本当の姿

 今日という日のタイムリミットを突きつけるよう、空はもう藍染に染め上がっていた。

 吹く風も冷たく感じ、周は肩で大きな溜息を吐いた。

 ペットボトルをリュックに入れながら、名残惜しそうに夜間出入口を見つめてはまた溜息が溢れる。


 ──もう無駄なんだろうか。


 弱音が溢れ、自分自身に誓った初志貫徹の志が砕けそうになる。

「いや、大丈夫だ。腹が減って弱気になってるだけだ」

 空腹のせいにして、自分で自分を奮い立たせた。

 また伊織の笑顔が見られるなら、何十回でも何百回でもここへ会いにくる。

 

 自分に誓うよう、手のひらをこぶしに変えてガッツポーズをしていると、背後から重い扉が開く音が聞こえ、周は慌てて木陰にその身を隠した。

 出入口から出て来るのは見知らぬ顔ばかりで、ずっと肩透かしを喰らっていた。そして毎回、願掛けをする。頼む! 今度こそ……と。


 食い入るように凝視していると、「あっ!」と、つい喜びを声にしてしまい。周は慌てて口を塞いだ。


 ──伊織だ……。


 暑くもない季節なのに、周の頬には一筋の汗が伝っている。

 息を潜めてジッと扉から出てきた人物を見つめ、周は彼が一人なのか、他にも誰か一緒にいないかを伺っていた。


 周とは正反対の涼やかな空気と共に、伊織の全身が明らかになると、護衛のような人間が側にいないことに胸を撫で下ろした。

 周は迷うことなく、木の陰から飛び出して伊織の後を追った。そして叫んだ、「いおり!」と。

 振り返った伊織の、硝子玉のような眸と視線が絡まる。自分を真っ直ぐ見返して来る目の中に周の姿が映り込んだ。

「……また君か」

 鈴を転がす様な声を聞くと周の鼓動は鳴り止まず、懐かしさで胸が張り裂けそうになった。


 ──やっぱり伊織だ……。

 

 周は自信を持って足を前に踏み出す。怖がらせないよう、細心の注意を払って、伊織までの距離を縮めた。

「ご、ごめん。どうしても話を聞いて欲しいんだ」

 数年ぶりにしっかりと伊織の姿を捉えると、成長した美しさに目が眩む。

 見惚れる気持ちを悟られないよう、もう一歩分、歩み寄った。


「僕には話すことはありません」

 感情のない声で言い切られ、伊織が駐車場の方へ歩き始めようとした。

「じゅ、十分。いや五分でもいいんで、俺の話を聞いてくれ」

 縋り付くように言った声が必死だったからか、伊織の足が止まった。

「俺の事を忘れたなら仕方ない。でも少しだけ話を聞いて欲しいんだ、お願いだから」

 周の叫ぶ声が哀れにでも思ったのか、伊織がくるりと振り返る。


「何度もストーカーみたく病院に来て、迷惑かけてるのも分かってる。伊織の口から言ってくれればもう諦めるから」

 焼けた頬に伝う雫。それが涙なのか汗なのか、そんなことはどっちでもいい。今は千載一遇のチャンスなんだ。周は心の中で、頼む、頼む……と何度も祈っていた。


 白いシャツの腕が胸の前で組まれ、あからさまに溜息を見せつけられた。けれど、その後に伊織が発した、五分だけならと、言った言葉で周は踊り出したくなるほど喜んだ。

 ゆっくりと近寄って来る伊織に見つめられ、周は緊張と興奮で何から話せばいいか頭の中が真っ白になってしまった。

「あ、ありがとう」と、深々と頭を下げると、伊織が側にあったベンチに腰を下ろし「君も座れば?」と、空いた隣を指先で突いている。

 おずおずと座ると、伊織からふわりといい匂いがした。

 

「で、話とは」

 手っ取り早く終わらせたい空気感が悲しかったが、それでも時間をくれたことはこれまでのことを考えると大きな一歩だ。

 他人行儀な振る舞いの伊織に、周はこぶしの中の汗を握り締め、蓄積されていた言葉を紡ぎ出した。

「前にも言ったけど、俺は宮古島出身なんだ。小学校一年の時、伊織と一緒のクラスになって、それからずっと俺達は一緒にいたんだよ」


 隣から訝しげな視線を感じても、与えられた五分で思いを伝えなければならない。けれど積年の思いは手短になんて話せない。心を込めて伝えたい。

 叱責されても怒鳴られてもいい。周は思い出してくれと、願いながら続きを口にした。

「初めてお前に会った時、女の子かなって思ったくらい可愛くて、他のやつと話さないお前が気になって声をかけ続けたんだ。そしたら伊織も少しづつ話てくれる様になって仲良くなったんだよ」


