エンタメ短編「ボクサー崩れ」
木村 瞭
第1話 「俺は昔、フェザー級のボクサーだったんだ」
「俺は昔、フェザー級のボクサーだったんだ」
それが土門英の触れ込みの文句であった。
夜になると彼はグランドキャバレー「祇園」の用心棒の一人として店に詰めていた。彼の強さを知る者は一人も居なかったが、それはどうでも良いことであった。彼の顔には試合で負った傷を縫った跡が残っていたし、肩もパンチャーらしい撫で肩であった。おまけに、いつも踵でリズムをとるような歩き方をしていた。つまり、如何にもボクサーらしく見えた訳で、大抵の場合、「祇園」にとってはそれで十分であった。
土門英は話し合い路線の熱心な信奉者だった。誰か揉め事を起こす奴が居ると、彼はそいつに近づいて行って精選した台詞を一言二言吐いては遠ざかって行った。従って、彼の手に生傷が在ったことは一度も無かった。土門英はとても綺麗な手をしていた。
だが、彼はよく怒り狂って、「祇園」が跳ねた後、花見小路のバー「レッド・ハート」に飛び込んで来た。
着ているシャツは土で汚れてドロドロだったし、元ボクサーと一目で判る腫れぼったい目蓋の顔は、新たな敗北でくしゃくしゃに歪んでいた。それでいて、両手は、誰か別人のもののように生き生きと動くのだった。クラブ歌手の沢明美が彼を愛したのもその故だったのかもしれない。
と言っても、彼の綺麗な手がとりわけ優れた機能を持っていた訳ではなかった。左右何れの手も指の先端が皆、潰れて変形していた。特に左の親指がひどかった。それは、碌でもない場所で暴れ過ぎた所為、喧嘩をし過ぎた所為であった。右手などは拳を握っても関節の突起がまるで無く、かえって凹んでいるくらいであった。それでも、その手は全体として、ある種の優雅さを具えていたのである。
あのスッと伸ばした小指を見るだけで、見る眼の有る人間には直ぐに解った。そう、彼の手は、単なるポーズをとるだけでなく、演技をすることが出来るのであった。
土門英がふらっと「レッド・ハート」に入って来てカウンターの止まり木に座る。そして、話し始めると沢明美が隣に移って耳を傾けた。明美は「祇園」で唄い終わると、いつも「レッド・ハート」にやって来て土門英が来るのを待っていた。
彼の話の内容はいつも決まっていた。
東京で赤田毅というボクサーと試合をした時のこと、名古屋でタクシーの運転手を殴って留置場にぶち込まれたこと、大阪で職務質問をした警官と悶着を起こして逮捕されたこと、そして、あの麗わしの美女のこと。特に東京での赤田毅との一戦は彼に強烈な印象と影響を残していた。否、彼のその後の人生を決定づけたと言っても過言ではないようだった。
土門英は十六歳の時、初めて街の大きなボクシング・ジムを訪れた。毎週日曜日にアマチュア同士の試合が行われていた。それが彼の出発点であった。
ジムに通い始めてから暫くして、土門英も日曜日の試合に出るようになった。
彼はボクシングを通じて嘗て無い高揚感と燃焼感と、そして、この現実の世での自己の実在感というものを初めて実感した。土門英はリングの上で生き生きと輝いて相手と打ち合った。そこには不安や焦燥が湧き上がって来る余地は全く無かった。眦を吊上げて激突する行為の中で、相手の弱点を徹底的に突いての潰し合いの中で、彼は無意識の内に自分自身を賭けて何かを獲ち得ようとした。
試合に出るようになった土門英は、勝ったり負けたりでボクサーとしての可能性は平凡であった。が、十七歳のプロデビュー戦を勝利で飾ると、そこから破竹の勢いで連戦連勝を重ねて頭角を現した。
そして、あの忘れられない一戦の日がやって来た。
それはボクシングを始めて五年目のプロ十五戦目、全日本フェザー級のチャンピオンを争う大事な試合であった。相手はチャンピオンの赤田毅で彼は二度目の防衛戦だった。土門英も相手もハードパンチャーで戦況は互角と予想されていた。
