屠所の羊(としょのひつじ)

久遠ユウ

不毛

 学生の頃はよかったな──。

 そんな同僚の言葉を耳にした才原那生さいはらなおは、幸せなアオハルを彼は送ったんだなぁと羨ましく思ってしまった。

 憂鬱な気分になったのは、同僚の華々しい懐古を勝手に妄想し、それを自分の過去と比較してしまったせいだ。

 脱いだ白衣を荒々しくハンガーにかけたのも、ロッカーの扉も勢いよく閉めてしまったのも、この後の予定が全ての元凶だった。

 一枚の葉書が届いて以来、忙殺した日々の隙間を埋めていたのは、どうやったら欠席できるかの理由を捻出することだけだった。なのに、執拗に送られてくるメールや電話の応酬に根負けし、「出席する」と応えてしまった意志の弱さに我ながら呆れる。

 今までは仕事を理由に避けてきたものの、今回に限ってはそうもいかない。絶対的な理由を突き付けられた那生は、観念せざるを得なかったのだ。


「しかし疲れたな……」


 勤務時間終了間際にようやく食事にありつけるとホッとし、カップ麺に湯を注いだところで計ったように胸ポケットでPHSが鳴った。

 処置室に駆けつけて急患の対応に奮闘しながら、この後出陣するための臨戦態勢にかける時間はなくなったなと、頭の中で嘆いてしまった。

 心積もりをしておかないと、あの頃と同じ虚勢はきっと簡単に蹴破られてしまう。


 当直室の風呂場でシャワーを済ませた後、那生は腕時計をはめながら押し迫る時間に焦燥感を高まらせていた。

 ろくに髪も乾かさないままシャツを着ると、細身のテーパードパンツに足を捩じ込んだ。更衣室を出ながらジャケットを羽織り、エレベーターのボタンを押そうと腕を伸ばした時、袖口から覗く傷が目に入った。

 あの子が暴れた時のか……。

 急患で運ばれてきた男の子。歳は中学生くらいで着衣は破れてボロボロだった。その少年がつけた引っ掻き傷から、薄っすらと鮮血が滲んでいる。


 少年が発見された場所は都内から離れた山の麓で、登山に慣れた人間くらいしか選ばないほどの山奥だったらしい。そんな場所で軽装のままフラつく少年を、たまたま通りかかったトラックの運転手が異変を感じ、警察に連絡してくれたのだ。

 人気のない山道で保護者もなく、一人で何をしていたのか。山で遊んでいたようには見えないことくらい、治療に携わった那生にもわかる。

 朝から怒涛のように詰め込まれていた検査をこなし、残った体力で治療にあたろうと少年の服を脱がした瞬間、思わず手で口を覆ってしまった。そうしないと声をあげそうになったからだ。

 少年の体には無数の擦過傷があり、それらの殆どが鞭で打たれたようにみみず腫れになっていた。おまけに意識が戻った途端、少年は狂ったように暴れ出し、鎮静剤の使用を余儀なくされた。

 手首の皮膚は摩擦で擦れたのか擦りむけ方は酷く、何かでキツく縛られていたのが考えられる。

 警察の話では少年の記憶はなく、自分の名前すらわからないらしい。


 医者になって日々忙殺していても、ネットが普及している今、様々な情報は勝手に耳に入ってくる。

 数ヶ月前から世間を騒がしている、子どもの失踪事件が瞬時によぎり、目の前の少年も、もしやと想像したのは那生だけではないはずだ。

 救急室で処置中、数人の制服警官が事務長と何やら話しをていたことが、事件を示唆しているようにも思えた。


「素人があれこれ考えてもな……」


 詮索しても畑違いな自分にはどうすることもできない。そう言い聞かせ、夜間出入り口で守衛に挨拶した後、那生はもう一度、時間を確認した。

 約束の時間が押し迫っていても、足枷がついたように全身を重く感じて前に進まない。

 脆弱した思考回路の頭を左右に振り、勤務先と自宅マンションの途中にある店へと足を早めた。

 道すがら過去の出来事を思い起こすと、足を進める度に、少年の傷と、神宮に会いたくない気持ちが重くのしかかってくる。



 学生時代が決して楽しくなかったわけではない。中学まではそれなりに充実した日々を送っていたと思う。

 問題は高校の時だ。

 学生の本分は勉強、友情、恋に然るべき──と、マニフェスト通りに過ごしてきたと思う。勉強に全力を注いだからこそ、今、自分はここにいるのだから。部活にしてもそうだ。仲間達と練習に勤しみ、友情を育むことは叶ったと言い切れる。

 問題なのは『恋』だ……。



 高一の時に同じクラスになり、席順が前後になったのがきっかけで、那生は神宮環じんぐうたまきと親しくなった。

 初めて神宮を見た時、ついこの間まで学ランを着ていた中学生とは思えないほど、色気のある男だと思った。

 流れるような奥二重の目には品があり、なだらかな輪郭が優しげな弧を描いていた。その目が閉じられると瞼に薄っすら線が生まれ、那生はそれを見つけるのが好きだった。目の前でうたた寝などされると、飽きることなくずっと眺めていた。

 彼の中でも、一番好きなのは笑顔だった。

 くだらない雑談をしていても、絶妙なタイミングでほほえまれると、抗うことができないほど惹きつけられた。

 色香を無意識に振り撒き、人をたらし込む。誰もが賛同するイケメンは、成長すればするだけその魅力も増していった。


 神宮に対して特別な感情を抱いたのは容姿以上に、彼の寛容な性格とさりげない包容力だった。

 誰の失敗も咎めず、批判もしない。言葉数は少ないけれど、的確に仲間を導いてくれる。けれども決してそれをひけらかしたりはしない。

 如実にそれを知ったのは、体育祭の日だった。

 クラスでお揃いのゼッケンを作ったのはよかったが、制作を請負った生徒が発注枚数を間違えて半分の人数分しか届かなかった。

 発覚したのが体育祭当日で、クラス中は担当者を責める言葉を口にしたが、その時神宮がとった行動で殺伐とした空気は一変した。

 前後で繋げてあるゼッケンの紐を切り、半分にしてそれぞれの体操服の背中に貼り付けることを提案した。絵の得意な生徒に声をかけ、白い余白に華やかなイラストを添えた。それをきっかけにクラスは一転して和んだ。

 発案者の神宮は驕り高ぶることもなく、飄々と作業をしていた。その姿は那生だけではなく、クラスの女子全員の心を鷲掴みにしたと思う。

 高一の秋の出来事。この時、那生は親友でありながらも神宮に心を囚われ、長く苦しい不毛な恋を知ったのだ。

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