろう。道場にも依るが空手は全くの初心者である白帯からスタートして一ヶ月すると最初の進級審査が受けられる。それに合格すると10級となりオレンジ帯を与えられる。最初の審査など本当に基礎レベルだから誰でも合格できるも同然であり、彼女はまだその壁にも満たない壁を越えただけという事になる。

「審査は通ったんだよな?」

「はい。ここで大倉会長からご指導を受けていましたので」

「……」

会長自らが稽古指導をすると言う言葉を聞き逃せなかった。大倉会長は既に大倉道場からは引退している身だ。年齢も50以上。加藤や岩村は大倉の弟子だと言うが加齢もあって既にあの二人の方が実力は上だろう。要はそこまで前線を離れている会長自らが稽古指導をしたと言うのはどこまでイレギュラーなのか。

「会長、彼女は一体……」

「……私からは話せない。興味があるのなら彼女の信頼を買って直接彼女から聞きなさい」

「……押忍」

納得は出来ないがそれ以上食ってかかることも出来ない。想像も出来ないような特別な事情があるのだろう。それに自分が巻き込まれているというのがいまいち実感がないのだが。何となく後戻り出来なさそうなところに足を踏み入れた感があった。

「……稽古はいつぐらいがいい?週に何回希望とかあるか?」

「あなたの無理でない限り」

「へ?」

それはもしも自分がいいと思えば毎日でも週1でもいいと言うことだろうか。偉く積極的というかやる気がある。小学生くらいならともかく中学生になってから始めたであろう女子にしては異様なほどの積極さだ。もしやそこに何かしらの意図が隠されているのかもしれない。

「甲斐、これが新しい胴着だ」

「あ、押忍。ありがとうございます」

大倉から新しい胴着を受け取る。以前の胴着は高校に進学してからずっと使ってきたものだから新鮮な感じと少し寂しい気持ちがする。

「本当なら最初にどれくらい型が使えるか見たいところだけど10級じゃまだ何の型も教えられてないだろう。ちょっとだけ基本稽古を見て今日は終わりにしよう」

「押忍。分かりました」

大倉は何も言わない。それを確認しながら甲斐は赤羽に指示を掛ける。以前指導をした時には少々無理があった。何せ教わったことはあっても教えたことはなくそして甲斐は少々周囲よりも出来がよかった。それ故に無自覚なしごきを与えてしまった。あまりにも可哀想だから一週間ほど地獄を見せただけで勘弁してやったが流石に見ず知らずの女子中学生を相手にするには些か手加減を心がけるべきだろう。

結果として15分ほどで基本稽古は終わった。甲斐の見立てとしては思ったよりかは悪くなかった。初心者故のぎこちなさもあるがそれ以上に真面目に基礎を積んできたのが分かる丁寧さだった。今の彼女に必要なのは復習ではなく先に進むことだろう。

「どうでしょうか?」

「ああ、悪くないよ。じゃあ早速だけど明日から稽古を始めようか。マンツーマンがいいんだっけか?」

「はい。出来れば……」

この辺りの事情が分からない。しかし、ただのわがままではないことは大倉の言動からしても間違いない。

「押忍。分かった。じゃあ明日の午後3時から……って学校があるか。じゃあ5時からで大丈夫か?」

「押忍。問題ありません」

「……で、よろしいでしょうか?」

「構わない。送迎のスタッフを向かわせるよ。君もあまり無理はしないように」

「押忍。分かりました」

そうして一度この場はお開きになった。大倉は赤羽と話があるらしく甲斐だけが先に黒服の車で寮に帰ることとなった。

道場から車で30分ほど。かつてなら体を温めるにはいい距離だったかもしれないが流石に今この足でやるには少々勇気がいる。

「明日16時15分ほどにお迎えします」

「押忍。ありがとうございます」

駐車場で黒服と分かれて甲斐は荷物を持って寮を目指す。二日ぶりだがやけに久々に感じる。このくらい離れることなど合宿に行ったりで珍しくはないのだがどこか涙腺が緩むような気がした。

「……」

自室前。一応ノックをしてから中に入る。

「……帰ってきたんだ」

「……行ってなかったんだな、修学旅行」

急いでドアを閉じた。何故なら同居人は下着姿だったからだ。

「……私、そんなに優等生じゃないから」

「……そっか」

なるだけ見ないようにしながら右側に入る。

「この服、穂南が用意してくれたのか?」

「……ちょっと違う」

「?」

「私は案内しただけ」

「……そうか」

「……もういいの?」

「え?ああ、足のことか。人工義体化することですぐに退院できたよ」

「……何それ」

「放置してたら壊死する右足を加工することで生身のギプス……生身の義足?みたいにする技術だとかでまだ世界的にも珍しい技術だそうだ」

「…………そうなんだ」

ひどく興味なさそうな声色。聞いた感じ正反対なのにどこか先程の赤羽の声に似ているような気がした。


・1月17日。水曜日。設定したままのアラーム通り朝6時半に目を覚ました。普通に立とうとしてやはり起きあがれなかった。まだ馴染むには時間がかかりそうだった。

「つかうるさいんだけど」

「あ、悪い」

隣からの苦情を受けてアラームの鳴動を止める。まだ同級生の多くは修学旅行に行っている。しかし同級生しかこの学校にいないわけではない。そのため食堂や浴場などは普通に利用できた。

最首から聞いたのか後輩達が心配で見に来てくれたりした。俄には信じがたいが信じられないわけでもなく、素直に感謝を伝えられるほど素直でもなくなあなあに答えた記憶しかない。ちなみにまだ浴場と言うか風呂に浸かることは出来ない。そのためしばらくはシャワーだけで済ませる予定なのだが昨夜は失敗した。

狭い間取りでシャワーを浴びていただけなのに何度も転んでしまい、様子を見に来た蒼穹に全部見られてしまうという大事故。蒼穹としては同級生の異性の裸よりかも手術したという右足に興味があったらしいが当然怒られた。

「…………見たり見られたりしたのに夜に退屈してるわけ?」

「は?」

朝。学校に行く代わりに突然蒼穹に問われた。意味が分からなかった。いや、言っている意味は分かるのだが何でそんなことを聞くのかが分からない。

「……どういうことなの?」

「それは私の……いいよ、もう」

それだけ答えて蒼穹は私服でどこかへ行ってしまった。一応修学旅行に行かない生徒は課題を与えられているのだが蒼穹がそんなことやる訳ない。しかしなぜ突然あのようなことを言ったのだろうか。そりゃ一緒に住んでいる以上、手出しこそしないがだらしないところを見たり見られたりはするだろう。着替え中の遭遇だってそこまで珍しくはない。……流石に全く服を着ていないところまでは今回が初めてだったが。しかし互いに性欲を向けないことが同棲の条件だったろうに。意識しないわけではないがしないようにはしているつもりで、最初の方はともかく既に何年も一緒にいる以上ドキマギする事もほとんどない。いろんな意味で父娘みたいな感じだと勝手に思っていたのだが蒼穹は違うのだろうか。

「……課題を進めよう」

また、スマホを出して新着メールを読む。入院中はバッテリーが切れてて一切確認が出来なかった。それだけで京都から斎藤などの心配メールが届いていたのだ。昨夜はその確認で忙しくそのせいでアラームの解除を忘れていた。

「ん、」

ノックの音がした。人はさせておいてあれだが蒼穹の方はノックせず躊躇なく入ってくる。だから別人だろう。

「はい」

ドアを開ける。そこには少し年下くらいの男子生徒が立っていた。

「あ」

「何か用か?」

「…………いえ、何でもありません。部屋間違えました」

それだけ言って彼は去っていった。

「……」

表札があるしここに住んでいる以上部屋を間違えることなどそうそうない筈だ。かといって自分と面識がある訳でもなく。

「……穂南か?」

少し考えて噴き出しそうになった。あの穂南蒼穹が男子中学生と懇ろしているなど想像できない。それとも意外と年下好きで彼氏に甘えるタイプとか?

「……ぷっ!!あははは!!ありえねえ!!!」

「…………うるさいんだけど。何してんの?」

噴き出すと同時に蒼穹が部屋に戻ってきた。

「……朝食いに行くか?」

「……行くけどあんたとは行かない」

「あっそ」

予想できていた答え。外出の準備をしている間に蒼穹の方が先に部屋を出ていった。だから少し時間をあけてから甲斐も部屋を後にした。

「……ん、」

食堂。当然と言えば当然だが蒼穹の姿があった。ただ一人ではなかった。

「どうしたの?」

立ったままで居ると目の前に最首が居て軽く体を横に傾けていた。

「最首か。おはよう」

「おはよう、廉君」

「あの穂南の隣にいるの誰?」

「穂南って……ああ。あの二人ね。廉君もう答え言ってるよ?」

「は?」

朝食をトレイに乗せながらの会話。

「穂南蒼穹先輩の隣にいるのは穂南紅衣ちゃん。蒼穹先輩の妹だよ。私の1つ下」

「……妹が居たのか」

長いこと一緒に住んでいるが全然そんな話は聞いたことがなかった。

「ちなみにその近くにいるのが矢尻君ね」

「矢尻?」

最首と共にテーブルにつく。確かに穂南姉妹の手前には男子が座っているように見える。ここからだと角度的にちょうど見えない。

「中等部で空手部やってる子。私も一回行ったことあるんだ」

「……中等部の空手部。何か斎藤が言ってた気がするな」

自分の知らない空手関係者が蒼穹と一緒にいる。それがどうも奇妙でならない。女湯に平然と男がいるような、陸地に平然と魚がいるような、そんな奇妙な感覚だ。

「戦ったのか?」

「うん。まあまあ強い方だと思うよ」

「勝ったのか?」

「まあね。全国大会どころかその下のカルビレベルだと思うよ」

カルビ大会。全国の1ランク手前で地区大会の通称のようなもの。何でカルビって呼ばれるようになったかは詳細は不明だが甲斐達は全国=中腹の下にあるからじゃないかって冗談混じりに推測している。

「大倉にいないのか?」

「うん。どこかの道場には所属してないみたい。でもあの実力で全くの独学な筈はないから昔所属してたとかはあるんじゃないかな?」

「……それで今は学校の空手部だけか」

「訳ありなんじゃない?」

「……さあな」

ゆっくりとした朝食。しかし誰かと食べる朝食はこの前の金曜日以来だ。

「そう言えば大倉会長からの依頼ってどうなったの?」

「ああ。生徒を一人見てほしいって言われてとりあえず引き取ることにした」

「大丈夫?病院送りにされた人が誰かを病院送りにしたら問題だよ?」

「何をそんな前例でもあるかのように」

「……思い切りあるよね?前例」

「大丈夫だ。今度は女子中学生が相手だ。手加減はするつもりだよ」

「え、女の子なの?それなのにどうして廉君に?」

「分からない。本人はあの馬場早龍寺との試合を見てファンになったからだとか言ってるが冗談にしか聞こえない。どんな事情があるのか知らないが大倉会長からの指示だし他の誰かと一緒じゃだめらしい。だから普通の稽古も出来ない」

「何それ。おかしいことに巻き込まれてるんじゃないの?」

「悪い子ではなさそうなんだがな」

「……相手の子、可愛いんだ?」

「どうしてそう言う話になる。……まあ、悪くはないかな」

「稽古にちなんで変な意味で手を出したらだめだからね」

「出せるほど名前負けしていたら穂南との同居なんて許されてないよ」

「まあ、それもそっか。けどもし私が必要だったらいつでも言ってね」

「そう言う意味のは間に合ってる」

「誰もそんな意味では言ってないよ!?」

「知ってるよ。本当最首は可愛いな」

「…………もう」

ちょっぴり拗ねた最首を見ながら甲斐は朝食を終える。しばらくぶりにまともな朝を迎えたような気がした。


朝食を終えて部屋に戻る。蒼穹の姿はない。既に授業が始まっている時間だから妹と一緒にいるという事もなさそうだ。どこか買い物にでも行っているのだろうか?それとも贅沢にも一人で大浴場を満喫しているとか?

「そう言えばどうして矢尻とか言う奴と一緒にいるのか最首に聞いてなかったな」

嫉妬とかそう言うのではない。どうしてホッキョクグマとペンギンが同じ部屋で飼育されているのか、どうして水族館にラクダがいるのかの理由が知りたいだけだ。つまりは不可解に対す知的好奇心にすぎない。

甲斐は課題をある程度まで終わらせると時計を見る。まだ赤羽との約束の時間どころか昼食にまですら時間がある。

「……行ってみるか」

そしてその知的好奇心を満たすため、表向きには足のリハビリのためにと自分らしい私服に着替えた上で行動を開始した。

まず真っ先に大浴場に向かった。いろんな好奇心はあったが結果としてみれば当たり前だが生徒くらいしか使う事のない学生寮の大浴場なのだ。生徒達が普通に授業して居るであろう時間帯は男女両方とも掃除中だった。

次に食堂へ来た。さっきまで食堂にいたとは言え既に2時間程度経過している。当然ながら食器も食品も片づけられていてもぬけの殻だ。休日以外は昼食は出ないため今から8時間くらいはここに人が集まることはないだろう。

「……風呂でも食堂でもないとなるとあいつどこ行ったんだ?」

少し椅子に腰掛ける。やはり思った以上に足に負担がかかっているのか気付けば汗をかいていた。これは体力も落ちていると見ていいだろう。空手に復帰出来る出来ない云々以前に体力づくりもしなくてはいけなそうだった。

「次どこに行こうか」

5分ほど休憩すると再び行動を開始する。しかしもう足で回れる範囲は回った。行ってないところと言えばせいぜい学校くらいだ。制服を着ていけば悪目立ちはしないだろうが良心がどうにも阻んでくる。詰まるところ暇なのだ。その暇つぶしが出来ればいい。

「……一度部屋に戻るか」

自販機でボルビックを購入してから部屋に戻ると、

「………………」

何故かドアの前に蒼穹がいた。

「何してるんだ?てかどこに行ってたんだ?」

「こっちのせりふなんだけど……!ちょっと鍵持たずに外出てたらあんたいないし帰ってこないしで待たされてたんだけど……!」

「……あ~、悪い」

まさか鍵を持っていないとは思わなかった。懐から鍵を出してドアを開ける。

「けどどこ行ってたんだ?」

「……あんたに言う必要があるの?」

「そう言う訳じゃないけどこっちも暇つぶしの相手がほしくて」

「一人でやってろ」

「……とげっちい」

部屋の中。左右に分かれてそれぞれため息をこぼしながら生活圏に座る。

「けど、お前あの矢尻ってのと知り合いなんだって?」

「……だから?」

「こっちも詳しくは知らないけどあいつ確か空手部なんだろ?どこでおまえと接点あったんだよ」

「……別に。妹のクラスメイトってだけ」

「妹……紅衣ちゃんとか言ったっけ?」

「何で人の妹の名前知ってるの……紅衣のストーカーなの?私のストーカーなの?学校側に言いつけられたいの?」

「違うしそうして困るのお前だと思うぞ?」

何せ一応入寮時は甲斐の部屋だったところ蒼穹が条件付きで住まうことになったのだから蒼穹がどこか別の部屋に行くことになる。……何かの間違いで甲斐が退学とかにならない限り。

「……最首に聞いたんだよ」

「……最首遙だったっけ?1年生の」

「お前、最首のストーカー?」

「あんたとよく話す女子なんて他に高が知れてるでしょうが」

「まあな」

そうでなくてもこの寮にはほぼ全生徒が長年住んでいるのだ。同性ともなれば知っていてもおかしくはない。

「……そっか。お前妹さんの部屋に行ってたのか」

「……好きに妄想してれば?」

「……姉妹百合?」

「……あんたは自分で自分のメッキを剥がすのが好きみたいね」

「メッキ張ってるように見えてたなら光栄だよ」

「ちょっとキモい程度だが結構キモいって思うようになったわ」

「……本当にとげっちいなお前」

暇つぶしの雑談のつもりがどうして心を抉られなくてはいけないのか。

「矢尻ってどういう奴なんだ?」

「……男同士なら自分で調べたら?」

「けどさっき話してたろ?お前にしては気持ち悪いくらい素直に」

「誰が気持ち悪いって?」

「……いや、話の内容は聞こえなかったけどさ」

「……あの子は、」

「ん?」

「……やっぱいい。自分で調べろストーカーらしく」

「……ストーカーなんてやってないっての」

朝は冗談で年下彼氏にべたべたとか妄想していたが何だか微レ存くらいありそうだった。


・何だかんだあって午後。課題を全て片づけて職員室に提出してから寮に戻り準備を終えるとそろそろ約束の時間だった。

「……あんたまだ空手やるの?」

「まあ、たぶんもう全国とかは目指せないかも知れないけどな」

「……怖くないの?」

「え?」

「だってあんた右足とれたんでしょ?」

「……物理的には外れてないぞ?神経的には外れて人工義体化したけど」

「……だからそんな大けがをしてまだ一週間も経ってないのにまだやるつもりなの?……あんたにとって空手ってなんなの」

「……」

途端に襲いかかるその問いに脳が停止する。

「……突然そんなことを言われても分からない。けど今はこれしかやりたくないんだ」

「……現実逃避が夢になってるならそれもいいかも知れないけど、現実をも挫く悪夢になってるんじゃないの?」

「……随分優しいじゃないか」

「……勝手にしろ」

「夜は遅くならないと思うから」

「……ふん、」

荷物を整えて部屋を出る。

「…………二度と悪夢は見ないさ」

小さく呟いてから駐車場に向かった。


・スタッフの車に乗って30分。昨日ぶりに到着した和館。何度見てもサザエさんとかちびまる子ちゃんとかの家にしか見えない。

「昨日の内にサンドバッグとミッドをいくつか用意しました。他に何か足りないものがあったら申しつけてください」

「ありがとうございます」

車から降りる。玄関で靴を脱いで荷物を置くためにリビングに入った。

「……あ」

「……あ」

そこではまさに赤羽美咲が胴着に着替えようとしている瞬間だった。セーラー服は綺麗に畳まれて桃色の下着が上下ともにばっちりと見えていた。

「……その、荷物を置こうかと」

「……カウント1」

「へ?」

「いいから出て行ってください……」

「あ、ああ。悪い」

荷物を置いて急いでリビングから出た。女子中学生の下着姿などかつての蒼穹以来だから結構ドキドキしてしまった。中々迂闊だった。

やがて5分ほど経過して赤羽が出てきた。真紅の胴着姿だった。

「……もういいですよ」

「あ、ああ。悪い」

とは言え既に胴着姿。荷物もさっき置いた。だから彼女と一緒に和室に入った。

「……胴着姿のままここに来てるんですか?」

「え?ああ、別にこだわりとかないしな」

「……私服持ってないとか?」

「いや持ってるけど一々道場に来て着替えてって言うのが面倒で……」

実際小学生時代から朝起きる→学校で授業を受ける→道場と言う流れを毎日のように過ごしているため私服で行動すると言うことはほとんどなかったりする。斎藤や最首から注意を受けることもままあるのだが別におしゃれなどに興味もない。

「……おしゃれとか気をつけた方がいいとか?」

「……いえ、あなたらしくていいと思います」

「そうか。じゃあ、準備運動から始めようか」

「押忍」

ラジオ体操ではないが、大倉道場では準備運動がある程度ルール化と言うか一連の流れとしてメドレー化している。筋トレなども兼ねているため一般人にしてはこの時点でそこそこ体力を持って行かれる。慣れていれば息を切らすことも汗をかくこともない。

だから、赤羽に対してそれを行うことでどれだけ体力があるのかを見定めようとしたのだが。

「……膝が曲がらん」

自分の方がうまく出来ずに何度もバランスを崩していた。

「……右足を義足にされたんでしたっけ?」

「ん、ああ。膝から下を人工義体にしたんだ」

「義足と何が違うんですか?」

「100%の人工物を使っていない事かな。完全に切断されているとかならともかくあのままだといずれ壊死すると言う状態だから義足にするとなると足を切断しないといけない。けど人工義体にすると壊死させないんだ。神経遮断して患部を生のまま固定するというか、ミイラみたいにすると言うかそんな技術らしい。こっちも詳しいことは分からないけど」

「……そうなんですか」

「技術として確立はしているけどまだ生まれたばかりの技術だから完璧に理解された技術ではないらしい。少なくとも文系には分からない話だ」

しかし、準備運動の段階でこれではまだまだ一般人程度にも体を使えるとはいえない状態だ。元の調子に戻そうとするならかなりの時間がかかるのだろう。

対して赤羽の方はぎこちない動きだが特に息を切らすこともなくついてこれている。むしろ追い抜かれている。まだ空手独特の動きになれていないだけで体力や肉体能力的には何も問題はないようだ。

準備運動が終わった後は基本稽古を始める。昨日行ったものに多少のアレンジを追加したバージョンでぶっちゃけて言えば10級から9級になる審査で見られる太極と呼ばれる型の卵みたいな動きを兼ねている。これを基本稽古に混ぜることで審査を受ける際には既に自然と太極の動きが出来ていると言う寸法だ。ついでにまだ早いかも知れないが組み手を行う際に覚えておくと便利なコツなどを覚えることが出来る移動稽古も行うことにした。

「……」

「どうしました?」

「いや、結構すんなりこなしていくんだなって。空手の動きって派手じゃないけどその分少し覚えづらい事が多いから最初の内は見よう見まねでも難しいと思ったんだが、君勉強できるタイプ?」

「……一ヶ月だけですけど大倉会長に教えていただいていましたから」

「……そう言えばそうだったな」

ともなれば基本稽古に何か小賢しいものを仕込んでもあまり意味がないかも知れない。まあ、損はしないだろうからしばらくは続けてみるとしよう。しかし、それにしても赤羽は優秀だった。一度聞いたことは初めて行うことであっても失敗することなく行える。動きのぎこちなさはあるがそれを差し引いても優秀と言わざるを得ない。同じ階級の多くの後輩たちにも見習ってほしいレベルだ。

だが、ここまで優秀だと逆に困ってしまう。今日は基本稽古と移動稽古だけで十分だろうと思ってあまり稽古内容を考えてこなかった。これは明日の稽古のためにいろいろ計画を練っていかないとまずいかも知れない。

「……ちなみに理由は明かさなくていいが、他の誰かと一緒に稽古してもいいと思える基準とかあるか?」

「…………明確には。ただ会長からは3月の交流会には参加してほしいと言われています」

交流会。正確には三道場交流大会と言い、大倉道場が加盟していて協力関係にある他の二つの道場ーーー三船道場と伏見道場とで初心者同士を出させて試合を行わせる大会だ。おそらく何か特別な事情がない限りこの道に身を置いているものが最初に参加することになる大会及び正式な試合となるだろう。それ故に大会参加者で言えばその次のランクである清武会に並んで多いとされる。この間の全国大会で言えば参加者は多くても100人を越えないだろうが交流会と清武会では最低でも200人以上は参加する。交流会でベスト8以上に進出するか5回以上出場したものが清武会に参加できるようになる。

「けど、中学生で交流会は珍しいんじゃないのか?」

「はい。会長からは小6男子の部で参加するよう言われています」

「小6男子ねぇ」

中2女子とならやや有利くらいだろうか。個人的には今の赤羽の優秀さを考慮すれば余裕でベスト4くらいまでならいけそうな気がする。実際交流会参加者の実力はピンキリだ。基本のきの字だけ教わった程度の初心者が出ることもあればきっちりと基礎と応用を詰め込み、体力と技を磨くことでその時点で清武会でも通用するレベルの微中級者が参加することもある。そしてそれだけ空手に真面目ならば小学校低学年くらいにはもう清武会出場を決めている事も多い。逆説的に小学校高学年で交流会に参加そているとなれば小学校高学年に突然空手をやり出したばかりの初心者か、何らかの理由があって清武会への出場を決められていないけど数年間空手をやっているものかのどちらかだろう。

そう考えると中2女子である赤羽が交流会に参加することは中々レアケースだろう。ちなみに男子だったら中学に入った時点で素人だろうと交流会には参加できずいきなり清武会に出場することになる。清武会の次はカルビ大会になり一気にランクが上がる。その影響で清武会は玉石混合が激しい。さながら受験戦争のような厳しさに突然送り込まれる中1男子初心者ほど気の毒なものもない。そして赤羽に関してももし空手を続けるのであれば、交流会を抜ければすぐにその清武会に参加することになり、自分より年下の遥か格上ばかりが跋扈するステージに赴くことになる。

「聞いておきたかったんだが」

「なんでしょうか?」

「どうして空手を始めようと思ったんだ?」

「……憧れている人がいたんです。本当はもっと前から始めたかったのですがいろいろ事情がありまして中2の冬からの開始となってしまいました」

「……そうか」

他人を理由に使うのはあまり好ましくはない。それでもきっかけとしては別に悪くないだろう。

「交流会は遊びみたいなものだ。名前の通りにただ3つの道場の初心者がこぞって戯れるだけ。ただその後の清武会は全く違う。特に君のように経験の浅い癖に年齢だけはそこそこある奴にとっては地獄のようなものだと思う」

「……年齢って私はまだ中学生ですが……」

「早い奴は小学校あがる前に清武会に参加している奴だっている。きっちり統計取った訳じゃないが清武会への出場を決めた奴の平均年齢はだいたい9歳か10歳くらい。多くの奴は小学校高学年には既に清武会で地獄を見ている。そしてその内半分以上がそこから先に進むことが出来ずに道を閉ざす。……だいたいその頃には中学生にあがっているから年齢を理由に諦めるんだ。汗くさいスポーツなんてダサいとかって大義名分でな。それを行わずにまっすぐ自分の道を進んで中学生になってもなお空手を続けている奴は本当に強い奴ばかりだ。そう言う壁を越えた強い奴らばかりの環境に年齢だけを理由に進んでしまうことには正直同情してしまう」

「……あなたはどうだったんですか?」

「……中1の時に全盛期に近い活躍を見せていた。小2で空手を始め、小4で清武会に行き、小6でカルビに行った。そして中1の頃から拳の死神だなんて大げさな名前で呼ばれるようになってその1年間、2回行われたカルビ大会両方に参加してどっちも優勝。中2と言う早い段階で全国が約束された。……けど、中2の時にある事件が起きてな」

「事件?」

「そのせいでしばらく空手に行かなくなった。とてもそんな気分じゃなかったんだ。けどその1年後。中3の頃に復帰してカルビで優勝するまでに今度は1年以上かかって、そして今年。高2で3年越しに全国へ出ることになったんだが結果はこの様だ。……君がどこまで行けるかは分からない。けどその誰かさんへの憧れだけでは清武会の地獄は越えられない。もしもその予想が覆ったならその時は君を一人のライバルとして認めよう」

「……清武会優勝までは師匠と弟子でいてくれるんですね?」

「……優勝できるならな」

目の色が変わった。挑発した事もあって彼女の闘志に火がついたようだ。これが出来るなら彼女は十分こちら側の人間と言うことになる。

「……明日、一人だけ連れてこようと思う。構わないか?」

「……組み手をするんですか?」

「そうだ。女子を選ぼうと思うからそこは安心していい」

「……彼女さんとか?」

「……そんなんじゃない。それより、サンドバッグをたたいてもらう。腕力などを鍛えられるだけじゃなく筋肉の持久力を鍛えられる。これを1セット2分で10秒の休憩を挟んで3セットやってもらう」

「押忍。分かりました」

それから思いつく限りの稽古をすることにした。基本稽古で動きに慣れさせながらサンドバッグで持久力などを鍛える。流石にサンドバッグを叩き終えると汗もかいてたし息も切らせていた。

まずは女子というハンデを克服するために筋力を育てることにした。

「……筋肉痛になりそうですね」

「……最初はみんなそんなものだ」

1時間後。時刻は18時30分程度。意外と結構絞ってしまったことに少々反省しつつ甲斐はその日の稽古の終了を宣言した。

「奥にシャワーがあるらしい。浴びていいそうだからどうだ?」

「はい。いただきます。……覗かないでくださいね」

「……さっきのは何度も謝ってるだろうに」

赤羽がシャワーを浴びている間に甲斐は掃除を行うことにした。稽古していて思ったがやはり思うがままに体を動かせないのは厳しい。一日でも早く元の動きを取り戻さなくてはならないと思った。ついでにスマホで最首にメールを送って置いた。事前にある程度話してあったからか問題なく明日は来てくれるそうだった。

赤羽がシャワーから戻ってきたら一緒に掃除の続きをして、甲斐は先に帰ることにした。別に何か用時があるわけでもない、ただの順番だった。大丈夫だとは思うが先に赤羽を帰すことで甲斐を一人にしてもし何かあったら困るからとのことだった。

「……」

「明日は如何致しますか?」

「同じ時間にお願いします」

「承知いたしました」

黒服に挨拶をして車を降りる。時刻は19時過ぎ。空腹の状態で寮に戻る。汗くさい胴着姿だが自分一人のためにまだ残っていてくれている食堂スタッフのために着替えもシャワーもせずに夕食を食べることにした。

「……」

食後。部屋の前でノック。

「どうぞ」

蒼穹の返事。中に入る。左側のベッドで横になったまま蒼穹がスマホをいじっている。

「……汗くさくしないで」

「悪い。すぐにシャワー浴びてくる」

「……それと、」

「ん?」

「……三日遅れだけど誕生日おめでとう」

「……ありがとう」

甲斐は喜びを声に出さぬようにして支度を整えてからシャワーを浴びに向かった。


・1月18日。木曜日。少しは慣れるかと思った朝の起床もやはりまだ慣れずに足をさすりながらゆっくりと起きあがる。

「……そっか」

いつもより15分だけとは言え早い時間にアラームをセットしたあのは理由がある。少しだけだけどジョギングをして体の不自由をなくそうと思ったのだ。

蒼穹を起こさないようにジャージに着替えて外へ出る。一応宇治先生に無理するなと念を押されていることもあるため寮の外周を一周回る程度にする。それでも途中何度か転びそうになった。

「ふう、やっぱ体力落ちてるな」

20分程度の軽い運動でありながら汗を流す。この程度は先週までなら全く問題もなかったはずなのに。

確か昨日湯上がりにふと体重計に乗ったところ体重が6キロも減っていた。右足の膝周りをほとんど解体したと言っていたし、日曜日はほとんど口にせず月曜日もパイナップルしか食べていない。けどそれだけで6キロも体重が落ちるだろうか。

「……鍛え直さないとな」

一度部屋に戻る。流石に朝からシャワーを浴びれないためタオルでしっかりと拭う。

「そう言えば、」

時計を見れば7時30分を過ぎている。既に食堂で朝食の時間が始まっている。だが、蒼穹は起きていなかった。ここの生徒に合わせて食堂は開いているのだから朝食の時間は結構短い。遅くとも8時30分にはもう閉まっているだろう。

「……おい、穂南。起きろ。もう7時半だぞ」

仕切を挟んで声をとばす。しかし返事はない。

「穂南?」

仕切をめくる。確かに蒼穹はベッドで眠っている。

「おい、穂南。朝だぞ」

「……………………ん、」

声をかけても起きる気配がない。昨日ああ言われてからアラームを無音のバイブにしたため実質蒼穹はアラームなしで寝ていることになる。

「食堂閉まるぞー。穂南ー。紅衣ちゃん待ってるぞー。……矢尻待ってるぞー」

「…………うう、」

ちょっと効いてる。って言うか握りしめたままのスマホを見るに着信ありになってるからマジで紅衣か誰かが待ってそうだった。

「おい、穂南。穂南蒼穹。蒼穹ちゃん?」

「……くっ!」

苦虫を噛みしめたかのような表情を取った後、ようやく蒼穹は目を覚ました。

「……あんた何してるの?」

「それより時間。早くしないと食堂閉まるぞ?」

「……そう」

まだ寝ぼけているのかぼーっとしている。このままだと二度寝しそうだった。

「……紅衣ちゃん待ってるんじゃないのか?」

「……な、」

蒼穹はあわててスマホを見る。本当に何か書いてあったらしく大慌てで寝間着を脱いだ。

「お、おい!?」

「いつまで見てるのよ……!」

胸丸出しで睨まれた。昨日の赤羽より普通に大きかった。

「さ、先食堂行ってるから」

「あんたは待ってなくていい!」

怒鳴り声を背に甲斐が部屋を出る。と、

「あ、」

下級生らしき少女が部屋の前にいた。ちょうどノックするところだったらしい。

「甲斐先輩ですよね?おはようございます!」

「あ、ああ。おはよう。えっと、穂南紅衣ちゃんかな?」

「はい。姉がいつもお世話になってます」

どうしてあの姉の後にこんな礼儀正しい妹が生まれてくるのかと甲斐は軽くDNAに感動を覚えた。

「穂南は……蒼穹ならもうすぐ来ると思うから。中入って待ってたら?」

「ありがとうございます!」

再び感動を覚えつつ紅衣の笑顔を背に甲斐は食堂に向かった。


・食堂でいつも通りのざるそばとパイナップルを貪っていると、

「いつもそれだね」

「最首」

最首がいろんな種類のパンを持ってきた。

「今日行けばいいんだよね?赤羽美咲さんのところに」

「ああ。彼女は基本稽古は完成度高いからどうしても組み手が必要になる。けどこっちじゃまだ出来ないからな」

「でも、その子まだ10級でしょ?私でいいの?同じ中学生くらいの女の子連れて行こうか?後輩に何人かいるけど」

「……今日はまだいい。あまり他の人と交流したくないらしい。どんな理由があるのか知らないが。けど、交流会までには何とかしないといけない」

「で、そのファーストコンタクトに私が選ばれたわけね。うん。いいんじゃない?」

「頼んだ」

「……で、あっちで蒼穹先輩がなんか激おこなんだけど何したの?」

「…………さてな」

「廉君は本当に知らないことはさあなって言うからさてなってことは何か知ってるって事だよね?」

「……イヤな癖を知られてる。いや、大したことないよ。朝寝坊したあいつを起こしただけで」

「……ふぅん。まあ、この学生寮で唯一の例外を勝ち取れるだけの信頼がある廉君だから大丈夫だと思うけど何かやっちゃったら大変だからね?」

「こっちは何もしないさ」

「……どう言うこと?」

「何かするとしたらあっちの矢尻後輩じゃないのか?或いはもうしてるかも知れないが」

「……何想像してるの」

「いや、結構誰に対してもとげっちい穂南がどうもあの矢尻ってのには甘いような気がしてな。そう言う関係なんじゃないかって思ってる」

「……矢尻君と蒼穹先輩がねぇ……」

二人で遠く離れた食卓に座る3人を見た。


「なんか見られてるね」

紅衣が言う。

「……ごめん、紅衣。あの馬鹿には後で言っとく」

続いて蒼穹さんが。

「大丈夫だよお姉ちゃん。ほら、お姉ちゃんも達真君もご飯食べよ?」

「そうだな」

朝の時間は大抵いつもこの姉妹と一緒にうどんを食べている。鍛えている身であれだが1月に冷たいそばを率先して食う奴はあそこの死神先輩くらいしか俺は知らない。しかも朝からだぞ?

