一、鼻に詰めるな!

 チャイムが鳴り、冷房がささやかに効いた部屋に、生ぬるい空気が入ってきた。生徒がぞろぞろと教室を出る中、大きく溜息をついて机に突っ伏す。

「どうした? 明」

 同じゼミの松木が、ペットボトルのコーラを飲みながら話しかけてきた。

「今日の沢村先生の話」

 短く答えると、松木は納得したようにうなずいた。

 本日の法哲学ゼミは、内容を大幅に変更して、どういうわけか就職活動の話になった。

『将来の夢=就職ではない。やりたいことを仕事にできるほど、現実は甘くない』

 言われなくたって、身にしみてわかっていることだった。なのに、今更頭にがつんと響いた。



「みんな就職活動はしているか?」

 沢村先生が突然質問すると、ゼミに参加していた全員が顔を見合わせた。大学四年生の明たちに、この質問はされて当然のものだったが、ゴールデン・ウィークが終わって五月後半。心地よい気候にだらけきっていたのに、冷水を浴びせられた気分だった。

 時は就職氷河期。数年前の青田買い時期とはうってかわり、内定をいくつも取れる生徒は見かけなくなり、それどころか就職浪人で大学はいっぱいだった。

「俺はすでに内定あるよ」

 ゼミの目立つやつが堂々と手をあげた。ゼミ内でも優秀で、積極的。似合うかどうかはともかく、独特な青いチェックの服を着ている稲森(いなもり)は、緑のファッションメガネをくいと上げて、得意げな表情を浮かべた。内定が出ていたのは彼だけだったが、他のメンバーも希望の業界をもう見つけていて、楽しそうに話していた。

 それに水を差したのが、先の沢村先生の言葉だった。



 自分は今、具体的で、自分の身の丈にあった夢を述べろと急かされている。いや、夢ではないのかもしれない。夢を捨てること。それが大人になることだ。わかっているはずなのに、今更それが息苦しかった。

「お前のことだから、落ちこんでると思ったよ。そういう俺も全然就活してなくて、悩んでる途中だけどな」

 そう言って松木はにっこり笑うと、メガネの奥の小さな目が、よりいっそう細められた。

「俺なんて、すでに負け組じゃないか。それをどうやってプラス思考にしろっていうんだ」

 嘆く明に、松木は真剣な顔で反論した。

「何言ってんだ。学歴で勝ち負け決まるわけないって、お前自身がいつも言ってることじゃないか」

「そういうことじゃない」

 無論、そんなことはわかっている。新聞に載っている地方銀行のお偉方が高卒だったり、大学を退学してサクセス・ストーリーを歩んだ人なんて山ほどいる。学歴なんて、履歴書のお飾りでしかない。そうとは言い切れはしないけど、あってもなくてもいいと、明自身は都合よく考えるようにしている。

 そうでないと、自分には何も残らない。都合いいことしか見ないやつだと言われればそれまでかもしれない。学歴社会。大学の時点で優劣をつけられては、身も蓋もない。就職活動をスタートする前に、心が折れる。

 履歴書を見られて、聞かれるかもしれない質問。


『大学に入るまでは何をしていたんですか?』


うまく答えられる気がしない。


「浪人してました、で、いいんじゃないの?」

 松木は、何を悩んでいるのか全くわからないというような顔をした。

「浪人とも違うんだ」

「そうなのか?」

 コーラを一気に飲み干すと、彼は席を立った。

「ま、空白の時間があるのは事実なんだろ? よくは知らないけどさ。正直に何してたのか言ってやれよ」

 松木の台詞を流して、カバンを肩にかける。

「どっちにせよ、俺が今やりたいことなんて、ないんだよ。もしかしたら、就活しないかもしれないな」

 のっそりとドアに向うと、時計を見た。秒針が小刻みに進んでいく。

 就活も同じだ。自分が何もしていなくても、他の学生は着々と動いている。時に置いていかれる気がして、恐くなった。



 新宿から最寄りの駅に向う電車は、いつも通り混雑していた。時間はすでに午後七時を過ぎている。ちょっと早めに帰るサラリーマンや、OLが目についた。

 この人たちは、何のために働いているのだろうか。もちろん、生活のため、家族のためということは予想がつく。しかし、ちらほらと聞こえる『社会貢献』という謎のワード。生協で暇つぶしに立ち読みした就職本にはこう書かれていた。「企業が行なっている『社会貢献』に興味を示すことが、内定への第一歩だ」。書類選考や面接で、この『社会貢献』について話して内定をもらうことが、本当にできるのだろうか。そして、実際に働いてからもそれを頭に置いている人間はこの電車の中に何人いるのだろうか。