会場には想像を超える多くの観衆が集まり、土門英の心は弾んだ。
然し、無理な減量の所為で土門英は最初から元気が無かった。一ラウンド、二ラウンド、赤田はよく打った。土門英は顔を伏せガードを固めてブロックしながら、赤田の疲れた合間に打ち返す程度だった。赤田との距離を計りかね、赤田のスピードにも翻弄された。第三ラウンドまでは赤田の方がポイントを上げていた。
だが、第四ラウンドの後半に土門英が殆ど破れかぶれに突き出した左のフックが赤田の顔面にヒットした。赤田は思わぬどえらいパンチを喰ってガクリと来たようだった。一瞬にして形勢は逆転した。土門英は真正面から赤田のボディを打った。赤田は堪らずにクリンチで逃げようとした。リング真下の土門英のコーナーでセコンドが怒鳴った。
「ホールドを自分で解いて打つんだ!今だ!チャンスだ、打て!」
土門英はボディを打ち続けた。胃の前で両肘を揃えるようにしてカバーするその腕の外側から、体重を乗せて強かに続けざまに四発五発と打ち込んだ。解けた腕の合間から胃袋を打った。後は、赤田は立ったまま打たれ放しの状態になった。苦し紛れにマウスピースを吐き出して膝を突いた。カウント五で立ち上がった赤田を見て、二度でも三度でも這わしてやるぞ、と土門英は思った。
あのパンチ、あの左のフックはラッキーパンチだった・・・
第四ラウンドの終盤・・・
土門英は赤田をロープ際まで追い込んだ。そして、自分から左へ廻って、赤田をリングの中へ呼び戻した。だが、それが致命的な失敗だった。必死にクリンチで逃げようとしていた赤田が瞬時に身体を離して、右へサイドステップしながらカウンター気味のウエイトの乗った左フックをまともに打ち込んで来た。あっと言う間に赤田は勢いづいた。チャンピオンを競う二人の打ち合いに技量の差がそれほどある訳は無かった。紙一重の運不運が勝負を分けることになる。
土門英は第五ラウンドに一回ダウンを喰った。
打たれた瞬間、リングのマットに顔から倒れて行った。マットがぐう~んとせり上がって来て顔にぶつかったという感覚だった。然し、それでも彼はカウント八で起き上がってファイティングポーズをとったし、次の第六ラウンドも何とか立ち上がってリングの中央へ出て行った。
その六ラウンドは土門英にとって酷いものとなった。
執拗にボディを打つ赤田の攻撃を土門英は必死にガードして、何か唸り声を上げて突き進んで行った。が、赤田が殆ど狙い澄ましたように振った左のパンチがまともに命中した。土門英はもうロープまでも退がれなかった。打たれて前へ倒れ掛かるのを、赤田が下から打ち上げては起こし、又、打った。土門英は立ったまま横に一歩さへ動けずに打たれ続けたが、それでも倒れなかった。打たれても、打たれてもガードを下げたまま立ち続けた。
赤田の心に恐怖が走ったようだった。
何なんだ、こいつは?どうなっているんだ、化物かこいつは!
赤田はより一層、無我夢中で遮二無二打ち続けた。土門英のセコンドはタオルを投げ入れる時を失した。遂にレフェリーが漸く二人を分けてTKOにした。彼はそれでも未だ倒れずに、そのまま酔っ払ったようにコーナーまで歩いて帰り、出された椅子に身を投げ出すように腰掛けた。が、土門英が持ち堪えたのはそこまでだった。どおっと後ろ向きにひっくり返った彼は意識を失って昏倒した。セコンドが気付薬を鼻の先に近づけるとぴくりと体中が小さく跳ねるように動いた、が、それ切りだった。
「ノックアウト!」
レフェリーがそう怒鳴って赤田を指差した。
救急車で病院に運び込まれた土門英に直ぐに脳と神経と頸椎の検査が行われた。取り立てての損傷は無いようだった。
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