「甲斐先輩と最首先輩って達真君みたいに空手やってるんだよね?」

「ああ、そうだ。最首先輩は初段で、確か甲斐先輩は3段だったと思う」

「……あんたは?」

「俺はまだ3級程度で」

それももう道場そのものはやめたわけだから意味のない数字だ。2年ほど独学で修行を続けて少しは強くなったかと思ったんだが初段の最首先輩にこの前軽くあしらわれてしまった。あの人が女子としてはかなり強い部類なのは知っていたがあそこまで差があるとは思わなかった。やはり、独学と道場通いじゃ仕方がない部分もあるのかも知れない。

「あの二人って付き合ってるのかな?よく一緒に見るけど」

「さあな」

「……あの男にそんな気概なんてないよ。信頼を勝ち取った疫病神みたいなものし。……あっちの子はどうだか知らないけど」

「疫病神って、甲斐先輩何かしたの?」

「……知らなくていいことだよ。達真君も空手でどうだかあるかも知れないけど間違ってもあいつの真似しようなんて思わなくていいし、憧れもしないでいいから」

「……はい。蒼穹さん」

甲斐廉。拳の死神と呼ばれた世界級の選手。手合わせしたことは一度もないし、実際にどの程度の実力者なのかも詳しくは分からない。

ただ、この前の大会で右足を失ったと蒼穹さんに聞いた。よくわからない技術で切断こそしてないけどあの足ではもう並の選手程度にも動けるかどうかと言ったところ。

蒼穹さんや最首先輩が言うには10年近くも空手をやっているとされる。そんな男が空手を失い、どうして生きていられるのか。

蒼穹さんはああ言うし、憧れなんて微塵も感じないが少しだけ興味はあった。


・最首が学校に行っている間。甲斐は部屋で稽古のメニューを考えていた。赤羽にやる気があることを前提にして交流会までのスケジュールも考えておく。

スタッフに聞いたところ次の交流会は3月最初の土曜日。だいたい1ヶ月半の猶予がある。これが正真正銘初心者の小学生とかなら短いと感じるのだろうが、基礎が完璧な中学生の赤羽ならば十分すぎるといえるだろう。

一応次の清武会の日程も聞いておいた。4月の中旬らしい。

そしてそれを鑑みて清武会まで残り3ヶ月とするなら厳しいといえるだろう。交流会を余裕で勝ち抜ける実力があっても清武会では一勝できるかも怪しい。そしてその清武会で優勝できる実力があってもカルビ大会へはそもそも参加できるかも怪しい。さらにカルビで優勝できたとしても全国の舞台に立てるかは選抜戦の結果次第となる。

交流会はおろか清武会で優勝できた実力者であっても全国大会の舞台に立てる確率はかなり低いだろう。このひたすら長く厳しい戦いのレールに赴こうとするのならそれ相応の覚悟と実力が必要となる。

「……とは言え、」

甲斐は背もたれに体重をかけた。

右足がこうなっている今の自分では選手として復帰したとしてもせいぜいカルビ大会に参加できるかどうかくらいの結果しか得られないだろう。清武会に参加してもカルビに通用する程度の実力者が参加していれば敗北する可能性もある。

自分と赤羽、どちらが全国の舞台に立てる可能性が高いかと言われればまだ未来が確定していない可能性が未知数の赤羽だと言わざるを得ない。

その事実を思い知らされるほどに甲斐は深いため息を吐く。

嫉妬とまでは行かない。絶望などもうしたくない。それでも自分の運命を呪わざるを得なかった。


・放課後。制服姿の最首と共に黒服の車に乗る。

「この人達って大倉機関の人だよね?」

最首が小さな声で甲斐に囁く。

「ああ、そうだな。この件は加藤師範よりも上。大倉会長が直接管理している部分らしいから」

「赤羽さんは一体どういう子なんだろうね。大倉機関がこんな積極的に動くだなんて」

「……さあな」

赤羽美咲については基本的なプロフィールしか知らない。中学2年生で、10級で、一ヶ月ほど大倉会長直々に稽古を付けられていた。それくらいだ。

不思議に思わないと言えば嘘になる。少しだけ大倉会長の娘ではないかと疑ったこともあったが年齢が離れているし、顔も全然似ていない。親戚と言っても若干違和感が残る。けど何かしらの縁はあるのだろう。

「たとえばどこかの病院の重役の娘とかかもな」

「へえ、なるほど。それはあるかも」

「けどそれにしたってこっちを選んだ意味が分からないんだよな。何らかの理由で誰か一人しか選べなかったとしても普通同じ女の子を選ぶだろうに」

「そうだよね。……もしかして前にどこかで廉君と会ったことがあるんじゃない?」

「……う~ん。記憶にないな。大倉会長にここまで関与させられるほどの大物の女の子って何さ」

「……いやいや、あの子自体にそんな力はないでしょ。親御さんは違うかもだけど。でも廉君を選んだのは廉君と何か関係があるからじゃない?」

「……かもな」

実際その辺りに心当たりは全くない。あの全国大会で道を教えた時。それが初対面だったはずだ。あそこで試合を見ていたとしても結果としては引き分けで敗退。ファンになるには少し物足りない筈。しかも甲斐がその試合で右足に傷害を負ったことはあの試合を見ていたものなら誰でも分かるはずだ。回復できるかも分からない怪我を負った相手に師事をするものだろうか。

「ん、そろそろだ」

「って道場らしき建物なんて見あたらないけど?」

「あそこのサザエさん家みたいなところが道場だ」

「……ただの古い家じゃん」

駐車場に着き、車から降りる。

「ちなみにスタッフさん、稽古中何やってるんですか?」

「客間で待機しています。リビングより手前の部屋ですので何かあったらお声かけください」

疑問が晴れるのは少々気持ちがいい。

玄関で靴を脱ぎ、甲斐と最首が中に入る。

「あそこがリビングで、着替えるところだ。先に彼女が着替えてるかも知れないから見てほしい」

「うん。分かった……って着替え見たの!?」

「…………まあ、その、うん」

「……一応神聖な道場で何やってるの……」

呆れながら最首がノックをしてからリビングに入る。

「……誰もいないよ?」

「……着替え終わって和室にいるのかも知れない。最首、先に着替えててくれ」

「分かった。…………覗いちゃだめだよ?」

「……覗きません」

リビングに消えた最首。着替える音がする。誘惑を払うためにも和室へと向かう甲斐。

「……いない」

しかし和室にも赤羽の姿は見あたらなかった。

「……ん」

荷物をおいてから廊下に戻る。と、奥の方に階段があることに気付いた。

説明にはなかった領域だ。しかし甲斐が上ろうとして断念する。

「……盲点だったな」

段差が高く、今の膝の曲がり具合では登り切るのは難しそうだった。しかし、

「……いらっしゃったんですね」

上から声。見れば胴着姿の赤羽が降りてきた。

「……ここに住んでいるのか?」

「……どうしてです?」

「いや、2階の説明なんてなかったし。2階から来たし」

「……そう言うわけでもありませんが、2階への立ち入りは禁止とします。これは大倉会長にも言われていることなので」

「……まあいいけども」

「……すぐに稽古を始められるので?」

「ああ。けど今最首が着替えている」

「最首?」

赤羽が首を傾げると、

「あなたが赤羽美咲さんね」

そこへ胴着姿の最首がやってきた。通常の胴着。しかしその黒帯も含めて全身に緑色のラインが走っているデザイン。何も改造しているわけではない。一種の称号のようなものだ。

「私は最首遙。今日は一緒にあなたの稽古に付き合おうと思ってるからよろしくね」

「…………はい、よろしくお願いします」

どこか緊張しているのか赤羽は辿々しい。無理もない。よく思い返せばスタッフとすら赤羽は直接対話していなかった。ひょっとしたら対人関係で何か問題を抱えているのかも知れない。

「最首は君の2つ上だ。実力もかなり高い方だから勉強になると思うぞ」

「え、あ、はい。……同い年か1つくらい下かと思いました」

「ま、最首ちっちゃいもんな」

「廉君正座」

「出来ないっての」

3人揃って和室に向かい、稽古を開始する。まずは基本稽古から始める。赤羽の基礎能力を最首にも見てもらいたかったからだ。

「……確かに10級にしては動きに切れがあるね」

「だろ?だからそろそろ組み手が必要だと思うんだ」

「いきなり直接組み手をするのは厳しいと思うけど、まあせっかくサンドバッグやミットがあるんだしそれを使おうよ」

そこから稽古の音頭は最首が握ることになった。

「女子は男子に比べて筋力で負けやすいから必要なのは瞬発力。どんなに強くても人体には限界がある。人も神経で動いているから弱点がある。女子が男子に勝つには最低でも瞬発力やスピードの面で上回るしかない」

「お、押忍!」

反復横飛び、シャトルラン、ジャンピングスクワット。いずれもあまり空手と言うか畳の上でやるイメージがない練習だ。しかし中学以降は男女で分かれる関係上、最首の言うとおり女子の方ではスピードを重視した稽古を行うのかも知れない。だとすればやはり最首を連れてきたのは間違いではなかったようだ。

実際最首は甲斐が知る中では女子最強クラス。もし今回赤羽ではなく最首が組み手の相手を求めていたとしたら少なくとも女子の相手を用意することは甲斐には出来そうになかった。男女の差はあれど2年のブランクがある斎藤でももしかしたら最首には抜かれているかも知れない。

つまり、赤羽にとって最首は理想の1つ。小学生から始めた多くの人間はしかし清武会という大きな壁にぶち当たり、中学生を迎えた際にはそれを理由にして引退することが多い。男子でそうなのだから女子に関して言えばそもそも空手に入門する数ですら大きく劣る。実際中学以降も残る女子は男子のそれと比べて3分の1でもいれば多いほどだ。だが甲斐同様に小6で清武会の壁を越えて中学以降もカルビで活躍している最首はかなり稀な存在。清武会までならまだ男女で分かれているがカルビ以降は参加できる女子の数が著しく限られている関係上、男子の中に混じって戦いを重ねていき、勝ち抜いていく必要が出てくる。それを中学3年間と高校1年間続けている最首は正直すごいと思うし、甲斐などではなく最首の方にファンとしてつくレベルだと思う。

「はあ、はあ、」

とは言え最適な稽古ほどきついものもなく、30分ほどで赤羽は畳の上で膝を折ってしまった。

「最首、少しハードだったんじゃないのか?」

「う~ん、出来がいいからちょっと無理させちゃったかも。ごめんね、赤羽さん」

「だ、大丈夫です……。つ、続きを……」

「そう?じゃ次はミットを叩こうか」

マラソンの次は短距離走をしようと最首は言っている。鬼か何かだろうか?

ミット。野球のキャッチャーがしてるような防具。空手のそれも同じタイプの奴はあるが盾みたいな形状が多い。腕に持って使うこともあればキャッチャーのように上半身に掛けて使用することもある。甲斐のような男子高校生などの場合は上半身しか覆えないため蹴りの練習にはあまり使えないが女子の場合特に小柄な最首の場合は首から掛けたとしても全身を覆えるため下段蹴りの練習にも使える。

……ぶっちゃけそこそこの重さがあるし、その上であいてから叩かれまくるため装着する方より叩く方が楽だったりする。それはそれで筋力のトレーニングにはなるから無駄がないのだが。

「……これで直接攻撃していいのですか?」

「うん、結構威力抑えられるからね。打つ方も打たれる方も練習になるよ。さあ、まずは60秒ずつやってみようか。廉君、タイマーお願いね」

「ああ」

すっかりてぶらになってた甲斐はスマホのタイマーをセットする。本来道場ならキッチンタイマーがあるのだがここにはない。

「せっ!」

その場から一歩も動かない最首に赤羽が次々と攻撃を加えていく。頭1つ分とまでは行かずとも身長で言えば10センチ近く差がある最首に対して攻撃を仕掛ける赤羽の図は少し暴力的なところがあるように見えるが実際には全く問題がない。相手がいないからって男子中学生や男子高校生相手にも喜んで向かっていく最首はその小柄に合わないタフさを持っている。

「赤羽さん、基本稽古で練習した技を思い出して。ただ闇雲に腕を前に出しているだけじゃそれは殴ってるって言わないから」

「お、押忍!」

ミット越しとは言え直撃を何度ももらっていながら最首はびくともしていない。ばかりか赤羽の方が疲れているように見える。実際1分経過する頃にはどっちが攻撃サイドなのか分からないくらい赤羽が疲弊していた。

「じゃ、交代ね」

「え……?」

「耐えることも必要だから」

最首からミットを渡された赤羽はそれだけでよろめく。

「じゃ、耐えてね」

再びタイマーの開始音が響く。そして最首の攻撃が始まった。実際半分くらいしか力も速さも出していないだろう。それでも赤羽はミット越しでも著しく体力が削られているのが分かる。

「さっ!はっ!」

「あ」

最首が跳躍した。そして左右で時間差のあるドロップキックのような跳び蹴りが放たれた。

「くっ!」

「あ、ごめん」

着地した最首よりやや遅れてミットを装着したままの赤羽が畳の上に倒れる。

「はい。そこまで」

赤羽が立ち上がるより前に甲斐が割って入る。

「最首、少しやり過ぎ」

「……ごめん。どうも手加減が難しくて。私より背の高い女の子とかみんなライバルみたいなものだし、つい……」

「畳の上でコンプレックス炸裂させるなっての。……大丈夫か?」

甲斐は倒れた赤羽を引き起こす。

「は、はい……」

「ごめんね、赤羽さん。今日はもうお開きにしようか?」

「い、いえ。もっと……」

「え?」

「あの人が知る限り最強とまで言われているようなすごい女性から稽古を受けるなんて誇らしいです。この上ないほど勉強になります。だから、今度はもっと直接技を学びたいです」

「……それって……」

「……組み手をやりたいって事か」

「……」

甲斐の投げかけにうなずく赤羽。当然中々無理な相談だ。最首側は全く問題ないだろう。毎日行っているであろうメニューだからかほとんど息も切れていない。この後も自分の稽古を行う可能性もある。

だが、赤羽の方は誰がどう見ても満身創痍と言った様子だ。今の時点でも明日の生活に支障が出そうな消耗具合である。

とは言え赤羽の言うとおり最首との組み手はこの上ないほど勉強になるだろう。

「……じゃあ、最首側は寸止めでやってもらおう」

「……それならまだいいかもしれないけど。でも、この子もう結構限界だよ?」

「寸止めの組み手でも得るものは多いはずだ」

何より、と言い掛けて甲斐は止めた。自分の限界を認めてしまいそうになったからだ。

「……いいよ、もう。じゃあ180秒セットして。私は寸止め。可能な限り攻撃は当てないつもりで行くから。赤羽さんは普通に当てていいから」

「お、押忍!」

甲斐がアラームをセットする。スタートを押すと同時に赤羽が前に出る。最首に言われたとおりの教科書通りと言ってもいいようなスピードタイプの速攻。開始と同時に全力疾走を掛けて相手の顔面向けての跳び蹴り。いくら筋力が劣る女子といえどもこれをまともに受けては男子でもそこそこ堪えるだろう。しかし最首はこれを半身を切るだけで回避する。そこから赤羽が着地して構え直すまでの間に最首の攻撃は4発、赤羽の急所を捉えていた。

「……!」

当然寸止めのためダメージは一切ない。が、もしもこれが寸止めじゃなかったら……。赤羽はそれを想像したのか僅かに怯む。

それを見た最首は今度は自分から攻め出す。最小限の動きから繰り出される無駄のない攻撃。女子故の滑らかさから繰り出される速攻。

男子としてみればこれらはどう防御するかだけ見ればいいかも知れないが女子としては違うだろう。最首が繰り出す一挙手一投足の全てが赤羽にとっては水とスポンジのようにくまなく取り込む必要がある勉強材料の塊。超速で動く辞書のようなもの。消耗しきった今の状態であっても最優先で吸収したいのも無理はないし、たった180秒の組み手であっても得るものはごまんとある。

実際後半の30秒ほどはスピードと精度以外は最首そっくりの動きを出せるようになっていたのだから。

「はい。3分。後半いい動きしてたよ」

「あ、ありがとうございます……」

アラームが止まると同時に赤羽は糸が切れたように畳の上に座り込んでしまった。きれいな顔には滝のような汗が流れている。この上ないほど勉強になったのだろうが。

「これは明日は休みかな」

「だね。って言うか10級の子に週7シフトはしちゃ駄目だよ。7級になるまでは週3が限界だよ?」

「……あー、そう言えばそんなルールあったっけ?」

「と言うわけで赤羽さん。明日はゆっくり休んでね。私でよければいつでも来るから」

「……分かりました。けどそれなら連絡先を交換した方がいいのでは?」

「そうだね。廉君と私と赤羽さんの3人で」

とは言え胴着姿だからスマホはなく、着替えた後に行うことになった。


・赤羽がシャワーを浴びている間。

「……じゃ、本番始めようか」

最首が畳の上で構えた。

「……見破られてたか」

甲斐もまた構える。

「当然。そこそこ付き合い長いんだから」

二人同時に小さく笑み、スマホのアラームをセットする。

「180秒、今の全力で行かせてもらう」

「赤羽さん相手にはかなりセーブしてたからちょっと運動させてもらうよ」

右足がほとんど使えない状態で甲斐はどこまでやれるのかを試したくなったのだ。その相手として最首は相応しい方だろう。

アラームが開始すると同時意に甲斐は左足から踏み込んで接近した。同時にワンツーを繰り出す。

「っ!」

最首は防御。が、ガードごと両腕が弾かれて無防備な上半身をさらす。そこから第二打が来るまで瞬間に最首は距離をとりつつ下段蹴りで甲斐の左足を削ぐ。

「……」

甲斐は予想以上の衰えを感じていた。もし右足が健在だったならば今の動きだけで十中八九最首を仕留めていただろう。出来なかった原因は慣れない左足での踏み込みのせいでワンテンポ遅れた事。だが、今度は外さない。二度目の失敗はない。そう踏んで前に出ようとした時、今度は最首が攻め込んできた。

先程赤羽に対して行ったものとは比べものにならないスピード。一秒で3発の蹴りを全く異なる軌道で放つ。

「……」

甲斐はそれを左手だけで全て防ぎつつ最首の動きを見切る。

「せっ!」

「っ!」

カウンター気味に繰り出した右手の一撃。拳速なら恐らく最首でも見切れたか怪しいほどの最大速度。しかし最首は反射的にバックステップする事で回避に成功した。

目にも止まらぬ速さの攻撃を回避するスピードと反応。最首ほどのスピードファイターと言えども難しいのではと予想していた甲斐は驚きと喜びを隠せない。

「……」

それを確認し、同様の感情を覚えながらも最首は踏み込む。時間が経てば経つほどに洗練され、加速されていく動き。目で慣れた頃こそ危険な最首のスピードに最大限の警戒をしながら左手のみの制空圏で防ぎつつ右手で反撃の機会を伺う。

「……せっ!」

そして甲斐の右手が最高速度よりやや下程度の速度で最首の顔面に向かって放たれる。

「っ!」

咄嗟にその手を払う最首。しかし、そのわずかな間隙に甲斐は一歩を踏み込んでいた。

「「せっ!!!!」」

その激突はまるで火花のように。その攻防は一瞬に極まった。

「…………」

終わってみれば甲斐の右拳は最首の胸に触れていた。だが、ほとんど触れているだけだった。逆に最首の右足の前蹴りが甲斐の下腹部に命中していた。

互いに制空圏を築き、それを交差させ、わずかな間隙にそれを突破して放った決着がこれである。

「………………負けだ」

甲斐が手を引き、わずかな汗を拭う。

「あくまでも腕試しだからね?こんなつまらない結果でぬか喜びさせるようなことを言わないでね?」

「そうだな。じゃあ、最首のおっぱいがもう少しでも大きければ発勁に切り替えてたんだがな」

「む、」

「最首、小学生から胸も背も成長してないからそこが敗因かな?」

「むむむ!」

「…………少し言い過ぎた?」

「反省!!!」

そこから歴代最速と言うほどのスピードで最首の空中三段蹴りが炸裂して甲斐は背中から畳の上に倒れるのだった。


・赤羽がシャワーからあがると今度は最首がシャワーを浴びることにした。

寮と合宿先くらいでしか使わないシャワー。初めて使う場所のシャワーというのはそもそも経験が少なくて緊張してしまう。

どうせ寮に戻ったらいつも通り入浴するのだから軽く汗を流す程度にしよう。

「……やっぱり小さいのかな、私」

高1で身長が150センチに到達せず、胸もまだAカップのまま。女子としての成長はそろそろ絶望しかねない。

悪い想像をしてしまわぬ内にさっさと体を洗ってしまおうとした時だ。

「……リンスが2種類ある?」

リンスだけじゃない。体を拭くタオルも2つあった。1つは赤羽のものかも知れない。だがもう1つは……?

「……本当に謎な子だよね。赤羽美咲」

とりあえず片方だけ使って手短にシャワータイムを終えるのだった。


・1月22日。月曜日。金曜日の夜に帰ってきた他の同級生達。

「意外と大丈夫そうだな」

「そうでもない。この前は最首に完敗したわけだしな」

「まるで私が型落ちしてるみたい」

登校日。甲斐、斎藤、最首が揃ってこの一週間あったことを伝える。斎藤達修学旅行組はせっかくの京都観光だったのだが終始土砂降りだったせいでろくに観光も出来ずに旅館で歴史の授業やってたらしい。通りで甲斐の方に誰からもひっきりなしにメールや電話が掛かってきていたのか。

「で、甲斐。歩いている分は問題なさそうだけど。その足だと何が出来ないんだ?」

「階段が厳しいな。ちょっとした段差なら問題ないんだが。あと意外と正座が出来なかった」

「宇治先生のところに土曜日行ったんだろ?なんて?」

「…………想定していた激しい運動の解釈違いが起きた」

「は?」

「宇治先生としては普通の学校生活程度を想定していたそうなんだが、こっちはこの一週間退院してから毎日稽古してたし、ランニングにも行っていたんだ。6キロも体重が落ちたから少しでも体力を取り戻そうとしていたんだけど、」

「……怒られたのか」

「……ああ。義足になってから一週間くらい大人しく出来ないのかってものっそい怒られた」

甲斐が、遠い目をする。

「おかげで今度は今月末まで大人しくしていないといけなくなった。稽古もまあ、指導だけならいいけど自分は動くなって」

「まあ、仕方ないな。けど最首がいるし俺もいる。その赤羽って子の稽古は俺達に任せればいい」

「いや、そうもいかない」

「赤羽さんは何故か知らないけど可能な限り接する人を少なくしたいらしいよ。基本的に私か廉君くらいとしか会おうとしないの。私も実力とか年齢とかが一緒くらいの後輩連れて行こうと思ったんだけどね」

「……コミュ障なのか?」

「そう言うわけではなさそうだが。何か事情があるっぽいな」

「どっちにせよ無理強いは出来ないし、大倉会長が直接管理してるっぽいから私達に出来ることは指示に従うことだけだよ」

「ふぅん。……けど赤羽ってどこかで聞いたことがあるような」

斎藤がスマホを見る。

「何してるんだ?」

「いや、前現役だった頃には対戦相手の情報を記録していたんだが。前に赤羽って名前の奴と戦ったことがあるような気がしてな」

「……赤羽って赤羽美咲か?」

「いや、女子ではなかったと思う」

「……ってことは兄……」

「そう言えばあの道場。お風呂に二人分のリンスとかあったよ」

「ってことは赤羽と誰かがあの道場に住んでるのか?」

「でも、リンスはどっちも女性用だったよ?まあ、男の人でもロン毛でおしゃれに気を遣ってるなら使うのかも知れないけど」

「……謎だな」

話している内に校門をくぐり、昇降口に到達した。

「じゃ、また後で」

「ああ」

そこで最首とは別れて甲斐と斎藤は自分達の教室を目指す。いろいろな生徒がいるこの学校ではバリアフリーが充実しており、エレベーターやエスカレーターも存在している。今までは運動のためにとそれでも階段を使っていたのだが散々注意された後と言うこともあって甲斐は素直にエスカレーターに乗って教室を目指すことにした。

「ちなみに、元通りにとまでは行かずとも階段とか正座とかが出来るようにはなるのか?」

「先生が言うには一応可能らしい。それでも最低でも今月中は運動禁止になったけどな」

「じゃあエスカレーターは今だけだな」

「斎藤は別に毎日使っててもいいんだぞ?」

「高校生でいる間は階段でいいや」

3階に到達して教室に向かおうとすると、

「あ、甲斐くん」

右手のエレベーターが開いて一人の生徒が出てきた。

「……逢坂」

「よう、おはようさん逢坂」

「斎藤君もおはよう」

電動車椅子で近寄ってきた生徒。逢坂泉。中学時代の事故で下半身不随となり、下半身丸ごと人工義体化。ちなみにそれ以前の記憶を失っているせいもあって自分でも性別がどっちなのか分からない状態とのこと。

「甲斐くんも義体化したんだって?」

「右足だけな。お前ほどつらくはない」

「僕はもう慣れたから」

「……逢坂、車椅子なしで立てるか?」

「少しの間だけならね。トイレの時とかに車椅子から便器に移る際には自力で出来るよ」

「どれくらいで出来るようになった?」

「う~ん、僕の場合そもそも下半身全部を義体にしたし。今ほど技術が進んでなかったから2、3ヶ月くらいは掛かったかも。義体化に関しては僕の方が先輩だから何か分からないことがあったら聞いてね。甲斐くんの力になれれば嬉しいから」

「ああ、よろしく頼む」

この学校で数少ない寮ではなく自宅から通っている生徒。中学時代からの編入。そして下半身丸ごと義体化でかつ性別不明。いろいろな経緯を持つここの生徒の中でもトップクラスに特殊な存在なのは間違いないだろう。それでも甲斐はどこか逢坂を苦手としていた。過去がなく性別も不明。そんな宙ぶらりんな状態であるのにその状態に不満を持とうとしないその前向きさがどうにも不気味に思えて仕方がないのだ。しかも明らか自分に対して信頼が過ぎている。寮で唯一の男女同室を任されたほど妙に信頼度が高い甲斐。別に多くの生徒は甲斐を全肯定しているわけではない。それでも自分よりかは、と言う理由で甲斐を推している。それだけでも多少の息苦しさを感じているのにこの逢坂泉はもはや宗教的なレベルで甲斐を慕っているのだ。

最初の出会いは3年前。逢坂が転校してきた頃。運悪くエレベーターが故障している際に立ち往生していた逢坂をエスカレーターに乗せてやったのがきっかけだ。それ以来結構な頻度で遭遇しては他愛ない会話をされている。

自分の苦手な奴に慕われる事ほど落ち着かないこともないと甲斐はあまり近づかないようにしていたのだがこの足ではそれも出来そうになく、しばらくの間は諦めるしかなさそうだった。


教室。せっかくの京都旅行を雨の中のつまらない授業で過ごすことになった生徒達のストレス解消は甲斐との会話だった。別に甲斐と話すことがストレス解消になるわけではない。ただあの場にいなかった生徒に愚痴りたいって言うのと甲斐の方で起きた変化を聞きたいという野次馬的なものの2種類があるおかげだ。

男子はもちろん女子の方も甲斐に詰めかけている。

「……もう一人いると思うんだが」

甲斐は離れた席にいる蒼穹を見る。

「……」

目が合った瞬間にそらされた。逢坂の後ではこのツララっぷりが心地よかった。別にマゾではない。

「甲斐甲斐」

「なんだよ」

話しかけてきたのは鷹栖。クラスメイトでムードメイカーでしかし女子からの評価はそんなに高くない。

「女子の私服写真。買ってみないか?」

と、スマホの画像フォルダを見せてきた。

「お前なぁ……」

まあ、風呂を覗いて盗撮したとか下着を盗撮したとかそう言う犯罪レベルでないだけマシかも知れないがそもそも全生徒の9割以上が寮住まいで休日どころか平日でも食堂や男女共同エリアなどでいくらでも私服が見れる環境なのだからあまり需要があるとは思えなかった。

「分かってないなぁ甲斐は。……好きな相手の私服だけを狙って手に入れられるんだぞ?」

「何お前全女子生徒の私服データでも揃ってんの?」

「だとしたら?誰を所望する?ちびっ子ドジデレ委員長の岡部か?巨乳図書委員の風間か?斎藤絹恵絹子の双子姉妹にするか?」

ちなみに斎藤新とは関係ない。この関係でこのクラスに斎藤が3人いることになるが男子の斎藤、双子の斎藤もしくは姉の方の斎藤ないしは妹の方の斎藤で通じるので問題ない。

「……フォルダに男子用ってあるんだが女子用もあるのか?」

「え、お前ホモだったの?うわあ、空手やってるとそう言う……」

「偏見過ぎるわ」

「ギブ!ギブ!右手が左手になっちまう!!」

「……ちなみに僕って入ってるの?」

逢坂が何故か入ってきた。

「い、一応男子用にも女子用にも入ってるし。逢坂はどっちを利用してもいいぞ?」

「……盗撮する代わりに盗撮した写真の中から好みなものを自由に選べるスタイルなんだ」

「盗撮の時点でアウトだがな」

「盗撮?」

その単語に反応したのか風紀委員の渡辺みのりがやってきた。

「ほほうほうほう、鷹栖君や。随分なものを持っていますね」

「お、おう。渡辺も選ぶか?」

「滝のような汗がすごいぞ鷹栖」

とりあえずその場を離れる甲斐と逢坂。数秒後に鷹栖の悲鳴が聞こえてきた。……鷹栖に逢坂にみのり、ついでにさっきの委員長は岡部亜美と言うがどこかの虎龍メインキャラっぽいのは偶然だ。鷹栖はこのような変態だし。逢坂はツンデレでもない素直な性別不明。みのりは風紀委員だし。亜美は読モをやっていない。まあ、よくネタにはされる4人組である。

「そろそろホームルーム始めるぞ」

担任の御坂がやってくる。

「甲斐。足は大丈夫か?」

「はい。激しい運動は無理ですけど日常生活にはそんなに問題ありません」

「そうか。何かあったら他のものを頼るように」

そして一週間ぶりの高校生活が始まった。とは言え、高2の1月だ。2月の学年末テストもあればそろそろ進路を決めないといけない。本来なら修学旅行が始まる前に進路予定を出さないといけなかったのだがいろいろあって甲斐はまだ提出していない。全国で優勝ないしは準優勝にでもなればまだ大倉道場のスタッフを希望するという手段もあったのだが負けてしまった上にこの足では厳しいだろう。赤羽の稽古を通じて指導員としての経験を認められれば加藤師範より任される可能性もある。実際平日はスタッフ不足で悩まされてるらしいし。

「ってわけで放課後の生徒指導室だ。そろそろ進路を決めてもらわないとな」

御坂と何故か牧島までいる。二人の担任に挟まれた甲斐。

「あの、稽古があるので出来れば早めに帰してくれたらと思うんですけど」

「進路予定表を提出すればすぐにでも帰すぞ」

「いろいろあったのは分かるが出すものは出さないとな」

「……いつからヤクザになったんですか」

「土日お前の送迎をして、その後病院にお前の荷物を届けてやった恩人をヤクザ呼ばわりとはな」

「……牧島先生が荷物を取ってきてくれたんですか?」

「いや、穂南姉と矢尻って中等部の生徒だ」

「……矢尻……」

可能性としてはあったが本当に矢尻が蒼穹と協力して甲斐の着替えなどを用意してくれたのか。

「それよりもそろそろ提出してほしい。進学か就職か。別にただの希望だから書いたとおりに進まないといけない訳じゃない。もうスポーツ推薦で大学に行くのは難しいかも知れないが普通の大学に行くのもいいし就職したっていいし。……実際遅くとも明日の昼までに提出してもらわないと困る」

「……じゃあ進学で」

実際二択で可能性が低いのは進学の方だろう。少なくとも自分から進学を選ぶつもりはない。それでも一応他の生徒と同じような、比較的多そうな大学進学という選択肢を選んでおこうと、甲斐はお茶を濁すのだった。


「遅くなった」

いつもより10分ほど遅れて甲斐は道場に到着した。今日は最首は来れないらしいため甲斐と赤羽のマンツーマンだった。

「いえ。厳格に時間を定めているわけではないので」

赤羽は最首から言い渡されていたメニューを先にこなしていた。女子らしく瞬発力とスピードを強化するメニュー。そこに甲斐は何も文句を付けられまい。

「それより今日は制服なんですね」

「あ、ああ。ちょっと学校で遅くなったから。リビング借りてもいいか?胴着に着替えてくる」

「分かりました。メニュー続けています」

反復横飛びを続ける赤羽を背に甲斐はリビングに入る。思えば初日に赤羽の着替えを覗いてしまった時以来初めてリビングに入る。

「……」

つい見渡してしまう。リビングと言いながらテレビもエアコンもない。しかし、何人分かの食器が棚に収納されている。掃除も行き届いているようだし。最首が言ったようにここには誰かが住んでいることはほぼ間違いないようだ。

1分と掛からずに着替えた甲斐がリビングを物色する。

「……」

冷蔵庫を開けてみた。めっちゃ普通に日用品が入ってた。

「……これ隠す気ないだろ」

誰か住んでいるのは確実で赤羽が住んでいる可能性は非常に高い。普通に考えたら親だろう。見たことがないのは仕事にでているからだろうか。

「……稽古に戻るか」

冷蔵庫を閉じてリビングを後にしようとした時。窓の外に目がいった。風に乗ってぴらぴらとパンツらしきものが落ちてくるのが見えたからだ。

「……あれは」

振り向き、窓を開けてとろうとした時。

「……何やってるんですか」

後ろから赤羽の声。

「いや、ほら。何か落ちてきたから何かと思ってな」

「何かって……あ」

窓の外。地面に落ちていた下着を見て赤羽がすぐに玄関に走っていった。

「……あの子のか?いや、何かどこかで見覚えがあるような……」

窓の外で慌てて赤羽が下着を拾い上げてそしてまた戻ってきた。

「……見ましたか?」

「まあ。別にそんな珍しいものでもないし、下心があった訳じゃないぞ?」

「……そう言う問題じゃないと思うんですけど」

「……君、ここに住んでるの?」

「……答えたくありません」

「いや、まあ、別に問いつめたい訳じゃないからいいけど。じゃあそれ片づけてきたら稽古を始めようか」

「……押忍」

そう言って赤羽は階段を上って上の階に消えた。十中八九上には赤羽の部屋があるのだろう。確かに今まで一度も赤羽がこの道場の外に出ていなかった。スタッフの車で送られるのも自分と最首だけだ。