 アホくさい。

 ドアが開くと同時に、大勢の人が乗り込んできた。汗臭いスーツと加齢臭に、明は吐き気をもよおした。



 コンビニで弁当を物色し、からあげ弁当とインスタントの味噌汁を買うと、家路へと急ぐ。大通りから一本裏道に入ると、閑静な住宅街がある。そこの中途半端に大きい家が、彼の家だ。いつものようにシャッターが閉まっているが、玄関ポーチの明かりはついている。

 どうやらいつもはいない人間が、「いる」ようだ。小さく溜息をついた。

 ポーチ脇で横になっている田口家の番犬シロは、全く明に反応しない。鼻先にはエサの皿が置いてある。満腹らしい。飼い主だから油断しているのかもしれないが、これでは番犬にならない。もともとシロは番犬に向かない性質なのだ。

 こいつは最初、「ジョン」という名前だった。それが子犬のとき、近所のおじさんに「シロ、シロ」と呼ばれてから、自分の名前に反応しなくなった。犬は人を群と見てランクをつけるというが、飼い主の明は近所のおじさんよりランクが低いということらしい。それでも何とか番犬の役割を果たせるのは、でかい体のおかげである。

明はお気に入りのキーホルダーに付いている鍵を差しこんで、玄関を開けた。その瞬間、頭痛のするような甲高い声が廊下に響いた。

「お帰りなさあい、私の可愛いベ・イ・ビー!」

 帰ってくるなり、このハイテンション。これが母・田口明子。御年六十一。還暦を過ぎたとは思えないパワーの持ち主だ。

「今回はどこに行ってたの」

 もう何回、この母には悩まされただろう。回数を考えるだけでもめまいがする。呆れながらもたずねると、「ちょっとイタリーへカンツォーネを聴きにね」と、オペラのような調子で返ってきた。イタリアは「ちょっとそこまで」といった感じで行くような場所ではない。帰宅早々頭を抱えた。

 母の年齢でわかるように、明は少し遅く生まれた子供だ。しかも一人っ子。普通より甘やかされて育った自覚は本人にもある。でも、それなりの苦痛も伴っていると自負している。

 母は、帰宅したばかりの息子を無理やりキッチンのイスに座らせると、勝手に旅行話を始めた。一方的に喋る母を見て、たまにうなずく。彼女は、イタリアでの出来事を面白おかしく話しているつもりらしいが、主語と述語が全くかみ合っていないので、結局何が言いたいのかわからない。だから、いつも母の話を聞いているフリをして、大体の予想で受け答えしている。ひどい息子だろうが、どうでもよかった。

「それより母さん、イタリア語話せたっけ?」

今までの会話を全て無視して、根本的な質問をぶつけた。この明子という人間は、気分でいきなり旅行する癖がある。よく言えば、感性で動くタイプ。悪く言えば、思いつき。 

 ある日、前触れもなく、キッチンのテーブルに「旅行に行ってきます。Byママ」と書置きがあるのだ。最初にあったのが、中学三年の頃。それをかわきりに、しょっちゅう行方不明になる。携帯も置きっぱなしだから、手に負えない。父もそれを勝手に容認してしまっているから、明はどうしようもなかった。

 コーヒーを飲みながら、明子は答えた。

「話せるに決まってるでしょ?」

 今回の旅行も当たり前のように思いつき。『誰にも縛られない』がモットーの母のことだから、ツアーではなかったはずである。そんな人間が、無勉強でイタリア語なんて話せるわけがない。それでも通用してしまうのが、「田口明子」の恐ろしいところだ。多分、「話せた」と思っているのは本人だけだろう。

 イタリアだけじゃない。母は今までいろんな国へ行っている。フランス、アメリカ、ベルギー、ベトナム、韓国、中国、インド。英会話すらままならないのに、これだけの国を回るのには鋼の心臓を持っていないといけないが、明子にはそれがある。息子の明は、その鋼の心臓を受け継ぐことはなかった。しかも母の反動か、小心者で周りの顔色ばかりを気にする情けない男に育ってしまった。明子の心臓は、明にとって羨ましくもあり、恨めしいものであった。

