ただの医者

 周と別れ、那生は逸る気持ちで宝生大のカフェで待つ神宮の元へ向かっていた。

 同窓会の日に持ち上がった話が、那生の頭の片隅にこびり付いて離れない。神宮の顔を見るまで……いや、顔を見て問いただしても、信じたくない。


「那生っ」


 震える思考のまま、待ち合わせ場所に辿り着くと、窓際の席に座る神宮が声をかけて来た。

 おぼつかない足取りで歩み寄ると、声をかけるより先に涙腺が緩みそうになる。

「た、たまき……」

 嗄声させいした声で名前を呟くと、那生はその場に膝から崩れそうになった。

 張り詰めていたものが解けると、肺が狭窄したように胸が苦しくなる。

 締め付けられた感覚を味わったと同時に、咳嗽がいそうが喉の奥から迫り上がって呼吸もまともに出来ない。


「お前、もしかして走って来たのかっ」


 神宮の質問になんとか頷くと、テーブルに寄りかかるよう前屈みになって苦痛を逃がそうとした。

 四聖病院を出て殆ど歩くこともぜず、一気に駆け足で戻ったせいで、ここ数年落ち着いていた喘息の発作が出てしてしまった。

 ヒューヒューと隙間風のような音を胸の奥から吐き出されてもそんなことにはかまわず、那生は血走った目で神宮を見上げた。


「だ、だって先生の──ゴホッゴホ、むす……めさんっ、に、にんし……コンッコンッ」 

「発作だな……ほら水飲め」


 無理やり椅子に座らされると、那生はコップに注がれた水をゆっくり嚥下した。体内に冷たさが染み込むと、小刻みに上下していた肩や胸の収縮が緩徐になり、コップを空にした那生の呼吸はようやくおさまりかけてきた。


「さ……最近は発作でてないから平気だ。それより、ほんとう、なのか?」

「出てないって、今、咳してただろう。無茶するな」

「だい、じょうぶだって。なあ、それより──」

「間違いない……。奈良崎先生の娘さんだ」

「そ、そんな……」


 神宮の言葉を聞いた途端、堪えていた涙が頬を伝い、ポタポタと雫が落下すると嗚咽を漏らしそうな口を手で覆った。

 続きの言葉を聞くのが怖くて、怖くてたまらない。


「少し前に晃平から電話があったんだ、娘さんの訃報の知らせが。あいつも詳しくは知らないみたいだけどな」

 口調を聞く限り、いつもの落ち着いた神宮ではあったが、青ざめた肌からは理性をギリギリ保ってるように見える。

 怖いのは、悲しいのは、自分だけではない。晃平も友弥も、そして神宮も同じ気持ちでいるのだ。それがわかると、背中を撫でてくれていた腕を引き取って自分より大きな手をそっと撫でた。


「……どうした」

「あ、ご、ごめん。顔色、悪そうに見えたから……」


 慌てて手を引っ込め、手を背中に回した。

 自分の中に潜む、邪な思いを隠すように。


「さすが医者だな。こんなときでも人の体調の心配するなんてさ」

「そう言う訳じゃ……ないけど」


『医者』という言葉が、二人の関係に一線引かれたように思える。

 神宮の中で、体調を気遣うイコール医者なのだ。親友だからとか、それ以上の感情から成り立っているといった発想には繋がらないのだろう。

 那生は唇をキュッと引き結ぶと、濡れた頬を手の甲で拭いて顔を上げた。


「……先生のとこに行かないと」

「そうだな、今から出られるか?」

「大丈夫。元々今日は半休取ってたから。環の方は?」

「俺は今日、自主休講だ」

 そう言いながら、神宮は使用済みのコップを返却カウンターに戻した。その姿を横目に那生は深い呼吸をし、丹田のあたりに熱を溜めると、神宮の背中を追うようにカフェをあとにした。

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