まあ、彼女が言うように問いつめる必要もないだろう。


・稽古が終わり、いつものようにスタッフによって車で送迎される甲斐。

「すみません。途中コンビニ寄ってもいいですか?」

「構いません。あそこのでよろしいでしょうか?」

「はい。お願いします」

いつもと違う道。一番近くにあるコンビニの駐車場に停めてもらう。切らしていたノートを購入するのが目的だ。

「あの、私が行きましょうか?」

「え?」

「胴着姿のままでは行きづらいと思いますが」

「ああ、そう言うの気にしないんで」

そして胴着姿のまま甲斐が降りてコンビニに入ろうとした時。

「おい、」

物騒に声をかけられた。驚きはしたが恐怖はなく、声がした方を向けば180センチを越えそうな長身の男がいた。筋肉質で二十歳前後くらいの外見。ほぼ間違いなく格闘技をやってそうだった。

「何か?」

「その胴着、大倉道場だな?そして甲斐と言う名前。お前が噂に聞く拳の死神って奴か?」

「……そう名乗ったことは一度もありませんがね」

「そんなことはどうでもいい。俺の用事はただ一つ。お前達大倉を潰すことだ」

「……は?」

直後だ。甲斐の顔面に男の右足の靴底がねじ込まれた。

「っ!」

「俺の名前は赤羽剛人。お前達を潰して美咲を返してもらう」

「赤羽って……赤羽美咲の兄か……!?」

鼻血を出しながら後ずさる甲斐。しかし通常よりかも半分にも満たない速度故か剛人は即座に距離を詰めるばかりか再び甲斐の顔面に靴底をねじ込む。

「ぐっ!!」

「弱いな。それで本当に拳の死神か?」

バランスを崩して倒れ掛けた甲斐の胸ぐらを掴んで甲斐を持ち上げる剛人。甲斐はその手を払うも、着地に失敗して膝を折ってしまう。そこへ容赦のない剛人の踵落としが迫り、咄嗟にガードした甲斐の両腕を軋ませる。

「こんな通り魔まがいの事をしてどうするつもりだ……!?」

「その質問に対する答えはもうしている」

立ち上がろうとした甲斐の右肩に踵をねじ込み、怯んだ甲斐を踵落としをした足で蹴り倒す。

「くっ!」

先制攻撃を受けたこともあるがしかしそれだけでここまでの劣勢は普通じゃない。赤羽美咲が初心者に近いとは言え空手の経験者である以上、赤羽剛人もまた空手の経験者で間違いない。それも、甲斐よりも格上だ。身長差がある上甲斐は今立てずにいる状況だ。そこを文字通り上から踏みにじるかのような足蹴の連続。この不利を覆すのは困難と言っていい。

一方的に叩きのめされている内にいつしかコンビニからは離れてしまっていて人目にも付きにくい。

「だからってどうしてこっちを狙うんだ!!」

「お前が美咲と一緒にいることを知っているからだ。美咲の居場所を吐いてもらおう」

「……んなことは先に言えっての!!」

何とか剛人の足を払って立ち上がった甲斐。しかし上半身はめちゃくちゃに蹴られまくっていてダメージが大きい。対して剛人は全くの無傷。

「あの子と会ってどうするつもりだ?そもそも一緒に暮らしていないのか!?」

「一緒に暮らすだと!?どの口でそんなことを!!!」

跳び蹴り。長身と何より手練れの剛人が放つその一撃は甲斐のガードの上から大きな衝撃を与え、再びコンクリートに転倒させるだけの結果を作った。

「ぐっ!」

「俺は美咲を連れ戻す。そして元通りの生活を送る」

「……だ、だからそう言うことは上に言ってくれと……」

「貴様から吐かせた方が早い!」

前蹴り。しかし、それは届かなかった。

「!?」

「いや、遠回りになったな」

剛人の放った一撃を片手で止めている男がいた。剛人ほどではないが長身で筋骨隆々。そしてその顔立ちはあの馬場早龍寺に似ていた。

「あんた……」

「馬場雷龍寺……!!」

馬場雷龍寺と呼ばれた男は剛人の足を払い、甲斐との間に割って入る。

「やっぱりあんた、馬場早龍寺の……」

「……俺にとってもお前はあまりいい印象はない。それでもこいつの横暴は無視できなかった。それだけだ」

「俺の邪魔をするつもりか馬場雷龍寺……!」

「赤羽剛人。お前との決着は畳の上でつけたい。ここは大人しく……」

「!?」

直後、雷龍寺の右手が剛人の丹田を押し掴み、片手だけでその長身を持ち上げ、

「コンクリートにキスでもしとけ」

次の瞬間には全力でコンクリートの地面に顔面から叩きつけられていた。

「……ちっ、死神!勝負は預けた!!」

鼻血を出しながらしかし全然余裕と言った態度で剛人はその場から去っていった。

それを見送ってから雷龍寺は甲斐に振り返った。

「…………助かりました」

「敬語はいい」

「……奴は?」

「赤羽剛人。お前が面倒を見ている赤羽美咲の兄で三船道場の所属だ」

「三船……」

「あいつが直接来るとは意外だったがまあ、お前の立場にはあまり関係がない」

「……赤羽美咲について聞いても?」

「答える義理も権利もない。お前は今起きたことをなかったことにして今まで通り三船のお姫様の相手をしていればいい。それが大倉会長の意志だ」

「……一体裏で何が起きている?こんなの普通じゃない」

「……」

今度は何も答えず、雷龍寺は去っていった。それとすれ違うように運転手がやってきた。

「大丈夫ですか?」

「……病院に行くほどでは」

「……それはよかった。……剛人さんについては私の口からは言えません」

「……大倉会長……に言っても無駄だな。明日彼女から聞くしかないか」

鼻血を拭ってから甲斐はコンビニに向かった。


・学生寮。穂南紅衣の部屋。

「……ふう、」

事を終わらせて達真が部屋を出て廊下を歩く。

毎回毎回そこそこ危険なハードルを越えていることは自覚しているがかと言って今更反故にするには惜しい。

「……こんな中学生いないだろうな」

苦笑しながら自分の部屋に向かう途中。窓の外に人影をみた。

「……」

少女の姿だった。普通に考えればこの寮の生徒なのだろうがしかし見覚えがない。小学生みたいな小柄な癖して胸だけは中高生にはとても見えないほど大きい。そんな特徴があれば情報くらい入ってくるだろう。つまりあれはこの寮の生徒ではないと言うことになる。

「……行ってみるか」

気になったため達真は外に出た。既に夜は7時過ぎ。1月の夜空は肌寒く、一度自分の部屋に戻ってコートを取ってくるべきだったと小さな後悔をしながら窓から見た景色へと足を踏み入れる。先程は気付かなかったが電灯が切れていた。その1つだけの暗闇にその少女は立っていた。

「……」

虚無だけを映した瞳。無気力のままに下ろされた両腕。血糊のついた右膝。足下に転がる用務員らしきのっぺらぼう。

「……お前がやったのか?」

達真が問う。ややあって少女は達真を見やると、虚無の表情のままにまるで吹っ飛ばされたかのように猛烈な勢いで距離を詰める。

「!」

放たれたのは血糊がついた右膝。達真が見慣れた空手のそれとは一線を画す殺意の塊。そう表現するしかない一撃を回避できたのは我ながら奇跡としか言いようがないだろう。

「……ムエタイか」

「……知らないわ」

着地した少女は小さく呟く。決して電灯の届かない場所からはみ出ないように。

「でも、避けられたのは初めてね」

「試してみるか?当てられるまで」

我ながら何を言っているのだろう。一発回避できたことですら実力ではないと言うのに。だが、達真は続けた。

「俺なら受け止められるかも知れないぞ?」

「……そう。じゃあ死ねば?」

前蹴り。少女が振り向きざまにはなったのはやはり空手の埒外の規模の一撃だった。前進する勢いをそのまま威力に使った単純にして破壊以外を考えていない一撃。だが、速度そのものはそこまで逸脱していない。

「っ!」

宣言通りに達真はそれを受け止めた。踝を左右から挟み込むような形で威力を殺す。

「!」

「…………これが…………」

そして威力を殺しきった彼女の足を自分の胴体に押しつける。相手が中国拳法の使い手ならともかくムエタイならゼロ距離での打撃はないだろう。ならば密着した状態が一番安全だ。

「……次」

「え、」

少女が小さくつぶやき、片足を捕まれた状態で一歩前進した。そして振るうは右肘。木こりが薪を斧で割るように真っ向上段から振り下ろす形。体格の違いから肘はまっすぐ達真の額に吸い込まれていくだろう。その軌道を見切った達真はすぐに自分の肘を彼女の肘下に潜り込ませる。

「……」

結果。彼女の肘は達真の額に刺さらず、奇跡と判断した防御を3度やってのけた。

「……私は最上火咲。あんたは?」

「……矢尻達真」

「……そう。何か言っておきたいこととかある?」

「思い切った動きだ。嫌いじゃない。……いや、むしろ美しい」

「……変な奴。でも、私にはこれしかないから愚かに拝承しておくわ」

肘をおろし、改めて達真に向き直る。見れば見るほどにアンバランスな体をしている。先程紅衣や蒼穹の体を見た関係でどうしても少女のアンバランスさに目を奪われてしまう。しかし一番気になるのはその両手。先程から一度も拳が握られていない。確かにムエタイの主武装は肘と膝。だが拳を使わないこともない。それなのに使う素振りも見せなかった。

「おかしな奴だな」

「あんただって人のこと言えないでしょ?私、人殺しよ?」

「見ず知らずの誰かなんて関係ない」

「……ふうん。でもまだ駄目。私はまだあんたに興味ないわ」

そう言って火咲は達真の目をのぞき込む。相手が相手故に接近されることに躊躇がないと言えば嘘になるがしかし達真は微動だにしなかった。

「……他の女のにおいがする。それも一人じゃない。恋人……じゃないわよね。あんたにそんな誠実さ……ううん、何か1つのものを大事にしようなんて小綺麗な価値観ないわよね。つまりただのセフレ。体だけの関係って事。……けど見捨ててしまえるほど器用でもない」

「何が言いたい?」

「私、あんたの前であんたが遊んだ女を殺すわ」

「……何のために?」

「あんたの本気が見たいから」

「……」

「あんたがひた隠しにしている何かをさらけ出したいからよ。その上であんたを殺す。……いいわ、今からそれが私の理由にするわ」

「……本当に訳が分からない奴だな」

そこで、用務員の胸ポケットに入ったスマホからBGMが流れた。電話か何かか。どちらにせよ、これ以上ここにいるのはまずい。

「……じゃあ、楽しみにしててよね」

「あ、おい!」

それだけ言うと火咲はまるでミサイルのような勢いで走り去って行ってしまった。

「…………本当に訳が分からない奴だ」

若干の苛立ちと期待を込めたつぶやきを捨てて達真もまたその場を去っていった。


・赤羽剛人にボコボコにされた翌日。

「……ん、」

何か衝撃のようなものを感じて甲斐が目を覚ます。起きあがると、制服姿の蒼穹がドアの前に立っていた。

「……は?」

「……起きたら?」

それだけ言って蒼穹は部屋を出ていった。甲斐は自分の胸元にあった時計をみる。蒼穹が投げたものだろう。で、言われたとおりに時刻を見たら

「もうこんな時間!?」

寝坊助な蒼穹でさえ一人で着替えて出て行ったのだ。甲斐は急いで制服に着替えて部屋を出ていった。

それから15分後。朝のホームルームが始まり、卒業式の祝辞を誰が読むかの決議をしている中、甲斐が現れた。クラスメイトは全員笑顔だった。

「赤羽剛人……だって?」

休み時間。斎藤と最首に昨日の話をした甲斐。

「……その名前聞いたことあるな。やっぱり前に俺が戦ったことあるような気がする」

「確か三船道場の人だったよね?」

「かなり強かった。が、馬場雷龍寺に助けられた」

「馬場雷龍寺。早龍寺の兄貴か。赤羽美咲の兄貴と馬場早龍寺の兄貴の因縁か。漫画かアニメみたいな展開だな」

「本の中だけの面倒ならよかったんだがな」

「でもどうするの?大倉会長にでも抗議するの?」

「……そう簡単に会えるとは思えない。一応今日あの子に会ったら話してみようと思ってるが」

「けど、赤羽剛人は赤羽美咲を探してるんだよな。兄妹なのに一緒に住んでいない。で、兄の方が探していて妹の方は大倉で特別扱いされている。きな臭いというか妙な話だよな」

「……正直これからどんな顔してあの子に会えばいいのか分からん」

「……そう言えば、何か寮でも誰か亡くなったとかって聞いたんだけど」

「ああ、用務員の誰かだっけ?何でも鈍器のようなもので頭を潰されて死んだらしい」

「……へえ、」

甲斐は朝食をとれなかった空腹を誤魔化すためにさっきから筋トレばかりしている。

「まさかそれも赤羽剛人がやってたりしてな」

「……何の意味があるんだよ」

「っていうか鈍器なんて必要ないよね、あのクラスだと」

「……ん、」

廊下。蒼穹が教室から出てくる。

「穂南」

「……」

甲斐が呼び止めると、蒼穹は視線だけ向けてきた。

「今朝は助かった。アラーム付け忘れてたみたいだ」

「……別に。昨日のお返しよ」

「……あ~、そう言えばそんなこともあったっけかな」

「……」

「……どうかしたか?」

「別に。私妹以外の女子あまり好きじゃないから、今の生活を壊させないでよね」

それだけ言って蒼穹はどこかに去っていった。

「……どういうことだ?」

「ちょっとだけ話題にあがったらしいぜ」

斎藤が出てくる。

「お前がもしも長期入院して穂南が一人になったらどこか女子の部屋に3人住まいしようって職員室で聞いたぜ。本当ならとっくにそうした方がいいって声も出てるけど二人部屋に3人は物理的に問題があるし、どこかの優等生君なら信用できなくもないから今のままでいいんじゃないかって保守的な声がやっぱり強いみたいだ」

「……」

尤もな意見だろう。普通に考えて年頃の男女を同じ部屋で生活させることは異常だ。その点において甲斐も蒼穹も間違いなく最低限の負担を感じている。しかし逆にもう慣れてしまった感が強い。甲斐としても稽古から帰って仏頂面の蒼穹が待っていないと不安になるし、蒼穹からしてもぶすっとしていながらもどこか既に生活の一部に甲斐の存在を含めてくれているということだろう。

「しかしリアルツンデレを見ることになるとはな。お前よく穂南に手を出さずに数年持ってるよ」

「……俺だって何も感じない訳じゃない。けど、せっかくこんな奇跡みたいな状況になってるんだ。それを一時の過ちで崩すなんてこともう二度と起こしたくない」

「……そうか。けどあまり穂南を心配させるなよ」

「心配?」

「この学校に入ってるってことは皆何かしらの事情を抱えている。穂南だってそうなんだろう。どんな事情抱えているか知らないが穂南がお前との同室を何年も許してる以上お前のことももうどうでもいい存在じゃないと思う。そんな奴がついこないだ手術が必要なほどの大けがをして突然帰って来れなくなって、そして昨日はボコボコになって帰ってきたんだ。穏やかで済むとは思えないな」

「……そうかも知れないな」

「赤羽剛人のことで動きたい気持ちは分かるが赤羽美咲に尋ねるだけにしておいた方がいい。次に襲われた時も誰かに助けを求めるなりしてなるだけ危なくないようにしたらいいんじゃないか?」

「……ちょっと格好悪いけどな」

実際に自分一人で何でも出来るとは思っていない。赤羽剛人のことも赤羽美咲のこともきっと薄暗い大人の事情が関わっているのだろう。まだ高校生の自分がそれを解決なんてできるとは思っていない。だとしたら今はただ、赤羽美咲のやりたいことをさせてやって居場所を作ってやることが大事なのかも知れない。

「……分かったよ、斎藤」

「ん?」

「赤羽剛人のことは……あの子には聞かない。間違いなく事情があるのだろうけど、今はあの子の居場所を作ってやるだけでいい」

「……そうか。そうかも知れないな」

斎藤は小さく笑ってから甲斐の背を叩き、教室に戻っていった。


赤羽剛人のことをどうひた隠しにしたまま赤羽美咲との稽古を続けるかを考えながら放課後の道を歩いていると、わずかに見覚えのある車が近くに停車した。

「甲斐廉だな?」

「……あなたは?」

窓を開けて顔を見せたのは20代後半くらいの男だった。

「俺は伏見雅劉。伏見道場のもんだ」

「伏見の……」

大倉道場が連盟を結んでいる2つの道場。1つは赤羽剛人が所属している三船道場。そしてもう1つが伏見道場である。交流戦だけでなく何度か伏見の門下生とは試合をしたことがある。しかし、年齢が離れているとは言えこの車の男の顔にも名前にも覚えがない。

「大倉のスタッフには連絡を入れている。少しドライブに付き合ってくれないか?」

「……どこへ連れて行こうというのですか?」

「伏見総本山」


見慣れぬ町を進むのはあの試合の日以来だ。不安や警戒がないと言えば嘘になる。しかしスマホを見れば確かに大倉道場からのラインメールが来ていた。伏見に付き合ってほしいと。

「……伏見総本山って確か伏見道場の……」

「ああ。選ばれた奴だけがそこで特別な稽古を行う超実戦道場。あ、俺は三日でリタイアしたから」

「……」

助手席に座り、やや警戒をしながら雅劉と景色を見比べる。

「そこで俺に何を?」

「さあね。親父が君のことを呼んでるんだ」

「親父ってまさか……」

「そ。伏見提督とか呼ばれてるあの親父だよ」

「……」

伏見提督。伏見道場の師範であり、大倉会長とは幼なじみだと聞いたことがある。本職は自衛隊員でありそこから伏見提督と言うあだ名で呼ばれているとか。その伏見提督を親父と呼ぶと言うことはこの雅劉は伏見提督の息子と言うことだろう。昔聞いたことがある。大倉会長の息子も伏見提督の息子も学生時代までは空手をやっていたがいずれも父親から才能を継げなかったのか道場を継がずにサラリーマンになったと。

「別にとって食おうなんて思っちゃいないさ。あの親父は軍人やってて結構頑固だけど悪い奴じゃない。君の足のことも知ってる。大倉から引き抜こうってわけではなさそうだぜ。まあ、何の用事かは俺も聞いてないけど」

「……そうですか」

とはいえ警戒が緩めるわけではない。むしろ下手な誘拐とかよりかも緊張する。他の学校の校長に呼び出し食らうとかそう言う謎展開だ。

やがて30分ほどして車は雑木林の中を貫いていく。大丈夫かってくらい林も車も傷ついていくので心配そうに甲斐が視線を向けると、

「いいって。どっちも借り物だから」

何となくこの人に空手の才能が引き継がれなかったことが分かった気がした。

やがて雑木林を貫くこと5分。昔話にでも出てきそうな古い民家が見えた。

「……ここが伏見総本山」

「そんなご大層なもんじゃないけどな」

車から降りて二人が民家の中に入る。

「親父、甲斐の奴連れてきたぞ」

「神聖な道場で言葉には気をつけろと言ってるだろ、雅劉」

薄暗い部屋の中。初老とは思えない筋骨隆々で背筋の張った男がすぐに向かってきた。今まで何度か遠くから見たことがある、伏見提督だ。

「よく来てくれた、甲斐くん」

「いえ、押忍失礼します」

靴を脱いで上がる。ついで雅劉も靴を脱いで上がる。今まで気付かなかったが結構ごつい靴を履いていた。市販には見えない。ひょっとして雅劉は自衛隊員なのだろうか。

「それで、自分にお話とは?」

「遠山理清と言う男を知っているかな?」

「……確かこの前の全国大会で自分と一日目に戦った男かと」

「そう。その理清なのだが我が伏見道場の所属でね。君にリターンマッチをしたいと言ってきているのだ」

「……しかし、自分は」

「ああ。分かっている。翌日の試合で右足を故障したと言う話は私の耳にも届いている。彼にも話したところ、条件を変えてきた」

「それは?」

「君には弟子がいるそうだね」

「……弟子なんてとても言えませんが」

「君の教え子である赤羽美咲。そして遠山理清の弟である遠山直太朗とを試合させてほしい」

「……彼女と……ですか?」

突然の提案に甲斐は言葉を失う。赤羽美咲の存在は大倉だけでなく伏見にも何かしらの影響を及ぼしているということに驚きを隠せない。

「直太朗はまだ中学生。赤羽美咲もまだ中学生。ちょうどいいと思うのだが」

「……1つ質問があります」

「何かな?」

「彼女には何があるというのですか?大倉道場内で特別な扱いをされているだけでなく他の道場の代表であるあなたにまで注目されている。不意に指導役を任された自分には何の説明もない……!」

「……私は赤羽美咲には特別視をしていない。話題性があったのは認めるが今回の試合に関して言えばその話題性を利用しただけに過ぎない。そして赤羽美咲についてはプライバシーがある。私の口からは詳しくは語れない。そもそも和也……大倉会長が君に伝えていないのなら尚更私の口からは語れんよ」

「…………そうですか」

「……試合については大倉からも君の一存に任せると聞いている。一応日程としては2週間後、今月末の土曜日を予定している。場所はここ、伏見総本山で行う予定だ。他に何か質問とかはあるかね?」

「……遠山直太朗の階級は?」

「6級。小学校低学年から道場に通ってはいたが高学年頃からあまり顔を見せなくなった。兄に言われてから最近再開したそうだ」

「……6級」

「ほかには?」

「彼女が望まなかった場合はどうするのですか?」

「その時は中止とすればいい。君の判断に任せるよ」

「……」

「おい親父。あまり高校生いじめるなよ」

「口を慎め雅劉。そもそも既に破門された身で畳に足を踏み入れるでない」

「…………畳なんてないだろ。フローリングされてるし」

「雅劉」

「へえへえ、わぁりやしたよ」

雅劉が部屋から出ようとすると、甲斐が口を開いた。

「あの、返事はいつまでに……?」

「一週間以内に頼むよ。大倉のスタッフに言えば伝わるようになっている。いつもの稽古帰りにでも頼めばいい」

「……分かりました」

一礼し、甲斐もまた部屋を後にする。特に伏見提督との会話はそれ以上なかった。


「あんま気にすることないぜ?」

帰り道。再び雑木林を貫きながらの車内。

「赤羽美咲に興味がないってのも本当の話だ」

「……雅劉さんは彼女のことを?」

「少し耳にしただけだ。もう空手業界からは追放されているんでね。だから詳しい話は俺も知らない。親父は軍人だから女子中学生に興味なんてないって。ただ全国出場者のわがままを特別に聞いてやってるだけだ。何なら今この場で俺から断っておいてもいいぜ?」

「……一応本人に相談してみます。……あ、そうだ。稽古……」

「大倉のスタッフに連絡くらい行ってるだろ。今日は休みか遅れて少しだけってことになってる。スマホか何かで聞いてみたらどうだ?」

「……」

一応最首にメールを送ってみた。すると、自分が赤羽の稽古を対応しているとのことだった。

「……道場にお願いします」

「あいよ。……場所どこだったっけかな。一応カーナビにも登録しておいたんだが……」

慣れない手つきで雅劉がカーナビを操作した。結果20分後にキャバクラに到着した。

「……自分まだ未成年なんで」

「いやぁ、悪い悪い。苦手でさ」

それから35分後に道場に到着した。

「じゃあまた何かあったら会おうぜ」

「はい。ありがとうございました」

雅劉と別れ、甲斐は道場に入る。畳部屋に入るが誰もいない。最首と赤羽が稽古をしているはずなのだが。そう思って和室に入ったところ、

「……あ」

下着姿の最首と赤羽の姿があった。相変わらず黄緑の下着。なだらかな膨らみの最首。真っ白なショーツに最首のそれを大きく上回る立派な膨らみ。

「な、何だ。稽古はもう終わったのか」

「「いいから出てけ」」

二人揃って椅子を投げつけた。

数分後。

「……もう、高校生になってもまた裸見られるなんて……」

顔を真っ赤にしながら制服姿の最首がポカリを飲む。

「……以前にも?」

「まあ、うちの道場何年か前まで更衣室なかったから小6くらいまでは同じところで着替えてたよ……。あと中学時代の合宿の時に……」

「おっと最首そこまでだ」

最首よりも10倍以上赤く膨れ上がった顔の甲斐が制す。

「……中学時代に合宿で何をしたんですか……」

「それは言えない世界だ。それより話がある」

甲斐が制服姿の二人を前にして少しだけ頭の中を整理してから口を開いた。

「伏見道場から試合の申し出があった。相手は遠山……なんだっけ。この前全国で試合した奴の弟らしくてまだ中学生で6級」

「……私の相手ですか?」

「そうだ。2週間後の土曜日に予定されている。だが、望まないなら断ってくれても言いそうだ。正直まだ6級が相手は厳しい」

「……けど、3月の交流試合までに実戦はした方がいいですよね?」

「……乗り気なのか?」

「自分がどこまでやれるのか試したいんです」

「……」

誤算だった。てっきり断ってもいいと注釈入れておけば躊躇してくれるかと思った。伏見提督はともかく大倉道場、そして三船道場で赤羽美咲をどう見ているのかが分からない以上普通じゃない予定は入れたくない。考えすぎかも知れないが今回の予定はあからさま何か仕込まれている。昨日赤羽剛人と遭遇したばかりなのだから警戒するのは当然だろう。大倉会長がこの試合で赤羽美咲の何を狙っているのかが気になる。

「正直今回の話は奨められない。君のガッツは大事にしたいと思っているが相手も状況もよくない。……最首はどうだ?」

「え、私?」

突然話を振られて最首が勢いよく振り向いた。

「……赤羽ちゃん、この一週間で結構強くなったと思うけど流石にまだ10級が9級になった程度で6級を相手に出来るとは思えないかな。しかも小学生ならともかく中学生の男子と試合なんて分が悪すぎるよ」

「……そんなに男女で違うのですか?」

「君は今最首との組み手で強くなっている。それ自体は悪くない。最首は女子の中でもかなり上位。君が目指す理想の1つと見ていい。けどだからこそ男子中学生のパワー相手じゃ分が悪いんだ。最首の方が年も階級も上だろうし、実際に最首が遠山と戦えばほぼ間違いなく最首が勝つだろうが、単純なパワーじゃ遠山に分がある。どうしてスポーツで男女で分けるかと言えばその圧倒的なパワーの違いがあるからだ。ただのスパーリングなっらともかく正式な試合となると勝ち目がない以前に危険だ。……どうして伏見提督もこんな試合に乗り気なのか」

「そうだよね。つい昨日赤羽ちゃんのお兄さんとの件もあったのに」

「……え?」

「……………………あ」

最首の発言に空気が固まった。

「え?廉君もしかしてまだ言ってなかったの?」

「…………はぁ、そう言えばさっき最首いなかったな……はぁ……」

甲斐が深いため息をつく。

「あ、あの、どういうことですか?」

赤羽の表情が変わる。何も聞いていない様子だ。

「……赤羽剛人って君のお兄さんだよな?」

「は、はい……一応……」

「……昨日稽古の帰りに出くわしたんだよ。妹はどこだって」

「…………」

「昔斎藤が……友人の一人が赤羽剛人と試合したことがあるらしいけど三船道場の所属らしいな。ってことは妹の君も……。それがどうして大倉道場の厄介になってこんなことをしているんだ?」

「……それは……」

「ちょっと廉君、深く入り込み過ぎじゃない?」

「本当は知らぬ存ぜぬで障らぬ神に祟りなしと行きたかったけど、棚からぼた餅。聞きたいことは聞いておく」

甲斐はまっすぐと赤羽を見る。赤羽はどうしたらいいか分からないと言った感じで俯いたり目線を泳がせたりと落ち着きを失っている。まるで説教を受けている子供のように。その視線の中には甲斐の怪我も含まれていた。さっき椅子を投げつけられたものじゃない、いくつもの打撃痕。

「落ち着いて、赤羽ちゃん。廉君も怒ってるわけじゃないから。どうしても赤羽ちゃんが話したくないことなら言わなくていいから……」

宥める最首は母親のようだった。自分の失言が元だからか若干こちらも落ち着きがない。これではまるで自分が悪者のようだ。

「無理にとは言わない。俺達は君のやりたいように望むようにこれまで通り稽古を続けるつもりだ」

「…………赤羽剛人は確かに私の兄です。そして私も三船道場の出身です。でも、その、これ以上は……」

顔面蒼白。恐怖を押し殺した表情。

「……分かった。これ以上は聞かない。それで、試合の方だがどうする?最首の説明を受けてもまだ出たいと思うか?」

「……ご迷惑じゃなければ」

「……分かった。じゃあ試合には出る方向で話を進めよう。そしてそれに向けて付け焼き刃かも知れないがこの2週間少し稽古内容を変えよう」

「どうするの?」

「これまで基本稽古をベースに最首の動きをトレースすることで女子としての最適の動きを学んでもらってきたが対男子用にシフトする。具体的には筋トレをメインにしたい。男子と女子とでは筋肉の作りが違うから真っ向から戦うわけではないにせよ、筋力はあった方がいいからな」

そう言うと甲斐はスタッフを呼び、いくつか道具を用意してもらった。

「1つはサンドバッグ。普通のじゃなく重いタイプだ。2分のラッシュをするだけでもかなり筋肉がつく。もう1つは……特に名称はない。片手で持てる鞭みたいなサンドバッグだ。中には水が入ってる」

「……前者はともかく後者は何に使うんですか?」

「防御訓練だ。本来ならパンチやキックを直接浴びて耐久力を強くするのが筋なんだが俺達じゃレベルが違いすぎるからな。怪我どころじゃ済まないかも知れない。だからこれでぶん殴るから防ぐなり耐えるなりして耐久力を鍛えてくれ。……本当なら今から胴着に着替えなおしてもらって稽古を付けたいんだが流石に時間も時間だし明日からにする」

「……押忍」

それから3人で畳部屋の掃除をしてから甲斐と最首は道場を後にした。

「……ごめんね。赤羽ちゃんに黙っておくこと知らなくてつい……」

「……いや、本当なら最首にもすぐに伝えておくべきだったんだ」

車内。二人が会話する。

「あの様子だとお兄さんや三船道場との間で何かあった可能性が高いよね。多分本当に言いたくないような出来事が」

「……そうだな。そして大倉道場に保護された。本人がそれでも空手を望むから稽古をさせたい。けど、おおっぴらに普通の稽古をしていたら三船の連中特に赤羽剛人が襲ってくる可能性が高い。だからわざわざあの家で非公式にそしてこんな護衛がついてまでひっそりと稽古を行っている。……そんな感じですよね?」

甲斐が運転手に声をかけるが返事はこない。

「でも、赤羽剛人さんに関してはどうするの?廉君でも全盛期ならともかくその足じゃ……」

「昨日馬場雷龍寺が言っていた言葉を信じるなら護衛として今もどこかにいるんじゃないのか。46時中あいつ一人は無理だろうから他にも何人かトップクラスのスタッフがついているんだろう。きっとあの道場……と言うかあの子が住んでいるあの家にも」

「……聞かないって決めたけどどうしても気になるくらいスケールが大きい話だよね。でもこんな体制いつまでも続けられるわけじゃないし、どうするんだろうね」

「……或いは明確な期間が決まっているのかも知れないな。大倉の方ではなく三船の方に」

「……それって?」

「……具体例は思いつかない」

「……ふぅん」

やがて寮に到着する。運転手はいつも通りの言動で帰って行った。

「遅くなっちゃったけど食堂とかお風呂とかまだやってるかな?」

「9時過ぎか。ちょっと怪しいな」

二人は急いで食堂へと向かう。すると、

「……」

「……」

他に誰もいない食堂で達真、火咲、紅衣の3人がいた。ただし穏やかな雰囲気ではなく達真と火咲は真っ向からにらみ合っていた。

「……何やってんだあの中学生達は」

「でも穏やかな空気じゃないみたいだよ」

二人は急いで余り物のやや冷たい食事をとると、なるだけ離れたところで食事を始める。

「あんな……その、胸の大きい子なんてうちにいたか?」

「……今さっきのこと思い出さなかった?……けど、見覚えないねあの子。達真君の知り合いっぽいし中学生かな?」

「……にしては、」

「あ、また思い出してる」

「いや、まあ、それもなくはないけど……何となくあの子の顔……どこかで……」


一方。甲斐と最首の咀嚼を尻目に達真と火咲はにらみ合っていた。その中間くらいに紅衣がおろおろしている。

「紅衣、そいつに近づかない方がいい」

「あら?女の子を下の名前で呼び捨て?その子があんたの大事なセフレかしら?」

「……どうしてここにいる?」

「いたらいけない?」

火咲はフランスパンに指をつっこんで持ち上げて貪る。近くにバターがあるのにお構いなしだ。そしてコップではなく取っ手のついたコーヒーカップで水をこぼしながら飲む。

「達真君、あの子手が……?」

「……かもな」

肘と膝を武器とするムエタイを使うのも両手が使えないからと言う理由があるのかも知れない。しかしそんな弱点を見せるなどその余裕がいただけない。しかも相手は知らないかも知れないがこの空間には少なくとも達真より強い実力者が二人いる。手荒なことになったら不利なのは向こうだろう。それに甘えるような選択肢はないが。

「……」

「え、ちょっと!?」

突然紅衣が立ち上がり火咲へと歩み寄る。構える火咲に構わずフランスパンを丁寧にちぎってはバターを塗る。

「はい。これでどうかな?」

「……私のこと怖くないの?」

「何で?いろいろ不自由あるかも知れないけど困ったら言ってね」

「……じゃあ」

火咲が肘を構えた。達真が慌てて立ち上がるがそれより先に火咲の肘が紅衣の頬に迫り……

「女の子の頬は指で撫でるもんだぜ、巨乳ちゃん」

届くより先に甲斐が火咲の肘を止めていた。

「……何よあなた……」

「別に。最近物騒だからな。ちょっとそう言う気に敏感なだけだ」

「……」

甲斐を睨む火咲。すると、

「もう甲斐先輩?女の子にセクハラしちゃ駄目ですよ?」

後ろから紅衣の声がした。

「セクハラ?」

「そうですよぉ、いきなり巨乳ちゃんだなんて」

「……おふ、」

「はいそこ変態。興奮しない」

と、火咲の背後から最首が近寄ってきて甲斐の手を止める。

突然背後を奪われた火咲が警戒レベルを急上昇させた。

「あなた、お名前は?」

そして最首がまっすぐに火咲を見る。火咲と同じくらい背が低い……けど胸は比べものにならない最首。朗らかに見えてしかし一切隙がない。

「……最上火咲」

「最上さんね。私は最首遙。見ない顔だけどここの生徒?」

「……別に」

「部外者は立ち入り禁止なんだけど。紅衣ちゃんや達真君の友達にも見えないしあなたは……」

そこで最首の言葉は終わった。紅衣の目には突然手を前に出した最首の手のひらに火咲の膝が当たったように見えた。つまり超スピードで繰り出した火咲の膝蹴りを最首は片手で受け止めたのだ。

「受け止めた……」

「……最上さんこの膝蹴り素人じゃないよね?でも空手にしては鋭すぎる。テコンドー……いやムエタイかな?」

(やっぱこの人達やばいな……)