 それだけの時間と体力、出所不明の財力があるなら、もう少し、家のことも考えてくれないだろうか? 高校のときに自炊をしながら思ったことももちろんある。それも時間が経つにつれ、愚問だと気づかざるをえなかった。明子は、こういう母なのだ。あきらめにも似た感情だった。

 マシンガン・トークに適当な相槌をうって二時間。玄関の鍵が、かちゃりと鳴った。

「パパ!」

 明子がスーツの父に飛びつこうとしたところを、明が取り押さえる。スーツがしわになるからだ。

「帰ってたのか」

 ハイテンションな母と正反対の父、田口知則は、相変わらずクールだ。本日もきっちりときめた七三分けを乱すことなく仕事を終え、帰宅した。静かに靴を脱ぐと、久方ぶりに会う自分の妻、明子を見た。

「で? どこ行ってたの」

「イタリーよ」

 子供のような母の声に、思わず鳥肌が立つ。父は、「そう」と一言だけ残すと、着替えるために二階の寝室へ行ってしまった。相変わらず淡白だ。

このやり取りで、やっと一家が揃ったといつも思うのだが、松木に言わせると「変な家庭」らしい。確かにそうかもしれない。普通、女房や母親が行方不明になっていたら浮気しているのではないかとか、事件に巻き込まれたのではないかと考えるだろう。しかし、不思議なことに、田口家にはそれがない。「母さんなら、大丈夫」という、よくわからない安心感があるのだ。

 父がキッチンにくると、「待ってました」とばかりに母が同じことをまた話し出す。知則は息子と同じように、聞いているフリをしてニュースを見ている。

 明は母の声と父の相槌をBGMに、弁当を食べ始めた。基本的に田口家は、自分の食事は自分で用意することになっている。

高校受験の前に母が初めて消えた日。さすがに明は慌てたが、父は冷静だった。

『あの人のことだ。長い散歩みたいなもんだろう。そのうち帰ってくるから』

 そう冷たく言うと、息子にもひとつの命令を下した。

『これからは、食事は自分で準備しろ。小遣いでやりくりするように』

 当時は泣きたかったが、それも慣れてしまえば、うまく倹約することを覚えた。掃除・洗濯は平日が自分、休日が父。ごみ捨ては燃えるごみの日と燃えないごみの日で分けた。シロの散歩は早く帰宅した方がやる。これが田口父・息子の不文律になった。



 ニュースが終わると、旬の人を追うドキュメンタリーが始まった。

「この人……」

 明は喋り続ける母を無視して、テレビの画面を食い入るように見つめた。

 画面に映るのは、緑の髪に黄色いTシャツ。青い自転車に乗って都内を走り回っているがたいのいい男性だった。

 偶然再会した彼は、変わっていなかった。高校二年のときに初めて会って、自分の人生を変えた男は、今も颯爽と街を走っている。

 それに比べて、自分はどうだ? 夢をあきらめて、大学に入った。そしてまた、夢から目をそむけて、現実の駒を進めなければならない時期が来ている。就職すごろくのゴールに、何があるかはわからないが、本当にこれでいいのだろうか。

 夢中でテレビを見ていたら、父が電源を消した。ぷつり、という音で、再び日常に戻ると、母親がすでに目をとろんとさせていた。どうやら電池切れのようだ。

「おやすみ」と二階の寝室に引っこむ母親を送り出し、父と明は向かいあった。

「お前の成績はいい」

 静まり返ったキッチンに、父の声と古い冷蔵庫の機械音だけが響く。明はイスにきちんと座りなおした。

「だが、社会に出たら、そんなものは通用しない。わかってるな」

「ああ」

 冷たいロボットのような口調で、父は続けた。

「法学部でも、今はそんなもの関係ない時代だ。全てはお前にかかっている」

「……うん」

 少し間を置いて、返事をした。しかし、父が何を言いたいのかよくわからない。緑茶をすすりながら、父は息子を鋭い目で見た。

「お前は、どうすれば楽しく生きていけると思うか?」

「は?」

 突拍子もない質問に、目を丸くした。楽しく生きていくことなんて、簡単にできない。何かを実行するには苦痛も伴うし、失敗したり、怒られたりすることだってある。大体、人間社会の軋轢の中で生きるなんて、楽しいわけがない。