「申し訳ないけど全然覚えてない、島にも行った記憶はないから」

 伊織から帰って来た言葉は、ある程度想像はしていた。だが、改めて聞くとダメージは大きい。それでもめげずに周は話を続けた。

「……うん、でも本当のことなんだ。俺が伊織との記憶を間違えるわけないからね。でも島での生活は小学校六年生までなんだよ。伊織は卒業する直前に東京へ行ってしまったから」


 黙って周の言葉を聞いてくれる、いや、もしかしたら会話は脳内で遮断されているのかもしれない。想像して泣きそうだったけど、伝えたいことを言い終えるまでは情けない姿を見せられない。これ以上、伊織に煙たがられないために。

「その口元のほくろも、きちんとアイロンをかけた襟も、雪の様な白い肌も、俺の記憶の中の伊織だよ。でも無理やりお前の心をこじ開けることだけはしないから……」

 周に言われたからか、伊織がシャツの襟に手をかけて遠い目になっている。

「確かにいつもシャツには、アイロンがかかっていて、それを母親に着させられていた記憶はある。だが、それだけで判断するのは君の頭がおかしいとしか思えない」

 冷たく突き放すと、伊織がスマホで時間を確認している。


「もう……時間だよな、ごめん。でも……最後にこれだけ見て欲しいんだ」

 周はタイムリミットを意識し、一縷の願いを込めてスマホを取り出した。手早く操作するその横顔に、伊織の瞳が異変を見せたが、それに周が気付くことはなかった。

「これ見てくれる? しつこくてごめんだけど……」

 伊織の目の前に、周は一枚の画像を差し出した。

「これ……は」

「これ『ナウパカ』って花なんだよ。ハワイの花で有名なんだ、悲しい恋の伝説が語り継げられてる花でさ」

 画面には黄緑色の鮮やかな葉に埋もれ、白い小さな花がいくつか咲いていた。


「これ、花びらが半分しかない」

 スマホを覗き込み伊織が呟く。

「ナウパカってこう言う花なんだ。引き離された恋人の生まれ変わりなんだってさ」

 画面の花を見ながら、最後の日の伊織を思い出していた。

 嬉しくて懐かしくて、そして悲しかったあの日。潮の香りが空気に溶け、波の音さえも聞こえるようだった。

「これ……こんな花が咲くんだね」

「え、この花を知ってるのか?」

「あ……いや別に」


 否定の言葉を口にしたけど、伊織の眸は何かを語りたそうに見える。

 けれど無理強いはできない。唯一記憶を思い出すきっかけになるかもと、見せた写真も儚く散り「そっか……」と落胆に終わった。

 約束の五分はとっくに過ぎてる、なのに帰ろうとしない伊織に感謝を伝えようとした時、彼のポケットからスマホの呼び出し音が聞こえてきた。


「もう僕行かないと……」

 ベンチから立ち上がり、周の方を見下ろしてくる。その表情はどこか物悲しく見えた。

「そっか……。ごめん、時間もらって。ありがとう」

 精一杯の笑顔を貼り付け、周は礼を言った。そして悪い結果になった時に凹まないよう、シミュレーションしていた言葉を伝えようとした。


「伊織がいつでも笑っていられるのならそれでいいんだ。その願いは昔も今も変わらないからさ」

 用意していたセリフを言い、カッコよく去り際を決めようとした周の腹部が、空気を読まずに豪快な音をさせた。慌てて腹を押さえて、前屈みになり誤魔化そうとした。

「い、今の……」

「ご、ごめん。こんな時に腹鳴って。俺ってば最後までカッコつかないな」

 顔を真っ赤にし、頭を掻いて慌てふためく周の顔を、伊織が真剣な面持ちで覗き込んでくる。数秒、見つめられていると、「プッ! あははは」と、突然笑われてしまった。

 頬は高揚し、目を細くして腹の底から笑っている。さっきまでとは別人のようだ。


「ご、ごめん俺朝から何も食ってなくて──」

「きみ、いつもお腹空かせてたもんね」

「え! それって、どういう──」

 自然に溢れ出た言葉に伊織自身が驚き、唇に手を添えて動揺している。

「ぼ、僕……今……」

 自分で言った言葉に驚く伊織を、目を丸くして見ていた周は、無意識に伊織の肩を掴んでいた。けれどその手は振り払われ、慌てて踵を返す伊織がその場から走り去って行こうとした。

「い、伊織! 待って! いおりっ」

 追いかけようにも周の足は錘がついてるように、その場を動けずにいた。

「今、『いつも』って言ったよな。やっぱり彼は伊織なんだ。絶対そうだっ」

 周はその場に蹲り、両膝の中に頭を突っ込んだ。


 伊織、彼は……伊織なんだ……。

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