達真は冷や汗をかく。今の膝蹴りは達真でもやっと反応できたほどの速さだった。最低でも最首は達真よりも火咲よりも格上だろう。

「昨日の警備員殺害事件。あれに関わってたりとかしてないよね?」

「……だったらなんだって言うのよ……!」

肘、膝、跳び蹴り。放たれたすべてを最首は軽く回避したり受け流したりする。

「元々が戦争用の体術だったムエタイ使いの最上さんに言うのもなんだけど、武術って言うのはやりたいことのために振るうものじゃないんだよ?」

そして最首は軸足にしていた火咲の左足にローキックを叩き付け、火咲の体をルーレットのようにその場で一回転させる。

「……!」

が、直後火咲はその勢いを利用して最首の側頭部にオーバーヘッド気味の蹴りを放った。

しかし、

「はいそこまで」

その一撃は甲斐が掴んで止めた。

「っ!」

それにより火咲は宙ぶらりんの状態になる。スカートも重力に従い、下着が丸見えになるが火咲は隠そうとしない。

「オイタは駄目だぜ?」

そして甲斐は片手だけで火咲を振り回し、最首がやったそれの3倍の速度で回転して椅子に強制着席させられた。

「うううっ!!」

「手が使えなくて食べられないならお兄さんが食べさせてやろうか?その手じゃ風呂やトイレも厳しいだろう?飼育してやるから大人しく……」

「……それ以上俺の喧嘩を横取りしないでくださいよ」

甲斐の肩に達真が手を置いた。達真の方がかなり顔色が悪かった。

「……はぁ、やめだ。どうも最近調子がおかしい」

甲斐は深いため息をつくと軽く火咲と達真の頭を撫でてから食堂を後にした。

「……最上さん。次は手加減しないから」

最首もまた後かたづけをしてから去っていった。

「……なにあの二人。人間?」

「多分な。お前ここじゃ好き勝手出来ないぞ。わざわざ檻の中に来てなにをするつもりなんだ?」

「……別に何でもないわよ」

それだけ言って火咲はパンを食べてから食堂を後にした。


・ところでどうして空手では中学時点で男女分かれて稽古や試合を行うのだろうか。そう考えたこともあるだろう。その最たる原因はやはり男女での筋力差が上げられる。小学生時代まではそこまで男女に差はない。むしろ成長期が先にくる分女子の方がやや有利と言えるかも知れない。

中学生になってからは男子は身長が160を越えて当然でそれに伴い、爆発的に筋力が上がる。小6の頃と中1の頃では別人レベルで強くなる。筋力が付けばつくほど体は重くなるがそれ故にどんどん筋力が上がっていくというインフレに、それほど筋肉がつきにくい女子が付いていけるはずがない。かといって女子も女子で無抵抗というわけではない。女子側にはチェストガードと呼ばれる鉄製のスポブラみたいなのが与えられて胸に巻くのだがそのせいで鳩尾と言った弱点への攻撃が当たらなくなる。かつその重りに慣らして試合が出来るようにと、男子のそれほどではないが重りを持った状態での体力トレーニング及び反射神経を鍛えるトレーニングがメインとなっていく。当然こんなこと普通の女子はやらないため、空手をやっている女子とそうではない女子とで大幅に筋力に差が出てくる。それでもなお男子のそれに遠く及ばないのだから直接的な試合をさせることがどれほど危険か。

最首と甲斐が以前に軽く組み手をしたがそれは最首が男子との試合を何度も行ったことがある上、女子選手としてトップクラスの実力者だからこそ出来たことだ。

「……で、今やってるトレーニングは男子向けのトレーニングと言うことでしょうか?」

畳部屋。赤羽は下は胴着だが上はアンダーシャツの上にチェストガードを巻いただけのラフな格好で重量級サンドバッグを叩き続けている。

「そうだね。男子でもそれだけ重くて固いサンドバッグを叩き続けるのは厳しいんだけどそこは付け焼き刃だよ。男子の鍛え上げられた筋肉ってのは女子の体と全然違う。ただ殴ってるだけでも殴った方の拳にダメージが来るもの。だからここで殴るトレーニングを2週間続けることで男子を殴ることに慣らすのが一歩」

ちなみに赤羽はチェストガードを巻くのは初めてだったため最首に巻き方を教えてもらった。ギリギリ下着じゃない格好だからか甲斐も同じ部屋にいるのだがスマホで何かを作っている。

「……あれは?」

「ああ、うん。廉君には今この2週間でのメニューを作ってもらってるよ。勝ち目があるかはともかくとしてやれるだけのことはやっておきたいからね。ちなみにだけど赤羽ちゃんの身長と体重も教えることになるんだけどいいかな?」

「……どうして体重まで?」

「女子の体はカロリー消費の問題から筋肉がつきにくいから、もし筋トレして逆に体重が落ちたりしたらそれは筋トレしても意味がないってことだからね。体重が増えて筋肉が付いてきてもそれがあまり変わらない程度だったらやっぱりそれもそれで問題だから。それとは逆に筋トレすることでもしかなり体重が増えて筋力が付いていったら女子としては珍しいパワータイプの選手を目指してもいいってことになる。まあ、そうなると私の出番は少なくなるんだけどね」

「……そうですか」

「本当なら3サイズも教えてもらいたいがな。……いや待て200キロ超えるサンドバッグを投げ飛ばそうとするな。体が壊れるぞ。健康面の問題で情報を知りたいだけだ。変な意味は1割くらいしかない」

「……この人、学生寮で健全だから唯一女子と一緒の部屋が許されてるんですよね?」

「……一応年頃の男子だからね。蒼穹先輩とはまあ、熟年の夫婦とか双子みたいな感覚だし」

「誰が熟年の夫婦や双子だ。俺が穂南に殺される」

「……穂南蒼穹さんって人空手やってるんですか?」

「やってないよ。普通の高校2年生の女の子だよ。ちょっと怖いけど」

最首がポカリを持ってきて赤羽に渡す。

「この人と……と言うかこの人とじゃなくても同い年の男子と一緒に過ごせる女子ってすごいんでしょうね」

「私もあまり蒼穹先輩とは話したことないからよくは知らないけどね」

「暴力系だぞ。空手でもやってなければ男子の方が耐えられない。寝過ごしたら鳩尾に目覚まし時計を投げつけてくるような奴だぞ。スタイルはいいのにシャワー後とか普通に下着姿でうろうろしてはちょっとでも見ようものなら鉄製のもの投げつけてくる愉快犯だぞ」

「……男子としては羨ましいのでは?」

「と言うか普通に裸とか見てるの?」

「……下は見たことない」

「あったら大事件だよ!?」

会話をしながら次の稽古に移る。甲斐が両手に1本ずつ持つのは水風船を横に伸ばしたような細長いサンドバッグのようなものだ。

「耐久訓練ですよね?」

「そうだ。これをあらゆる角度から何度もたたき込むから防御し続けるんだ。避けたり受け流したりするのは駄目。また、割っても駄目だ」

「……どうして割ったら駄目なんですか?」

「簡単だからだ」

「え?」

「攻撃してきた相手の手足を防御の体裁で破壊するのは簡単すぎるからだ。ルールに違反しているわけじゃないがだからと言って容易く相手の手足を破壊しておしまいじゃ空手の意味がない。まあ、事故とかなら仕方ないんだけどな」

「自爆って言って互いの膝蹴り同士がぶつかってお互いの膝のお皿が砕けてどっちもリタイア。病院で運ばれて全治1ヶ月とかで選手生命危ぶまれたりとか決して珍しくないからね。そう言うのを気をつけながら戦うのも選手としての義務みたいなものだから」

「……為になります」

「じゃあ、始めるぞ」

それから15分間。赤羽はひたすら水風船で殴られまくった。案外痛いもので打撲とかにはならないが結構ひりひりする。本物の蹴足のように鋭く重い打撃だ。言いつけを守れずに2本とも割ってしまいもした。

「す、すみません」

「構わない。スタッフに新しいものを用意させる。それより畳を濡らしてしまったな……。弁償とかした方がいいか?」

「え?」

「だって君……いや、何でもない」

彼女の事情はなるだけ聞かないことにした。だからここに住んでいることも言及しない方がいいだろう。本当に畳が駄目になったらスタッフがどうにかするだろうし。

「よし、特別稽古はここまで。ここから先は通常稽古に戻る。上を着てきなさい」

「押忍!」

ちなみに和室で赤羽は濡れ透けが起きてブラが丸見えになっていたことに気付いたが何だかどうかしてやろうとはもう思わなかった。

ただ今はやるべきことをやって試合に臨むだけだった。


試合当日。甲斐、赤羽、最首が雅劉の車に乗って伏見総本山へと向かう。

ただ、今日は少女が一人多かった。

「初めまして。都築麻衣ともうします」

助手席にいたのは高校生くらいの少女だった。

「麻衣は伏見道場の生徒でありながら自衛隊員だ。今回はただの見学だから気にしなくていい」

「分かりました。今日もよろしくお願いします」

雅劉の車に乗ってそして最初に到着したのはやはりキャバクラだった。

「やべ、設定したままだったわ」

「……勘弁してくれ」

甲斐が額に手をやり、麻衣がキレて雅劉の首を絞めた。

15分遅れて伏見総本山にきた甲斐達。今度は雑木林を貫くことなく道が造られていた。何でも雅劉が弁償代わりに自費で作ることになったらしい。

「遅かったな、雅劉」

「ちょっと道が混んでたんだよ」

中に入る。既に伏見提督はもちろん大倉道場からは岩村が参加していた。

「岩村さん、お久しぶりです」

「甲斐か。元気そうだな」

岩村に対して赤羽と最首が会釈する。

「赤羽ちゃん、岩村さんを知ってるの?」

「はい。少しだけ会ったことがあります」

「……私のことはどうでもいい。それよりも先方が待っている」

岩村に言われ手先に進んだ先にある部屋。ろうそくの光だけが照らすそこはまるで寺の座禅部屋か何かだった。思わず甲斐と赤羽が身震いをしてしまう。

「……何かこういう神聖な場所って苦手だよな」

「はい。どうも居心地が……」

「二人は悪魔か何かなの?……あっちも来たみたいだね」

反対側の襖からよく似た二人が入ってきた。顔を見れば思い出す。片方は紛れもなく甲斐が数週間前に戦った相手である遠山理清だった。相変わらず気むずかしそうな顔で空手家と言うよりかはどこかの大学で研究ばかりしてる教授見習いとか医大生とかそう言う感じだ。その弟だという隣の少年もまたどこか似たような面影を匂わせている。

弟の方……遠山直太朗が一歩前に出ると赤羽もまた一歩前に出た。

それを見計らって伏見提督が両者の間に歩み寄る。

「勝負は実際の試合と同様に本戦3分、休憩20秒、延長戦3分、休憩20秒、再延長戦3分で行う。それぞれ3分経過ごとに判定が下され、そこで決着が付かなかった場合休憩を挟んで延長戦を開始する。再延長戦では判定で引き分けを設けずにどちらかを必ず勝者とする。主審は私が、判定には岩村君と都築麻衣で行う」

伏見提督の発言にあわせて岩村と麻衣が旗を持って岩村の隣に歩み寄る。

赤羽が赤で遠山が黒だ。

「……自分の実力をぶつけてこい」

「……押忍」

甲斐と赤羽が小さく会話を済ませ、最首が赤羽にヘッドギアを装着する。

甲斐、最首が部屋の隅にまで離れると、

「準備はいいか!?」

伏見提督の声が響く。

「正面に礼!お互いに礼!構えて・はじめっ!!!」

その声と同時に両者が距離を詰める。最初は互いに5メートルほどの距離があったが一瞬でそれはなくなり、遠山のハイキックが赤羽の顔のすぐ横を掠める。

それに怯むことなく赤羽は遠山の軸足に下段を打ち込む。遠山はわずかに身を揺らすが怯まずに上段を放った足で赤羽の鳩尾へと前蹴りを繰り出す。

「っ!」

チェストガードに阻まれ、急所には刺さらなかった一撃。故に赤羽は素早く遠山の右側へと移動。死角となるように左足での上段を繰り出した。

対して遠山は右手で殴るようにその上段を払いのけ一歩を前に出てまだ足を下ろしていない赤羽の懐へと踏み込み、前進の勢いを利用したワンツーを鳩尾へとたたき込む。先程は思わぬ固さによって反射的に威力を落としてしまったが今度は折り込み済みだ。いくらチェストガードが鉄製だからといって完全に急所を覆い隠してしまうほどならばそれは反則だ。どの程度の威力なら届くのかを遠山は今その手で確認したということになる。

その僅かな間隙に赤羽は前蹴りを放つが防がれてしまう。

(やはり想像していたように先方の方が有利だな)

甲斐は特に以外というわけでもなく冷静に試合内容を見ていた。

遠山の動きは甲斐や最首から見ればまだまだ拙さが残る。しかし赤羽からしてみれば脅威と言うほかない。最首仕込みの素早さがしかし遠山にはギリギリで通じない。遠山も最初こそ意外な速さにやや調子を崩されていたが30秒ほどで完全に見切っていて赤羽の動きは無意味なものになっていた。

赤羽も何度も打たれて興奮状態にあるのか1分もすれば通常とは言えない速度にまで加速している。それを以てすら遠山にはギリギリで対応されているから平穏ではいられないと言うことだろう。そして2分も過ぎれば赤羽は肩で呼吸を始め、遠山の攻撃により瞬く間に防御も耐久も削られていく。

(……ここまでか)

甲斐の諦観通り。2分36秒で赤羽は移動の際に遠山の下段を受けて転倒。素早く立ち上がろうとしたところで脳天にかかと落としを受けて一本を奪われた。

「う、う、うああああああああ!!!」

そこで赤羽は激昂。空手でも何でもないただの喧嘩腰で向かっていくが真っ向勝負で勝てるはずもなく残った20秒間をひたすらタコ殴りにされただけで終えた。

「そこまで。判定!」

伏見提督の言葉にあわせて岩村と麻衣が同時に旗を振り上げた。どちらも黒。つまり遠山の勝利だ。

「……はあ……はあ……そんな……」

まっすぐ立つことも出来ないほど疲弊した赤羽を最首が支える。

「お疲れさま、赤羽ちゃん」

「……わたし、なにも……」

ヘッドギアを外され、頭を撫でられる赤羽。そして、その次の瞬間。

「美咲!!」

襖を突き破って姿を見せたのは赤羽剛人だった。

「に、兄さん……!?」

「どけっ!」

剛人は勢いのままに赤羽へと迫り、傍にいた最首を一撃で蹴り飛ばす。

「あぐっ!!」

「最首!!ちっ!!」

甲斐もまた剛人に向かっていくが剛人はカウンターの回し蹴り。それをギリギリで回避できたのは甲斐であっても奇跡のようなものだろう。

「美咲は返してもらうぞ、大倉道場!」

「……させると思っているか?」

声。剛人が振り向いたときには咄嗟に構えたガードに蹴りがたたき込まれていた。

「……またか」

剛人の正面。そこには馬場雷龍寺がいた。

「あんた……」

「死神。いい囮だった。ここで奴と決着をつける」

「……まさかそう言う台本だったのか……!?」

気づけば赤羽は既に雅劉によって剛人から離されていた。さらに出口をふさぐように遠山理清が身構えている。

「……最初から赤羽剛人を誘い出し必ずここで仕留めるための演出だったのか……!!」

「その通りだ」

伏見提督が再び両者間に立つ。

「試合でもしろと?」

「そうだな。俺が勝ったら伏見の捕虜になってもらう」

雷龍寺が上着を脱いで胴着姿になる。

「じゃあ俺が勝ったら美咲は返してもらうぞ」

「好きにしろ」

剛人も上着を脱いで三船道場特有の忍者装束のような独特な胴着姿になる。

「大倉道場所属・馬場雷龍寺と三船道場所属・赤羽剛人の試合を開始する。先程と同じ規定で行う。……礼など不要。試合……はじめっ!!」

伏見提督の合図で両者が同時に前に出る。その速度は先程の赤羽と遠山のそれとは比べものにならない。そして互いにギリギリで手が届かず足だけが届く距離になってからものすごい勢いで蹴りを放ち続ける。まるでフェンシングの試合のように、まるで真剣での斬り合いのように一撃でももらえばその瞬間勝負が付いてしまうような殺意と威力の塊を全力で放ち合い、避け合い、相手の体力を削り合い、裏を読み合う。

何故なら一定以上の実力に達してしまったもの同士は単純な力勝負で殴り合っても決着は付かない。共倒れに終わるのが確定しているのだ。それでは意味がないために真の実力者は一撃だけにすべてを懸けて削り合う。

この領域には甲斐や馬場早龍寺ですらまだ達していない。事態をまだ飲み込み切れていないながらも甲斐は至近距離で二人の戦いを見学できることに身震いしていた。

やがてまだどちらも一度も直撃を許していない中、両者の間に血だまりが生まれた。短時間で何度も激突を果たしたことで互いの踝が砕けた証だった。そしてそれを合図に両者が今までにない踏み込みを果たす。その勢いでガードしたままの両腕同士を激突させた。その密着状態は文字通り互いに手も足も出ない状態。この状態からどう離脱して攻撃に戻るかが次なる決着への布石。言わば真剣同士の鍔迫り合いだ。

「……ぐうっ!!」

「ふんっ!!!」

互いに全力を懸けて腕の甲同士を押し合わせている。そのまま押し切ってしまえるか流して背後をとれるか、はたまたこのまま互いに相手の両腕をへし折るつもりで居るのか。腕だけに注目しがちだが互いに足も重要だ。相手に押し切られないように、逆に押し切るつもりで両者の両足は全体重以上の圧力を加えられている。先程踝が砕けたばかりなのに今度はアキレス腱が切れそうなほど負担が掛かっている。

やがて雷龍寺が剛人の手首を掴み、肘の位置を変えないまま剛人の両腕を外側に開かせる。

「ぬ、ぐっ……!」

尋常でない力により剛人の肘から手首までの間がねじ曲がっていく。このまま行けば第二の肘関節が作られそうだ。だが、

「ふっ、うおおおおおおおおおおおおああああああああ!!!!」

「!?」

骨折秒読みの状態から剛人が巻き返し、逆に雷龍寺の両腕同士を付け合わせ、まとめて押しつぶさんばかりの圧力を加える。そしてついに剛人がジャーマンスープレックスの要領で雷龍寺を背後の床へとたたきつけた。

「がああっ!!!」

砕けたのは背骨か床か両方か。手首から血を流しながら剛人が振り向けば実際に床が破壊されていて背中から血を流しながら雷龍寺がゆっくりと立ち上がってきていた。

「ふぅぅぅぅぅぅっ!!!!ふぅぅぅぅぅぅぅぅっ!!!!」

猛烈な息吹により血流を制御している。恐らく無理矢理にでもアドレナリンを高めなければ雷龍寺はもう立てないのだ。そしてその呼吸にあわせて剛人が蹴りを放つ。この期に及んでその速度は序盤のそれを遥かに上回っていた。恐らく全盛期の甲斐であっても反応しきれずに一撃で致命傷ものだろう。

「がぁぁぁぁぁぁっ!!!」

対して雷龍寺はその蹴りを拳で払う。ガードも回避も間に合わないなら最速を出せる拳で対応したということだろう。実際今の一撃で剛人の膝関節が砕ける音がした。しかし剛人はその足を軸足にして逆側の足で雷龍寺に下段を放った。まるで雷にでも打たれたかのような轟音。その一撃で雷龍寺の左足は折れてしまっただろう。が、

「らぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!!!」

ほぼ同時に雷龍寺の右拳が剛人の胸にたたき込まれた。

「………………ぐぶっ!!」

吐血を放ちながら剛人は僅かに宙を舞い、背中から床にたたきつけられた。

「……俺の……勝ちだ!!」

下段払いをして一本を征する雷龍寺。試合開始から52秒。

「そこまでっ!!」

伏見提督の一喝によりこの勝負は終わった。

その凄惨で超常級の対決にまともに声を発せられたのは他に誰もいない。甲斐も雅劉も理清も岩村でさえ息を飲むのがやっとだった。

「……試合前の通り、赤羽剛人の身柄は伏見が預かる。そしてラァールシャッハの捜索に乗り込もう」

伏見提督が手を叩くと、どこに潜んでいたのか5人の自衛隊員が姿を見せて剛人を拘束する。意識を取り戻した剛人により内一人が内臓を破壊されて昏倒したが残り4人によって完全に沈黙させられた。そしていつの間にか来ていた自衛隊の装甲車に乗せられそうになった時。

どこからか小さな影が猛烈な勢いでやってきて一瞬で4人の両足の関節を破壊。剛人を担いで走り去っていった。

「……今のは」

甲斐と理清が駆けつけたときには既に遠くに背中があった。

「……遠山さん、追えるか?」

「……無理だな。車の音がした。乗り込むまでには追いつけないだろう」

「……そうか」

背後。壁を殴る音がした。伏見提督のものだった。

それから救急車が呼ばれ、雷龍寺と最首が搬送された。5人の自衛官に関してはそれぞれ自衛隊の車両で運ばれていった。

「……伏見提督……」

「……ああ、先程君が気づいたように今回の件は赤羽剛人ひいては三船を炙り出すためのものだった。事前に大倉とも話は付いていて雷龍寺君を寄越してもらったのだ。もしもの時のために岩村君も来てくれたがね。しかし失敗した」

「……提督、教えてもらえませんか?三船は何をしようとしたんです?今回の件、自衛隊だって動いてますよね?ただ事じゃないんですよね?」

「……それは、」

「人体実験です」

答えたのは赤羽だった。

「三船道場……正式名称は三船研究所。所長である三船ラァールシャッハは薬物と科学とを使って人体実験を始めました。人間の限界を超えるための実験が数十年前に始まったんです」

「人間の限界を超えるための実験だって……?」

「そう。最初は非合法などではない。政府からの要請だった」

提督が続ける。

「だがいつしか三船はどこかで仕入れたのか危険な薬物や遺伝子工学を使って非合法な実験を開始したのだ」

「……私の遺伝子は普通の人間とは違う性質があるみたいで私は幼い頃に借金のために両親から三船に売り出されました。それから先に売り出されていた兄さんと知り合って……二人して人体実験を受け続けました」

「2年前に大倉と伏見で発見した時には彼女は既に余命僅かな状態だった。これを救うための技術は大倉には1つしかなかった」

「……まさか、」

「そう。君の足と同じ技術。人工義体。その全身版だ」

「……全身義体……!?」

「君も右足だけとは言えその苦労はわかるだろう。それが全身ともなれば彼女は自分の体を自由に扱えるようになるまで2年を費やした。そして何とか日常生活に戻れるようになった今、自分と同じ義体を持つ君を師に選んで空手を再開させた。当然三船が黙って居るとも思えない。そこで、」

「今回の試合ってことですか。赤羽剛人の初襲来の時点で考えていました。彼女に対する厳重な警備体勢。いつまで続くかもわからない中、厳重すぎる。だから近い内に期限はあると思っていました。それが今回……になるはずだったわけですね」

「その通りだ。……尤も失敗に終わってしまったわけだが」

「……これからどうなるのですか?」

「申し訳ないが赤羽美咲には三船との決着が付くまでの間、伏見で預からせてもらおうと想う」

「……寂しくなりますね」

「それは、お断りします」

赤羽が一歩前に出た。

「君は状況を理解しているのかね?」

「それでもやっと得た自由なんです。もうあんな施設暮らしには戻りたくない……」

「……しかし、」

「向こうも兄さんという最大級の戦力が使えなくなった以上しばらくは動かないと想います。今回のように伏見が大倉寄りで動いていると知ればなおのことだと想います。だからどうかこれまで通りの生活をさせて下さい……!!」

頭を下げる涙声の赤羽。やがて新たな声が続く。

「いいんじゃないかな、雷牙」

「和也……!」

やってきたのは大倉会長と加藤だった。

「これは民事でどうにかなる問題じゃない。政府から自衛隊に依頼があった案件だぞ!?」

「当然捨て置くつもりじゃないさ。ただそろそろ本腰を入れようと想う」

「……まさか、」

「そう。これも政府からの勅命だよ。大倉機関は第二フェイズに移行してほしいと」

「……三船に直接捜査が出来るようになったってことか」

「そう。今日は逃がしたけれども三船の寿命はそう長くない。なら彼女には引き続き甲斐に面倒を見てもらおうと想う。甲斐、迷惑じゃないか?」

「とんでもございません。ちょっと希望も持てました」

「希望?」

「押忍。全身義体の彼女がまだまだ未熟とは言え今日試合を行えたのです。なら自分も右足程度だけなら現役に戻れるんじゃないかと。一度あの日絶望した空手への復帰も彼女となら行ける気がするんです」

「……いい心がけだ。雷牙、他に何か問題はあるかな?」

「……特にないな。雅劉、甲斐君達を送れ」

「あいよ」

「……赤羽君」

「はい、何でしょうか?」

「申請が通った」

「……と言うことは……」

「そう。明後日から君は円谷中学の生徒だ」

「…………は?」

その言葉に甲斐が振り向く。

「どういうことですか?」

「言葉通りだ。彼女をお前と同じ学校に通わせる。もちろん寮も同じだ。稽古に関しても今まで通り行ってもらう」

「……いや、確かうちの寮って人数いっぱいだから穂南が俺と同居しているわけであって……」

「木目田三姉妹と言うのがいるそうだね」

「……」

「彼女達に交渉したんだ。義体と近くにアパートを用意する代わりに部屋を譲ってほしいと」

「……マジか」

「……木目田三姉妹?」

「……あ~、その、あれだ。この3人は三つ子なんだが物理的に離ればなれになれなくてだな……。まあ、ともかく部屋が空いたならそこに君が住めばいい。……けどそうなるとあいつも……」

「?」

難しい表情をする甲斐。その理由を赤羽は察することも出来なかった。


・1月28日。円谷学園学生寮は朝から大忙しだった。木目田三姉妹の引っ越しとそれに併せて赤羽美咲の引っ越しが入っている。

「……最首がいればまだ楽だったかも知れないがな」

木目田三姉妹の荷物を甲斐と斎藤が運ぶ。なお本人は既に大倉機関で手術を開始している。

斎藤相手には赤羽が転校してくると言うことは伝えたが流石に全身義体だとか三船道場が人体実験をしているとかは話していない。口外禁止と言うわけではないがとは言え藪から棒に話していい内容でもない。

「……けど寂しくなるな」

「え?」

「木目田三姉妹は一人……いや、一体?で一部屋使ってたから新しく二人入れる。赤羽美咲は女子だからもう一人女子が入れるってことだ。つまり、穂南蒼穹が転居できるって事だろう?」

「……だろうな」

これまで部屋が足りないから仕方なく甲斐と蒼穹は同じ部屋で生活をしてきた。部屋が足りたのなら男女で分かれて生活するべきだ。

「穂南は何をしているんだ?」

「いや、相変わらずだ。何も変わっていない。まあ、だからといって結果に代わりはないだろう」

駐車場まで荷物を運び、トラックに入れていく。荷物運びにかり出されているのはこの二人だけでなく健全な肉体の男子はほぼ全員かり出されている。そのおかげかかなりスムーズに荷物運びが完了した。なお、身の回りのものに関しては女子達で整理したらしい。当然蒼穹はサボって部屋で寝ていたが。

「……蒼穹さんだしな」

「ごめんね、お姉ちゃんが」

達真と紅衣が廊下を歩く。一応体調が悪くないかだけ確認に向かえと担任から言われて二人が向かう。本来なら妹の紅衣だけでいいかも知れないが一応蒼穹は男子である甲斐と生活している。その部分は達真が引き受けると言うことで一緒に行動している。のだが、

「何かお祭りでもやってるのかしら?」

と言う動機で何故か火咲も一緒だった。

「どうしてお前がいる。と言うかこの学校に何か用か?最首先輩が言っていたようにあまり余所者がうろうろするのはよくないことだ」

「へえ?あんたそんな委員長っぽいこと言うんだ。似合わないの」

「……」

「あ、あの、最上さん?達真君が言うようにあまり他の学校の生徒が学生寮にいるのまずいと想うよ?」

「その手じゃ荷物運びなんて出来ないだろうしな」

「た、達真君!」

「いいよ、紅衣。本当のことだもん」

何故か火咲と紅衣は仲が良さそうだった。と言うのもたまにだが紅衣の部屋に泊まりに来ているらしい。実際紅衣のルームメイトは足を怪我して入院中だから部屋自体は余っていた。もちろんそれでも本来は認められない行為だ。寮長に隠している紅衣は心を痛めている。

そんな3人が蒼穹の部屋にやってくる。

「お姉ちゃんいる?」

紅衣がノックしてから中に入る。

「……いるよ」

左側の部屋。そこに相変わらずだらしなく無気力に蒼穹が寝そべっていた。ちなみに右側の方は胴着やら着替えやらが脱ぎ捨ててあった。

「……二人には毒だ」

達真がため息を付いてから右側の部屋に入り、とりあえず胴着と寝間着を畳んでベッドの上に置く。その際、仕込みに気づいた。

「……こ、これは……!」

枕元。そこには20部しか出版されなかったという薄い本が敷かれてあった。

「JS悪夢のお叱り中絶日記……本来作者が一冊1000ページを越えることも普通だとされるシリーズで一冊だけ筆が進まなかったからと言う理由で20ページしか作られず、気が進まないからとコミケでしか出品されなかった伝説の一冊……。あの死神先輩がどうしてこんなものを……!?」

驚愕の表情のまま達真は何度も読み返した。

「……あんた、そう言うの好みなの?」

火咲が覗く。基本不敵な笑みか無表情な火咲にしては珍しくどん引きしていた。

「い、いや、これはあの死神が懇意にしている本であって俺は別に……」

「美人姉妹をセフレにしておいてこんな異常を極めたような薄い本に興奮するだなんて。あんたって物好きよね。……あと何かその本に殺意がわくんだけど」

火咲がどん引きした表情からむき出しの殺意の表情に変わる。

「……紅衣、あの子は?」

「最上火咲ちゃんって言うの。ちょっとその、手が不自由だから荷物運びは出来ないんだけどお姉ちゃんの様子を見に来たの」

「……そう。私はせっかくの日曜日を満喫するだけだから。働く気なんてないから」

「もう、女子は女子で木目田さん達の化粧品とか下着とか段ボールに詰めないと行けないんだよ?」

「……わざわざ女子で分ける必要ないでしょうに」

そう言いながらも蒼穹は起きあがる。

「ほらお姉ちゃん。ちゃんと着替えて。達真君の前ならともかく他にも男子居るんだから」

「……あいつのおかげでそんなのもうないも同然だけど」

そう言いながら蒼穹は普通に着替えてややラフな服になった。

「それ、夏物じゃないの?」

「確かに。ちょっと寒いかも」

「お姉ちゃんまさか衣替えしてないの?」

「制服はしてる」

「私服はどうするの?外に出かける時とか」

「出かけない」

「……もう、お姉ちゃん出不精なんだから」

「……あっち終わったみたいだけど?」

「……もう少し……せめてあと3回はリピートしたい。脳裏に焼き付けておきたい」

「……スマホで撮りまくってるじゃない」

「……生の感触をだな……」

「……何やってんだお前……」

新たな声。出入り口を見るとものすごい表情の甲斐と斎藤が立っていた。

「へえ、甲斐。あの本手に入れてたのか」

変な感心をする斎藤。反対側の様子を見に行こうとした紅衣を蒼穹が留めて無言で首を横に振る。

「……お前達何やってるんだ……!?」

慌てて甲斐が達真と火咲のところに歩み寄り、本をかすめ取る。

「いや、その、伝説を目にかけようと……」

「セフレ付きで先輩のエロ本盗み見とはいい度胸じゃないか矢尻後輩」

「おいそこのびっこ。人の妹をいかがわしい呼び方するんじゃない」

隣から抗議の声。

「違う。こっち!」

対して甲斐は猫のように片手で火咲を持ち上げて蒼穹に見せる。

「……達真君まさか……」

「い、いや、そいつとは何もないです!!」

慌てて達真が走り去っていった。

「……そろそろ下ろしてくれない?変態」

「ん?あ、ああ。軽いから忘れてた」

甲斐が火咲を下ろす。

「用が済んだならそろそろ行きましょうよセフレ姉妹。あいつ追いかけないと」

「そ、その呼び方何とかしてくれないかな?」

「……はぁ、」

そして火咲、紅衣、蒼穹が部屋を出ていった。

「……何しに来たんだっけ?」

「……俺も忘れた」

とりあえず本を元の位置に戻してから甲斐と斎藤も部屋を後にした。


駐車場。

「……ありがとうございます。短い間ですがお世話になりました。また何かあったら……」

一礼をして赤羽が車から降りる。黒服達が段ボールを持ち、赤羽と一緒に学生寮へと向かう。

「ん、」

駐車場と学生寮の間。そこで荷物を運び終わった甲斐、斎藤と赤羽が遭遇した。

「あ、どうも」

「きたか」

「甲斐、もしかしてこの子が?」

「ああ」

「赤羽美咲です。今日からよろしくお願いします」

「俺は斎藤新だ。もう空手はやってないけどまあ何かあったら聞いてくれ」

「はい」

それから甲斐と斎藤が荷物運びを代行して赤羽の部屋まで案内する。

「……二人部屋なんですね」

「ああ。ここは基本そうだ。……まあ、前任者は3人というか何というかだったけど」

「私のルームメイトはどなたなんですか?」

「多分穂南蒼穹だな」

「それってあなたと一緒に住んでるって言う……」

「部屋が足りないから男女で一緒だったからな。部屋が出来たなら女子同士で住むべきだ。……いいか?空手やってるからってあの女の暴力をなめてると大変なことになる。何かあったらすぐに言……べっ!?」

「誰がなんだって?」

突然甲斐の頭に小さな段ボールが命中。甲斐が倒れると同時に蒼穹が姿を見せた。

「ほ、ほらな……?」

「あの人が……」

赤羽が蒼穹に向かって一礼する。蒼穹は気まずそうに会釈。

「わざわざ墓穴掘るか?普通」

斎藤の手を借りて立ち上がる甲斐。

「今投げた段ボールは?荷物全部運んだんじゃないのか?」

「時計だって。向こうの家では常備されてるみたいだからその子にあげるそうだよ」

「あ、ありがとうございます……」

再びぺこり。

「……妖怪投げ時計女め」

甲斐がぼそっと呟くと蒼穹の大変鋭い視線が刺さった。


午後。甲斐、斎藤、赤羽は最首の見舞いに向かった。ちなみに荷物に関しては黒服や紅衣、蒼穹が継いでいる。

「いいんでしょうか?」

「そんな長くは掛からないだろうし」

「だからって俺をパシリに使うなっての」

牧島の車に3人で押し掛けて病院まで送ってもらう。牧島としても最首のお見舞いはしたいと想ってたから一石二鳥だ。

「……失礼します」

先に赤羽が病室に入る。

「いらっしゃい、赤羽ちゃん」

「男性方を入れてもいいですか?」

「いいよ」

赤羽の合図で甲斐達が中に入る。

「調子はどうだ?」

「うん。鎮痛剤が効いてるから。手術も済んだし明日には退院できるって」

ベッドの上の最首は声色通り元気そうだった。

赤羽剛人の一撃で蹴り飛ばされて左腕を折る重傷だったが足と違って腕の骨折の場合そんなに長く入院はしない。手術して一日様子を見てからもう退院だ。もちろん完治するまでの間は安静にする必要がある。