ただ、楽しく生きることはできなくても、静かに生きることはできる。大学では、特にはめを外すこともなく過ごしてきた。刺激も何もないが、考えないで、生きることに集中できた。それが正しかったのかどうかはわからないところだが。

 歪んだ表情を隠すために下を向くと、知則はにやりと笑った。

「マイナス思考、発動中ってところか」

 図星だ。いたたまれなくなり、余計にテーブルの下を見やる。二十歳を過ぎても子供っぽさが抜け切れない息子の鼻の片方の穴に、父は菓子皿のかりんとうを詰めた。

「ふがっ、な、何すんだ!」

「お前が面白くないから、詰めてみた」

 自分も幼い人間だと自覚はしているが、父親は五十四にもなって、まだ悪がきみたいな真似をする。見た目は完璧な優秀サラリーマン。銀縁メガネがシャープな目をよりいっそう冷たげに演出している。それが、息子の鼻にかりんとう。理由は、「面白くないから」。ひどいとしか言えない。

「あ、それ、ちゃんと食えよ」

「やだよ!」

 淡々とした口ぶりで言うものだから、どこからが冗談なのかわからない。放浪癖のある母親も頭痛の種だが、この宇宙人の父も母と互角の問題親だ。

「だって、楽しく生きていけるわけ、ないだろう。父さんの方が年長者なんだから、そんなことわかってるんじゃないか?」

 大声で宣言すると、父は呆れた顔で、牙のように二本のかりんとうを口に入れた。真剣なのか、不真面目なのかも理解できない。

「じゃあ、お前が『楽しく生きられない』と思う理由はなんだ? 言えるか?」

「不安なんだよ! 俺も満員電車の中で、つまんなさそうに窓を眺めてる人間になるんじゃないかって。社会に出たら、何を言ってもまずは『NO』だ。好きなことを、正直に好きとも言えなくなる。それが恐い」

 口にささっていたかりんとうをぼりぼりと噛み砕くと、知則は腕を組んだ。

「社会に出る前から、何をそんなに恐がってるんだ。それに、どんな仕事だって、楽しむ隙はあるんだ。それに気づかない人間が多いんだろ? だから朝の電車内が陰鬱なんだ。ま、大体眠いしな」

 しばらく沈黙が流れた。冷蔵庫は家が新築のときに買ったものだ。すでに二十年もの歳月をともにしている。それが、無音状態をかき消すように、ブーンと一人騒いでいた。

「本当は、何が言いたい?」

 冷蔵庫の音だけを聴いていたら、父のきつい声が耳に入った。質問の意図がわからず、父の目を見る。真剣な眼差しが自分に向けられていた。

「さっきの番組、佐伯勝が出てたな。お前はまだ夢が捨てられないのか」

 父の尖った言葉が、体を突き刺す。それと同時に、沢村先生の発言を思い出す。


『将来の夢=就職ではない。やりたいことを仕事にできるほど、現実は甘くない』。


 ぐっ、と息を詰まらせた。高校を卒業して、嫌でも思い知ったことじゃないか。やりたいことと、できることは違うのだ。だけど、彼を見てしまった。緑の髪をなびかせて、自転車をこぐ彼の姿を。テレビに映った瞬間、憧れと夢が、再び胸に宿ってしまった。

 それが間違いだと、体全体が言っていた。でも、心臓だけは痛いほど焦がれていた。

 父に向ってゆっくりとうなずくと、鼻で笑われた。

「意外にあきらめ悪いんだな。その頑固さは母さん譲りか? 要するに、お前は『やっぱりやりたいことをやりたい。そうでなきゃ、つまらない人生が待っている』と思いこんでるってことか」

 少し考えてみると、妙に納得してしまった。それとともに、自分は愚かな人間だとも思った。なんてわがままなのだろう。父は言っていたじゃないか。「どんな仕事にも、楽しむ隙はある」と。それでも全てを捨てて、もう一度夢を追いかけてみたいという衝動がはしる。胸がざわついて、どうしようもない。