「赤羽ちゃん、うちに転校するんだって?」

「はい。先ほど荷物も運んでもらったので」

「明日からの稽古はどうするんだ?」

「引き続きあの道場を使っていいそうです。またスタッフさんに送ってもらえるそうですし」

「そりゃ楽でいいな」

「ごめん。私はしばらく参加できないかも」

「かまいません。お大事になさって下さい」

先に聞きたい情報だけ会話してからゆっくりする。牧島は見舞いの品としてパイナップルを手渡した。その水分に酔いしれたように最首は速攻で完食した。

「やっぱ手術した後ってパイナップル最高だね」

「だろ?」

最首と甲斐が意志疎通する。

「しかし空手やってると大変だな。甲斐も最首もまだ若いのに骨折るなんて。俺なんて軽い突き指くらいしかしたことないのに」

「俺の場合骨折じゃなかったですけどね」

とは言え牧島の言うとおりだ。普通の生活を送っていればたとえスポーツをしていても手術を要する大けがを負うことは稀。それに多くのスポーツで怪我は事故だ。不幸な偶然が重なって起きてしまうことがあるもの。しかし空手のような格闘技に関してはむしろ積極的に怪我をさせ合うと言ってもいい。その道に進めば進むほどに大けがを負うリスクは高くなっていく。昨日の馬場雷龍寺と赤羽剛人のように無作為に戦えば高い確率で互いに重傷を負うとわかっていたために最低限の負傷で抑えるように振る舞っていても結局二人揃って重傷で手術&入院ものになった。もちろん試合というのは殺し合いではない。この前の全国大会だって病院送りになった選手は1割といない。お互い無理に傷つけ合うのを良しとしているわけでもない。

「でも斎藤君、昔よくあの赤羽剛人と試合できたよね。私なんて一撃でこの通りなのに」

「いや、完敗だったぞ。入院こそしなかったけど一週間くらいは通院することになったし」

「……兄が申し訳ございません」

「あ、いや、そんなつもりじゃ……と言うかそうか。赤羽剛人の妹だっけ」

「……」

実際赤羽剛人は間違いなく雷龍寺に匹敵する全国区の選手だろう。しかし赤羽美咲と同じように人体実験を繰り返されていたとすればあの実力のすべてが日々の稽古によるものというわけでもないだろう。

だのに無理矢理叩きのめして勝利した馬場雷龍寺が圧倒的化け物だったって事でもあるのだが。

「気になったんだが」

「はい?」

「君達兄妹の実力差激しすぎないか?」

ふとした疑問を甲斐はぶつけた。

「……まあ、兄は単純に物理的な部分を伸ばすようにされていたので。2歳の頃からもう空手をやり始めていたそうですし。私は昨日も言ったように遺伝子が特殊だからとそう言う系の調査をされてばかりでしたから……」

部外者もいる中で甲斐は失策だと反省を禁じ得なかったが赤羽はニュアンスだけ伝えるようなしゃべり方にしてくれた。実際この中で赤羽の秘密を知っているのは甲斐だけだ。

それから1時間程度で見舞いを終えて道中のファミレスで牧島の奢りで甲斐と斎藤が暴食しまくり、腹を膨らませた状態で寮に戻ってきた。

駐車場には既に木目田三姉妹の荷物を載せたトラックは出ていた。赤羽を乗せてきたであろうスタッフの車もない。

「……引っ越し終わったみたいだな」

甲斐、斎藤、赤羽の3人で駐車場から寮に向かう。

「しかし、」

斎藤が甲斐を見る。

「どうかしたか?」

「お前も一応右足おかしいんだよな?普通に歩いてるように見えるけど」

「まあ、人工義足だからな。漫画とかでよくある生身と対して変わらない義足だから。ただ、日常生活を送るだけならともかく中々元通りの動きが出来るとまではいかないな」

「そうか。じゃあお前も赤羽のコーチを一生やっていく感じになるのか」

斎藤の言葉に赤羽が注意を向けた。

「……いや、それはないだろうな。もちろんその子が頼ってくれている限りは頼れる先輩でありたいと想ってるししばらくは指導も続けようと想うが俺も現役を諦めた訳じゃない。彼女との稽古を通じてまた少しずつやり直していこうと想ってる。それが俺の贖罪でもあるわけだしな」

「……」

「贖罪?」

「まあその内な」

学生寮エントランス。ここから階段で男子のフロアと女子のフロアで分かれる。午前中までは引っ越しの都合から当然のように女子のフロアを行き来していたが本来あまり好ましくない行為だ。

「さて、どうするか。一応部屋を見ておくとするかな」

「……どういう意味ですか」

「いや、まだ力仕事が残ってないかって意味で」

と言う名目で女子のフロアに向かう3人。ちなみに寮内の案内は後で紅衣がしてくれるそうだ。

「寮には温泉もあるが一応各部屋にはシャワーもあるぞ。穂南みたいに基本的にシャワーで済ませる奴も多いからどっちか好きな方を選ぶといい」

甲斐はぼかしたが言わば全身義体についてだ。甲斐の右足は膝のあたりによく見たらミシンの縫い目みたいなのがある。また右足だけ脛に毛が生えていないし、微妙に肌の色も違う。これが全身である赤羽の場合、ちょっと都合が変わってくるんじゃないだろうか。同性でも他人に見られたくないものもあるだろうし。

(……いや、何回か見てしまっているけど、下着とか胸とかに注目してしまっているから確かではないけどよくわかるようなところに人工物は見えなかったな。余計なお世話だったかもしれない)

そ~っと赤羽の方を見るが別に他意を疑ってそうな素振りはなかった。

やがて部屋に到着すると、誰もいなかったが既に引っ越し作業は終わっているようで右半分が赤羽仕様の部屋になっていた。

「別に左右で分ける必要はないんだけどな」

「そうなんですか?」

「同性なら確かにそこまで気にする必要はないかもな。俺も仕切なんてないしたまに間違えて相手のベッドで寝たりするしな」

「ほう、俺も今度やってみるか」

「穂南に殺されるぞさすがに」

「まあ、もう機会もないだろうけど」

すると甲斐は何かに気付いた。枕元に写真立てがあった。

「……ここはもう大丈夫みたいですから……」

しかし赤羽はすぐにその写真立てを伏せる。遠目で見えづらかったが赤羽が写っていたような気がする。流石に自分の写真を枕元に立てることはないだろうから他に誰か一緒に写った写真だろう。とは言え確か両親は幼い頃に彼女を三船研究所に売り飛ばしていると聞いた。兄である剛人に関しては一緒だったかもしれないが昨日の感じからしてあまり仲がいいようにも見えない。だとすれば赤羽が懇意にするような人物など居るのだろうか。

「……紅衣ちゃんいないようだし俺達で寮内を案内するか」

「……お、お願いします」

赤羽の部屋を後にして寮内の案内に移った。

「トイレに関しては廊下にそこそこの数が用意されてるから困ることはないと思う。一応各個人の部屋にも用意されてるがそちらは自分達で掃除をするしかないから」

「穂南蒼穹さんはそうしているんですね」

「まあな。女子トイレから少し離れて居るみたいだし」

蒼穹の場合は単純に面倒くさがり屋な部分が多いとも思うが。

「食堂。昼は出ないけど朝と夜は出る。あまり早い時間や遅い時間はやってないかもしれない。ちなみに無料だがあまり食べ過ぎると白い目で見られるぞ」

「女子に言う台詞ですか。……コンビニというか購買みたいなのはないんですか?」

「ないな。と言ってもすぐ近くにコンビニもスーパーもあるからほしいものは基本そこで買ってる。あと通販とか頼む時は寮長に言っておかないといけないから注意だ。その寮長もここに住んでいるわけではないみたいで休みの日は居ないことがある。今日はいるから後で挨拶しに行くか」

「わかりました」

その後、風呂や洗濯室などを案内し、寮長のところに行くとちょうど赤羽用の制服が送られてきたらしく、赤羽が着替えてから学校の案内をすることになった。寮からは歩いて5分ほど。よほどじゃない限り寝坊することはない。

「甲斐はこの前珍しく遅刻したけどな」

「……まあ前日いろいろあったからな」

校舎は中学と高校とで分かれているが校庭を挟んでるだけだ。朝礼の時などには全員集合する。

「学校の中に関してはクラスの女子にでも聞いてくれ。紅衣ちゃんでもいいと思うぞ」

「その紅衣さんと言う方にはまだお会いできていないのですが」

「そうだったっけ。じゃあ紅衣ちゃん探しに寮に戻るか」

寮に向けて踵を返した時だ。

「……見つけた」

一人の少女が正面に立っていた。背丈などから小学生か中学生になったばかり位だ。そしてその顔はどこか赤羽に似ていた。

「……羽の」

赤羽が小さくつぶやく。

「この子は?」

「……三船の手先です」

「三船って……」

甲斐と斎藤が思考を巡らせた瞬間、その少女はものすごいスピードで斎藤の懐には入った。

「!?」

「邪魔者は排除する」

同時に放たれ肘が斎藤の鳩尾を穿ち、その体を宙に舞わせる。宙を舞う斎藤に向かって少女が飛び膝蹴りを繰り出すと、

「そこまで」

甲斐によってその足が捕まれ、一瞬で膝の関節を外される。

「体がなまってるんじゃないのか?」

「か、かもな……」

膝立ちの姿勢で呻く斎藤。少女が腕の中で暴れているが甲斐は決して離さない。

「この子、やけに君に顔が似てないか?妹?」

「…………いいえ、私のクローンです」

「は、クローン?」

「はい。私の遺伝子は特殊だと言いましたがその研究のために三船は私のクローンである羽シリーズを作っているんです。尤も私本体の特殊性は引き継がれなかったのか特殊な生まれ以外は普通の少女だと思います」

「ふぅん。……で、この子どうするの?」

「それは……」

「いらなくなったゴミは捨てればいいじゃない」

「!?」

声。振り向けばそこに火咲がいた。

「最上火咲ちゃん……!」

「……」

「……へえ、」

火咲と赤羽が視線を交わす。互いに何かを言いたそうで、しかし何も言わない。

「……君はこの子のことを知っているのか?」

甲斐がめったくそ胸をまさぐりながら腕の中の少女を見せる。

「生殖機能は多分ないからいくらでも出し入れできるけど、好きにしたら?」

「それはそれで興味あるが君は三船に関係しているのか?」

「…………さあ、どうかしら。でも赤羽美咲に興味はないから敵ではないわよ」

言いながら火咲は甲斐に、少女に近づく。力なく指がぶら下がったままの右手の手首で少女の頬を撫でる。次の瞬間、少女の首があり得ない方向にねじれ曲がった。

「!」

先ほどまで甲斐の腕の中で暴れていたのが嘘のように力なく動かなくなる少女。

「まさか、殺したのか……!?」

「この子達は使い捨ての人形。どのみち数日しか生きられない」

一瞬で甲斐から少女を奪い取った火咲は脇に抱えて背を向け歩き始める。

「どうするつもりだ……」

「飼い猫が散歩宙に死んだって分かるように飼い主のところに捨ててくるのよ。何度でも言うけど私はあんた達の敵じゃないから」

それだけ言って火咲は去っていってしまった。

「……まさかこれだけあっさりと殺人を見せられるとは」

「……君は彼女のことを知っているのか?」

「…………一応」

「……そうか」

敵ではないと言ったが間違いなく三船の関係者だろう。そんな火咲があの寮にたむろしているというのは余りよくない状況かもしれない。

警戒を重ねながら寮に戻り、夕食までの間赤羽や斎藤と別れて甲斐がノックなしに部屋に戻る。と、

「……あ」

下着姿の蒼穹が寝そべっていた。

「穂南お前……」

「…………何でノックしなかったの?」

「あ、いやその、」

「………………ふん、」

何事もなかったかのように蒼穹は服を着た。甲斐は申し訳ないような表情をしながらしかし蒼穹の方に歩み寄る。

「穂南、お前この部屋から出ていくんじゃないのか?」

「何で出て行かなきゃいけないの?」

「だって部屋が空いたわけだし……」

「空いてなんていない」

「……へ?」

「赤羽さんの部屋なら既に同居相手は決まってる。だから私は今まで通りあんたと一緒のこの部屋。何か文句ある?」

「…………い、いや、何もない」

「そう。じゃあ自分の方に戻れ」

「あ、ああ」

「……何にやにやしてるの」

「べ、別に何でもない……」

言われたように蒼穹に背を向けて自分のベッドへと戻る。こんな憎まれ口を叩かれてもずっと一緒だった同居人がそのままで居てくれることがどうやら嬉しいようだった。

「……ん?じゃああの子と一緒の部屋は誰なんだ?」


「……はあ」

何をやってるんだかって思う。研究所から抜け出してきたのに作られた羽はまだ私を逃がしてはくれずに背中から追いかけてきているんだって事にうんざり。やっと私以外のモルモットが見つかって所長の興味から外れたというのに。

まあそれでも他に私の居場所なんてどこにもない。だから私に出来る唯一の力で大人の男を壊して回ってた。皆面白くもない怯えた表情だった。みんなみんな、最初は私の胸を見てだらしない表情だったのに。

どこに行ってもみんなみんな、同じ顔をしてつまらない。

やっと私に対して興味も殺意も劣情も見せないあの男を見つけた。情報だけは知ってた。けどまさかこんな遺伝子レベルであの男に引かれるものがあるだなんて最上火咲というのがそれ自体がもう1つの形だというのは運命レベルで決まっているという事なんだろう。あまり気持ちのいいものじゃない。

本当にあの男を壊せないのか、本当にこの胸を焦がす感情は正しいものなのか。それを見定めるまでは近くにいようと思った。

この私が男と一緒にいて、しかも既にあの姉妹に種付けてるような不遜極まる奴と一緒にいてどこか楽しいようなそんなあまり悪くない感情が紅衣に芽生えるだなんて本当に気持ちが悪い。

「……たとえ外見や姿、名前が変わっても人の心は変わらない」

ファンタズマの声を思い出す。短い放浪生活のどこかで聞いたあの、私によく似た少女の声を。

「……けど、どうしてあんたがまた私の前に姿を見せるのよ……赤羽美咲!!」

新しく用意された部屋。残りたった2ヶ月の中学校生活を送るためだけに用意されたその部屋で私は吠える。

「……」

用意された同居人の名は赤羽美咲。私が一番よく知り、そして一番嫌いな名前だった。


・2月になり、一週間が経過した。赤羽美咲と最上火咲の転入は季節はずれの転校生として非常に話題になった。最上火咲に関しては袖を通す期間は僅か2ヶ月に過ぎないと言うのにその体格にあったサイズの特注品制服まで用意された。ただでさえ意外性が強いというのに火咲は滅多に教室に顔を出さず基本的に寮に引きこもっている。とは言え寮の外にはよく出るらしく寮の中でも学校の中でも滅多に遭遇しないレアキャラのような扱いを受けている。

対して赤羽美咲の方は凛とした雰囲気と生真面目な性格から周囲の評価は高い。常に礼儀正しくどう見ても美少女であるため転入して三日で告白する男子生徒まで現れたらしいが断ったらしい。

どちらも三船の関係者であることは明確だがしかし当然ながらそれを表に出すことはなく、同じ部屋で暮らしていて少し雰囲気が似ているだけの赤の他人として周知を受けている。

「……って感じだって」

退院して復学した最首が語る放課後。2月にしては珍しい土砂降りだ。片手しか使えない最首の鞄を持ってやる甲斐は女子側からの二人の動向を聞くことにした。

「最上火咲も学校では大人しくしているみたいだな」

「でもあの子、警備員を殺害した張本人の可能性が高いんでしょ?それに三船のクローン?も目の前で殺害したって」

「本人が言うには使い捨てのクローンで寿命もそんなにないから殺人に含まれないみたいらしいけど、いきなりそんなこと言われて冷静に納得できるわけがない」

当然学校では下手な殺人などは犯していないらしいが人を殺すことに一切躊躇を持っていないような感性をしている火咲をまだまだ警戒するに越したことはないだろう。

「同じ部屋で暮らしている赤羽ちゃんが心配だよ」

「……あの二人も三船で面識があるみたいだけどな。あまり仲はよくないみたいで互いにフルネームよびが当たり前みたいだし。同性のルームメイトなんだから俺と穂南みたいなギスギスする必要もないと思うんだがな」

「……廉君と蒼穹先輩がギスギス?学校中で熟年夫婦とか言われてるのに?」

「やめてくれ。まだ双子って言われた方がいい」

とか言うとまたどこかから時計が飛来しそうだが何も降ってくることはなかった。

一度寮に戻って手荷物を交換してから今日の稽古を目指す二人。中学校とで分かれている赤羽からもスマホで連絡があり、3人集まったらスタッフを呼んで道場まで送ってもらうことにした。

ちなみに本人の許可を得て最首と斎藤には赤羽の秘密は話してある。

「そう言えば大倉機関と伏見の自衛隊とが三船研究所を調査しているんだよね?」

「あの伏見総本山で大倉会長が言ってたな。けどこの前のクローン少女と言い、三船のちょっかいは収まるどころかむしろ激化しているような気さえするけどな」

さすがに直接的なちょっかいはあの一回以降ない。当然スタッフを通じて大倉会長の耳には伝わっているだろう。その際最上火咲に関しても三船の関係者だと伝えてある。赤羽美咲のルームメイトであることも。

「……じゃあまた後で」

廊下で分かれて甲斐が自分の部屋に向かう。相変わらず自分の部屋なのにと思いながらノックをする。

「……入れば?」

返事があった。それを聞いてから中に入る。左側の部屋では相変わらずラフな格好の蒼穹が寝そべっている。

「……お前どんだけ早く学校から帰ってきてるんだ?」

「……別に」

「……ふぅん」

しかし珍しく甲斐はそこで下がらなかった。右側の部屋でまた枕元を弄られた形跡があったからだ。

「……」

甲斐は無言のまま蒼穹の方へと歩み寄る。

「……何よ」

「……そこか!」

ベッドの下。手に当たったものを無理矢理引きずり出す。

「げっ、」

出てきたのは達真だった。

「お前も中々綱渡りするよな。穂南姉妹両方とそう言う関係してるのは別にいいけど、せめて姉の方とは付き合ってると公言してくれよな。この先こいつに何かあった時に真っ先に疑われるのはこっちなんだから」

「…………すみません」

「つか先輩の部屋で二重に性欲果たそうとコソコソするな。無駄に度胸あるなお前。……まあいいや、これから稽古だからゆっくり楽しめばいい。この先もこの部屋を使っていい。けど、1つ条件がある」

「……それは?」

「可能な限り最上火咲から目を離すな。何なら本当にそう言う関係になってでもいいからあの子を好きにさせるな。いいな?」

「……お、押忍」

「それと、」

甲斐が蒼穹の方を向く。蒼穹は珍しく焦燥の表情をしていた。

「お前もお前だ。中学生と付き合うなとは言わないが妹を巻き込んでいいのか?何人子供が出来ても結婚できるのは一人だけだぞ」

「……説得力あるね」

「ちゃかすんじゃない。あまりこういう遊びは感心しない。やめろとは言わないがもう少し考えてからやれ」

達真と蒼穹の額にでこピンしてから甲斐は荷物の整理に移り、5分とせずに部屋を後にした。

「……すみません」

少ししてから達真が謝る。声色からして本気で落胆してそうだった。蒼穹の方もどうしたらいいのか分からないと言った、彼女にしては珍しい焦燥。

「……ごめん、私も迂闊だった」

「……俺、確かに死神先輩に悪い事してました。もし蒼穹先輩に何かあったら真っ先に疑われるのはあの人。それはどうしようもない事実なのに」

「……年上だし誘った私のせいだよ。……死神先輩?」

「あ、はい。あの人、空手で拳の死神って異名がありますから……」

「……変な奴。でも、さすがに私も今回は強く言えないと言うか何というか……」

「……俺、先輩の言いつけ通り最上の様子見てきます」

「……そう」

それだけ言って達真は部屋を出ていった。蒼穹は下着姿のまましばらく呆然としていた。


道場。さすがにさっきのことを二人には言えずに難しい顔とイライラを含ませながら甲斐は稽古に当たった。

「回り道というか途中に邪魔が入ったがこれからの目的は3月に行われる交流大会だ。それまではこれまで通り基本稽古をベースにしつつ最首に女子として最適なスタイルを実戦で学んでほしい」

「……押忍」

「廉君、何かあった?顔が怖いけど」

「……何でもない。それよりも最首のその手じゃ実戦と言っても口で教わるくらいしか出来そうにないか」

「誰か後輩とか見繕ってこようか?中学生くらいの女の子なら何人か知り合いいるよ?」

「それもいいが、出来るだけ信用における奴がいいんだよな」

「どう言うことですか?」

「三船の件。確かにあの時のクローンの子以来直接的なちょっかいは出されてないけど大倉会長から事態解決の言葉もないし、多分まだ三船との戦いは続くと思う。帰り道と言わずこうしてここで稽古している中でも三船の厄介が来てもおかしくない。だからその子にちょうどいい相手じゃなくてもう少し実力がある奴がいいんだよ。いざという時に盾に……こほん。ボディガードとして対応できる程度の奴が」

「……今本音を語らなかった?」

最首のつっこみ。しかしそれと自分の言葉で甲斐はある人物を思いだした。


翌日。

最首と赤羽は先に徒歩で道場へと向かっていた。

「まあジョギングにはちょうどいい距離だからね」

「あの人、足悪いですからね。でも、今日誰を連れてくる予定なんでしょうか?」

「……うん、まあ、私も察しが付いちゃったかな」

道場に到着し、和室で<着替え中>と張り紙を張ってから胴着へと着替える。

「……」

最首はふと気になって台所をみる。毎日僅かに食器などの位置が変わってる。つまり誰かが使っているという事だ。しかし赤羽は今寮で暮らしている。そして話に依れば赤羽の両親は子供達を売って蒸発済み。兄は三船道場でつい最近まで赤羽を捜していたから同居していた可能性は低い。

なら、今もなおここで生活しているのは誰なのだろうか。

(スタッフの誰かとかかな?)

着替え終わり、先に稽古を始めていようかと思ったときだ。勢いよく玄関が開けられる音がした。直後にどたどたと物々しい音も響く。襲撃かと思って赤羽が身構えるが、

「……またやってるんだ」

「え?」

二人が廊下に出る。そこにはボコボコになった少年が倒れていた。

「こ、この人は……?」

「不肖の弟子だ」

玄関で靴を脱いで甲斐が入ってくる。

「で、弟子?」

「燐里桜。中学3年生。俺が一時弟子としてしごいていた奴だ」

「……私の前にもいたんですね」

「文字通りしごいていたから全然赤羽ちゃんとは扱い違うけどね」

3人で会話していると里桜が意識を取り戻す。

「また悪夢が始まる……石で出来たサンドバッグを抱えて遠泳……漫画肉持った状態でワニ園へのダイブ……ヤクザが経営している店で万引きごっこ……あああああああ!!!」

絶叫しながら頭を抱える。

「……あの、」

「里桜君。気を違えてないで戻ってきて」

「……あれ?最首先輩?と、誰?」

里桜が初めて二人に気付く。

「……廉君、説明してなかったの?」

「スマホ着信拒否にしてたから直接学校まで乗り込んでしばき倒してから連れてきた。逃げだそうとする姿が余りにもかわいそうだったから手足の関節外しておいた」

「……私もいつかこんな事されるんでしょうか?」

「大丈夫だと思うよ?女の子だし。…………その分ラッキースケベされるかもしれないけど」

甲斐以外の3人が白い目で宙を眺める。

「……稽古を始めよう。里桜、もう関節戻ってるだろ。さっさと着替えるぞ。ほら、早くしろ」

「お、押忍……」

男子二人が和室に消えて数分。その間に聞こえた打撃音は数知れず。

「……燐里桜です。向丘中学3年生です」

「赤羽美咲です。円谷中学2年生です……」

畳部屋。赤羽とさっきよりボコボコになった里桜が握手をする。

「で、先輩。俺をここに連れてきて何をさせるつもりですか?まさか本当の性犯罪を……」

「ぱーんち」

甲斐のライフルじみた拳が里桜の顔面にめり込んだ。

「この子のボディガード兼スパーリング相手をやらせようと思ってな」

「そんなの先輩だけで十分じゃ……」

「きーっく」

甲斐の左回し蹴りが里桜の顔面にたたき込まれて独楽のように回転させる。

「俺は足がこれだし、最首も腕を怪我してるからな。もしもの時にその子の盾になれるちょうどいい奴が必要だったんだ」

「……じ、十分今のままでも盾どころか無双出来ると思うんですけど……」

さらにボロボロになった里桜が立ち上がる。

「けどその子、オレンジ帯っすよね?まだ交流大会クラスじゃないんですか?俺の出る幕あるんですか?」

「何か文句でも?」

「……な、ないっすけど……」

「誠に不本意ながら兄弟子としてその子の面倒を見てやれ。一応お前も大成してるんだからな」

「……そりゃあれだけスパルタでしごかれたら強くもなりますよ……」

渋々ながらも里桜主導の元、赤羽の稽古が始まった。最初は基本稽古からだったが同じ基本稽古でも誰が指導するかでやや空気が違うように感じる。いつ空手を始めて誰の指導を受けて来たかによって微妙に内容も異なるようで、甲斐、最首ともまた違うメニューになった。一見あまりきつそうに見えないメニューも実際にやってみると意外ときつかったりする。

「変わったメニューだな。誰が考案だ?」

「雷龍寺先輩っす」

「……ほう、あの人はどうした?まだ入院中か?」

「いえ、昨日から復帰しました」

「……相変わらず化け物だ」

「ただ、ちょっと問題もありまして」

「問題?」

「あそこの兄妹ってどれだけ面識あります?」

「長男の雷龍寺はこの前会った。今大学生くらいか?次男の早龍寺は同い年だ。全国で戦った。で、三男は確か龍雲寺だったっけ?少し歳が離れているから昔顔だけ見たような気がするな」

「龍雲寺は俺とタメっす。で、4番目」

「4番目?そんなのいたのか?」

「押忍。それが、」

「あ、いたいた」

そこで新しい声。見れば、庭に一人の少女がいた。まだ小学校高学年くらいだろう。しかし、大倉道場の胴着を来ている。

「探してたよ?里桜先輩。先輩見つけないとらい君うるさいんだからさ」

「……もしかしてあの子が?」

「そうっす。馬場の4番目。長女で小学6年の馬場久遠寺。最近になって空手を始めたのはいいっすけど馬場家だけあってめちゃくちゃ強いっす」

「……まさかお前負けたりしてないだろうな?」

「さすがに。ただ、まだ白帯なのにその強さはとんでもないレベルっすよ」

「あ、はるちゃん先輩もいる」

「久遠ちゃん、どうしてここにきたの?」

どうやら最首とは既に顔見知りのようだった。

「……まだ高2だけど下の世代でコミュニティ形成されると老いを感じるな」

甲斐が白い目をしている間に久遠は畳部屋の縁側に腰掛ける。

「らい君が里桜先輩捜してるの。今日の稽古はどうしたって」

「それはこの死神先輩に拉致されたって事にしてほしい。事実だし」

「ちょーっぷ」

甲斐の手刀を受けて里桜が吹っ飛んでいった。

「……ふーん、あなたが死神さんなんだ」

「……その名前はあまり好きじゃない。甲斐廉だ」

「久遠ちゃんは、馬場久遠寺っていうの。本名あまりかわいくないから久遠ちゃんって呼んでね」

「久遠か。ちょうどいいかもしれない。里桜よりスパーリングの相手にはうってつけだ」

「……もしかして、」

赤羽が一歩前に出た。

「そうだ。君とこの子でスパーリングしてみてほしい」

「……」

「え~。久遠ちゃん稽古さぼれると思って来たんだけどなぁ」

「一回だけでいい。君も今度の交流大会出るんだろ?」

「面倒だから出たくないけどらい君は出ろってうるさいから多分出るんじゃないかな?」

「ならお互いにいい練習が出来ると思うぞ」

「……もう、面倒くさいな」

「何かお菓子かってやるから」

「そんな子供じゃないんだけど……まあいいや。やろっか噂の美咲ちゃん」

「……噂の?」

「らい君から聞いたの。大倉道場と三船道場と伏見道場とで取り合ってる女の子がいるってね。赤羽美咲ちゃん。その子でしょ?死神さんが面倒見てるって聞いたけど」

「……まあ、」

聞きながら若干甲斐は違和感を覚えた。

「君、」

「久遠ちゃん」

「……久遠は雷龍寺と仲がいいみたいだが他二人はどうなんだ?全然話を聞かないが」

「えぇ~?らい君と仲なんて全然よくないよ?いつも稽古稽古って言ってくるし。そもそも久遠ちゃんの名付け親もらい君だって言うし。いくら兄弟全員名前に寺っ付いてるからって女の子にまで付けるかな普通」

「……」

「……で、そー君とりゅー君について聞きたいんだっけ?別にどっちもそんなでもないけど?ただどっちも家にいないだけだし」

「……家にいない?」

甲斐のその言葉、反応を見て里桜と最首が顔を青くした。

「先輩まさか……」

「なんだよ、」

「あれれ?死神さん自分が倒した相手のこと知らないんだ。そー君はね、死神さんとの試合で顎を砕かれて背骨にひびが入って全身不随。ずっと入院してるんだよ?」

「…………なんだって……!?」

「久遠ちゃんは興味ないから見てなかったけどすごい試合だったんでしょ?何せ死神さんも足偽物にしたって聞いたし。そー君だって無傷で済む訳ないじゃん」

「…………二人は知ってたのか?」

甲斐が最首と里桜をみる。

「……知ってた。でもてっきりもうとっくに知ってるものだと思ってた」

「俺もっす」

「…………はぁ、」

甲斐は深いため息を付く。そりゃ雷龍寺が妙に自分に対して辛辣なわけだ。

「ちなみにりゅー君は知らない。何か空手が嫌になったとかで家出て行っちゃった」

「……学校には普通に来てるんで誰かの家に泊めてもらってる可能性が高いっす」

里桜が補足。

「……分かった。早龍寺については後で考えよう。雷龍寺にはこちらから伝えておく。と言うか里桜がスマホで電話しろ。あとブロック解除しろ」

「お、押忍」

「じゃあ、スパーリングを始めよう。1分20秒くらいの短い奴2本で」

「2本もやるんだ。そんなにいらないと思うけどなぁ」

笑いながら久遠が畳部屋の中央に立つ。対して赤羽も久遠の正面に立った。

「はい、はじめっ!」

甲斐がスマホのアラームをセットした直後に赤羽が前に出た。放ったのは甲斐も見たことないほどの超スピードで放たれた前蹴りだった。あれを防げる同格はいないだろう。しかし、久遠は事も無げに防いだ。

「……ん、まさかな」

甲斐はその考えを捨てた。その間にも赤羽は休む間もなく連続で前蹴りを繰り出し続ける。しかしそれらはすべて久遠には届かない。放つごとに赤羽の足が傷ついていく。

「……おい里桜。まさかとは思うがあれは」

「……そのまさかっすよ」

「……いや、あり得ないだろ。白帯だぞ?何で白帯の小学生が制空圏使えるんだよ。しかもあれだけ高レベルの」

「きっとそれが馬場の血って奴なんすよ。久遠の制空圏はオレンジ帯どころか2級前後の茶帯ですら突破が困難な制空圏っすよ」

「……バカな」

制空圏。それは武術における概念及び技術の1つであり、達人の一歩とも言えるものだ。通常、防御というものは相手の攻撃を見てから最適だと判断した方法で行うものだ。判断というラグが発生するため不意打ちや引っかけには弱い。だが、制空圏は違う。攻撃も防御も幾百も幾億もこなしてきた百戦錬磨の達人が手や足の届く範囲のあらゆる物体の場所や動きを目で見ずに理解し、反射的な動きで攻撃や防御を行う極意。相手の足をみずとも重心の傾きだけでどこから蹴りが来るのかが本能レベルで理解でき、またそれに対する最適な防御やカウンターなども思考を必要とせずに反射レベルで行える。

長年住んだ自分の部屋ならたとえ寝起きだろうとどこに何があるのかが分かるようなもの。これを戦いに取り入れたのが制空圏だ。

甲斐と早龍寺のように互いの制空圏を無理矢理つぶし合い強制的にただの殴り合いにするようなタイプもいれば雷龍寺と剛人のように敢えて制空圏に穴を用意しておき、相手を誘い込んでそれに併せて制空圏を構成するようなタイプもある。どのみちこれが出来るようになるには10年以上の経験が必要となる。未成年で出来るものはごく僅かと言っていい。当然そんなものは小学生が取得できるはずがない。多くはこの概念を理解することすら出来ないかもしれない。

「まあ、久遠もさすがに完璧に制空圏を使える訳じゃないっす。その防御だって攻めに特化していれば2級未満でも突破できるでしょう。少なくとも初めて会った頃の小5くらいの先輩なら力ずくで突破できると思います。防御に特化してる分攻撃に関しては年相応階級相応です。それでもあの子が白帯でありながらめちゃくちゃ強いのはあれが理由です」

「……馬場家恐ろしや」

甲斐は本気で戦慄していた。中学生で制空圏を体に馴染ませることが出来た時は自分を天才だと思った。だがまだ小学生で防御だけとは言えあそこまで高レベルに制空圏を馴染ませているのははっきり言って異常だ。

「死神さん」

「…………ん、どうした」

「もうとっくに時間たってると思うけど」

「え、」

スマホを見れば2分以上経過していた。久遠は無傷で全く息切れもしていない。逆に赤羽はずっと攻め続けていたからかかなり体力を消耗している。

「……これじゃ練習にならないな」

「ま、待って下さい……!1分20秒が2回ならまだ後1回……!」

「いや、今の君じゃその制空圏を破るのは不可能だ。勝ち目がない」

「……まだやりきっていません」

「……まあ、かまわないが」

アラームをリスタートする。同時に赤羽は狂ったような速さで蹴りを連続で繰り出す。しかしどれも久遠には片手で防がれていく。

「もう、美咲ちゃんってば。何度やっても無駄だって……」

「……!」

しかし赤羽は続けた。残り時間が20秒を切った時。

「……まさか、」

赤羽の右足が久遠の右手越しに久遠の左肩に命中していた。

「……そんな、」

「……制空圏を力ずくで押し切った?いや、違うか」

甲斐はすぐに推察できた。久遠はこれまでずっと右手だけでガードしてきた。たとえ防御が完璧でも2分以上片手で防ぎ続けていれば消耗する。その消耗を待ってからスピードからパワーに切り替えた一撃を放ち、防御を打ち抜いた。これは赤羽の作戦勝ちと言っていいだろう。

「くっ、」

しかも今の一撃で結構無理な形で左肩に押しつけられたことで久遠は右手首を痛めていた。これでは先ほどまでの質の防御は不可能となる。それを見てから赤羽は右手でガードするしかないような攻撃ばかり行う。右側頭部を狙った左の回し蹴り。それも久遠の右手で防がれるのだが、すぐさまローキックに移った赤羽の左足が久遠の右足を穿つ。

残り15秒となってから初めて久遠が後ろに下がる。しかし、右足の痛みから動きはやや鈍い。それを見逃す赤羽ではなく、すぐさま再びローキックを連続で繰り出す。それは久遠の身長を考えても低めの攻撃であり、防ぐには右足でガードするしかなく、余計に右足へのダメージを蓄積させていく。そしてラスト3秒。右足の下段に最大限の注意を払っていた久遠の左側頭部に赤羽の右上段回し蹴りが炸裂した。

「せっ!」

下段払い。一本を取った証。即ちこのスパーリングは赤羽の勝利だ。

「……驚いた。スパーリングとは言えまさかあの久遠に勝つだなんて」

里桜は本気で驚愕していた。それは甲斐も同じだ。ひょっとしたら初めて赤羽が勝利した姿を見たかもしれない。

「……やるじゃん」

左頬を赤くした久遠が立ち上がる。

「今度の大会、楽しみになってきたよ。美咲ちゃん、久遠ちゃんが叩き潰すまで誰にも負けないでね」

それだけ言って久遠は走り去っていった。

「あ、久遠!」

里桜が止める間もなかった。

「……やるじゃないか。今度の試合、想像以上に期待できそうだ」

甲斐が赤羽の肩をたたく。すると、赤羽は今にも泣きそうな表情だった。

「え、どこか怪我したか……!?」

「…………いいえ、なんでもありません」

その後、少し早かったが赤羽の消耗も考えて稽古を終えることにした。

赤羽と最首が着替えている間、甲斐は里桜から雷龍寺の番号を聞いて電話する。

「死神か。どうかしたか?」

「久遠はさっき帰った。里桜はこれから帰す。思う存分しごいてもらってかまわない」

「ちょっと!?」

近くで里桜が抗議の声を上げた。あまりにもかわいそうだったので殴り倒しておいた。

「あと、早龍寺のことも聞いた」

「そうか」

「……何を言えばいいか分からないが、後悔はしていない。あれは全力の試合だった」

「……そうか。また何かあったら連絡する」

それだけ言って電話は切れた。怒っている様子ではなかった。

「雷龍寺先輩は覚悟完了してますから気にしないと思いますよ」

「だろうな。けど、俺はまだあの人ほど大人じゃないんでな。こうして自分を通させてもらったまでだ。……里桜、明日も来い。そして彼女にあの技を教えてやれ」

「……まさか、四神闘技を……!?」

「不完全ながら制空圏に触れたんだ。十分その資格はある。……お前まさか忘れたんじゃないだろうな?」

「いや、そんな訳ないじゃないですか。大会でも使わせてもらってますよ」

「そうか。使用料払え」

「無茶苦茶すぎません!?」


学生寮。赤羽と火咲の部屋。

「……」

非常に不満ながら部屋の中で大人しくしている火咲。いつの間にか部屋のドアノブがかなり固くなっていて火咲の握力では開けられなくなっていたのだ。

「……お人形さんのくせに」

しかし、突然そのドアは開かれた。姿を見せたのは蒼穹だった。

「……あんた、確かあいつの……」

「穂南蒼穹よ」

火咲と蒼穹が視線を交差させた。


空手部。その帰り。達真が友人の権現堂と一緒に寮まで帰ろうとしていた時だ。

「……」

「……あれは、」

一人の少女が二人の前に姿を見せた。

「……まさか、」

驚愕の表情を見せる達真。対して少女は何も言わずに立ち去った。

「達真、今のは?」

「……昔海外でみたような気がする」

「海外?と言うことはまさか……」

「……分からない。今になってどうして……」

二人はいつまでも少女の背中を眺めていた。

その少女は二人の視線を背で受けながらやがて駅前のボロアパートの到着してスカートのポケットから出した鍵で部屋に入る。

「ただいま」

「Welcome home,Ritz」

中からは非常に聞き慣れた少女の声。

「Did you meet that man?」

「……うん。会えたよ。シフル、あなたの親友を殺した男・矢尻達真に」

リッツと呼ばれた少女は自分と同じ顔をした少女に対してそう報告した。


・朝6時。それが久遠ちゃんの一日の始まり。学校の日だろうと休みの日だろうと朝6時にはけたたましい音で無理矢理にでも目が覚める。

「はあ、」

だって、仕方がないじゃん。この時間は毎朝らい君がサンドバッグを叩いているのだけど、大体サンドバッグを支えるチェーンがねじ切れて壁に思い切り叩きつけられる。地震か何かでタンスが倒れた時みたいな音が毎朝聞こえてくるんだからもう体が慣れてしまう。

「……早起きに得なんてないよまったく」

仕方なく着替えて朝御飯を食べにいく。

馬場家。空手の名家で基本的に家族全員が空手経験者。それもかなりハイレベルみたいでどこの道場でもそこそこ噂になってるぽい。ううん、道場だけじゃない。学校でさえも噂になってる。皆空手が強いって言うのもそうだし名前に寺がついているのが大きい。馬場って名字で名前に寺が付いてたら完全に大倉道場の馬場家ってバレるんだもの。全然その気なんてないのに毎年学年が上がってクラス替えした時にすっごい警戒されたりするし、体育の授業とかでどんなものかと皆に期待の視線で見られるの本当に苦手なんだよね。運動神経自体はそこそこあるから、馬場家の遺伝子にはまあありがた迷惑とかそんな感じかな。

そんな久遠ちゃんも当然物心付いた時には3人のお兄ちゃん達と一緒に空手を習わされていた。最初は何も気にしなくてそれが当然だと思ってたんだけど、幼稚園入った頃から、女の子が空手やってることが奇妙がられて初めてメジャーじゃないって分かった。それから何か嫌になって小学校入る前にはやめちゃったんだよね。

「分かるよ、久遠。あんな化け物兄さん達がいるんじゃツラいよね、やっぱりい」

とか3番目のお兄ちゃんであるりゅー君からは同情されたけど別に比べられたりが嫌って訳じゃない。まあ、らい君とは7歳、そー君とは5歳離れてるし、久遠ちゃん女の子だからあまり比べられることもなかったんだけどね。りゅー君としては比べられるのが嫌みたいで少し前に

「僕は空手星人なんかじゃないんだ!!」

とか叫んで家を出て行っちゃった。今頃何してるのかは全然知らない。

「ごちそうさま」

朝食を食べて学校に行く支度をする。

学校は普通の小学校。もう後2ヶ月くらいで卒業することになる。全然全く学校なんかにいい思い入れとかないけどさすがに6年も通ってた小学校離れるとなるとちょっと何かあるかも。でももう中学校の制服も見たし、あれ着て中学校に行くのは楽しみかも。

って時にだよ?ポケモンとかやるのが趣味だった久遠ちゃんがまた空手の世界に戻ることになったんだよ。原因としてはこの前の1月。拳の死神とかって人にそー君が倒されちゃって大怪我。顎を完全に砕かれて、背骨まで衝撃が行ったみたいで全身不随。何で顎殴られてそこまで行くのかはよく分からないけど、うちの次男は空手はおろか二度と自分の足で立って歩くことすら出来なくなってしまった。それに対して死神さんに何か恨みがあるわけでないけどね。りゅー君がいなくなってからやけにそー君は久遠ちゃんに対してあたりが強くなったし。ぶっちゃけ小学校最後の1年間はあまりいい思い出とかなかったよ。夏の林間学校も何か感染症がどうとかで中止になって結局365日この家を出ることがなかったし。家って言うか名前の由来になるようなお寺だけど。100年くらいまでは普通のお寺みたいだったけど戦争とかでお寺に住んでいた人が皆死んじゃって、代わりに家をなくした人とかがこのお寺に住み着いて、何故か一番強い人の持ち家になるとかってルールが発動して一番強かった馬場って人が、久遠ちゃん達のちょっと近めの先祖が馬場家としてこのお寺に住むようになったとか。まあ、くだらない昔話なんだけどね。

で、そー君は二度と空手やれなくなったし、りゅー君は相変わらず家出中。馬場家は空手をやらなくてはならないとかってルールをらい君が急に持ち出して何故かまた久遠ちゃんはランドセル&switchから胴着の生活に戻ることになってしまった。

これはちょっとなって思ったけどらい君に逆らったら怖いし。で、仕方なく里桜先輩やらはるちゃん先輩とかの稽古を受けてせーくーけんを使えるようになったのはいいけど今度はそこで赤羽美咲ちゃんの噂を聞いた。

なんでも、そー君を壊したのと引き替えに右足を壊した死神さんが新しく中学生の女の子を稽古してるって噂。その赤羽美咲ちゃんがどうも胡散臭く、らい君も滅多に美咲ちゃんについて語らない。

そんなある日のこと。らい君に言われて稽古当番なのに道場に来ない里桜先輩を探してこいって言われて。

「……里桜ならさっき甲斐に拉致られてたな。おそらく赤羽美咲の稽古に同伴するんだろう。ここに行きなさい」

って岩村さんに場所を聞いて家の人の車で道場まで来たのがこの前のお話。

「……久遠」

学校に行こうとしてたららい君が来た。

「なに?久遠ちゃんもう学校なんだけど」

「赤羽美咲にお前の制空圏を破られたって聞いたが本当か?」

「……結構ごり押しだったけどね。久遠ちゃんも本気じゃなかったし」

「……だがスパーリングとは言え負けず嫌いなお前が生半可な制空圏を使うわけがない」

「女子小学生の妹の分析なんてしないでよ」

「赤羽美咲はまだ10級だと聞いた。いくら大倉会長や加藤師範から直接稽古を受けていたとは言えまだ到底お前の制空圏を破れるレベルだとは思えない。何があった?」

「……ちょっと油断してただけだってば。今度の交流大会に参加するとか言ってたからちゃんとそこで叩き潰してくるよ」

「やる気だな。これは死神の奴に感謝しなくては」

「ああもう、どうしてそこで死神さんが出てくるのかな」

本当にこの兄の考えはよく分からない。空手やってるとこんな風になるのかって考えるだけでぞっとする。やっぱり中学入ったら何か部活に入って空手をやめよう。あんな汗くさいのは今時の女の子がやるもんじゃない。「そうだ。らい君」

「何だ?」

「今度の交流大会。美咲ちゃんに勝って、それで優勝したら……」

「ああ、いいぞ。Wi-Fiをこの家に通してやる」

「いや、そうじゃないし。今時Wi-Fi通ってない家とか虐待だから。ネグレクトだから。それもそうだけど、今度こそ空手やめたいんだけど」

「……それはだめだ。せめて俺かお前が結婚して子供が産まれるまでは」

「久遠ちゃんまだ小学生なのにそんなの期待してるの!?10年以上は先だよ!?と言うからい君彼女すらいないじゃん!」

「……馬場家のものは自分より強い異性と結婚すべし。単純に俺より強い女がいないだけだ」

「らい君より強い女の子なんて高望みしすぎだよ~!いるわけないじゃんそんなの!」

絶対もてないいいわけしてるだけだよそれ。

「だが、赤羽美咲には勝て。俺はあいつの兄に勝った。妹同士も馬場が勝つんだ。そうすればもう少し何か褒美を考えてみよう」

「今久遠ちゃんが一番ほしいのは空手なんてやらなくていい普通の女の子ライフなんだけどな……」

でも、美咲ちゃんには勝ちたいと思う。昨日はスパーリングだったから使わなかったあの技を使ってでも。


学校。小学6年生の2月はそろそろ卒業式の練習とか準備とかが始まる頃。と言っても送られる方の6年生は精々当日の席順とか卒業証書の受け取り練習とかしかなくて、準備自体は4年生と5年生がやるんだけどね。久遠ちゃんも去年まではやったよ。うん。当日参加する5年生ならともかく当日参加せず普通に授業をやる4年生が何で卒業式の準備をしなくちゃいけないのか疑問に持ちながらやってたっけ。久遠ちゃんもいよいよ送られる側かぁ。

「久遠ちゃん、また今日も空手のお稽古があるの?」

「うん。ごめんね。らい君がどうしてもって言うから。でも中学入ったらやめようと思ってるからごめんね」

「うん。頑張ってね」

「かしこま!ってね」

友達のうち半分くらいは同じ中学に進む。でも、もう半分くらいは別の中学に進む。クラスが違うだけじゃなく全然違う学校に行くんだ。寂しいけどその分進んだ先でまた新しい友達と会えるかもしれない。う~ん、これが人生って奴なのかも。

「……じゃあ仕方ないけど道場に行くか」

一度家に帰ってから胴着に着替えて自転車に乗って道場に向かう。大体10分くらいで着くかららい君からは足を鍛える意味で歩いて行けって言われてるけど面倒だからいつもチャリで行ってる。

「……久遠、久遠」

「え?あ、りゅー君」

「しーっ!!しーっ!!」

チャリで家を出てすぐ。りゅー君と会った。すごい久しぶり。見ない間に少し背が大きくなってる。

「りゅー君どうしたの?今までどこに行ってたの?」

「ま、まあ、いろいろあって。で、ちょっと久遠の様子を見ていこうかと思ったんだ」

「……ねえりゅー君。言い訳になってくれる?」

「へ?」

それからりゅー君と一緒に向かったのは道場ではなく、クレープ屋さん。もちろんりゅー君の奢りでチョコクレープを食べるのだ。

「……まあ、久しぶりに会う可愛い妹のためならクレープぐらい全然奢るけど。それに僕の代わりに空手やらされてるみたいだし」

「え、何で知ってるの?」

「里桜から聞いたんだ」

そう言えば里桜先輩と同じ中学通ってたっけ。

「早龍寺兄さんのことはちょっと前に聞いたよ。まあ、そのせいで久遠がやりたくないことやらされるのはおかしいと思うけどね」

「てかりゅー君今どこに住んでるの?」

「クラスメイトにアパートの大家やってる奴がいて、そこのアパートの部屋を1つ貸してもらってるんだ。周囲の環境がやばくてもいいなら中学時代は無料でいいって言うから世話になってる。……生活費に関しては高校生だって言ってバイトして稼いでる」

「まあ、中3なら高校生みたいなもんだしね」

「……どうだ?生活費にもまだ少し余裕があるし、久遠ももしよければ……」

「……りゅー君みたいに家出しろって言うの?」

「そうだ。完全に受け入れ先がないホームレスになれって話じゃない。ただ離れて暮らしてた兄貴の家に潜り込むだけだ」

「……でも、さすがに大騒ぎにならないかな?」

「……なると思う。でも、僕の方から雷龍寺兄さんに言っておくからまだ平気……だと思う」

う~ん、それが出来てたらりゅー君今の生活できてないと思うんだけどなぁ。さすがに二人目は許されないと思うんだよね。久遠ちゃん女の子だしまだ小学生だし。ってかもうそろそろ中学生になるんだし。

「まあ、そう急がなくてもいいよ。父さん達も心配するだろうしね」

「いや、それもそうだけどりゅー君にそんな甲斐性なさそう」

「え……!?」

「りゅー君一人が勝手にどこか行って今まで生活できてるって時点でもう奇跡みたいなものなのに久遠ちゃんまで厄介になったとして無事で済む気がしないよ」

「え、そっち!?僕そんなに信用ないかな……?」

「そうだよ。だから……」

「馬場久遠寺だな?」

「え?」

声。振り向けばものすごく背の大きなおじさんが二人いた。いかにもって感じの見た目。限りなく嫌な予感しかしない。

「あなた達、何ですか……!?いや、もしかして三船の……」

「馬場龍雲寺もいるのか。ちょうどいい」

「!?」

急におじさんの片方がりゅー君に蹴り。今の蹴りは素人じゃないと思う。三船って言ってたけど、確か三船道場とかあったっけ?

「りゅー君!?」

「どちらとも来てもらおうか。最悪どちらでもいい」

「今はまだ馬場龍雲寺が動けなくなるまで痛めつけるだけでいいからな」

とか何とかいって二人でりゅー君をボコボコにし始めた。確かに素人じゃない蹴りだけどりゅー君こんな簡単にボコボコになっていいの!?こんなに弱かったっけ?

「く、久遠。逃げるんだ……!僕はどうなってもいいから……!」

「で、でも、久遠ちゃんが逃げてもりゅー君は……」

「そ、その気になればこんなの……!!」

意気込んで立ち上がったりゅー君は反撃に出ておじさんの片方に挑むんだけど……。

「くっ!」

「こちらも素人じゃないんでね」

「情報は正しかったようだな。馬場龍雲寺に空手の才能はない。しかもその道から逃げ出して半年以上も経って鈍ってる。俺達の相手じゃない」

ちょっとだけ反撃は出来たみたいだけど結果は全然変わってない。……どうしよう、さすがに逃げるなんて出来ないし、かといってまだ久遠ちゃんじゃ勝てる相手じゃない……。このままじゃ……

「あら、何遊んでるのかしら」

「え?」

また新しい声が出たかと思えばおじさんが一人吹っ飛んでいった。見れば久遠ちゃんとあまり変わらないくらいの背の女の子がいた。でも、めちゃすごいおっぱいしてる!!

「貴様……最上火咲……!?」

「私を知ってるってことは三船の関係者?大倉の馬場を誘拐して何を企んでるの?まさか身代金なんてつまらないものじゃないでしょうね?」

「う、うるさい!!こうなったら貴様も拉致して手柄にしてやる!」

「出来ると思うの?サンドバッグ役の分際で」

圧倒的だった。火咲ちゃんって子は空手じゃない何かの格闘技でおじさんたちを一方的にボコボコにしてる。何か手が使えないみたいだけど足だけでも十分くらいボコボコ。たまに肘とか使って血だらけ。それ以上はりゅー君が目隠ししたからよく分からなかった。

「……優しいのね、お兄ちゃん」

やがて火咲ちゃんの声が聞こえる。

「……あんたは何なんだ……?」

「別に?誰でもいいでしょ?今の時点で結構ボコボコだけどもうちょっとボコボコになりたい?」

火咲ちゃんの足音が近づいてくる。でも途中で止まる。

「……またあんたなの?」

「……死神先輩からお前を見ておけって言われたからな」

聞いたことない声だ。でも、死神先輩って死神さんのことだよね。ってことはこの男の子は死神さんに言われてここに来たって事?

「……ふん、あの変態の下僕に成り下がったって事かしら?」

「そう言う訳じゃない。ただ、借りもあるしな。何にせよ、これ以上やるなら俺が相手になってやる」

それから少しの間、動きがない。ただ、緊張した空気だけが流れて……。

「……別にいじめようなんて思ってない。あんたがどうしてもって言わない限りこの場であんたをいじめようなんて気はないわ」

「……」

「……」

何か視線を感じる。ふとりゅー君が目隠しを外す。だからちょうど視線は火咲ちゃんと合った。改めて見てもおっぱいでかい。ものすごく大きい。漫画とかでならともかく現実でこんなにおっぱいでかいなんてあり得るの?

「……」

「え、えっと、助けてくれてありがとう?」

「何で疑問系なのよ」

「……」

「後ろの奴が何か言いたそうで鬱陶しいからもう帰るわ。まさか女子部屋まで着いてくる気じゃないでしょうね?赤羽美咲もいるのよ?」

「……その赤羽美咲が誰なのか俺はよく知らない。会ったことないからな」

「……そう」

それだけ言って火咲ちゃんはどっか行っちゃった。

「……えっと、誰?」

「……俺は矢尻達真。大倉道場とかに所属してるわけじゃないが少し空手をやってる」

「……本当に少しやってるレベルなら多分あの最上火咲って人を止められないと思うけど」

「……さあな」

今度は矢尻達真って人もどっか行っちゃった。そう言えば死神さんとか美咲ちゃんとかってでっかい学生寮に住んでるって聞いたような気がする。死神さんや美咲ちゃんのことを知ってるなら同じ学校に行ってる人達なのかな?

「……とりあえずここを離れようか。警察が来そうだし、三船の他の連中も来るかもしれない」

「……そうだね」


「……それでここに来る意味が分からないんだが」

いつものように甲斐が里桜を伴って赤羽の稽古をしていたらそこへ久遠と龍雲寺がやってきた。

「だって他にこの近くで知り合いがいるところいないんだもん」

当然のように久遠はクレープを食べながら縁側で足をぶらぶらさせている。

「……先輩。こいつが馬場の3番目・龍雲寺っす」

「お、押忍!馬場龍雲寺です!」

「甲斐廉だ。こんな挨拶で済まないが君の兄貴については残念なことをした」

「いえ、空手星人が畳の上で何があっても文句はないっす。ただ、それで久遠が空手を無理矢理復帰させられるって言うのはちょっと僕も後悔してます」

空手星人などと言っているのだから恐らく龍雲寺は馬場家に生まれただけでそんなに空手が好きというわけではないのだろう。実際の試合を見たことがないから実力のほどは知らないが、強いと聞いたことがないのだからまあ、そう言うことなのだろう。

「別に空手しか人生がないわけじゃないんだ。好きに生きればいい。と言うかわざわざ一人暮らしするくらいならうちの学校に来ればいいんじゃないのか?学生寮だからまあまあ楽だと思うぞ。まあ、うちの学校は特殊だから変な奴ばかりだが」

「そう言うのは兄さん達で慣れてるから大丈夫です。それに、高校には行かずにこのまま働こうと思ってます。アパートを借りてる奴にもそう言う契約にしてるんで」

「……そうか」

何だか苦労してるんだと思わせられる。

「けど、久遠」

「何、死神さん?」

「稽古をサボるのは感心しない。さっき雷龍寺の奴からまた電話が来たぞ。昨日の今日だからまたここに来てるんじゃないかって」

「……来たのは俺のスマホにっすけどね」

「ぱーんち」

パンチ一発で里桜をぶっ飛ばしてから続ける。

「今回は兄貴が着いてたみたいだからいいかもしれないし、あの空手バカに無理矢理やらされてる以上は強くは言えないから稽古をサボるのもいいと思うが、連絡は怠らない方がいい。最近三船の連中だって妙な動きをしてるんだし。今日だって大倉道場に深く関係もある名家のお嬢様だから誘拐されそうになったんだろ?」

「別にお嬢様って気はしてないけどね。家寺だし」

クレープを食べ終わった久遠が畳部屋に上がる。

「久遠ちゃんがしたいのは自由な女の子ライフ。空手が嫌いって言うよりらい君達に縛られるのが嫌なの。だから死神さん、しばらく稽古の日はここに来ちゃだめかな?」

「……一度ならず二度も雷龍寺には恩がある。それを無碍には出来ない」

「そんな~」

「だけど、まあ、雷龍寺に相談ならしてもいい。条件としてあの子とたまにスパーリングしてくれるってい言うのならな」

甲斐は奥でサンドバッグを叩いている赤羽をみる。会話は聞いていたのか、視線に気付いて赤羽がこちらを向いた。

「昨日のスパーリング。互いに反省点がいっぱいあるだろう。それは悪い事じゃない。少しずつ反省点を減らしていけばどんどん強くなれる。……久遠、多分お前が空手そんなに好きじゃないって言うのもあれだろ。一緒に道場通う同い年くらいの女子がいない」

「……あ~、それもあるかも。久遠ちゃんと同い年くらいで白帯って滅多にいないから」

実際空手をやっている女子はかなり少ない。小学生時代なら男の兄弟とかの影響で趣味程度にやっていることは珍しくない。だが、中学にもなれば話は別だ。どうやったって痛くてツラくて汗くさい空手をそれまで通り遊び半分でやる女子はほとんどいない。小学校卒業と同時に半分どころか7、8割はやめてしまう。久遠もそろそろ中学生。その時期から空手をやり始める女子はほとんどいないだろうし、中学以降も空手をやり続けようと言う女子ならとっくの昔にガチになってて白帯どころか1級2級くらいまでなっていてもおかしくない。

偶然にもそれは赤羽にも関わっている事情だ。若干年齢に差はあるが一緒に稽古をする同性の存在はこの業界では貴重だ。

「ってわけで里桜。雷龍寺に電話しろ。しばらく久遠をサボらせるって」

「俺に死ねって言ってるんすか!?」

「きーっく」

「あぎゃがyがyがyぎゃああああああああああ!!!」

「……久遠大丈夫かな?怪我してる足で蹴って里桜がこんな容易く吹っ飛ぶ人のところで稽古して……」

「りゅー君は相変わらず心配性だね。大丈夫だよ。死神さん女の子には優しいみたいだから」

「それはそれで心配だなぁ……まあ、最首先輩がいるからまだ大丈夫か……」

それから甲斐指導のもと、赤羽と久遠は稽古を開始した。さすがに体格も年齢も体力も赤羽の方が上だったために同じメニューを与えれば久遠の方が先にバテてしまう。しかし初めてやるメニューに関する飲み込みの早さは久遠の方が上だった。

「さすが馬場家。天才空手家の血が流れてるんだな」

「……すみません、才能なくて」

急にダメージを受ける龍雲寺。

「……なあ、龍雲寺。どうしてお前は馬場家から出て行ったんだ?」

「え?まあ、僕だけ才能がなかったから……。早龍寺兄さんとは二つしか歳が離れてないのに時が経てば経つほどに階級は離されて行くばかり。早龍寺兄さんが1ラウンドで簡単に勝てた相手にも僕は勝てなかったし」

「ちなみにそれ俺のことっす」

「そうか。なに早龍寺に1ラウンドで楽勝されてるんだおまえはぱーんち」

「あぎゃあああああああああ!!!」

話途中に里桜をぶっ飛ばす。

「話を戻そう」

「お、押忍」

「まあ、負けてばかりだと確かに面白くないよな。でも、勝ったときは嬉しいだろ?いや、それだけじゃない。空手やって何か他に楽しい時とかってなかったのか?」

「……分からないっす。僕の場合常に二人の兄さんと比べられてたんで」

「……そうか。う~ん、」

「甲斐先輩も僕や久遠が空手をやめるのには反対なんですか?」

「いや、そんなことはない。実は俺も一時期稽古をサボりまくってたんだ」

「え、あの拳の死神が!?」

「そう。ちょっと嫌なことがあって半年くらいずっと引きこもってた。でも、気付いたら夢の中でも風呂に入ってる時でもパンチしてたんだ。殴りたいように殴って、それで相手に勝ちまくる。それが嬉しくて仕方がなかったんだ。だからまあ、あまりいい感じはしないが拳の死神だなんて言われるにも納得なんだ。それにそんな名前で呼ばれて嬉々として相手をひたすら殴るような奴ならそもそも常に距離を取って殴らせてくれない事も多かった。俺はそんなに背高い方じゃないから足のリーチの差で一度も殴らせてもらえないままボロ負けする事もあったしな。そんな時はさすがに嫌になった。下段ばっかもらって今ほどじゃないけど足怪我したことだって何回もある。それでも何回やめようとしてもやめられなかったのはそれだけ空手が好きだったって事なんだよ」

甲斐は龍雲寺の方を向く。

「多分、久遠は空手が好きだと思う。ただ男の中で過ごすのが退屈ってだけで。けど、お前はどうなんだ?もしも空手が好きじゃない、本当にずっと兄貴達に言われて無理矢理やらされ続けてたって言うならやめて正解だ。けどもしもほんの僅かでも空手のことが好きだったら、やめるのは少しもったいない気もするけどな」

「……分かりません。一人で空手なんてしたことないから……」

「そりゃそうだ。空手は一人じゃできっこない。まあ、そこんところは深く考えなくてもいいだろうさ。兄たちのいない空手に触れたきゃここに来い。まあ、それでもいつかは向き合う必要もあるだろうがな……」

甲斐はそう言って夜空の月を見上げた。

それから1時間もしない内に雷龍寺がやってきた。当然龍雲寺も久遠も後ろめたさと恐怖とで震えている。

「死神、世話になったようだな」

「別にかまわない。少しでも気にしてくれるならちょっとこの二人ここで預けてもらえないか?」

「……久遠はともかく龍雲寺はもう空手をやる気はない。俺もお前も出る幕じゃない」

「俺達は空手星人かもしれないが、でもその前に人間だ。空手だけが人生じゃないだろ?年上の先輩にこんな事言うのもあれだが、もう少し優しく接してやらないと兄貴ってものが恐怖の対象でしかなくなるぞ?」

「……かもな。ともかく、久遠。今日はもう帰るぞ。龍雲寺はたまには顔を出せ。無理に空手をやらせたりはしない。そして里桜。勝手に稽古をサボるな。ただの門下生ならともかく稽古をする側の指導員が稽古をサボられると非常に困る。今から道場でみっちりしごいてやる」

「そ、そんな~!?」

「そいつならまあいくらしごいてくれても構わんぞ。今度の6月のカルビで優勝できる程度にはなってもらわないと」

「む、無茶言わないで下さいよ~!」

泣きながら里桜は雷龍寺に引きずられていった。

「……死神さん」

「どうした久遠?」

「ありがとね。いろいろ庇ってくれて」

「……ふ、女の子には優しいのが俺のルールだ」

「格好付けちゃって。もうしょうがないなぁ、久遠ちゃんがもう少し大人になったらデートしてあげよっか?」

「え、」

「死神。そこまでは許してないぞ。俺と戦え」

「む、無茶言うなっての!!」

そんな、ちょっと騒がしいけど悪くない一日だった。


・3月。別れの季節。学生なら進級進学で、社会人なら異動や退職などが待ちかまえている一ヶ月。2月までの肌寒い季節から多少は暖かくなるなど鳴動の春の季節。

「じゃあ、行ってくるけど」

部屋。蒼穹に対して言葉を投げる。対する蒼穹はベッドで寝転がったまま。

「……そう。あんたが自分以外の試合に行くなんてね」

「別に初めてじゃ……いや、初めてか」

「…………また二日掛かるの?」

「いや、今日中には終わる」

「……そう」

「……穂南?どうかしたのか?」

違和感。声色というか雰囲気に何かを感じて甲斐は振り向く。

「……早く行ったら?最首さん待ってるんじゃないの?」

「あ、ああ。そんなに遅くならないと思うから……」

「…………そう」

それから蒼穹は何も喋らなかった。


「じゃあ、行くか」

甲斐、赤羽、最首、斎藤が寮を出る。今日はついに赤羽の公式戦デビューとなる交流大会の日だ。交流大会は大倉道場と同盟を結んでいる三船道場、伏見道場の3機関でまだ空手を始めたばかりの初心者達を集めて行う最初の大会である。名前の通り交流を目的としたような大会で以降行われる大会と比べるとレベルの低さ故に微笑ましさが見える大会だ。とは言えもちろん参加者は全員大真面目だ。よほど格上と運悪く出くわさない限りここで全く結果を出せなければ先には進めず空手の才能に悩まされることになる。

交流大会は3の倍数月に開催され、年4回行われる。一年で最初に行われる3月の大会はしかし中々特殊な事情もある。社会人はともかく学生なら空手を始める経緯は主に友達からの紹介だろう。進級してクラス替えした先で知り合った友達がやっていて興味を持ったから自分も始める。そんな理由が多い。故に4月か5月から始める者が多く、その場合多くは6月遅くても9月の交流大会を初陣にする。そこでいい成績を収めれば次の清武会へと足を進めることになる。逆に3月の大会はそう言う初々しさがない。6月でも9月でも12月でも大した成績を残せずに残留したいわゆる落ちこぼれ候補生達の生き残りを懸けた大会となる。とりわけ赤羽や久遠のような比較的年齢の高い女子にとってはあまり有利とは言えない大会とも言える。

「……とは言え、これまで稽古でその体に馴染ませてきたすべてを出し切れれば優勝は難しくても1回戦負けなんかはしないはずだ。相手がよっぽどの化け物じゃなければな」

「……そのよっぽどの化け物を私たちは一人知っていますよ」

「……まあな」

久遠の事だろう。まだ白帯なのにあの制空圏。結局一ヶ月近く赤羽と一緒に稽古をして何回かスパーリングをしたがあの制空圏を突破できた回数は片手で数えられるほどだ。しかも甲斐の見立てでは日に日にその精度は増している。そして、まだ何か奥の手を隠してそうだった。

「最近は一緒に稽古やったりで仲良くしてるが、それでもかなり強敵のライバルだ。実際の試合ではなれ合いなどはするなよ」

「……お任せください」

交流大会の会場は大倉機関が直営している大学の体育館だ。小中学校のそれの数倍以上の広さを持ち、客席も充実している。

そんな会場に到着し、選手達がそれぞれ更衣室に向かう。とは言えほとんどが男子小学生という事もあって大体がその場で着替えている。水着などと違って全裸になるわけでもないから別にそこまで問題でもない。

なお当然ながら赤羽と久遠は用意されている女子更衣室で胴着に着替える。女子の選手はほとんど存在しないためか更衣室はかなり空いていた。

「やっぱ女の子だよね!」

「……何がやっぱなのか分かりませんがさすがに女子中学生が表で着替えるのは気が引けます」

とは言えあまりゆっくりしている時間はない。本来着替えのための時間など予定されていない。大体が男子小学生でその場で着替えるため特に前宣伝もなくその場ですぐに開会式が始まってしまうのだと甲斐から聞いている。その開会式でトーナメント表が公開される。開会の言葉が出されてから5分と待たずに第一回戦が始まってしまう。当然その場に間に合わなければ失格になる。さすがに着替えのために遅刻して失格ではお話にならない。

「……お待たせしました」

5分後に赤羽と久遠が胴着姿でやってくる。

「……ああ」

「どうかしましたか?」

「あれを」

甲斐が指さす。それは16の畳を挟んだ向こう。3つの席。そこに座るのは今回参加する3つの道場の代表。つまり、大倉和也会長、伏見雷牙提督、そして三船ラァールシャッハ所長の3人となる。

「……三船所長……」

赤羽の身が固まる。三船の出身ならば当然向こうの所長と面識もあるだろう。

「……あれから一ヶ月以上経ってるけど結局3道場はどうなったんだろうね」

「……元通りの仲いい関係にも見えないし、かと言って監視しているとかそう言うわけでもなさそうだな」

赤羽に関する謎と言うか不信感は晴れたが、大倉会長に関しては微妙なままだ。

「これより、開会式を開始する」

加藤が声を上げた。マイクを使わずとも会場全体に響くような声。腹筋に響くような声が選手達の緊張を誘う。そのままの流れで開会式が始まり、甲斐達3人は後ろに下がる。ざっと見て今回の参加者は120人ほど。