 父は冷たい一言を明に投げつけた。

「恵まれた人間の言うことだな」

「え」

 あまりにも厳しい言葉に、思わず身を固くする。父はそのまま続けた。

「俺は家の事情があったから、ともかく仕事をすることしか考えられなかった。それからは、お前と金のかかる母さんを養うことで手一杯だ。そんな中でも、小さな楽しみを見つけてやってきた。お前はそれを全否定するのか」

 明はつばを飲み込んだ。さっきまでかりんとうを人の鼻の穴に詰めていた人間が、今度は鬼のような顔でこちらをにらんでいる。普段は冷静で、喜怒哀楽がわかりづらい父だが、その表情は明らかに怒気をはらんでいるようだ。

「全否定なんか……」

 そう言いかけて、気づいた。父の怒りの表情に存在する、寂しそうな目に。この人は、大人なのだ。夢を切り捨てて進化するのが、『大人』だ。人はいずれ夢の国を脱出し、ピーターパンでいることをやめなくてはならない。自分は知っている。知っているのに、体がそうなることを拒否しているのは、父の寂しそうな目の意味がわかるような気がするからだ。お茶を濁すことばかり考えていたが、そんな思考はすっ飛んでいった。

 テーブルに身を乗り出すと、しっかりとした話し方で父に言った。

「否定はしない。むしろ尊敬する。だけど、俺はやりたいんだ。一度叶わなかった夢を今度こそ叶えてみせる。わがままなのは承知だ。それでも、チャンスが欲しいんだ!」

 父と自分は違う。この人の強いところは、自分のフィールドの中で、楽しみを見つけるのがうまいことだ。自分はそれと逆で、フィールドの外に何度も出て行って、楽しみを探していける。むしろ、そうやって生きることしか知らない。

 恵まれているからできること。その通りだということを踏まえても、やってみたい。やらせてほしい。「やりたいことができなければ、つまらない人生が待っている」とは言わない。ただ、「一回きりの人生なんだから、できる限りやり残しのないようにしたい」とは思う。現実が甘くなくないことは、生まれたときから誰もが知っている。だからこそ、やれるときにやらないと損だ。

 にらみ合いが続いた。父は、表情を変えずに、ゆっくりとかりんとうをつまむと、明の鼻に差しこんだ。

「ぶっ、だから、何すんだ!」

「やれるもんなら、やってみろ。そのかわり、こっちは何もアドバイスしないぞ。元からできないしな」

 のっそり席を立つと、父は息子に言った。

「あ、それ、ちゃんと食えよ」

 二階の寝室に向う父を見て、息子はかりんとうを鼻に入れたまま溜息をついた。



 田口家の朝は無駄に早い。父はラッシュが嫌で、五時半には家を出る。食事は外でとっているらしい。

 母はというと、旅行から帰ってきたばかりだというのに、またスーツケースがなくなっていた。

 明は頭を抱えると、ぼさぼさ頭のまま、キッチンの時計を見た。午前六時半。今日はバイトもなく、学校も午後からだ。それも、趣味でとっている講義なので、出なくてもよいものである。二度寝しようと、再び自室のベッドに横になると、頭の上にある携帯のライトが点滅していた。どうやらメールが届いているようだ。

 発信は松木からだ。深夜に送られたものだった。寝ていたので、気がつかなかった。さっそく内容を確認すると、さっそく就活についてのことだった。

『ネットの就活サイト、登録してるか? 俺、まだしてないんだけど、お前もしてなかったら明日一緒にしない? 昼休み前、十一時に図書館で!』

 こちらの返信も待たず、彼は十一時に図書館で会う約束を取りつけてきていた。松木は普段、気の利くいいやつなのだが、焦っているときはこちらの都合を考えないで、意見を押しつけるくせがある。

 でも、今日は特に用事もない。付き合うか。そう決めると、明はベッドから起き上がり、時間も構わず了解のメールを送った。

 マフィンにハムとレタス、目玉焼きを挟んだものを作って食べると、日課である掃除と洗濯を済ませた。それが終わるとすでに九時近い。もう外出しなくてはいけない時間だ。

 最後に、今日もだるそうに玄関に寝そべっているシロにエサをやると、紫外線たっぷりの朝日を浴びながら、家の門を閉めた。



 駅まで行く途中、コンビニで飲み物を買おうとしたら、財布に千円札しか入っていなかった。貯金を下ろさないと。奥のATMに近づき、キャッシュカードを入れてボタンを押す。残額はまだ残っているはずだ。そう思って引き出そうとした瞬間、目を疑った。