「これよりトーナメントを発表する。8つのコートで皆一斉に試合を行うから準備運動した者からそれぞれコートに着け」

1分にも満たない開会式が終わり、加藤の背後の壁にトーナメント表がモニターで映し出される。

「美咲ちゃんは最初はお休みかな?」

「それでも準備はしないと。久遠はいきなりですね」

「うん。いきなり勝ってくるよ」

赤羽と久遠が指定されたコートへと向かう。甲斐達はそれを後ろから眺めていた。

「初めての試合って怖いけどわくわくしたよね」

「そうだな。こっちの場合、最初の相手斎藤だったからな。クラスメイトでもあるあいつとの初試合。どっちが強いのか、緊張したさ」

「へえ、拳の死神も初陣は緊張したんだ」

「そりゃそうだ。最首だって最初の相手は確か穂積ちゃんだろ?」

「何で覚えてるのよそんなこと」

「お二人さん、そろそろ移動しないと」

「……そうだな」

里桜を羽交い締めにした状態で甲斐、最首、斎藤が赤羽のコートへと向かう。

トーナメント表を見ると、赤羽の最初の相手は小学5年生の男子・中島だ。階級は9級。年齢は赤羽より2つ下だが階級は1つ上となっている。甲斐の見立てでは正直赤羽の不利だと思われる。

しかし、少なくともちょっとやそっとの不利で負けるようなしごき方はしていない。むしろ格上ほど通用するようにと、里桜を呼びつけて稽古させたのだ。

「里桜、あの子がお前の教えた4つの技で勝てなかったら、」

「……か、勝てなかったら?」

「今日の優勝者相手に飛び入り参加させて試合させる」

「ただの羞恥プレイじゃないっすか!?」

「負ける可能性考えて技を教える奴がどこにいるんだ?今からフルアーマーで外走ってくるか?」

「補導されますよ!?」

「はいはい。廉君も里桜君も。そろそろ赤羽ちゃんの試合始まるよ?」

「……それに少しきな臭くなってきたぜ」

「……」

第5コート。一回戦目が終わり、赤羽が入場する。それに併せて大倉会長と三船所長が席を離れて近づいてきていた。

「里桜、備えておけ。何かあったら鉄砲玉な」

「む、無茶っすよ!?」

甲斐は周囲を警戒する。

「……心配するな」

声。視線だけ向ければ雷龍寺がいた。

「この会場は既に押さえられている。俺の同僚も集めて何が起きてもいいように待機されているからお前はただ見物でもしていればいい」

「……大倉と三船はどうなった?何で仲良し子良しに物見遊山してる?」

「……あの後、伏見とともに三船研究所の調査が行われたが何も疑わしいものは発見できなかった。だから今も監視状態を続けている」

「……龍雲寺や久遠から聞かなかったのか?間違いなく三船の手の者が襲ってきたんだぞ?」

「聞いている。だが、根拠も証拠もない。伏見機関が動いているから今は警戒して待つしかない」

「……」

それだけ言って雷龍寺は離れていった。

「……廉君」

「……今は試合に集中しよう」

4人は今まさに行われようとしていた赤羽の試合へと目を向けた。

「正面に礼!お互いに礼!構えて・はじめっ!!」

主審の号令を受けて礼を済ませた両者が前に出る。いつものように冷静ながらも赤羽の表情はどこか硬い。故か、スピードで勝る相手に出遅れてしまう。

「……」

甲斐は見る。確かに赤羽は1秒ほど反応に遅れた。そのせいで中島の前蹴りの先制攻撃の直撃を許してしまう。ギリギリで赤羽の方が背が高い事でリーチが不十分だったのか、直撃と言っても体重が乗り切れていない一撃だったおかげで大したダメージではない。だが、緊張に拍車をかけるには十分だ。

リーチでは自分の方が勝っていながらも赤羽が一歩前に出た。確実に自分の足が届く範囲に相手を収めての連続蹴り。だが、中島は怯まずにより前へと進み、たった一撃の膝蹴りで赤羽の猛攻を止める。

「くっ、」

バランスを崩した赤羽。好機と見た中島が前に出て追撃。パンチの応酬を開始する。当然だがパンチとキックではキックの方がリーチも威力もある。しかし、パンチの方が手数を多く用意できる。タイミングを正確に狙い、いつ来るか分からない蹴りと言う相手の精神を焦らせて弱らせるのもまた戦術の1つだが、相手はそれよりもひたすら殴ることで相手の冷静さと体力を奪うことを選んだ。

男子故のパワーを帯びたパンチラッシュを受けて肉体的にも精神的にも内臓を痛めてどんどん後ろに下がっていく赤羽。

そのとき、

「赤羽ちゃん!!」

最首のエール。それを耳にした赤羽は一瞬で自分を取り戻す。パンチに集中していた相手の利き足の付け根に膝をたたきつける。

「っ!!」

思わぬ反撃に怯む中島。対して赤羽は畳を蹴って宙を舞う。

「白虎一蹴!」

それは言ってしまえばただの飛び後ろ回し蹴りに過ぎない。だが、それを目にした者は誰もその程度とは感想しないだろう。

「!?」

通常の飛び後ろ回し蹴りはジャンプしながら半回転し、その勢いで後ろ回し蹴りを行う。強力だが外れることも多い大技だ。だが、今赤羽が放ったのは、

「……見てなかった」

コートから少し離れたところ。久遠がため息を付く。赤羽が里桜や甲斐から何かしらの技を教えられていることは一緒に稽古をしていて知っていたが結局どんな技なのかは一度も見ていない。せめて一度は試合で表に出るまでの間秘密兵器にしたいとのことだ。だから、久遠は赤羽と戦う前にその技とやらを見ておきたかったのだが、周りにいるのが自分より背の高いのばかりだったため肝心の場面が見えなかった。

「……けど、今の一撃で試合が終わったみたいだし。この久遠ちゃんの制空圏を突破するための必殺技みたいだね。楽しみだな」

口笛を吹きながら久遠は次の試合のコートへと向かっていった。

「……勝ちました」

コートの外。赤羽が報告に来た。

「ああ、見ていた。初めてやるにしてはなかなかの完成度だったじゃないか」

「そうだね。白虎一蹴。廉君みたいなパワーファイターが使うのも強力だけど赤羽ちゃんみたいなスピードファイターが使っても結構強いよね」

「……あの、最首さんは使わないんですか?白虎」

「私、廉君とは付き合い長いけどほぼ同期だから先輩後輩でもなければ師弟関係でもないんだよね。直接試合で当たったこともないし。それに確かに強い技だとは思うけどそれがすべてってわけでも最強ってわけでもないから私は私のやり方と技で戦ってるの。まあ、必要だったらその内盗ませてもらうかもしれないけど」

最首の目が光り、赤羽が後ずさった。

「……一回戦を勝てた事。もっと誉めてやりたいが多分もう10分くらいで2回戦が始まる。体を休めることに集中するんだ。さっきみたいな緊張の間に終わらせられるかもしれないぞ」

「……はい」

「水分補給は大事だが休憩が短い場合には飲まない方がいい。いい感じにほぐれた緊張感が悪い感じにほぐれてしまうと危険だ」

「悪い感じに?」

「そうだ。空手の試合は直撃前提(フルコンタクト)。何かの発表とか運動会の徒競走だののような、上手くできるか分からない事への緊張とは別に、痛いのは嫌だとか痛くするのは避けたいとかそう言う恐怖から来る独特の緊張感がある。慣れてしまえば自前でどうにでもなるが、まだ経験の浅い君がこの緊張感を克服する手段は多くない。その1つがアドレナリンだ。君は今勝利して軽度の興奮状態にある。闘争本能が刺激されていると言っていい。この興奮は緊張を消してくれる。だが、気付かぬ内に体力も消耗する。アドレナリンだけに頼らないようにしかし緊張しすぎないように少し落ち着いた状態で維持する必要がある。水分補給や横になって休憩したりすればリラックスしすぎてしまって今度は緊張も興奮も出来ずに自分の力を発揮できない状況になりかねない。……少し厳しいかもしれないが午前中は水分補給は可能な限りなしでいく。いつでも全力を出せるようにしておくといい」

「……押忍!」

一礼して赤羽は次のコートへと向かう。

「……今の、誰の受け入り?」

「……初めての試合で俺は斎藤に勝った。そのまま準決勝まで進んでそこで負けて3位になった。次の試合ではいきなり格上と戦うことになって勝ちはしたけど怪我をした。血が出るほどの怪我だ。そんなにひどい怪我じゃないから病院に行く必要もないし2回戦への進出も決めた。けど、初めて空手が怖くなった。その恐怖を誤魔化すために水ばかり飲んでた。結果リベンジに燃える斎藤相手に全く歯が立たなかった。完全に恐怖と緊張に呑まれてしまって自分の試合が出来なかった。たった2回しか試合をしてないのにもうスランプになりそうだったんだ。その時に得た教訓だよ」

「そこから拳の死神が生まれたわけだ」

「……何事も恐怖と緊張に勝つ事が成長の一歩ってわけだ。……今日ここであの子がどこまで強くなれるかがポイントだな」

「……そうだね」


第二回戦。赤羽の相手は珍しい小学6年生の女子だった。衣笠舞。しかし階級は8級。先ほどの中島よりも上である。女子だからと言って油断できないことは自分が一番よく知っている。

「はじめっ!」

主審の号令を受けて前に飛び出す。今度は出遅れしない。互いの視線の中間で蹴りと蹴りが激突を果たし、赤羽が一歩前に出る。だが、これを有利とは思わなかった。今の蹴り同士の激突。勝ったのは赤羽だが力と速さでは向こうの方が上だった。では何故赤羽が前に出れたのか。

「っ!」

再び前に踏み込んだ赤羽。それを迎え入れたのは衣笠のカウンターとなる前蹴りだった。

「……上手いな。最初に放った回し蹴りは前に出るためのものじゃない。相手の放った蹴りを迎え撃って足を負傷させるためのものだったんだ」

甲斐が分析。実際それによって赤羽は前に出る際に痛みから来る躊躇がやや出た。それを合図にすればカウンターも容易い。そしてそこから衣笠は猛攻を開始した。雷龍寺と剛人の試合のようにフェンシングのような鋭い前蹴りの連続。赤羽はそれに蹴りで応えられず防戦一方だ。時折前蹴りではなく下段や上段に変わり赤羽の防御はより一層重くなる。試合開始してから30秒が過ぎ、赤羽は一切反撃に出られていない。その間衣笠の猛攻は続く。たとえガードをしていても蹴りをそのまま受ければガードした腕はもちろんそこから衝撃を走らせて結局全身にダメージが入る。ここまでダメージを受け続けていれば回避のために体を動かすことは難しい。回避中の、防御が出来ない時に攻撃を受けたらどうしようとか本当に回避できるのだろうかとか。

しかし、赤羽が動かないのは恐怖からではなかった。

「……ふう、」

蹴りの連続は終わった。衣笠が深い息を吐く。試合開始から40秒以上も蹴りを放ち続けるのは体力的に楽なことではない。もしかしたら蹴られ続けていた赤羽以上に体力を消耗しているかもしれない。そして、それが赤羽の合図だった。

「……」

赤羽は前に出る。衣笠はカウンターをねらう。

赤羽は右に出る。衣笠は半身を切って様子を探る。

赤羽は左に出て元の位置に戻る。衣笠が蹴足を構えると同時に一瞬で衣笠の背後に回り込む。

「!?」

相手を正面に向いた格好いい移動ではない。素人が逃げる時に行うような全力ダッシュだ。そのおかげで赤羽は完全に衣笠の背後を奪った。それに気を取られたことで衣笠はあわてて後ろ回し蹴りを繰り出す。

だが、赤羽はバックステップで後ろに下がってそれを回避。そして次の瞬間には勢いよく踏み込み、衣笠の重心を支える軸足に猛烈な勢いで回し蹴りをたたき込んだ。

「うっ!!」

衣笠は転倒。素早く赤羽が下段払いを行い、

「技あり!!」

主審が応答する。フルコンタクトの空手とは言え試合は競技だ。別に必ずしも相手が再起不能になるまで殴り続けなくてはいけないわけではない。技ありや一本などの得点になる行為を続けることで場合によっては互いに無傷のまま試合を終えることも出来る。そして今、技ありを奪われた事でポイント的に不利になった衣笠は本戦が終わるまでの残り2分で赤羽をKOまで追いつめないと判定で敗北することが確定した。

その事実は彼女を焦燥させるに十分だった。

「ぁぁぁぁぁっ!!!」

再び連続蹴りの猛攻。興奮しきっているからか冒頭のそれに比べるとパワーが増しているように見えるが隙だらけだ。故に赤羽は防御に応じない。衣笠の攻撃範囲を見極め、ギリギリで足が届かない範囲へのステップを繰り返す。一種の防戦一方。しかし、勝負の女神は既に賽を投げていた。

「はあ、はあ、」

やがて15秒ほどで衣笠の動きが鈍る。それを待っていた赤羽が猛烈な勢いで接近する。再び下段による足払いを警戒して衣笠が内股に構えた直後。

「青龍一撃」

前に転ぶような勢いで進むそのパワーのすべてをのせた正拳が衣笠の鳩尾に打ち込まれる。

「………………っ!!」

チェストガードの上からも響くその一撃は衣笠の華奢をそのまま後ろに放り飛ばすには十分だった。

「そこまでっ!!」

声を上げた主審がそのまま衣笠に歩み寄り、しかし立てなさそうだと判断すると、

「勝者・赤羽美咲!!」

その判断を下した。

自分に直接関係しない試合だという者の方が多いにも関わらず、コートの周囲では驚きの声と歓声が上がる。

「……青龍一撃。赤羽ちゃんのスタイルに合わないあの技まで教えてたんだ」

拍手しながら最首が横目を投げる。

「四神闘技は4種すべて併せて完成するものだ。30秒過ぎくらいから使った相手の調子を狂わせる変調の技・朱雀幻翔。制空圏による守りを固めてカウンターを狙う玄武鉄槌。己のスピードがそのまま武器になる超高速の飛び後ろ回し蹴りである白虎一蹴。そして前に出る力をそのまま拳に乗せて放つハイパーヘビー級正拳突きである青龍一撃」

「本当に4つすべて教えたんだね」

「ああ。だが、これらは可能な限り使うなと伝えてある」

「え?」

「まだあの子に必要なのは奥義ではなく基本技だからな。奥義を使っての常勝無敗を覚えるくらいならまだ基本技だけ使って負けた方がいい」

「……空手は基本と正道こそが最強であるって言う教えと、廉君特有の負けた方がより強くなれるって言うポイント?」

「まあな。まああの子は出来レースだったかとは言え、この前遠山弟にボロ負けしている。増長するような幼さもない。無理して封印する必要もないとは思うが一応な」

「……なるほど。廉君てばひどいんだ。四神闘技を教えてそれでもなお、赤羽ちゃんじゃ久遠ちゃんに勝てないと思ってるんでしょ?と言うかそう仕向けてるんじゃないの?」

「……勝てないな」

甲斐がため息を付く。と、

「へえ?死神さん、久遠ちゃんの方応援してくれてるんだ」

そこへ久遠がやってきた。

「久遠か」

「久遠ちゃん、今どう?」

「3回戦勝ち抜け!これで午後のベスト8には出場確定だね!」

Vサインをする久遠。さすがに全く疲れていないわけではないがそれでも初参戦の白帯にしては異例なほどピンピンしている。

「よんかみ何ちゃらってのが何なのか知らないけど、それがあったとしても死神さんは美咲ちゃんが久遠ちゃんには勝てないって思ってるんだ」

「……まあな」

実際この前のスパーリングでは赤羽は最後の最後で久遠の制空圏を破った。だがそれは久遠が余りに油断をしていたからだ。あれから成長して多少なりとも強くなった赤羽ならばまた久遠の制空圏を突破できるだろう。だが、今度は久遠も油断はしない。防御ほどではないが久遠は攻撃の制空圏も出来ているのだからたとえ玄武や朱雀を以てしても防ぎきれないんじゃないかというのが甲斐の推測だった。

「……だってさ、美咲ちゃん」

「え、」

久遠の言葉を投げた先。甲斐の背後。そこに赤羽はいた。

「……聞いていたのか」

「…………」

しかし赤羽は何も言わないまま去っていってしまった。

「あらら。振られちゃったね死神さん」

「あのなぁ、今のお前なら別にこんな事しなくても勝てるだろうに。どうしてこんな手間をかけてまで勝とうとしてるんだ?」

「……もう何回も言ってるでしょ?久遠ちゃんはね、普通の女の子がしたいの。その条件として決勝で美咲ちゃんを倒して優勝することが必要なの。実際このままのトーナメントを進めていけば決勝で当たりそうだしね。絶対に勝ちたいの」

「……そこまでの熱意があるなら……いや、」

「どうして黙っちゃったの?」

「別に。ただ少しの間だけとは言え面倒を見ていた身で言わせてもらう。……後悔するようなことはするな。久遠が空手をやっていることが本当に嫌なら本懐を果たせばいい。けどもしも、」

「もしもなんてないよ。……見たところここの会場で久遠ちゃんの邪魔になりそうなのは強いて言うなら美咲ちゃんだけ。それ以外はつまらなそうだしね」

「……久遠。畳の上で他人を侮辱するのはなしだ」

「……バカになんてしてないよ。事実を言っただけだよ?それとも死神さんはほかに久遠ちゃんの制空圏を破れる人がいるとでも思ってる?」

「……そんなのは話の都合じゃない」

「知らないよ、そんなの。久遠ちゃんはただ優勝してこの世界からさよならするだけだから」

そう言って久遠は踵を返す。

「……」

「廉君、赤羽ちゃんの3回戦が始まるよ……?」

「……そうだな」

赤羽が試合を行うコートへと向かう。今度の相手は小学6年の男子・大谷伸也だ。階級は8級。対して赤羽はヘッドギアで表情が遮られていて何を思っているのかは分からない。

試合前にとんでもないことを言ってしまった後悔のまま甲斐は静かにこの試合を見守った。体力の消耗もあるが3回戦ともなれば実力者だけが残る。この大谷は前2戦の相手よりも遥かに強敵だった。

防戦一方且つ反撃が出来ずに本戦の3分は終了し、延長戦へともつれ込む。

「……」

「……」

僅かなインターバル。赤羽と甲斐の視線が合う。やがて赤羽は再び試合へと臨む。

延長戦では赤羽は焦燥したかのように最初から攻め込んでいた。スタイルの変化に数撃ほど大谷は直撃を受けるがすぐにまた大谷のペースに戻る。赤羽のスピードに目や反応だけでなくちゃんと冷静に追いついている。その動きもほとんど見切っていると言っていいだろう。本来この時点で既に大谷は赤羽の始末に出てもいい筈だが、慎重なのか中々本格的に攻め込まない。しかし的確に赤羽へと攻撃を加えてはいつ倒れてもおかしくないほどにその体力を削っている。そこに赤羽は賭けた。

赤羽は倒れるようにふらふらとした足取りをする。かと思えば蛇のような動きで距離を縮めて跳び蹴り。

「っ!」

大谷はガードするが間に合わず直撃を受けて一歩下がる。

「……朱雀か」

甲斐がつぶやく。

「酔拳みたいで嫌な動きだよね」

「実際いつ倒れてもおかしくないほどダメージを受けている。相手の尋常でないほどの慎重ぶりを見てそれに賭けたといったところか」

「……ギャンブル過ぎない?常に想定外の奇をてらった動きをするって、相手から普通の攻撃受けたら一発でアウトじゃないの?」

「……そうだな」

ところが実際に大谷が放った通常の前蹴りを赤羽は制空圏でがっちりガード。その状態を利用して相手の軸足を下段。

「……朱雀と玄武を組み合わせてる?」

「……リスキー過ぎる」

甲斐がため息。しかし、神経質なのか予想外の展開に対応できず大谷はスタイルを崩す。それまでの慎重な動きはやがて臆病な構えへと形を変えて、それを見計らった赤羽は突然猛攻を開始。立て続けのパンチや膝蹴りで一気に体力を削ってから赤羽は跳躍する。

「白虎一蹴!!」

まっすぐにらみ合った状態から跳躍し、その場で一回転。ピンと伸ばした左足をまるで丸鋸か鎌のように相手の側頭部へとたたき込む。

通常の飛び後ろ回し蹴りはリーチが絶妙だ。近すぎては後ろ回転をする前にカウンターを受けるし、遠かったら簡単によけられる。だが、白虎一蹴は正面を向いた状態から一回転して放つ後ろ回し蹴りであるため、通常の回し蹴りやもっと言えばパンチと変わらない距離感で放つことが出来る。甲斐のようなヘビー級パワーファイターが放てば相手をガードの上からでも一撃で倒せるほどの威力を出せ、赤羽のようなライト級スピードファイターが使えばガードする間も与えずに直撃を当てられる神速の一撃と化す。難点があるとすれば、

「……あ」

技を繰り出した赤羽。しかし、左足が大谷の首に引っかかった。

「……まずい!」

甲斐が咄嗟にコートへと向かうが間に合わず赤羽と大谷は諸共に転倒した。

「大丈夫か!?」

「あ、はい。なんとか……」

「君じゃない!」

「え?」

甲斐は倒れた赤羽を持ち上げてどかすと、大谷へと駆け寄った。

「…………う」

「……息はあるな」

「甲斐!」

主審もあわてて駆け寄る。

「どうだ!?」

「息はあります!ですが首が折れている可能性が……!」

「救急車を呼べ!!」

「押忍!!」

主審の合図でスタッフがすぐにスマホをとり、急いで電話をする。

「……あの、」

きょとんとした表情の赤羽。

「……だから極力使うなと言ったんだ。交流大会に出る程度の相手が白虎を耐えられるわけがないだろう!?」

甲斐は赤羽に詰め寄り、手を挙げてしかしすぐに下ろした。

その背後で大谷の両親らしき人が駆け寄る。

「触らないで!首の骨が折れている可能性があります!!」

すぐに主審に止められ、しかし泣きながら心配を訴える両親。甲斐はそれを背中で、赤羽はしっかりと正面から見てしまった。

やがて、救急隊員がやってきて大谷一家は救急車で運ばれていった。

それからすぐに緊急手術が行われて、大谷は無事一命をとりとめたそうだ。

「……彼は助かったが久遠の兄・早龍寺は全身不随となった。強すぎる技は必ず何かしらの代償を必要とする。君はその重責に耐えられるか?」

昼休みが始まるまでの間、赤羽はずっとその言葉を胸にトイレの個室で一人うずくまっていた。


・午前中……と言っても実際には1時過ぎくらいに午前のトーナメントが終了し、午後から始まる本戦トーナメントへの準備が整った。8人の組み合わせで最高3試合勝利することで優勝となる。なお、この8人の中に女子は赤羽と久遠のみであり、中学生は赤羽のみとなっている。

「これって男子中学生は弱かったって事かな?」

「……いや、そもそも参加していなかったんじゃないかな?」

久遠と最首が一緒に昼食を取るためコートから離れたところでシートを広げる。

「……」

甲斐は腕を組んだまま静かに佇む。

「先輩、」

「里桜、どうだった?」

「赤羽さんどこにもいなかったすよ……。スタッフに聞いたら外には出てないみたいだから会場内のどこかにはいると思うんすけど」

「……一応聞くがトイレや更衣室も探したか?」

「先輩。中学生も捕まるんすよ?」

「……最首」

「……わかった。ちょっと探してくるね」

最首が女子更衣室の方へと向かう。女子トイレもその近くにある。

「……聞いたよ。美咲ちゃんさっき病院送りしちゃったんだって?」

「……ああ」

「それで死神さんのがブルーなってるの?そー君のこと気にして」

「……お前は気にならないのか?」

「全く気にしないわけじゃないけど何より本人が気にしてないわけだし。馬場家ではそんなに大事には扱ってないよ」

「……被害者はそうでも加害者はそうはいかない。こっちが早龍寺の顎を砕いた感触がまだ残っているようにあの子はまだしばらく、大谷の首の骨をへし折った感触と戦い続けないといけないんだ」

「……ねえ、1つ疑問なんだけど」

「何だ?」

「何で死神さんは美咲ちゃんのこと、あの子とか彼女とかって呼ぶの?」

「……それは……」

甲斐が少し後ずさる。僅かな瞬きの間に脳裏に映るはあの日の炎の夜。

「久遠。こんなんでも先輩は人間なんだからトラウマの1つや2つあるって」

「里桜先輩は知ってるの?死神さんがどうして美咲ちゃんを名前で呼ばないかを」

「ま、まあ、察しはしてるというか……」

里桜もまた何とも言えない微妙そうな表情を取った。久遠が疑問していると、

「戻ったよ」

後ろから最首の声。振り向けば青ざめた赤羽も一緒だった。

「……午後、やれそうか?」

「……分かりません。あんな事があったんですから……」

「……言っておくがここから先、こんなことは一度や二度じゃない。奇をてらった大技なら尚更だ。空手もスポーツだ。スポーツという競技なら定石というものがある。誰も彼もがみんな同じやり方をしているのは、誰かが異例なことをやってそのせいで例を見ない大怪我をするのを防ぐためでもあるんだ」

「……なら、どうして私に四神闘技を教えたのですか?」

「……その力に溺れないために」

「え?」

「ずっと地道に努力を続けて、しかし必ずしも成果が出るとは限らない世界だ。そんな中、強力な奥義を与えられたらどうなる?その力に溺れてしまうだろう。それなら最初から戒めとして」

「そんなこと思ってないんじゃないの?」

口出ししたのは最首だった。

「私は反対だったよ。まだ赤羽ちゃんに四神闘技は早すぎる。でも廉君は里桜君を使ってまで初試合前なのに覚えさせた。何をそんなに焦ってるの?」

「……」

言葉が詰まる。思考が止まる。何を言いたいのかが分からない。ずっとひた隠しにしてきた核心にいざ迫られると頭が真っ白になる。

「……赤羽ちゃんに勝ってほしかったのか、それとも挫折してほしかったのか。私にはよく分からないよ……。でも、」

最首は赤羽の肩を抱き寄せる。

「この子をあの子のように壊したくないって言う気持ちだけは信じられる。だから、本当のことを言ってよ」

「……」

脳裏に炎がちらつく。あの日失った者達の顔がちらつく。猛烈な目眩に襲われて吐き気に叶った時。

「……勝ちます」

「………………ぇ」

「私、勝ちます。久遠にも。あなたから教わった技のすべてで」

「……だ、だが、」

「あなたが何を隠しているのかは分かりません。私にだってまだ秘密はあります。でも、それでいいじゃないですか。確かに対戦相手をあんな目に遭わせてしまったことはショックです。でも、それでもあなたが空手をやめていない理由は、やっぱり空手が好きだからですよね?……私はまだそこまで好きとは思っていませんけど、でも、好きなことに嘘はつけません。あなたが四神闘技を教えてくれたことには何かしら意味がある。今はまだ何かを誤魔化すことかもしれません。でも、私が勝ってその意味を作ります」

「……」

「……一本取られちゃいましたね、先輩」

「いい弟子を持ったじゃないか、甲斐」

「……やれやれ」

にやにやしている里桜と斎藤の背中をたたき、

「飯にしよう。もう30分後には決勝トーナメントだ。最初の3分だけで終わってくれる相手なんていないと思え」

「……はい、師匠」

そうして赤羽は初めて笑顔を見せた。


昼食とわずかな昼休みを挟んで始まった午後のトーナメント。赤羽の最初の相手は小学3年生、7級の青山だ。身長がまだ140にも達していない久遠と大差ない小柄な少年だ。だが、ここまで勝ち進んできた相手だ。むしろこの小柄でありながらここまで勝ち進んできた強豪と言える。

畳の上に立ち、互いに視線を交わす。近付く程に身長差が露わになる。恐らく大谷以上の実力者なのだろう。しかし、もう恐怖はない。ただ、実力のすべてを出し切るだけ。そう、勝つのだ。勝ってあの人の真実になる。

「正面に礼!お互いに礼!構えて、はじめっ!!」

主審の号令を受けて互いに前に出る。リーチの差から赤羽の方が先に攻撃が届く範囲に到達する。そこから回し蹴りを……放たなかった。

「……ん、」

青山がわずかに足を浮かせる。赤羽の読みは正しかった。衣笠のようにリーチで絶対に勝てないと分かっている相手に対して最初の蹴り合いは無駄に近い。なら相手が無駄に放った蹴りを横凪にしてしまえば相手の足だけを一方的に傷つけられる。それを先読みしてのフェイント。しかしこちらからはむやみに攻撃を仕掛けない。

「……」

業を煮やしたのかそれとも攻めるだけの価値がある相手だと判断したのか青山が前に出た。男女の差はパワーにある。しかしこうも相手が年少であれば話は別だ。まだ青山程度の幼い少年に男子と呼べるほどのパワーはない。だからその分女子のスピードを活用すると言う戦術はとれない。

赤羽は考えた。相手は年少でありながらここまで勝ち進んできた。それだけの何か武器があるはずだ。それを見極めるために赤羽は防御の制空圏を集中する。

それを見た青山は違和感を感じながらも攻撃を開始。将棋の棒銀のようなひたすら前に出る攻め。回し蹴りはほとんどないパンチと前蹴りと膝蹴りだけで突き進む愚直なパワープレイ。青山の小柄ではあまりパワーは出ないだろう。しかし逆に小柄故のスピードはある。

「……」

前蹴りを半身を反らして回避。パンチをガード。膝蹴りをバックステップで回避。的確な対処で青山の死角に入り込み、上段膝蹴り。

「!」

青山は咄嗟にガード。肘で殴るようにして相手の膝の横部分を押さえつけ防ぐ。ひたすら前方への攻撃、ガードにしても自身の肘を使って攻撃してきた相手の方を傷つける。まるで最上火咲の使うムエタイのようだと思いながら赤羽は跳躍した。

「……え」

赤羽が放った上段膝蹴り。それが死角となって赤羽は跳躍した。

先ほどの試合を見ていた青山は咄嗟に対回し蹴り用のガードに切り替える。が、赤羽の放ったのは飛び前蹴りだった。

「…………強い」

思わず甲斐がつぶやく。甲斐の目から見ればまだまだ赤羽の動きには無駄があるし精度も速度も未熟のそれからは逸脱していない。だが、状況判断やフェイントの使い方が尋常ではない。

甲斐との稽古で赤羽は本当に本当の初歩程度だが制空圏が出来るようになった。それ自体は久遠のそれと比べてもなお拙く、実戦レベルとは言えないものだ。だが、今赤羽が繰り出した攻めに関しては制空圏の域に達していると言えなくもない。どうしたら攻撃が当たるか、どうやって攻撃を当てるかが本能レベルで認識できる領域に。

「……くっ、」

顔面への直撃を受けた青山は2歩後ずさる。それを受けて赤羽は前に出る。しかし、青山から見て正面ではない。弧を描くようにして少しずつ距離を縮めていた。

「のっ!!!」

青山が飛び回し蹴りを繰り出す。が、赤羽はこれをバックステップで回避し、放った相手の軸足にスライディング気味の下段前蹴りをたたき込む。

「っ!!」

思わぬ一撃に青山は前に転倒。速やかに立ち上がった赤羽が下段払いを行い、

「技あり!!」

見事ポイントを制した。そこからは完全に赤羽の流れだった。焦りを見せた青山の猛攻を赤羽は制空圏を用いてすべて回避。衣笠の時と同じように相手が無理な攻撃をしてくれば的確なカウンターを打ち込み、ついには、

「技あり!2つ目に付き、一本!!よって勝者……赤羽美咲!!」

試合時間81秒で赤羽がTKOを果たした。

「……すごいね。赤羽ちゃん、午前中までとは比べものにならない」

「……ああ。練習の成果が100%以上出てる……」

「……これ赤羽ちゃんが覚悟を決めたからって事かな?」

「……さあな」

生まれ持った才能と全身義体故の何か特別な動作と稽古と、そして久遠程ではないが制空圏の才能。これらが合わさって生まれた。それが今の赤羽美咲だ。

15分後に行われた準決勝。対戦相手は小学5年生の男子で6級だったがこれも赤羽は130秒で撃破している。狙っている物なのかは不明だが赤羽は大会初参加ながらすべての試合を本戦で終わらせている。しかも判定ではなくほとんどがKO勝ちと言う全盛期の甲斐に近い成績だ。この成績には大倉会長、伏見提督、三船所長も強い関心を見せていた。

「……ラァールシャッハ。これもお前の改造が故か?」

「いや、そうとも言えない。明らかに赤羽美咲は我が研究所にいた頃とは別人になっている。和成が全身義体に改造した際に何かを細工したのではないかね?」

「……私にそんなつもりはないよ」

「……和成、赤羽美咲を我が伏見総本山に預けないか?いい選手になる」

「あの子が望むならそれでもいいかもしれない。でも今は彼女の好きにさせてあげるといい」

3人が変わらず視線を向ける。そして舞台はついに決勝戦へと移った。

「……」

「……」

決勝戦。この日最後に畳の上に立つのは両者共に大倉道場の出身。赤羽美咲と馬場久遠寺だ。

「……本当に決勝で久遠ちゃんの相手が美咲ちゃんになるなんてね」

「久遠、約束してください」

「何?」

「私が勝ったら空手をやめないでください。あの人の道場でだけでもいいので続けてください」

「……美咲ちゃんが勝ったらね」

「……全力で来てください」

「いいよ」

畳の上で視線を交差させる二人。緊張で息を飲む甲斐達。

「これより決勝戦を開始する!!赤……赤羽美咲!黒……馬場久遠寺!!」

主審の号令にあわせてヘッドギアを装着した二人が前に出る。

「正面に礼!お互いに礼!構えて、はじめっ!!」

開始されると同時、赤羽は全速力で久遠へと迫る。まるで短距離走のように。そして足が届く範囲に着くと同時に跳躍して両足同時に飛び前蹴りを放つ。ドロップキックとは違って左右違った場所への攻撃だ。

「甘いよ」

しかし久遠は両手でその両方をはたき落とす。そして赤羽が着地すると同時に拳を繰り出す。放つ場所は赤羽の脇腹、鳩尾、鎖骨。赤羽は防御を固めるが、まるで申し合わせたかのように僅かな間隙から久遠の小さな拳が赤羽の脇腹、鳩尾、鎖骨を穿つ。

「っ!!」

それに耐え、赤羽は久遠の手が届くような距離から上段飛び膝蹴りを繰り出す。が、それも久遠が首を横にするだけで回避。拳を放った後の両手を手刀に変えて赤羽が放った膝を左右から押しつぶすように手刀で穿つ。

「……制空圏を前提にしつつ徹底的に相手の急所を狙うか」

「あれ、久遠ちゃんの本気だよ。本気で久遠ちゃんは赤羽ちゃんを倒そうとしているみたい」

「俺、午前までの久遠の試合見てたけどあそこまで攻撃に出るってのはなかったぜ。赤羽ちゃん相手にしてやっと久遠も本気で倒しにきたって事だろうな」

甲斐、最首、斎藤がそれぞれ考察。それを確かに聴覚のどこかで捉えながらも認識できないまま赤羽は一歩後ろに下がった。それを見てから久遠は尻目で時計を見る。

「どうしたの?まだ10秒しか経ってないよ?」

「……まだまだです……!」

再び赤羽が走り出す。そして繰り出したのはまるで握手をするかのように前に出した右手。疑問に思いつつ久遠がその手を払うと、再び赤羽は右手を前に差し出す。当然それも久遠は払いのけ、の無限ループ。