「千二百五十円?」

 つい口に出す。あり得ない。四年間やっているバイトで貯めた金は、服代や飲み代、生活費や携帯代を差し引いてもまだ残るはずだ。なのに、残っている金額はたったの千円台。

 もう一度、キャッシュカードを引き抜いて、同じ操作をする。それでも残額は変わらない。一体、何があったというのだ。

 じんわりと額に汗がにじみ出てきたとき、ジーパンの尻ポケットに入れていた携帯が震えた。――母だ。「田口明子」と出ている画面を見つめながら、通話ボタンを押すのをためらった。嫌な予感しかしない。それでも、携帯はずっとボタンが押されるのを待っている。

 仕方なく出ると、母親の陽気な声が鼓膜に響いた。

「明? ママなんだけどねぇ、今日からちょっと船で世界一周してくるから!」

 突然のことに、明は声を失った。言葉のひとつひとつが理解不能。「ちょっと」・「船で」・「世界一周」? これが「ちょっと」・「自転車で」・「スーパーへ」だったら、容易に理解できた。これが母子の一般の会話だろう。その規模が違う。地域と世界の差だ。あまりのギャップに戸惑う。

「はぁっ? な、何言ってるんだよ! 昨日イタリアから帰ってきたばっかなんだろ? 大体疲れてないのか? いや、そもそもそんな金、どこから……」

 そこまで大声でまくし立てると、コンビニの店員がこちらをじっと見ているのに気がついた。声のトーンを低くして、続ける。

「金なんて、ないだろ? 父さんからもらったのか? だからって、あんまり豪遊されても……」

 はっ、と気づいた。金がない。自分の預金も、ない。覚えている限りでは、三十万くらい金は貯まっていたはずだ。それがごっそりなくなっている。

「まさか、母さん、俺の貯金、引き出したか?」

「うん! ちょっと借りちゃった。あなた郵便貯金でしょ? 通帳で引き出させてもらったから! あとはパパから少しね」

 目の前が真っ暗になった。人目がなければ、その場でひざから崩れ落ちていたところだ。何も考えられず、ただ、能天気に話す母親の声が流れた。

「それに、暗証番号! 母さん前に言ったでしょ? ちゃんとわかりにくい番号にしなさいって。変えてないじゃない。ダメよぉ」

 そうだ。これは二度目だ。なぜバレたのかはわからないが、高校の頃も一度やられていた。確かに、暗証番号をちゃんと変えなかった自分が悪い。しかし、それを母親に注意されるいわれもない。だって、これは犯罪じゃないか。いくら親だからといって、息子の口座から無断で金を借りるなんてありえない。 

怒りがふつふつとわいてくる。母親に罵声を浴びせようと息を吸ったところ、「あ、じゃあ手紙書くからね!」と、一方的に電話を切られた。

 携帯からは無機質な音が聞こえる。魂が吸い取られていくような気がした。

 ふらりとコンビニを出ると、日差しが明を正気に戻した。こうしてはいられない。父は知っているのか? 急いで携帯の電話帳を開く。ボタンを押す親指が震える。仕事中は電話をしてくるなと言われているが、今回は一大事だ。そんな些細なことを気にしている場合ではない。ツーコールですぐに父は出た。

「明、仕事中にかけてくるなと言ってるだろ? 今は、出先だからいいが」

「父さん! 母さんが、俺の貯金持って世界一周に行きやがった! ど、どうすればいい?」

 口の中が乾燥する。頭も回らない。何を言っているか、自分でもわからない。父は大きく溜息をつくと、電話の向こうの息子へぶっきらぼうに伝えた。

「どうするもこうするもないだろう。もう行っちまったんだ。俺たちがどうこうできることはない。いつも通り、長い散歩だと思えよ」

「だけど! 俺の貯金は?」

「知るか。残金で何とかしろ。じゃあ、切るな」

 後ろで電車がホームに入る音とアナウンスが聞こえると、電話は乱暴に切られた。

 破天荒な母に非情すぎる父。ともに、行動が読めない宇宙人。明の胃は、ストレスで穴があきそうだった。

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