「……あの子、何してるの?」

「……差し出した手をどう払うかに着目しているんだな。もし久遠が制空圏の変形を始めたら……動くぞ!」

最首の質問に甲斐が応えた直後。それまでとは違った方向に久遠が赤羽の手を払うと同時、赤羽は左の拳を超スピードで繰り出す。

「っと、」

もう片方の手で払う久遠。しかし赤羽は続ける。しかも払われる度にパンチは速度を増していく。さらには膝蹴りを混ぜたり。だが、それもすべて久遠の制空圏によって阻まれてただの一度も直撃を許されていない。

「……久遠の奴、あれで本当に白帯かよ。あそこまでの制空圏、成人してても早々滅多にいないぜ」

斎藤が嫌そうな表情をする。

「……だが、あの子はまだ狙っている」

「あ?」

「……」

甲斐も半信半疑だ。既に2分が経過して、しかし赤羽は闇雲に攻めているようにしか見えない。そしてついに、久遠が払いのけた赤羽の右手首が妙な方向に曲がった。

「っ!」

「あ、ごめ……」

しかしその瞬間。赤羽はその曲がった右手首を再び握手するように久遠の前に差しだし、そして跳躍した。

「白虎一蹴!!」

「っ!!」

突然放たれた神速の飛び後ろ回し蹴り。やや遅れながらも反応した久遠はこの一撃をガードする。だが、払いのけることも防ぎきることも出来ずに

「くうううああああああああ……っ!!!」

その小柄が宙を舞う。今日、この日誰からもただの一撃ももらったことがない久遠が今、赤羽に蹴り飛ばされて受け身も取れずに畳の上を転がった。

「……やりやがった……」

誰が発したものかは分からない。だが、この流れに会場全体が大きく沸く。

「せっ!!」

赤羽の下段払い。

「技あり!!」

主審の宣言。これにより、久遠は残り30秒を切ったこの本戦で赤羽から技あり以上を奪わないと判定負けが確定する。

「……ほう、」

離れて見ていた雷龍寺も思わず言葉を漏らす。

「いるものじゃないか。あの久遠とそれほど歳の差がないにも関わらずに本気にさせられる奴が」

雷龍寺の見る先で久遠は立ち上がった。そして、ゆっくり赤羽に近付くと、目にも止まらぬ速さで下段を繰り出した。

「!?」

赤羽は何が起こったのか分からなかった。気付けば左足に尋常ではない痛みが広がっていた。

「すごいね、美咲ちゃん。ここまでやるなんて思ってなかった。だから見せてあげるよ、久遠ちゃんの最初で最後の超本気!」

再び繰り出した久遠の回し蹴り。それは赤羽の胸元に命中し、布を足でひっかける形で持ち上げて、体格で劣る久遠が右足一本で赤羽の全体重を持ち上げて真上に投げ飛ばす。その上で久遠も跳躍して空中で赤羽の左腕をがっちりと掴んで一気に肘関節をねじ曲げる。

「ぐっ!」

「馬場家秘伝・膝天秤!!」

自身の膝を赤羽の鳩尾に当てた状態で着地。その衝撃のすべてが久遠の膝を通して赤羽の鳩尾を貫いた。

「…………ぐうううっ!!!」

ゆっくりと赤羽が崩れ落ち、久遠が下段払いをする。

「技あり!技あり相殺!!」

久遠は立ち上がり、赤羽は腹を押さえたまま痙攣している。

「……馬場家は末妹だろうとやばいな」

甲斐がつぶやく。

「それより赤羽ちゃん、大丈夫なの!?」

「二人分の体重を鳩尾に打ち込まれてるんだぞ……!?下手すると死ぬぞ!?」

「……完全に直撃を受けていたらな」

「……え、」

「……久遠の膝よりも先にあの子の足が着地していた。見た目ほどダメージはないはずだ」

「ってことは……」

視線が再び赤羽の方へと向かう。既に久遠は油断しているのか、視線を赤羽から外す。逆に主審が赤羽へと歩み寄る。

「立てるか?やれるか?」

「……はい」

主審の声に応えて赤羽が立ち上がる。

「まだやるんだ。楽になっちゃった方がいいんじゃない?」

「……」

ふらふらしながら赤羽が久遠へと向かっていく。手が届く範囲まで来ると再び握手をするように手をさしのべる。久遠がその手を払った瞬間。

「……え」

払った手を赤羽が掴み、直後空いた久遠の脇腹に赤羽が回し蹴りを打ち込む。しかも一度ではない。払われるまで4発たたき込んだ。

「くっ、」

距離をとる久遠。しかし赤羽は同じだけ距離を縮める。拳を握りしめたまま。

「……確か青龍……!?」

久遠が構える。赤羽の上半身に集中し、そして繰り出されたのは赤羽の下段前蹴りだった。

「くっ!!」

視線を合わせたままで放たれた赤羽の右の下段前蹴りは久遠の下腹部に命中。金的のギリギリ上と言うラインで直撃を受けて久遠が後ずさる。

「……っ!!!」

「!」

その直後だ。久遠がまるで抜刀でもするように半身を切った。しかし右利きの久遠とは逆の、左腰から抜くかのような構え。

何の技だと甲斐が問おうとした瞬間に

「虎徹絶刀征!!!」

気付けば久遠の右足が赤羽の左足に打ち込まれていた。その足は今赤羽の軸足となっていて、赤羽の体重の大半を支えていた。その足を久遠は一撃でなぎ払い、赤羽の体を再び宙に舞わせた。

そこで、アラームが鳴り響き、本戦が終了する。

「……そこまでっ!!」

「……あらら。ちょっと遅かったか」

久遠が下がる。一方でしりもちついた赤羽は青ざめていた。左足の感覚がないのだ。

「……あの子、まさか今ので左足が折れたのか……?」

「……ううん、折れてはなさそうだけど……」

甲斐と最首が心配する中、主審が試合続行できるかを確認する。ちなみに判定は引き分け。そのため赤羽が試合続行可能であれば延長戦が開始される。

「……やれます」

立ち上がった赤羽。ふらふらこそしていないが足取りが妙だ。

「やめておいた方がいいと思うよ美咲ちゃん。今のでもうその足、ろくに動かせないんじゃないの?」

「……やれますよ。あと久遠。ずっと思ってましたけど」

「何?」

「試合中に私語は慎んでください。こんな形で反則勝ちなんて嫌です」

「……まだ勝つつもりなんだ」

インターバルが終わり、延長戦が開始される。

久遠は不動立ちのまま。赤羽がゆっくりと距離を縮めていく。手が届く距離にまで近付くと放ったのはパンチラッシュだ。

苦手というわけではないが得意というほどでもないパンチでは久遠には届かずすべてが制空圏で弾かれてしまう。そして見つけた間隙に久遠は赤羽の右足へと下段回し蹴りを集中。

「くっ、」

「足が使えない振りして不意打ちをって戦法はもう使わせないからね」

赤羽のパンチを自身の両手で弾きながらひたすら赤羽の右足へと攻撃を続ける。

「……これが本当に交流大会かよ」

斎藤が苦笑する。実際ここまでレベルが高いのは清武会レベルだろう。勝っても負けても二人揃って清武会に参加できるレベルなのは間違いない。ただ唯一、この試合で無事に済まないという例外を除けば……。

「っ、」

赤羽の手が止まる。感覚がない左足、ずっと蹴られまくって激痛の右足。ずっと弾かれまくってて両手も既にボロボロ。フェイントどころか通常の攻撃すら危うい。実際主審はいつ止めるべきかと考えている頃だろう。

「……ねえ、廉君。赤羽ちゃんって全身があれじゃなかったっけ?何で痛覚発生してるの?」

「……こっちの右足は痛覚切られているが彼女の場合全身だから疑似的なものでも痛覚が用意されてるんじゃないのか?」

「……そうなんだ」

会話の二人。やがて久遠が動き出した。しかも取った構えは先ほどと同じ抜刀するかのような構えだ。

「……またあのバカ強い回し蹴りが来るのか……!」

斎藤が戦慄。観客もざわめく。

「これで終わりにしてあげる」

久遠が小さく笑う。赤羽は唾を飲み込み、構えを解いた。

「諦めちゃったの?」

「……待ちかまえているのです。あなたの虎徹を」

「……へえ、久遠ちゃんの虎徹絶刀征をどうにかできると思ってるんだ。それともまたカウンター狙い?そんなこと出来る訳ないと思うけどね」

口を閉じ、集中を開始する。そして、

「虎徹絶刀征!!」

放たれた神速の一撃。甲斐でさえもギリギリで反応できる速度の一撃。対して赤羽は体勢を低くして左腕と上半身全体でその一撃を受け止めた。あまりの衝撃に受け止めた赤羽の胴着が破れてチェストガードに亀裂が走る。さらには赤羽の左腕の人工義手にすら亀裂が走っていき、金属片が足下に散らばる。が、

「……防ぎきった……!?」

それ以上の破壊はなく、久遠の勢いもなくなった。そして、

「白虎絶刀征!!」

「え!?」

赤羽は右足を軸足にして独楽のようにその場で回転。感覚のない鈍器と化した左足で久遠の軸足となっている左足を穿つ。

「っ!!」

軸足を攻撃されて転倒する久遠。対して赤羽は下段払い。

「技あり!!」

主審の応答。ざわめく観客。しかしそれはこの結果による物だけではない。ガードした赤羽の左腕からこぼれ落ちる金属片に着目していた。

「……まずいかもしれないな」

各道場の代表3人が少し表情を変える。

「……私の改造では赤羽美咲のボディはダメージを追うほどに硬質化していくようにしてある。全身義体とは言え生身の部分は残してあるのだろう?」

「だからこそ逆に言えば金属部分にダメージがあると危険なのだ」

「宇宙空間で宇宙服が損傷したようなもの。或いは内臓補助の機械を入れている者のその機械が壊れたようなものか」

「……試合はもう終わりのようだ」

大倉が立ち上がった。コートへと歩み寄れば自然とギャラリーが道をあける。

「……会長……」

主審が気付き、甲斐達が視線を向ける。

「……」

大倉がコート内の状況を見た。左腕の金属片をこぼし、左足の感覚を失いながらも不動立ちのままこちらを見やる赤羽。対して久遠は両足を負傷したのか立ち上がろうとしても立てない状態だ。

「そこまで!!勝者は赤羽美咲!よって本大会の優勝者は大倉道場の赤羽美咲とする!!」

大倉の宣言により沸く会場。

「……あ~あ、負けちゃった」

畳の上で大文字に寝そべる久遠。ヘッドギアを外して赤羽に笑顔を見せる。

「楽しかったよ、美咲ちゃん」

「……私もです、久遠。また一緒に……」」

しかし言葉は続かなかった。赤羽がその場で倒れたのだ。あわてて甲斐と最首、斎藤が駆け寄り、大倉が赤羽を抱き上げる。

「特別救護班!担架を!ラァールシャッハも追随を!!」

「……はいはい」

三船所長が両手をあげながら立ち上がる。代わりに伏見提督がマイクを持つ。

「これより閉会式を始める!赤羽美咲と馬場久遠寺以外の選手は整列を!」


5時間後。午後8時。病室。久遠の容態は決して重くない。幸い骨折もなく、当日のみの入院で事足りそうだった。それを聞いて胸をなで下ろす甲斐。小さく笑いながらその肩をたたく雷龍寺。

対して赤羽の方は左手足の義体に無視できない損傷が見られていて手術と再改造が必要となってしまった。つまり、大倉機関だけでなく三船研究所の力も必要となる。そこに不安を感じながらも甲斐達は赤羽の病室を訪れる。

「……あまり見ないでください」

病室にいた赤羽は左手足が切除されていた。断面には包帯が巻かれていてその先端にはよくわからないタコみたいな機械がくっついていた。

「……不安はあるかもしれない。俺も不安だ。……何の励ましになるかも分からないが今日の試合、よかったぞ。……赤羽」

「……ありがとうございます。甲斐さん」

大倉と三船所長に会釈をしてから甲斐達は病院を後にした。


スタッフの車で学生寮に戻った甲斐。時間は既に10時過ぎ。とっくに食堂は閉まっているだろう。そのためコンビニで弁当を買ってきた。

「……穂南?」

ノックをする。だが、返事はない。しかしドアの向こうに人の気配はある。

「……さてはまた矢尻後輩とやってるのか?こっちは大変だったってのに。入るぞ」

ドアを開ける。まず最初に得た違和感はカーテンの仕切がなくなっていたことだった。

「……え」

そして次に、見慣れない大男が部屋にはいた。

「あなたが甲斐先輩か?」

「……お前は?」

「中等部3年の権現堂と言います。矢尻達真のルームメイトです」

「……矢尻って何だ。今そっちの部屋にいるのか。それでお前は追い出されたってわけか」

「……」

甲斐の軽い口調に権現堂は応えない。気にせず甲斐はベッドについて弁当を食べ始める。

「先輩」

「何だ?」

「……単刀直入に言います」

「ああ」

「……穂南蒼穹先輩が……お亡くなりになりました」

「…………は?」

甲斐はすべての感覚を失った。


・校門前。甲斐はそこに佇んでいた。待ちかまえる相手はただ一人。

「……」

それを待ちかまえながら甲斐は追憶を始めた。

普通の小学校を卒業してから甲斐はそれまで自分を引き取ってくれた家を離れて全寮制のこの学園にやってきた。会いたい人もいたから。

幸い空手を続けられる距離だったこともあって甲斐としては特に引っ越しに関しては特に不都合はなかった。ただ、ルームメイトがいない独りだけの世界は少し寂しかった。帰ってきても誰もいない夜というのはそれだけでトラウマに強く響く。たまに斎藤やほかの友達の部屋に泊まることもあったがいつもそうという訳には行かない。だから孤独な夜を、眠れない夜を過ごす事も多かった。

「……やっぱり家にいた方がよかったかな?」

「……来年を待とうよ。きっと今年だけ奇数なんだよ」

「……けど、」

「ほら、頑張れ。男の子」

毎晩のように励まされたり慰められていた。畳の上からは想像もできない程弱気だった。孤独と強さが比例するのかこの頃の甲斐は負けなし超有望の選手だった。この頃にはカルビ大会にも出場していて早龍寺にも勝利するなど、より上のランクの選手である雷龍寺や剛人からも密かに注目されていた。

そんな中で2年生になった。高3勢が卒業して代わりに新入生が入る。これで男子が偶数になれば甲斐にもルームメイトが出来る。そうなれば少しはこの孤独もなくなるのではないかと思った。だが、実際には運悪くまた男子で一人だけ余ってしまった。のだが、

「……女子?」

何故か女子が一人余ったとかで甲斐と同室になった。もちろん職員室の会議などでも何度も話し合われたが、相手方の方が問題ないと言うことで試験的に一ヶ月だけ同室生活が行われた。

同じ部屋に住む女子の名前は穂南蒼穹。クールというか自堕落というか何を考えているのか分からない女だった。5月という時期に転校して来るというのは確かに妙な点だが、この学校自体が親がいなかったりいなくなったり、家庭環境最悪だったりとそう言う子供達を積極的に集めているためあまり気にはしない。

「……何かルールとかある?」

最初に蒼穹から話しかけられたのはこういう感じだった。

「……え?」

「一緒に住む上でのルール」

「……俺は毎日空手の稽古があるから帰りは遅いと思う。でも、出来れば起きていてほしい。……ただいまって言える人とおかえりって言ってくれる人がほしいんだ」

「……分かった」

それから安眠できる日が増えた。

「最近調子いいみたいだね」

「……まあね」

「でもどうせ男女同室でいいって言うなら僕が一緒ならよかったのに。蒼穹ちゃんにはちょっとジェラシーかな」

「……」

それから数ヶ月後にあの事件が起きる。夏の夜に消防車と救急車が出動し、学生寮近くの無人発電所に集結した。甲斐はその頃一緒だった3人と一緒に肝試しとしてその無人発電所に行き、遊んでいたのだが甲斐のミスにより一部ケーブルが破損。これにより火災発生。幸い甲斐は軽いやけど程度で済んだのだがほか3人は重傷。

「もうお前なんていいよ」

「顔も見たくない」

内二人はひどいやけどを負ったまま退学。どこかの病院で今もまだ安静にしているのだろう。

「……やらかしちゃったようね」

部屋。反省文を書かされることになった甲斐を後ろから蒼穹がくすくすと笑う。

「……笑い事じゃない。俺は大変な事をしてしまったんだ……」

「……私にどうしろって言うの」

「……そばにいてくれるだけでいいんだ。もう誰とも離れたくない……」

「……はいはい」

そう言って蒼穹は甲斐の頭をなでた。感極まった甲斐は蒼穹の胸に……ではなくトイレで吐きまくることになった。

「……いつかのお返し」

「は?何か言ったか?」

「何でもない」

蒼穹はただ便器に顔を埋める甲斐の背中を叩いてやった。

それからしばらくの間、甲斐は空手にも行かなくなってずっと部屋に閉じこもることにした。最初の内は学校にすら行かなかった。それでも蒼穹は気怠げながらもずっと同じ部屋にいた。

「だからその熱で風呂とか無理だっての」

「うるさい……あと、せめてパンツ履くまではこっち見るな……」

調子悪い時には支え合い、

「……えっと、生理の薬ってこれでいいんだっけ?」

「……廉君何してるの?」

寮前のコンビニで生理の薬を探してたところ、最首と道場以外で初めて出会い、その年の新入生だと言うことも知った。その最首に励まされていく内に徐々に空手にも復帰をはじめ、また大会にも出るようになった。

それでもまだあの炎の夜は夢に出る。

「……部屋にいてくれるのは嬉しいけどそんな1年中引きこもってたら体壊すんじゃないのか?」

そろそろ3年生になる日に甲斐は疑問を口にした。蒼穹は明らか最初は甲斐のために部屋にいてくれていたがしかし、もう甲斐が普通に稽古に出るようになってからもあまり外には出ない。

「……余計なお世話よ」

「世話くらいさせろよ。お前には感謝してるんだから」

「……感謝か」

「どうした?また薬でも買ってこようか?」

「…………いらない」

ベッドに寝そべったまま蒼穹は素っ気なく答えた。高校生になり、男女の数に変化がなかったのか甲斐と蒼穹の同居生活は続いた。2つ下に妹である穂南紅衣がいることもその頃判明した。

「妹さんいたんだな。何で教えてくれなかったんだ?」

「……ナンパでもする気?……変に気落ちされると面倒だからよ」

「……あー、なるほど。穂南って結構気遣い細かいよな」

「……うるさい、ばーか」

やがてカルビで優勝した甲斐はいよいよ全国大会に出場することになった。同じくらいから蒼穹は甲斐に隠れて妹からの紹介で知り合った達真と何度か会うようになった。最初はただ、妹の友達ないしはそう言う関係だと思って口も手も出さなかった。だからいつそんな関係になったのか。

「……これも運命って奴なのかもね」

「……運命って言葉、俺あまり好きじゃないです」

最初に関係を持った後、達真はそう答えた。

「俺、少し前に大切な人を失ってるんです。あ、でも紅衣はそう言うあれだと思ってるわけじゃないですから……!」

「……分かってるわ」

「それに、蒼穹さんだって……」

「……達真君。もしも私と紅衣のどちらかを選ばないといけなくなった時には、迷いなく紅衣を選んでね」

「……え?」

「紅衣から聞いたか分からないけど、私達の両親は最悪だった。適応障害の母親は毎日小学生だった頃の私達姉妹を何度も怒鳴ったり殴ったりしてた。父親も父親で母を相手にするのが疲れたのか帰ってこない夜もあった。私が中学生になった頃、紅衣が修学旅行に行って、母親が怪我で入院している頃ね。父親がどこかから連れてきた若い男達に私は陵辱された。その時に私は家を出たのよ。なるだけ遠いところに生きたかった。一度孤児院で世話になりもした。その時に精密検査を受けたらさ、妊娠はしてなかったんだけど代わりに子宮ガンが見つかって、その時には手術して子宮を切除したからまだ大丈夫だった。それからこの学校に来て、甲斐と一緒の生活をするようになった」

「……その事、先輩は?」

「……あいつとの生活が1年くらいした時に少しだけ。もうガンの再発はないってだけ伝えてある。……まだ内緒にしてるけど私がもう子宮がないってことは学校も知ってる。だから毎月やってる私だけの身体検査って言うのは甲斐が約束を守っているかの処女性チェックと言う訳じゃなくて私のガンに関する精密検査なのよ。……それから達真君と同じ頃に紅衣もここに入学した。両親揃って薬物に手を出していきなり自分達じゃ怖いからって紅衣に使いやがった。それで両親は一緒に逮捕。紅衣も精密検査してからの入学。一度だけだからそこまで体に影響がなかったんだけど」

「……そう、ですか」

「……ごめんね、こんな話して」

「……あの、蒼穹さん。もしかしてガンが……」

「…………うん。発見されたのが遅かった。子宮だけかと思ってたけど実は背骨に移っててね。そこからもう手遅れのレベルで全身に回ってる。きっとそんなに長くないと思う。……だから達真君。選ぶなら私じゃなくて紅衣にしてね」

それから達真がしたことは紅衣と一緒に蒼穹も出来るだけ幸せにしてあげようと、ささやかな努力を開始した。それが自分のふしだらな欲望に過ぎないことは分かっていたけどそれでも何か意味を持たせたくて……。


「……来たか」

甲斐が追憶を止めて迫る足音へと視線を向ける。その相手は達真だった。

「……」

「……」

互いに視線を交差させる。

「……穂南を看取ったのはお前だな?何か言い残していたこととかあるか?」

「……自分のことは忘れてほしいって言うのと妹のことを頼むって」

「……そうか」

甲斐は危険な勢いで達真へと歩み寄り、その襟首を掴みあげる。

「どうしてあいつは死んだんだ!?お前が着いていながら、何でだ!?」

「……それは、こっちの台詞だ!!あんたが、あんただってずっと一緒にいたのにどうして先輩のガンに気付いてあげられなかったんだ!!」

「ガンだと……やっぱりまだガンを引きずっていたのか……それともお前が……」

「俺が何したって言うんだよ!!!」

甲斐の手を払い、達真は甲斐の顔面にパンチをたたき込む。

「蒼穹さんはずっと俺のこともあんたのことも心配してた!あんたなら何とか出来たんじゃないのかよ!!そんな右足にするくらいの技術があるんならあの人をどうして救ってやらなかったんだ!!!」

怯む甲斐の胸や顔を何度も殴りつける達真。その拳は常人のそれではない。現時点で赤羽のそれを遙かに上回るものだ。それが今、怒りと悲しみのままに何度も振り下ろされている。

「夜も朝もずっと一緒にいたくせに……どうして今日という大切な日にあんたはいなかったんだ!?」

「……お前だって!!」

甲斐の反撃。放たれた拳の一撃で達真は大きく吹っ飛ばされてコンクリートの上を転がる。

「お前だって、日中俺がいない間ずっと腰を振ってたくせによく言うよなぁ!?あいつの体のことを知っていながら人の部屋で何盛ってやがったんだ!?あぁ!?」

倒れたままの達真を片手で掴みあげる。

「あいつといつから知り合いなのかは知らないが、俺より先に知ってたって言うならどうして病院とかに連れて行ってやらなかったんだ!?」

「相談しなかったとでも思ってるのか!?けど、蒼穹さんは言ったんだ!この前の精密検査の段階でもう手遅れだって!!」

「この前だと!?もっと前があっただろうが!!あいつから何をどう聞かされたのかは知らないが、結局それに乗っかって一緒になってあいつの体を虐めてただけだろうが!何二人揃って絶望ごっこなんざしてんだよ!あいつの男だって言うならたとえあいつから何を言われようとも救ってやらなきゃいけないって事も分からないのか!?」

達真を投げ飛ばし、壁にたたきつける。

「……ぐっ、もう助からないってあの人は言っていた……!助かる見込みもないって……だからあの人は今自分に出来ることだけをしたいって……!!」

「だからって、お前があいつを殺す理由になるかってんだよ!!!!」

立ち上がってきた達真の顔面を思い切り殴り飛ばす。

「ぐふっっっ!!」

吐血しながら達真が再び吹っ飛ばされて何度も足下に血とゲロを吐き出す。

「お前の方こそ、あいつが死ぬって分かってたくせに何もしてやらなかったくせに……俺を憎む権利があるって言うのか!?」

「……何もしてやらなかったのはあんたの方だろう!?」

立ち上がった達真が甲斐に詰め寄ってその顔面を殴りつける。

「いつもいつもあの人に対して素っ気なくて……あの人が最後に誰の名前を呼んだか知ってるか!?俺でも紅衣でもなくあんたなんだぞ!?ただいまが言えなくてごめんなさいって、蒼穹さんはあんたのことをずっと待っていたのに!!」

やや躊躇の後に達真は甲斐の右足に下段を打ち込む。しかし完全に義足の部分に命中したためただ達真が足を痛めただけだった。

「このっ!!このっ!!!」

痛みであがったアドレナリンを利用して達真はひたすら甲斐を殴り続ける。

「あの人と一緒に暮らしていたのはあんただろうが!!死神!!!どうしてその手であの人の寂しさを埋めてやらなかったんだよ!!!あの人が俺みたいなガキを選ぶようになるまで追いつめられるのをずっと傍で見るだけだったんだよ!!」

「その役目はお前だろうが!!」

達真の腕を掴んでそのまま達真を投げ飛ばす。

「穂南がお前にだけは心を許していた!だからお前ならあいつの寂しそうにしている顔をどうにかできると思った!けどお前は何もしなかった!!ただ欲望にかまけて腰振ってただけじゃねえかぁ!!!!」

達真の腹に拳をたたき込む。全国区ですら拳の死神と言われた男の激怒した拳を受けた達真は一気に顔を青ざめて倒れ込む。

「……このままあいつのところに……」

「……そこまでよ」

新たな声。見れば、月光の下に火咲が立っていた。

「……最上火咲……」

「……あんた達二人が争って何になると言うの?ただ怒鳴り合ってるだけじゃない。それであの女が笑ってくれると思うの?」

「……うるさい」

「あんた達二人が揃って、互いに会話もろくにしない他人任せの愚図だったからあの女は、穂南蒼穹は死んだのよ」

「うるさい!!」

「自分の近くにいた女が傷つきながら死んでいったことに耐えられない自分の弱さを八つ当たりするんじゃないわよ!!」

火咲は怒鳴り、甲斐に近付く。

「ば、バカ……お前まで死ぬぞ……」

血を吐きながら達真が火咲に手を伸ばす。

「本望よ。あの女から私はあんた達二人のことを託されたんだから。それであんた達同士で殺し合われてどっちも不本意にこの学校を去るなんて事になったら私は未来で殺されるわ」

「訳の分からないことを……」

甲斐が火咲の胸ぐらを掴みあげる。

「……赤羽美咲にあんたと同じ悲劇を味わわせるつもり?」

「何……?」

「自分がいない間にルームメイトが知人に殺される。それが自分の師匠だったら?せっかく今日名前を呼んでもらったばかりの師匠にルームメイトを殺されたらなんて思うかしら?」

「……ぐっ、」

「あんた達がすべきことは対消滅じゃないでしょうが!」

火咲は甲斐の胸ぐらを掴む。いつかの推測通りにその手に握力はほとんどない。間違いなく日常生活に支障が出るレベルだ。それでもその手で火咲は甲斐を掴んだのだ。

「協力しろだなんて言わない。でも、少なくともこうして自分に優しくしてくれた身近な男達に誰が殺し合ってほしいと思うのよ!もし、これでもまだ続けたいって言うならここから先は私が買うわ。二人揃って私が殺してあげる。不甲斐ないその様をあざ笑うまでもなくね!!」

「……」

にらみ合う甲斐と火咲。そして達真。やがて、甲斐が拳を握った時だ。

「……血なまぐさいことしかできないんですか?あなた達は」

「……!」

新たな声が生まれた。少女の声だ。火咲はその姿を見ると、何故か急に頭痛に襲われた。目眩をしながら見たその姿は自身と同い年くらいの少女だった。こんな夜中に外を出歩いて大丈夫なのかと心配になる白いワンピースの少女。

「……どうしてここに……」

甲斐の表情は間違いなく先ほどまでのそれとは別の色となっていた。

「……」

少女は何も答えない。代わりに火咲の方をじっくりと見る。

「……あなたは違うみたいですね」

「何の話よ」

「知らないなら知らないでいいんですよ。そっちの方が私にとっては好都合です」

「……」

甲斐が少女の方へと向かう。

「どうしてここにいると聞いているんだ」

「視察。それと今日はあなたが荒れそうだったので」

「……まるで今日何が起こるか知ってるって感じだな。まさかとは思うが穂南蒼穹の関係者か?」

その名前を聞いて達真と火咲がややうつむく。

「……まあ、名前だけなら知っていますよ。と言うか昔一緒に会いましたよね?」

「……そんな昔のことはもう覚えてない」

「だからあなたはまた悲劇を起こすのですか?」

「起こしたのはお前だろう!?」

「……お前?」

「……う、」

少女の表情が変わり、甲斐が後ずさる。それを見てから少女は続ける。

「その足の事も聞いていますよ。心配されたくないからって家族にも黙っておくだなんてね」

「……家族?」

ここで達真が初めて口を挟む。

「あんた、さっきから一体誰なんだ?」

「……私の名前は、」

「必要ないことだ。……矢尻、葬式とかはいつやるんだ?」

「……明日。ごく一部の関係者だけで行うって言ってました」

「その中にうちらは入ってるのか?」

「もちろんです。俺と死神先輩と、赤羽美咲。そして何故かそこの最上火咲にも」

「…………」

火咲は視線をかわす。

「……なら今日は早く寝ないといけませんね。一人で寝られますか?何なら私が一緒に寝てもいいんですよ?」

「……余計なお世話だ。矢尻、もういっこ確認だが、穂南の死因はガンなんだな?」

「……はい。心臓、膵臓に回りきっていた末期ガンです。今日のお昼頃俺と権現堂と紅衣とで看取りました」

「……そうか。…………感謝する」

それだけ言って甲斐は一度少女を一瞥してから寮へと戻る。すれ違い様に一度達真の肩を軽く叩いた。

「……どうして最初からそれが出来ないんですかね」

少女がため息をつく。

「……ねえあんた、どこかで会ったことないかしら?もしかして三船の……」

「私は大倉でも伏見でも三船でもありません。そしてあなたとは初対面ですよ、最上火咲さん」

それだけ言って少女は去っていった。

「……あんたもさっさと帰って寝たらどう?あのでかいのが待ってるわよ」

「……お前、死神先輩と何かあるのか?蒼穹さんともいつの間に……」

「……別に。何もないわよ」

軽く手を振ってから火咲もその場を後にした。

「……あの先輩とは逆に今日は一人になりたいんだけどな」

達真は脱力してその場に横たわる。楽になればなるほどに全身を激痛が襲う。

「……死神め、本気で殴りやがって……殺す気か」

幸い骨折や内臓の損傷はない。口の中をかなり切ってるだけだ。

「……あの時ももしかしたらこんなに綺麗な夜空だったのかもな」

春の夜空を見上げる達真。

「……蒼穹さん……陽翼……」

そしてそのまま目を閉じた。


翌日。寮の一室で小さな葬式が開かれた。職員を除けば参列者は甲斐、最首、紅衣、達真だけだった。

入院中の赤羽はともかく火咲が来なかったのはまあまあ予想はしていた。

紅衣はある意味現在唯一の家族を失ったからか丸一日以上泣きっぱなしだった。そんなに面識があるわけではないが最首が一生懸命宥めている。残された甲斐と達真は無言のまま手を合わせた。遺影には二人が見たことのない、今よりやや幼い頃の笑顔があった。

暗い雰囲気のまま蒼穹の荷物整理が行われた。多くは紅衣が回収したが、やはり処分してしまうものも多かった。そんな中甲斐に残されたのは、何年か前に一度だけ誕生日にプレゼントした時計だった。寝坊しがちな蒼穹のために買ってやったものだ。蒼穹のベッドにはスマホとこの時計だけがいつも置かれていた。もう、この時計が彼女を起こすことはない。

「……僕といられて誰が幸せなんだよ……」

甲斐はその時計を抱きしめたまま一人きりの部屋で眠りに落ちた。


懐かしい感覚。何も考えずに勝手に手足が動く。しかし心のどこかで頭の何かがこれを全力で拒絶している。ならばこれは夢なのだろう。

「……甲斐、起きなさい。遅れるわよ」

「……あ、ああ。今起きる」

「昨日も夜遅かったからそうなるのよ」

「……そう言う穂南は完全に健康体なんだな」

「手術受けたからね。もう、いつの話をしているのよ」

「……いや、こんな未来もあったらよかったなって」

いつも通りの朝。蒼穹が珍しく外行きの私服姿だ。年に数度も見れるか怪しいワンピース。

「…………そう」

「なあ、穂南。お前はこの5年間どうだった?せっかくつらい境遇から逃げてこられた先がここでよかったのか?」

「……あんた何か勘違いしてない?男子からは変な目でしか見られないし、女子からもあまりいい関係を築けなかった私が5年間も一緒にいたのはあんただけよ。……悪くなかったわ。最期にあんたがいなかったのはいいような悪いような気もするけどね」

「……穂南……」

「甲斐、もうあなたの過去になってしまう私が言うのもなんだけど、後悔は過去からしか来ないくせにやり直しが効かないものよ。でも、終わってないものならまだ過去じゃない。もう、私のような無念は残さないでね」

「穂南……」

甲斐は手を伸ばす。しかし、それは蒼穹に届かなかった。

「……穂南」

気付けば甲斐は元の一人きりの部屋にいた。夢から覚めたようだった。

「……今頃は矢尻の奴も同じ夢を見てるのかもな」

頭をかきながら甲斐はスマホを手に取る。最首や赤羽からのメールがある。そして、

「……穂南蒼穹」

気付かなかったが時間差でメールが送られてきていた。

「一度言ってみたかったのよ。あんたがこのメールを見る時、私はもうこの世にいないでしょう。……いたならただの冗談って事で」

そんな文面だった。

「……何やってるんだか」

よく見たら空白エンターで下の方に続きがあった。

「三咲さんにまた会えますように」

「……」

悪い冗談なら本当にそれでよかった。けど、もっといい未来のために。

「……少しは頑張ってみるか。後悔しないためにも」

甲斐は急いで最首や赤羽からのメールに返信した。そして、今朝から無視していたそのメールにも手を伸ばした。

「4月からお世話になります」

「……」

1つの現在が過去となり、そして今過去から新たな火種が再び舞合う。

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